はるの
2023-09-19 21:11:09
162116文字
Public スタートレック
 

空に心臓

+13|AOS spirk|2023.10.1|2023年の日本で暮らしているジムが、倒れていた迷子のヴァルカン人を拾う話。現代ものパロディです。

6.


「ジム。ひとつ提案なのですが」
「うん? どうした」
「この電気圧力鍋を購入しましょう」
「なんか熱心にネット見てるなと思ったら! 君、現代日本への適応力半端ないな?! どれって?」
「こちらです」
 こっちはめいっぱい自罰的な心境で、一生懸命横書きの物理書を読み漁っているというのに。そんなふうに思いながら、ジムは本を閉じて座椅子から腰を浮かせた。もはやスポック専用機となりつつあるラップトップを隣から覗き込んで、少し考えたあと、トンと肩で肩を押す。
 スポックは、特に文句は言わなかった。それどころかまるで気にしていないように、真面目な表情で画面を見続けている。
「結構高いな」
「そうですか?」
「うーん。別になくても困ってないからなあ」
「ですが、より良くなると思います」
「それはそうだろうけど、貯金のことを考えるとな」
 突然、成人男性をひとり、追加で扶養することになった通帳は、着実に減額の傾向を示していた。今のジムにとって、それは致命的ではなかったけれど、長期的に見ればいろいろと考えなければならない数値だろう。
 と、そこまで考えて、ジムはかぶりを振った。馬鹿なんだろうか自分は、長期的に見る必要なんてないのだ。
「いや、ごめん、なんでもない。いいよ、次の休みに電気屋さん行こっか」
 わはは、と笑いながら顔を上げると、そこには何故か驚いたような様子で固まっているスポックがいた。
 彼はわずかに眉を寄せ、考え込むように目を伏せる。
「ジム。私は……、貨幣経済について、完全に失念していました」
「え?」
「電子マネーにも資本元がある。それはあなたの給与で、定額だ。違いますか?」
「そうだけど」
「私が加わったことで、出費が増えていますね?」
「えっと、まあ、そう、だけど」
「ジム。私は働きたいです」
 そして次に顔を上げたスポックは、ものすごく決然とした表情だった。きりっと上がった眉、真摯な双眸、ぴんと張った背筋。
 ジムはそれらをぽかんと眺めてから、ゆっくりと首を傾げる。
――どうやって?」



 つまり、ヴァルカン人の風貌で、日本語が片言で、履歴書も書けない、保証人が赤の他人なスポックが、この現代日本でどうやって職を得るのか、という話だった。
「だからもう、イケヤにお願いするしかないかなって」
「顔を見せたと思ったら金をむしりにきたのかお前ら」
 その週末の夜、ふたりは再びイケヤの店を訪れて、ことの次第を相談していた。
 というか、正確には嘆願である。人材としては優秀この上ないが、あらゆる問題を抱えている異星人の就職先として、事情を知る友人が個人経営している店、以外に、どんな選択肢があるというのだろう。
「そんなこと言わずに雇ってくれよスポックを! 絶対に使えるからさ、ほら、スポック」
「〝本日は貴重なお時間をいただき誠にありがとうございます。これまでは技術職のチーフとして宇宙事業に従事しておりました。その経験を活かし、今後は御社の安定した運用と売り上げに貢献していきたいと考えております〟」
「お前もっと他に覚える日本語あったろ……! というか宇宙事業の技術チーフがどうやってバーの売り上げに貢献するんだ」
「チーフだぞ? 俺もびっくりしたけどこいつはまじで有能だ。いるだけで身が引き締まる。これは採用決定だな!」
「スポック、この就活エージェントは無能だ。解雇しろ」
「ですが、論理的に考えて、私を雇用することが可能な事業主はあなたしかいません」
「事業主側の選択肢はない感じか?」
 いつものカウンターに座って、嫌そうな顔をしているイケヤを眺めながら、ジムはにこにことカクテルを飲んだ。スポックは出された炭酸には目もくれず、誠実な表情でじっと店長を見つめている。それを受けてさらに嫌そうにうなだれるイケヤに、ジムは熱心なしぐさで身を乗り出した。
「頼むよ、イケヤ」
 これはいける、と確信した顔になってしまったかもしれないが、やがてイケヤは片手で目元を覆った。そのくしゃくしゃになってしまった眉間に笑って、ジムは安心して座り直す。
「ありがと」
「おい、まだ何も言ってない」
「NOがすぐさま出てこない時点で分かるよ」
「こっちが払う給与でお前らが養われるって金の動きが嫌すぎる……
「そう言わずに、ボス! 俺たちを養って!」
「それが嫌だと言っている。ボス言うな」
 手を離して見せた顔は、うんざり、の一言だった。声を上げて笑ってしまうと、きっつい視線をぶっ刺されて、ジムは首をひっこめる。そんなこちらの態度に深い溜息をついてから、イケヤはスポックに向き直った。
「本気か?」
「ヴァルカン人は冗談を言いません」
「言え、たまには。はあ……、分かったよ。けど、そう景気よくは出せんぞ」
「ジム。これは雇用された、ということでしょうか」
「やったなスポック、内定だぞ」
「〝ありがとうございます。御社のお力になれるよう、精いっぱい努めさせていただきます〟」
「ジムのせいで異星人が面白おかしい成長を遂げてしまっている……。ごめんな、地球人が全員こうとは思わないでほしい……
「なんでそこで俺の批判になるんだよ」
「存じています、問題ありません。ジムは地球人の中でもごく特殊です」
「おいこらスポック」
 しゃあしゃあと言う実直な顔にむっとした表情を作ったけれど、ジムの頬はすぐにゆるんでしまった。にやにやと笑って自分のグラスを取れば、スポックはこちらを見る。乾杯、と言外に目で訴えてグラスを差し出すと、彼は気づいてグラスを取り、小さくカチンと飲み口を押し当てた。これも、今までの生活の中で、彼に教えた作法だ。
 ちなみに面接シミュレーションも、ものすごく楽しかった。賢いスポックは早々に「これは本当に必要なのか?」と怪訝顔をしたものの、それでも最後まで付き合ってくれたのがうれしかった。少なくとも何かの糧にはなるだろう、と前向きに考えているような彼の様子には安堵したし、自分の言葉を素直に繰り返すスポックはかわいかった。
 グラスを離して満面の笑みを向けると、スポックはぱちぱちとまばたいて、少しだけ顔を引く。ときどきそんなふうに、暗いところから突然明るいところへ出たときみたいなしぐさをするスポックを、ジムは何度でも見たいと思っていた。だから、次のいたずらに全力を尽くしてしまうのだ。どうかご容赦してほしい。
 そんなふたりのやり取りをじっくりと観察しただろう時間でもって、イケヤはさらに深々とした溜息をついた。
「それで? 注文取って伝えるくらいはできるのか?」
「問題ありません。日常会話には困らなくなってきました」
「学習能力高ぇな。了解。ま、バーの時間帯ならこっちでもフォローできるし」
……失礼。雇用形態について確認したいのですが」
「まだ面接終わってなかったか?」
「こちらの店の終業時刻は何時でしょうか?」
 ジムとしては、えっじゃあバーテンしてるスポックとか見られるのかやっばい、まで思考が飛んでいたので、ふいに繰り出されたスポックのその質問に虚を突かれる。そして、ああそうか、と落胆した。イケヤが店に出るのはバーの時間帯で、昼間のカフェはまた別の責任者に任せている。スポックが安心して働ける時間を考えると、必然的に夜間になるだろう。つまり、夕方から深夜までの勤務だ。
 平日日中で働いているジムは、がっくりと落ちた首をなんとか持ち上げた。生真面目な表情のスポックと目が合って、思わず眉尻を下げてしまう。やっぱりこの話、なかったことにできないだろうか。別に今、即急に困窮しているわけじゃないのだ。全力で仕事をたかりにきたのは、スポックに負い目を感じながら過ごしてほしくない一心だった。
 スポックの気持ちより自分のわがままを優先しそうになって、ジムは口をきつく引き結ぶ。スポックはそれをじっと見つめてから、毅然とした姿勢でイケヤと対峙した。
「夜間の就業となると、私はジムが帰宅する前に働きに出て、ジムが眠ったあと帰宅することになりますね」
「すごく嫌な予感がするが、まあそうだな」
「ジムと顔を合わせられなくなりますので、日中帯での雇用をお願いします」
 ジムはその言葉を聞いて、思わずそっぽを向いてから、うつむいて顔を覆った。
 スポックにそんな提案をさせるくらい、ものすごくばればれの表情をしてしまったらしい、という羞恥が、こっぴどく全身をなぶっていく。そしてそれを追認するように、強い酒のようなうれしさに侵食された。頭に血がのぼる気配がして、ジムは頭を抱えたくなる。ヴァルカン人の体温だって、きっとこんなに熱くはないだろう。
……ジムの顔は見なきゃだめなやつか?」
 やや間をおいて、今まさにジムが訊きたかったことを、露骨なあきれ声のイケヤがしてくれた。よし、いいぞ、さすがは腐れ縁。ジムは心の中で喝采する。
「ジム? どうかしましたか」
「そいつはちょっと、今はほっとけ。地球人には耳真っ赤にして穴を掘りたい衝動に駆られるときがときどきある。知らんけど」
「はあ。質問にお答えしますと、私は居候です。家主の見えないところばかりで過ごすのは、失礼ではありませんか?」
 スポックも、顔を合わせられなくなるのはさみしい、と思ってくれてるかもしれない。
 そんな夢を見ていたジムに、スポックの端的な回答が浴びせられる。えっ、と思って顔を上げると、心底うんざりした様子のイケヤと目が合った。
「失礼か?」
「え、別に……
 そろ、と振り向いてみれば、ごく不満そうな表情のスポックが迎えてくれる。なんだ、別にさみしいわけじゃないのか、という消沈で血圧が戻ったジムは、口を尖らせながらグラスを取った。
「本人はこう言っているが?」
「ですが、不都合です。顔を合わせなくなれば、共同のプロジェクトも進みませんし、生活に支障をきたします。もし、私の勤務態度や就業スキルに疑問を持たれているのであれば、一度テストをしてください。不足分は補いますし、私はあなたが不在であっても問題のない働きをします」
「ぐいぐい来るこの異星人。つってもなあ……
「収支が合わないのですか?」
「は?」
「私を日中帯に雇用することで損害が出ますか? であれば、経営情報を開示してください」
「は??」
「それと、事業計画を。利益率を改善できるかもしれません。そうしたら、あなたは収益を得て、私は希望のシフトで働き口を得て、ジムは安心します」
……なんて???」
「ですから」
「いや、繰り返し聞きたいわけじゃない。いや。いや、無茶だろ。何? 事業計画?」
「無茶だ、と断定する要素は現時点で存在しません。やってみなければ分からないことです」
「嫌……、ジムみたいなこと言ってくる……。とりあえず突撃しようとするのはやめろ」
「ですが、始めないことには何も始まりません、ボス」
「うるさいわ。ボス言うな」
「日勤での検討をしていただけますね?」
「えーこれどっちがボス? はあ。分かった、分かった……、検討する」
「ジム。先ほどからどうしたのですか?」
「お前が先鋒よろしく切り込んできた目的が『ジムの安心』だって分かったあたりからこうだぞ。カフェリーダーからOKもらったら、これからも存分にあやされてもらえよ、ジム」
「うるさい……
「私はジムをあやすようなことはしていません。ともにいるだけです」
「うんスポックちょっと黙って……
 今すぐ耳が隠せるスポックの帽子をむしり取って、自分でかぶりたい。そんなことを思いながら、ジムは再び顔を覆った。
 安心してほしいと願われていることはうれしかったが、スポックがいることで自分が安心すると看破されているのは、ちょっと羞恥で気絶できるくらいのインパクトがある。勘弁してほしい。



 スポックは結局、カフェタイムのアルバイトとして雇われることになった。ジムは小躍りして、何それすごく見たい、という熱意に満ちあふれたし、日中帯の責任者に感謝の祈りを捧げたくなった。けれど、スポックが提案したとおり、まずはOJTを兼ねたテストとして1週間、イケヤのいる時間帯に勤務することが義務づけられた。
 スポックははじめ渋っていたが――ボスのほうが日勤に異動すればよいのでは? と提案してド叱られていた――、ジムとしては、1週間の我慢で希望が通るなら、それに越したことはない。頑張れよ、と励まして承諾を促せば、彼は微妙な表情で同意した。
 初日のことである。ジムは明かりのついていない部屋に久しぶりに帰宅して、久しぶりにひとりでごはんを食べた。
 なんとなくテレビをつけて、なんとなく音を流しながら、なんとなく、これがさみしいって感覚なんだろうな、と気持ちを手のひらで転がすような気分になる。さみしさなんて、今まで十分すぎるほど感じてきたことなのに、それをもてあそぶ余裕があることが面白かった。たぶん、これが期間限定だとあらかじめ分かっているからだろう。
 スポックは必ず帰ってくると知っているから、いないさみしさだってちょっと楽しいのだ。ものすごく贅沢な話だった。
 彼が帰宅するまで粘っていようか迷ったけれど、ジムはいつもどおり寝ることにした。粘らなくても、そのうち会えるからだ。それに、夜更かしをしていたら、あの感情豊かな無表情で叱られそうだと思った。あなたの年代に当たる地球人は、約7時間以上の睡眠時間が適正です。今ならモノマネも難なくできる、なんてことを考えながら、ジムは笑顔で眠りにつく。
 翌朝、絞った目覚ましの音で起きると、スポックは布団で横になっていた。物音には敏感なほうなのに、全然気づかなかったな、とジムはあきれる。どれだけ気配を消して帰ってきたんだろう。抜き足差し足しているスポックを思い浮かべてにやにやしながら、ジムもそっと、気配を消してベッドを降りる。
「おはようございます、ジム」
「うわあ!」
 直後、静かに声をかけられて、ジムは跳び上がった。そろっと振り向けば、朝から抜群の姿勢のよさで、スポックが起き上がったところである。
「おはよ……、いや、君はまだ寝てろよ。起こしたならごめん」
「構いません。私も起床します」
「ちゃんと寝てなくない?」
「ヴァルカン人が必要とする睡眠時間は、地球人よりもずっと少ないのです」
「え。じゃあ、普段はずっと俺に付き合ってくれてたってこと? だいたい一緒に寝起きしてたよな」
「共同生活であればそれが論理的です。私は仰臥状態での瞑想を行っておりましたし、あなたは静かに就寝できました」
「め、瞑想? えっと、じゃあ、スポックは困ってたわけじゃないんだな?」
「はい。お互いに有意義な時間を使っているという認識です」
「そうなんだ……、じゃあ、いいけど。なんかこれだけ一緒に過ごしてるのに、新情報に事欠かないなヴァルカン人は。公式の供給が無限」
「ヴァルカン人の生態に関する知識が、あなたにとっては興味深いということでしょうか」
「うーん、まあ、そんなとこ」
 適当に朝食を済ませるはずだったジムは、ゴミ捨てを後発のスポックに任せて、一緒に食卓を囲む準備を優先した。スポックの研修は順調のようだが、イケヤの意見はまた違うだろうな、という話を聞いてひとしきり笑う。そしていつもどおり、「行ってきます」に「お気をつけて」を返されてから外出した。閉まった扉を振り返ると、スポックが施錠する音が聞こえてきて、ジムはそっとドアに触れる。
 その夜、ジムは寝る前に、紙とボールペンを用意した。なんとなく、「おかえり」を言ってやりたくなったのだ。
 ――〝おかえり。ごはんはラップして冷蔵庫。チンして食べて。店はどう? 早く君に俺のイメージカクテルを作ってもらいたいよ。〟
 すべて日本語で書いたのは、もしかしたらスポックが訓練だと思って、きちんと読んでくれるかもしれない、という打算だった。ジムはそれをテーブルに置いて、無造作に見える角度にボールペンの位置も調整してから、自分のベッドにもぐり込む。
 今度は起きているつもりだったのに、本当にスポックは気配を消す達人だった。気づいたら朝で、スポックは起き出している。寝起きを感じさせないすがすがしさで挨拶を交わし、さっさとバスルームへ向かう彼を見送って、ジムは伸びをしながらテーブルを見た。まあ、読んでくれたかは、このあとの朝食で聞いてみよう。置きっぱなしの紙を覗き込みながら、のんきにそう考えていたジムは、そのまま変な方向に力を入れてしまって首の筋を違えた。
 いだだ、と身もだえてくずおれながら、それでも必死に手を伸ばす。ぺらっとテーブルから落ちた紙を拾って、なんの間違えも起こらない距離まで顔に近づけた。記憶にない追記がされた紙には、こうある。
 ――〝歯科の検査結果の裏に書く内容ではありません。メモ帳を購入してください。もしくは、私が購入します。夕食をありがとう。チンする、という日本語はいまだに慣れません。チンという音はしない。店は順調ですが、イメージカクテルを作る、というサービスは行っておりません。「どう?」の内容に齟齬がある場合、詳細の解説は朝食の際にお願いします。〟
 ――〝ただいま。〟
 ジムはよろよろと床を這うと、毎朝きちんと畳んで置かれるスポックの布団まで行って、そのままばふっと突っ伏した。スポックの体温は高いので、まだぬくもりが残っているような気がする。どこかさわやかな香りもするような気がして、ジムはシーツにこめかみをこすりつけた。
「は? 何をしているのですか。遅刻しますよ」
 戻ってきたらしいスポックから、辛辣な『は?』をもらって、ジムはくふくふと布の中で笑みをこぼす。
「メモ帳は俺が用意する。それにしても君、紙でも小言が多いな」
「すべて真っ当な提言かと思います」
「日本語こんなに書けたんだ?」
「時間はありました。それに、不明な点は調べました」
「仕事帰りに何やってんだ、早く寝ろよ」
「ジム、遅刻しますよ」
 一番訊きたいのは、〝ただいま〟が少し躊躇したような余白でもって追記されている点だ。
 スポックはどんな気持ちで、かたくなにないと言い張るどんな感情で、この文字を書いたのだろう。
「はいはーい」
 間延びした声を作りながら、ジムは上体を持ち上げた。振り返れば、仁王立ちでこちらを監督しているようなスポックがいて、その偉そうぶりに思わず笑ってしまう。なんだかやたらうれしくて、微笑んだまま見上げていると、そのうちスポックは気まずそうに両手を後ろに組んで足を揃えた。それにも吹き出して笑っていると、キッチンからお湯が沸いたアラームが聞こえてくる。ジムは時計を見やって、慌てて立ち上がった。



 待ち遠しかった週末がやってきて、ジムは張り切ってひとりで家を出た。
 ひとりで、ということはすなわち、スポックが働いている時間帯である。これを逃せば日中帯に異動になってしまうので、最初で最後のチャンスだった。
 イケヤの店に入ると、カウンターにひとりだけ、帽子をかぶっている人がいる。ジムはうきうきと一直線に、彼のもとへ歩いていった。カウンターの隅の席は、今日も空席に保たれている。きっと店側のご厚意だろう。
「〝こんばんは〟」
 よそ行きの顔と声で、日本語で話しかけると、スポックは片眉を跳ね上げた。
「〝いらっしゃいませ〟」
「なあイケヤ、この声録音して販売したら売れると思う」
「お前が今日払った酒代が結局お前に返っていく金の動き、本当に嫌だな……
「途中でお前にも一部落ちるだろ。つまり、俺がまとめて君たちを扶養しているとも言える」
「嫌の一言」
「なんだよ恥ずかしがるなって。よっ、スポック、蝶ネクタイとかしないの? あの背中ががばっと開いてる黒のベストとかさ。絶対似合うのに」
「この店はエプロン以外、決まった制服がありません。ですので、蝶ネクタイもベストも不要です」
「何のために俺が白シャツ着てけって言ったと思ってんだ。怠慢だぞ怠慢、責任者出せ」
「うちの従業員を着せ替え人形にして邪な目で見るのはやめてください。スポック、これをカスハラという。客として見なくていい。追い出せ」
「分かりました。ですが、ジムのこれは冗談です。彼の言動パターンは理解しています」
「お前がそうやって甘やかすからつけあがるんじゃないか?」
「甘やかしているつもりはありませんが……
「イケヤのこれも冗談だから、気にするなスポック」
……地球人はいささか煩雑過ぎるように思います」
 スポックの仕事ぶりは、想像したとおり、必要十分のスマートさだった。酒の作り方はやや科学実験じみていたが、正確で素早かったし、スタッフとも問題なく意思疎通している。ずいぶんと地球になじんだなあ、としみじみするような心地で、ジムはスポックの作った澄んだ青色のカクテルに口をつけた。ねだってねだって作ってもらった、サービス外のイメージカクテルである。薄い輪切りのレモンがグラスに刺さって出てきたときは、元気に声を上げて笑ってしまって、スポックにむいっと口角を下げさせた代物だった。
「私はアレンジができるほど学んではおりません。無茶な注文は控えてください」
「ねえ、でも、美味しいよ」
「おそらく美味しくなるだろう、という配合をしました」
「笑ってごめんって。まだむっとしてる?」
「ヴァルカン人はむっとしません」
「だってこう、かわいくてさ」
「カクテルが?」
「それを作ったのが君、というところも含めて」
 ジムは上機嫌で、カクテルグラスを掲げ持った。ほとほと困りながらも一生懸命作ってくれた事実がうれしい、ということを、むっとしないヴァルカン人はもしかしたら知らないのかもしれない。そんなことを考えながら、彼の目を見つめて、そのままグラスに口をつける。
 こくんと飲んで、唇を舐めた。スポックの虹彩がぎこちなく揺れるのを見て、ジムはにんまりと笑みを浮かべる。もしかしたら、照れているのだろうか。褒められて? だとしたらとてつもなくかわいいな。
「おい、いちゃいちゃすんな。スポックはそんなのより、昼間用のコーヒー作れ。紅茶は合格」
「日中のドリンクはすべて覚えました。それより、あなたが面倒がってアップデートしていない経理上の問題について、先に議論すべきです」
「いちゃいちゃはしてないし、そんなのって言うな。これはスポックが初めて作ってくれた俺のカクテルなんだぞ!」
……うるせえ……、こいつら……
 カウンターに戻ってきたイケヤの心底嫌そうな声に、勢い込んで訴えかければ、スポックと声が重なった。イケヤはふたりを交互に見て、さらに嫌そうな顔をする。どれだけ嫌を主張する表情が作れるか選手権があったら、きっといい成績を修められるだろう。
 最後はうめくようになってしまった店長に笑って、ジムはカクテルを口に運んだ。



 何故か経営の話をしているスポックたちの会話を聞き流しながら、カクテルを飲み終えたジムは立ち上がる。今日は閉店までいるつもりだったし、客はまばらだった。ときどきやるように、ギターを引っ張り出してきて、ステージの真ん中でチューニングする。
 ふと顔を上げると、カウンターのスポックと目が合った。先日と同じように、けれど先日とは違って、彼はカウンターの向こうにいる。
 何を歌おうかな、と思った。考えるときの癖でまた唇を舐めて、カクテルの味を思い出す。スポックは、まるで縫い留められたように、ずっとこちらを見つめていた。目を伏せて笑って、弦をつまびく。
 日本語の歌にした。それなら、スポックはまだところどころ分からないだろうと思ったからだ。バラード調にアレンジすれば、ささやき声でもさまになる。君が好きだと歌う歌。けれど、君とは結ばれないだろうなと歌う歌。向こうのほうでイケヤがアッチャーみたいな顔をしていて、ジムはやぶれかぶれになって笑う。スポックは、ずっとこちらを見つめていた。
 最後はじゃかじゃか弾いてわちゃくちゃにごまかすと、まばらな客はまばらに拍手をしてくれる。ジムはわははと笑って手を挙げて、その勢いで、今度は陽気な曲を選択した。大丈夫、問題ないよ。そう歌って口笛を吹いてみせる。
 曲が終わると顔見知りがやってきて、同じギターで参加してもいいかと尋ねてきた。ジムはもちろん快諾して、ステージの真ん中から横にずれる。今度は明るい元気な曲。揃って歌って向かい合って、息を合わせて掻き鳴らした。こんなふうに誰かと歌っている間は、余計なことを考えなくて済む、なんてことをちょっと思う。相手に失礼だろうか。
 歌い終わって、拳を合わせて、つかの間のセッションは解散した。ステージを降りる背中を見送りながら、自分もやめようかと思っていると、ふと照明がさえぎられる。
 見上げると、スポックだった。エプロンをつけて、従業員のスタイルで、ステージ端に座っているジムのそばで直立して、何故か見下ろされている。
「ん? どした?」
 内心、ひっくり返るほど驚いたが、ジムは何でもない顔で軽く尋ねた。こういう外面は得意なほうだ。笑顔で振り仰いでやれば、スポックは真顔で小さく首を傾げる。
「ギターを触っても?」
「え、君が? いいけど」
「これはあなたのギターですか?」
「イケヤのだけど、俺専用かな」
 好奇心に駆られた、にしては硬い表情のスポックに、ジムも小さく首をひねった。ストラップを外して渡してやると、スポックはじっと弦を見据えてから、見よう見まねで構えてみせる。気難しそうな顔にぶら下げられたギターがまるで場違いに見えて、ジムは少し笑ってしまった。
「君、仕事中だろ?」
「店の備品を覚えることは仕事のうちと考えます」
「そんな哲学者みたいな顔で弾く楽器じゃないぞ」
「ですが、弦楽器には私も覚えがあります」
「へえ! また新情報来ちゃったな、早く言えよ。何やってたんだ?」
「ハープです」
「森の妖精さんかな……
「ヴァルカン人です」
「はは、うん、それは知ってる」
 スポックは1本ずつ、弦を摘まんで確認する。それからゆっくりと、指先で順になぞった。
 ぽろぽろと6つの音がこぼれる。そうして顔を上げたスポックは、窺うようにこちらを向いた。ジムは目を細めて、そのひたむきなまなざしを受け止める。
「左手がおろそかだぞ」
「そうですか? あなたはこのようにしていたと思います」
「俺に指先を摘まんで位置を直されたくなかったら、運指から勉強するんだな」
「分かりました。あなたくらいには弾けるようになります」
「ええ? 君、俺が何年ギターやってると思ってんだ」
「何年であれ、できないことはないはずです」
「で、覚えて君はどうすんの? 俺とそんなにセッションしたい?」
 からかい口調でそう問えば、スポックはじゃらんと弦を鳴らした。震える6本をしばらく見据えてから、残響を手のひらで押さえつけて黙らせる。
「いいえ」
 そして、その真剣な表情のまま、ぴしゃりとそう断った。スポックの射るような視線を受けながら、ジムは鼻白んだ気分になる。
「あ、そ。出たよ、ド失礼スポック」
「ですが、それは私でもいいはずです」
「は?」
「私はあなたと殊更セッションがしたい、とは思っていません。ですが、もしあなたが、あなたの隣で弾く人を必要とするのなら、それは私でもいいはずだ」
……ええと」
「仕事しろ~~~」
 つまり、どういう意味だ……? とジムがフリーズしていると、近寄ってきていた最高責任者の間延びした声に割り込まれた。はっとして周りを確認したが、ステージの隅で話し込んでいる客と従業員を気にしているのは、どうやら店長だけのようである。自由な雰囲気のバーに感謝しつつ、ジムは立ち上がった。スポックに手を伸ばせば、彼は素直にギターを下ろして渡してくれる。
「今すべき仕事はないはずです」
「そうだけどな、店員がな、うろちょろすんな」
「必要かと思いました」
「そりゃ店にとって? お前にとって? 何でもいいから言うことを聞け。ハウス」
 カウンターへ戻っていくスポックとイケヤのそんな愉快なやり取りをBGMに、ジムもステージを片づけて席に戻ることにした。いつもいつでもまっすぐに伸びているスポックの背中を眺めながら、何故かうまく回らない頭をどうにかこうにか稼働させる。えっと、つまり、別にギターが弾きたいわけじゃないけど、俺がセッションしたいと思ったら、スポックはギターを覚えるってことか?
「ここは私の家ではありません」
「はいはいはい、ホールスタッフが困るだろ、お前がちょろつくと」
「失礼しました」
 雇用主に叱られたスポックは、すんとしたすまし顔でカウンターへ入る。まさしくそのハウスされている様子に、ジムは一気に気が逸れた。とりあえず疑問は置いておいて、カウンターの椅子に飛び乗って身を乗り出す。
「いいなあ、イケヤ。俺もスポックをハウスしたい」
「こわ……、どういう感情? それ」
 わざとらしくうらやましそうな表情を作れば、イケヤは予定調和のように嫌そうな顔をする。それに笑っていると、スポックは横から冷水の入ったグラスを寄こしてくれた。
「あなたは家を所有していますので、ハウスは可能かと」
 そしてごく真面目な表情で、そんなことを言い始める。
 ジムはまじまじと、その顔を見返した。
……家?」
「はい」
「えっと、つまりスポックは、君の家に戻れって、俺が俺んちを指差したら、それはそうですねって感じで、俺の家に収納されるの?」
「表現は不適切に思いますが、それはそうでは?」
 スポックは、見事な無表情だった。きょとんとすら見えるその様子に、ジムはゆっくりとカウンターに突っ伏す。
 それから唐突に、スポックはギターが弾きたいんじゃなくて、俺の隣にいたいんだ、ということに思い当たった。
「ずいぶん飼いならしたな、ジム」
 どこか諦観もにじむような声音のイケヤにそう問われて、ジムはぎゅっと目を閉じる。
 心臓の音がうるさくて、喉からせり上がってくるようだった。スポックが何事かと名前を呼んでくるけれど、もちろん、今顔を上げるなんてタブー中のタブーである。きっと欲にまみれた顔をしているから。
「こまる」
 小さく、それだけ、返答する。
 本当に、困ったことだった。このままずっといてくれないかと強く願ってしまいそうで。