はるの
2023-09-19 21:11:09
162116文字
Public スタートレック
 

空に心臓

+13|AOS spirk|2023.10.1|2023年の日本で暮らしているジムが、倒れていた迷子のヴァルカン人を拾う話。現代ものパロディです。

9.


 ぐずぐずの腹ぺこジムをベッドに戻すと、スポックは夕食を作り始めた。
 キッチンから聞こえてくる、水を流す音や、野菜を切る音、冷蔵庫を開ける音なんかに耳を澄ませながら、ジムはシーツに顔をこすりつけて深々と目を閉じる。
 結局のところ、俺は自分の人生に、ちっとも納得していないのだろう。
 あきらめて受け入れているようなふるまいは全部うそで、本当のほんとうは、ずっとわだかまっていたのだ。
 もし、記憶喪失なんかにならなければ。
 普通の家で、普通に育っていたら。
 俺はもっといい子で、うまく人と付き合って、普通に、大人になれたはずだろう。もっと素敵な、今とは違う、もっと別の何かになれたはずだ。こんなのは全部、俺が負うべき不幸じゃなくて、本当は、こんなはずじゃなかった。
「ジム、そうめんは何束食べますか?」
 キッチンからそんな声が聞こえてきて、ジムは目を開けた。
「3束」
「食べすぎでは」
「いい。作って」
「分かりました」
 引き出しを開ける音がして、そうめんの包装がぱりぱりと鳴る。今、乾麺を束ねた紙テープをほどいているだろう、彼の器用な指先を思い浮かべて、ジムは自分の手のひらを見つめた。しばらく眺めてから、指先をそっと、唇に押し当てる。
 でも、その俺はきっと、ゴミ捨て場に落ちていた、傷ついた宇宙人を拾わないだろう。
 違う選択をした俺は、きっともう俺じゃない。
 だったら俺は、俺のままでいい。記憶がなくて、擦れていて、あんまりよい子じゃなくても、君に会えるほうがずっといい。
 そう思った。
 たとえ、彼がいなくなる人でも。いずれ、そのうち、永遠に、どこかへ行っちゃう人であっても。



 そうめん3束は、確かに多かった。けれどジムは、ほとんど挑みかかるように、胃をぱんぱんに膨れさせる。スポックは沈黙を量産したが、おおむね静かに見守ってくれていた。いまやはっきりと、彼がこちらを心配しているということが分かっているジムは、そよ風のようなその視線を持て余しながら受け流す。
 食器を片づけたあと、スポックはラグの真ん中で、きっちりと正座をした。
 胃の苦しさにだらけきって、ベッドに体をひっかけていたジムは、怪訝に思って振り返る。
「ジム、私はあきらめようと思います」
「ん? 何を? 俺の行儀をよくしようとすること?」
「それは生涯努めます」
「やめてくれ。――は、生涯?」
「私は、元の時代に戻ることをあきらめます」
 ジムは正しく、その瞬間、ぶっ倒れかけた。
 ずるっと滑った体をなんとかまっすぐにしながら、痛くなるほど目を見開く。しゃんとしているスポックは、まったく動じることなく、淡々と話を続けた。
「そのことで、ミスター・スコットはひどく徒労することになるでしょう。艦隊の一部では、問題が噴出するかもしれない」
「ミス、え?」
「けれど私は、おそらくもう、戻ることはできません」
 冷静に、けれど決然と。何ひとつ揺るがない声のトーンで。
「それならば私は、今、目の前にあるものを大切にしたい」
 スポックは、そう宣言した。
 それは彼の、ほとんど最後通牒で、死亡通知のようなものだ。ジムは驚愕に目を凝らしたまま、こわごわと、スポックのそばまで這っていく。
 目の前までたどり着いて、顔を上げると、スポックは臆することなく、まっすぐこちらを見返してきた。
「ジム、私の事情をお話しします」
「え」
「私が転送される予定だったのは、2258年の地球です。そのときの私自身の行動を変えるため、私は未来からの干渉を選びました。非常に重篤な違反行為ですが、私にはその罪を負うだけの十分な過ちがあった」
「あやまち……
「その時代には、時空間事故に巻き込まれていた、ネロというロミュラン人がいました。彼は、私の母星であるヴァルカン星を破壊した。そして続けて、地球をも破壊しました。私は――、私が、選択を誤らなければ、もしかしたら、地球は救えたかもしれなかった。だから、正そうとしたのです。ジム、私の父はヴァルカン人ですが、私の母は地球人です。私は母星をふたつ失い、そこに住むすべての人々を消滅させました」
 スポックがあまりにも平坦に、議事録を読むように話すので、うまく内容が頭に入ってこない。
 唐突にもたらされた衝撃の数々に、ジムはほとんどぶん殴られたような心境だった。未来では、地球が破壊されているのか? スポックのせいで? そう考えた途端、ディスプレイの中で回る地球を眺めていた彼の物言わぬ背中がフラッシュバックする。それに、ヴァルカン星もなくなっていると彼は言った。自分は何回、ヴァルカン星の話題をスポックに振っただろう。君がヴァルカン星に帰ったら、なんて、そんな想定の話もたくさんしたはずだ。スポックは、絶対に傷ついたに違いないのに。
「スポック」
「あなたがそのような顔をする必要はありません。ジム」
 ひどく焦燥するような、息がつまるような気持ちで、すがるようにスポックを呼んだ。いてもたってもいられなくなって、彼の腕にしがみつくと、スポックは丁寧に言い添える。
 その状態で、ジムは彼の事情を聞いた。さすがのスポックは、戸惑ったり、つっかえたり、声を震わせたりすることなく、ただ事実だけを伝えてくる。けれどきっと、その冷静さは、何度も自分を叩いて黙らせてきた静けさなのだろうと思った。結局、スポックは――、スポックも、自分の人生にちっとも納得できなくて、タイムトラベルなんてチートを使うことにしたからだ。
 彼は23世紀の地球で、宇宙艦隊なんてものに所属していたそうだ。そして、それよりもっと未来から、怒れるロミュラン人がやってきて、ヴァルカン星を破壊してしまった。そのときに、乗っていた宇宙船の船長が人質に取られて、スポックが代わりに船長をすることになったらしい。スポックは、ネロが地球へ向かっていると知りながら、船長の指示どおりにローレンシア星系へ退却し、ほかの艦隊と合流した。その間に、ネロは地球を破壊し、艦隊の防衛網を掌握してしまった。
 この掌握によって、地球とヴァルカン星が属していた星間連邦国家の惑星が、次々と破壊される憂き目に遭った。艦隊はもとより、連邦はどこもかしこも荒廃し、ぼろぼろになってしまったらしい。ネロとその船自体は、隊を組んだ艦隊によって撃破されたらしいが、この情勢不安の隙をついて、敵対的な近隣国家が侵略を開始してしまった。今現在、隣接国境区域の各地で紛争が起きてしまっている。それが、スポックの置かれていた状況だった。
 母星をふたつ持つスポックにとって、ふたつの惑星の消滅は耐えがたいものだった。その上、戦争に発展して、今も人が死に続けている。その耐えがたさと、規則とを天秤にかけて、スポックは前者を取った。彼は船を降り、士官たちと関係を断ち、ラボに詰めた。艦隊の臨時支部で出会った科学者とエンジニアの協力を得て、彼はタイムマシンを作ると、過去を修正する決意をした。
「融通の利かない、頭の固い、当時の馬鹿な私を、気絶させて、成り代わろうと考えていました」
 スポックは無感動に、そんなことを言ってのける。
「けれど、転送の直前、敵対国家であるクリンゴン星人の襲撃を受けました。すでに起動していたマシンが銃撃にさらされたためでしょう、装置は壊れ、私は誤作動でこの時代に転送されました。たとえ、悪いことを是正する目的だったとしても、その手段に悪いことを選択すれば、それは概して悪いことに他ならない。そのような教訓を叩きつけられたように思います」
 粛然と語られる彼の言葉を、ジムはくっついたまま聞いていた。押しつけた頬はきっと、この高い体温で温められて、赤くなっていることだろう。それでも、どうしても、離れたくなかった。出会った頃に彼が垣間見せていた苦悩を、やっと理解できた気がしたから。
「私の判断で、多くの人が亡くなりました。ヴァルカンはどうあっても救えなかったかもしれませんが、地球は私の判断のせいだ。あのとき、ネロを止めようとしていれば」
「悪いのは、君じゃなくて、星をぶっ壊したそいつだと思うけど。でも、君にとっては、そんな簡単な話じゃないんだろうな」
 もっと他にできることがあったかもしれない、と後悔することは、すごく、痛くて、苦しいことだ。よりよい方法があったかもしれないと、むやみに手を伸ばして夢想して、結局自分は無力なのだと、心から思い知ることは。胸がぎゅうと痛くなって、ぎゅうとスポックのシャツを掴む。彼は少し身じろいで、それから、後頭部に温かい手のひらを感じた。
「ごめん、スポック」
「ジム?」
 こんな話を聞いているのに、スポックが触ってくれると手放しでうれしい。きしんでいた心がすかさず跳ねて、ジムは反射的に謝った。スポックは、不思議そうなクエスチョンマークを浮かべてくる。顔を上げられる気がしなくて、ジムはスポックの肩になついた。
 それでも、スポックはさっき、あきらめると言ったのだ。
 このすべてを置き捨てて。そうせざるを得ないから。そんな理由をつけて、このタイミングで。
 自分が癇癪を起こしたことと、無関係ではないだろう。そう思うと、申し訳ないのと同時に、やっぱりちょっと、うれしかった。スポックが、自分のせいでそうなっているということが。後ろめたいほどうれしくて、まるっきり泣けてきてしまう。俺はやっぱり、こずるくて悪いやつだ。
 ジムはぎゅっと唇を噛んでから、覚悟して、そっとほどいた。
「君は、帰らずに、ずっとここにいるつもり?」
 勇気を出して、そう尋ねる。
「はい。――訂正、いいえ」
 スポックは一度首肯してから、端的に否定した。
 そのシンプルさに、緊張で張り詰めていた糸がたわんで、ジムは顔を持ち上げる。
「え?」
「長くふたりで暮らすには、この部屋は手狭です。引っ越しを検討しましょう、ジム」
 こちらが間抜け顔をさらしていても、スポックはとても真摯だ。まるで噛んで含めるように、彼はそう断じる。
 その提案を頭に入れて、その内容を理解して、ジムは耳が遠くなったような感覚に襲われた。血圧が上がりすぎて、内耳がどうかなってしまったのかもしれない。だって、予想だにしない答えだった。
「そ、そういう、ことじゃなくて」
「では、どういう?」
 しどろもどろになっていると、髪に触れていたスポックの体温が離れていく。いやだ、続けてほしい、と切願していると、その手がふいに耳たぶに触れて、ジムはびくと肩を跳ねさせた。スポックは、まるで状態を検証するように、指先でつまんで少しひねる。きっと赤くなったから、不思議に思っているのだろう。何も不思議なことはないし、ほんと勘弁してほしい。
「俺が、わあわあ言って暴れたから? 俺がかわいそうで、同情してるだけなら、やめておいたほうがいい。そういうのに乗っかるだけだと、結局、お互いよくない結果になるから」
「経験がおありで?」
 やわく引っ張るように手を離されて、ジムは固く閉じていた目をそっと開けた。
 息が触れるほどの至近距離で、容赦なく見つめてくるスポックは、ただひたすら、網膜にジムだけを映している。
「あなたの今日の事件は関係ありません。いえ、まったく無関係だと言えば、確かに誤謬があるでしょう。けれど、私はずっと考えていました。ただ、言葉にするのが怖かった。恐怖とは、制御されるべき感情です。ですが――、私のこのためらいのせいで、あなたを悲しませたことを、ひどく後悔しています。後悔するような選択は二度としないと、私は誓っていたはずなのに」
 口調はいつもよりずっと熱っぽくて、まなざしも同じ熱をはらんでいる。
「ですので、今日のことについて、あなたの懸念は不要です。今、あなたが最も気にすべきなのは、戸籍を取得することすらままならない異星人の面倒を、これからもあなたが見なければならないということだ。わずかでも負担を軽くする方法を模索していますが、難しいものですね、21世紀にヴァルカン人が日本で暮らすということは」
 ジムは、機嫌が有頂天になる自分の単純さを、ことさら真剣に憂慮した。
 今、すごくすごくうれしい。うだうだと悩んでいたあらゆることが吹き飛んで、星屑になってしまったみたいだった。



 俺たちは、きっと不幸だ。
 はたから見れば、不憫で、悲惨で、取り返しのつかない人生だろう。選択肢を間違えて、正規のハッピーエンドルートからは外れてしまったみたいに。
 けれど、それで何が悪いのだろう。
 うまくいかなくたって、俺たちは生きてるし、それを譲る気はさらさらない。
 救われなくて構わないし、許されたいとも思わない。
 今まで必死にもがいてあがいて、戦って踏みつけてきたものを、なかったことにはしたくない。
 そうでなければ、俺は俺でなくなってしまうし。
 きっとスポックも、彼ではなくなってしまうだろうから。



「ですが、そうした闘争の果てに得るものを、幸福だとアランは言っています」
「急に知らない人の名前が出てきたな。誰? 元恋人?」
「違います。『幸福論』の著者、哲学者です」
 バスルームで頭から冷水を浴びて、心身滅却したジムは、一転して開き直ることにした。
 自分たちは完璧な善き人ではないけれど、そんなに極悪非道なわけでも、めいっぱい不幸を味わって破滅するのがふさわしい人でもないはずだ。それなら、たとえミザリーな人生でも、とんちきな異星人を拾って、ときどき前髪をむしりたくなりながら、毎日をそれなりに過ごしていくことに、なんで前向きになっちゃいけないんだ、と心が奮い立ってきたからだ。
 たぶん、今の自分がスポックに肯定されていて、うんとやさしくされているから、持ち得た楽観性だろう。
「哲学ぅ?」
「我々の常態は、放置していれば自然と不幸になりがちであり、幸福とは、能動的に動いて初めて手に入れられるものだ、というような論説の方です。他から与えられるのではなく、強く欲し、自ら作り上げなければ、幸福というものは存在しない」
「ものすごく筋肉を信仰している感じあるな……
「我々は確かに、不幸かもしれません。けれど、困難を乗り越えて、あなたが望んだものを、あなたにこそ手にしてほしい。それがどんなものだとしても、たとえ、一般的には悲惨と称されるものでも、私はそれを幸福と呼びます」
……スポック」
「はい」
「じゃあ、これからの君のあだ名は、ミスター・ハピネスになっちゃうな」
 今のところ、俺が心から手に入れたいと望むのは、このきょとんとした異星人だけだから。
 そこまで補足するのは癪で、というか、なんだかものすごく恥ずかしいことを言ったなと自覚して、ジムはぱっと踵を返した。さっさと明かりを消して寝てしまおう、とスイッチに手を伸ばす。
 けれど、指先が届く前に、肩越しにぬっと腕が伸びてきた。蓋をされたスイッチを押し損ねて、ジムはひょっと手をひっこめる。
 そろりと振り返ると、スポックはほとんど密着するような距離にいた。
「ジム」
 明かりを背にした双眸が、熱を帯びて暗くなる。ささやくような呼び声は、肌から浸透するようだった。だらしなく口元をゆるめたまま、ジムはそのまなざしに見入ってしまう。こんなふうに見つめられると、まるで自分がとても大切にされるべき人みたいに思えてくる。
 スポックはふいに、スイッチから手を戻すと、顔のそばでそれを広げた。
 ヴァルカン人が挨拶に使う、独特なサリュートだ。キスでもするのかとどぎまぎしていたジムは、おとなしくぱくんと口を閉じた。ときめいて損した、ちくしょう。
「えっと? おやすみの挨拶?」
「長寿と繁栄を」
「はあ……、いつでも不思議だなヴァルカン人は。俺もやる? はい、長寿と繁栄を」
 それでもこの距離はちょっと近すぎるな、と思いながら、ジムもぱっと手を挙げる。それを目にしたスポックは、きゅっと口を引き結んで、やけに真剣な表情になった。それから、えいっ、とでもいうように、彼はサリュートしたふたりの指先をくっつける。
 え、と驚いていると、スポックはそっと息を吐いた。
 それは思いがけないような湿度と、緊張に震えていて、ジムは目を見張る。そして、彼らの指先に触れるということが、どういうことなのかを思い出した。
 今、もしかしたら、精神を探られているかもしれない。悪くすれば、このまま記憶を消されるかも。
 本来なら、ジムはその危惧を抱くべきだった。今すぐ手を振り払って、どういうつもりなのかを問うべきだった。
 けれど、目の前の、泣き出しそうなほどうるんだ彼の双眸と、やけどしそうなほど熱い指先と、全身を貫いていたぶるような衝動に、ジムはあえぐような息を吐くことしかできなかった。それは思いがけないような湿度を持っていて、緊張で震えている。
 つまり、これは、デリケートな部分に触れるのと同じことなのだ。たとえば、唇を、薄い皮膚に押し当てるとか。
 いつかの自分の解釈が、ブーメランのように胸を直撃する。ほとんど無意識に、ジムは唇をなめた。それを目でなぞったスポックは、注意深くまばたきする。
「さわってください」
 溜息のようにこぼされたその言葉を聞いて、ジムは迷わず、唇でその口をふさいだ。



 地球人の遺伝子も持っているからか、スポックの身体的特徴は、あまり地球人と変わらない。
 けれど明確に、それも鮮烈に分かる違いはあって、ジムは彼の唇を食んで吸いついているうちに、中に割って入りたくなった。きっと火がつくほど熱くて、そのぬかるみに舌で触れたら最後、とろりと溶けてしまうだろう。
 そっと唇を離して、吐息する。
「もっと、さわっていい?」
 そんなふうにお伺いを立てると、スポックはぎゅっと眉間を寄せた。
 同時に、指先を合わせていた手もぎゅっと握り込まれて、ぐいと後ろに押された自分の手の甲が、ぱちんと照明のスイッチを押す。
 暗闇に落ちる寸前、重なった唇は、夜の中で濡れて割り開かれた。どん、がたん、と見えない部屋に音が響いて、壁に背中をぶつけたような気がする。けれどもう、ジムにはよく分からなかった。口づけの仕方は、ヴァルカン人も地球人と同じだ。それなのに、かつて感じたことがないほど、肌が粟立って仕方なかった。
 足元がおぼつかなくて、鼻を鳴らしながらスポックの首にしがみつく。彼は自身と壁でジムを挟んだまま、器用に体を支えてくれた。腰を掴む熱い手のひら。抜けそうになってたたらを踏むと、太ももの間をこすってスポックの片足が差し込まれる。
 声が上ずって、ジムはのけぞった。その拍子に唇が離れて、お互いの呼吸が重なる。
 目を開けても、スポックの表情はよく見えなかった。けれど確か、ヴァルカン人は夜目が効いただろうか。欲しがる犬みたいなひどい顔をしていたらどうしよう。せめてよだれは出さないようにと手の甲で口を拭うと、その手はスポックによって奪われた。指の間を指が割る。
「ゆびさき」
 かりかりと指の腹で甲をこすられて、震えた声がまろび出た。
「不快でしたか?」
「いや……、君、心を読めるんだろ」
「正確には、精神に溶け入って理解します」
「余計やばいやつだった。中に、入り込むの?」
「ええ、注意深く」
「ゆっくり、探りながら?」
「無理に割り入れば、壊してしまいますから」
「なあ、これって猥談?」
……わいだん?」
 自分で仕掛けておいて耐えきれなくなって、ジムはまぜっかえすような声を上げる。するとスポックの不思議そうな声が返ってきて、思わず吹き出して笑ってしまった。暗くて見えないが、きっとスポックは無垢な顔で首を傾げているのだろう。こんなふうにくっついて、どこもかしこも触れ合いながら。
「何でもないです。はいはい、俺がすけべだったね」
「もし、私が勝手に精神を読むような無作法をする、などと考えているようでしたら」
「うん、しないよな。分かってる。ただ、その、読まないようにする、っていうのは、自分の意志でできるものなのかなって。もしかしたら、読むのを我慢するのは、痛かったり、つらかったりすることなのかなって。そうだったら俺」
 そうだったら、論理的に考えて、触らないようにするのが一番だろう。絶対に嫌だけど。つまり自分は、自分をすべてさらけ出す覚悟をしなければならない。
 そんなことを真面目に考えていると、ふっと耳元を吐息がくすぐった。鳥肌を立てながら肩をすくめると、顔を寄せたスポックは、そのまま首筋に唇を押し当てる。
「痛いことも、つらいこともありません。ヴァルカン人は、自制をことごとく教え込まれています。あなた方が公序を守るのと変わらない」
「まあ、そっか。手なんか日常でよ、く、つか、うし……、っ、みんなそうなら、はあ、ある程度管理方法も体系化されて、ぅ……
「ところでジム」
「ちょ、ヴァルカン人の唾液には媚薬効果があります、みたいな新情報、隠し持ってないだろうな」
「もう一度いいですか?」
「何を?」
「キス」
 丸い耳の裏までこそぐって、甘噛みしてから言うにしては、かわいらしいお願いである。
 ジムは破顔すると、手探りで彼の両頬に手のひらを添えた。やっと、少しずつ暗順応してきたような気がする。
「自制を教え込まれてるんじゃなかったのかよ」
「無理に割り入ることはしません」
……してくれたって、いいのに」
 スポックの顔が完全に視認できてしまう前に、恥ずかしいことは言ってしまおう。そんな算段のジムはうっとりと目を閉じて、そうささやきながらキスをしようと身を乗り出した。
 次の瞬間、強く両肩を掴まれて、がばっと体を離される。
 どん、と音がしたと同時に照明がついて、ジムは光に目をすがめた。何故かスイッチに掌底を叩き込んだスポックは、鬼気迫るような表情でこちらを凝視している。耳の先がほんのり緑色になっていてかわいらしかったが、顔はガチ説教の様相に切り替わっていた。
 暴力を働くつもりはない、たとえあなたが求めたとしてもあなたに無体を強いることはしたくない、軽率に危険な発言をするな、と訴えるスポックは、ごく真剣にド真面目である。そして同時に、まったく聞く耳を持たなかった。とろっとろの雰囲気が一気に消し飛んでしまったことがくやしくて、じゃあSMだったらいいのかよ、とよく分からない反抗をしていると、そのうち話は存分に逸れて、キスどころではなくなってしまう。
 いちゃいちゃしたい、という自分のささいな欲望を適度に汲んでほしいだけなのに、どんなことがあっても、ふたりの関係に何が絡まっても、スポックは相変わらずデリカシースレイヤーだ。結局ぷんすか怒ったジムは、それ以降の彼の発言を全部「ふーん」で流してやった。スポックもむっとした態度を取るので、実にお互いさまである。
 仕方がないから、続きのキスは、もう一度明かりを消してから、スポックの布団にもぐり込んでしてやろう、とジムは思った。