はるの
2023-09-19 21:11:09
162116文字
Public スタートレック
 

空に心臓

+13|AOS spirk|2023.10.1|2023年の日本で暮らしているジムが、倒れていた迷子のヴァルカン人を拾う話。現代ものパロディです。

2.


「俺のことはジムって呼んでくれ」
 なるべく人通りの少ない道を選びながら、ジムは連れに目を向けた。明るい場所で見ると、彼はますます際立っている。面倒を見るにしてもうちには予備の布団とかないし、と駄々をこねた結果、イケヤから押しつけられた寝具一式を分担して抱えているせい、と言えなくもなかったが、すれ違う人たちの何人かは、こちらを――というか主に彼の耳を、遠慮なく凝視していった。とにかく大ごとになりませんように、とジムは祈り続ける。
 それなのに、自己紹介をした途端、目立つ異星人は歩道のど真ん中で立ち止まった。勘弁してくれ、と顔をしかめる。
「歩け、こら」
「ジム?」
 まるで驚いたように、彼はこちらを見つめていた。歩かせようと、布団を抱えた腕で軽く体当たりしたジムの耳元に、低い、張りのある声が置かれる。
「まさか、ジム・カーク?」
「え?」
 そう問われて、結局、ジムも足を止めた。彼以上に驚いて、まじまじとその顔を見つめる。
「まさか――、本当に?」
「あ、いや、違う、分かんない、でも、は? 君、俺を知ってるのか?」
 ジム本人も知らない名字を知っているのなら、彼には何故か、自分の幼少期の知見があるということだろう。一気に混乱して、思わずぎゅうと布団を抱きしめる。異星人は、そんなジムを慎重に観察した。
「いえ、あなたのことは存じません」
「え」
「知人の友人がこの名前なのです。まさか、同じなのですか?」
 その言葉を聞いて、ジムは大きく息をつく。そして、なあんだ、と歩き出した。
 なあんだ。知り合いと同じ名前ってだけか。
「なあんだ……
「どうしましたか」
「いや、びっくりした。俺はただのジムだよ。よくあるだろ、ジェームズなんて」
 はは、と空笑いして、ジムは場をごまかした。すぐに追いついてきた長身は、無表情でこちらを窺ってくる。
「ジェームズ、何ですか?」
「それ、ファミリーネーム訊いてる?」
「はい。地球人はおよそ持っています」
「へえ、そういう知識はあるんだ。でも、俺に〝ファミリー〟はいないからね、そんなのない」
 彼は無表情を維持していたが、ジムがそう答えると、口を閉ざしてしまった。感情が見えにくい異星人ではあるが、なんとなく、あらゆるしぐさが雄弁ではあるな、と思う。ジムは、今度は普通に笑った。
「なあ、俺のことはいいんだよ。君のことを教えろよ。言っとくけど、俺はまだ君の名前も知らない。そもそもあるのかな、君に名前は」
「ありますが、地球人には発音しづらいものになります」
「できないってこと? 君とはこうして普通に喋れるのに?」
「ええ。ですので、一般的には名前の主幹部を取って呼び合います。私のことは、スポックと呼んでください。ただのスポックです」
 ただの、と繰り返した彼を、ジムは見やった。
 スポックはまっすぐ前を向いていて、ただ静かに、周囲を視界に収めている。
――スポック」
 その名前を舌の上で転がしてみると、少し不思議な感触がした。スポックは素直にこちらを向いて、当然のような顔つきをしている。
「はい、ジム」
 別に呼んだわけではなかったジムは、その律儀で、ちょっと面倒くさい返事に、眉尻を下げて笑みをこぼした。



 スポックは、ヴァルカン星の人らしい。つまり、ヴァルカン星人というわけだ。
「で、君はなんで迷子になったんだ?」
………
「おい、今さらだんまりはやめろ。君は俺についてくるって決めたんだろ、ここにいるってことはさ」
 そして、ヴァルカン星人というものは、平和的ではあっても、非友好的なのだろう。仏頂面でかたくなな態度を見せるスポックに、ジムはあきれて首を振った。
 ジムの住んでいるアパートの部屋は階上にある。非友好的エイリアンがおとなしくついてきていることを確認しながら、ジムはドアの前で手ぶらになった。いきなり荷物を押しつけられても揺るぎないスポックの体幹に感心しつつ、スマホが入っていないほうのポケットから鍵を取り出して開錠する。
「どうぞ。あ、ここで靴脱いで。土足厳禁だから」
「そのような文化があることは聞き及んでいます」
「まじでゴールデンレコード読者か?」
「ゴールデンレコードに、日本の風習に関する特記はありません」
「それは露骨に読者の発言だぞ」
「実物を拝見したことはありません。資料の知識です」
 答えたくない質問以外なら、こんなに打てば響くのに。ジムは玄関を開けてスポックから荷物を受け取ると、自分のサンダルをぽいと脱ぎ捨てた。リビングへ歩きながら振り向くと、スポックはまるっとした頭頂部をこちらに向けて、脱ぎにくそうなブーツに手をかけている。
 部屋は比較的片づいているほうだった。1DKの間取り上、寝てもらうならベッドの隣に布団を敷くことになるだろう。とりあえず、ジムは寝具一式をベッドの上に放り投げた。実際、これを置いておくようなスペースも今はない。自分の部屋は、誰かが滞在することをまったく想定していないのだ。
「君、何泊くらいする予定?」
 靴下の足が音も立てずにやってきたのを見て、ジムは腕を組んだ。スポックはさりげなく、けれどすみずみまで部屋を検分してから、小さく首を傾げる。
「不明です」
「それじゃ困るんだよ俺が。とにかく、君の事情を教えてくれ。できる範囲で構わないから」
「それは、私が何泊するかを計算するためにですか?」
「そうじゃくて、俺は君に――、いや、もうそれでいいや」
「はい」
――いや、うそ。ちっともよくない。あのさ、1日にせよ10日にせよ、これから俺は、生活スペースを分けるんだよ、君に。分かる?」
「感謝いたします」
「そりゃどうも。で、俺は得体の知れない異星人を、今、無防備にも家に上げてるわけだ。分かる?」
……そうですね。私なら決して行いません」
 そんなスポックの言い方に、ジムは思わず笑ってしまった。どことなくしゅんとした様子になった彼の肩を、力強くぽんと叩く。なんだかコンピュータみたいな考え方をする男だが、根気さえあれば、欲しい答えは得られそうだった。つまり、慣れの問題だ、たぶん。
「だから、君の素性は知りたいし、君がどうしたら家に帰れるのか知りたいし、それが簡単なのか難しいのか、どれくらいかかるのか知りたい」
 スポックは、無表情でそれを受け止めた。じっとこちらを見るまなざしは、なんとなく、押し黙ってしまったときとは違う色合いのように感じる。努めて真面目に見返していると、彼は両手を後ろで組んで胸を張った。
「お答えします。私はこことは別の星域から、転送されてきました。ですが、これは事故であり」
「よし、スポック。待った。答えてくれてうれしいけど、突っ立ったままもなんだし座ってくれ。なんか飲むか?」
「飲料は不要です。座る、というと、床にですか? この椅子は?」
「それに座ってくれてもいいぞ。床でもいい」
 くつろぐときに使っている座椅子を見下ろすスポックを置いて、ジムはクローゼットを開ける。スマホを抜いてジャケットを片づけ、用を足してから戻ってくると、スポックは座椅子の対面でびしっと正座をしていた。うそだろ、と思いながら、ジムは吹き出してしまう。
「くつろげよ」
「くつろぐ必要がありません」
「あってくれよ家だぞ。俺が落ち着かないから足は崩せ」
 ローテーブルにスマホを置いて、ジムは座椅子に腰かけた。ちょっと奮発して買ったいいやつなので、たいそう居心地がいい。その正面にいる律儀な異星人は、少し逡巡したのち、スムーズな動作であぐらをかいた。よくできた犬に言うように、よし、と褒めて笑顔を作ると、スポックはあからさまに片眉を上げる。
「転送?」
「話を続けてよい、ということでしょうか」
「真面目だなあ君は。転送されたってことは、君はワープしてきたのか?」
「ワープ理論を応用していますので、そうとも言えます」
「理論。なるほど。宇宙人的ミラクル超能力でテレポートした、とかじゃなくて、機械でやる感じか」
「宇宙人的ミラクル超能力、というものが何なのかはまったく分かりませんが、テレポート能力を持っている同僚はいませんし、転送は機械で行います」
「真面目か。君、言い方が面白いって言われない?」
「言い方、とは? 面白いと言われたこと自体はありますが、個人的かつ主観的なものであり、数も多くありません。事実とするには不十分です」
「おもしれーエイリアン」
「は?」
 序盤からこのありさまだったので、盛大に脱線はしたのだが、彼の人柄を知るということにおいては有効だった。
 スポックは、やはり異星人だからだろうか、今までに会ったことがないタイプだ。それがジムにとっては、率直に愉快だった。少なくとも、彼は善良で、真面目であり、思考は機械的だが、代わりにとても素直だ。言葉遣いは慇懃で、難しい単語も表現も使うが、それは彼なりの分かりやすさなのだろうと思う。
 そして、彼はひどく帰りたがっていた。
「けれど、帰る手立てがない?」
「転送装置が作動しません」
「え、いつ確認した? ずっと一緒にいたよな?」
「我々の所属する組織の規則として、ワープ航行を開発していない星の住人に、我々の存在を暴露してはいけない、という決まりがあります」
「ああ、なんかそんなこと言ってたな。規則って」
「同様に、我々の技術について、可能な限り開示は避けるべきと考えます」
「はあ。うん、まあ分かった。すっげえ気になるけど、まあお互いに譲歩だよな、いろいろと」
「おそらく襲撃された際に故障したものと思われます」
「しゅ――、あ! そうだ、君、なんであんな怪我してたんだ!」
「敵対者から射撃されました。私は任務に従事するため、十分な防御を行いませんでした」
「敵対って。君の星、紛争でもしてるのか?」
……発言を拒否します」
「押し黙んなくなっただけましだけど、そう歯切れよく言うことでもないと思うんだよな、俺は。わーかりました」
「答えたくないことは答えなくてよい、とルールづけしたのはあなたです」
「はーいはい。で? 君のその任務っていうのが、2023年の日本に来ること?」
「発言を拒否します」
「そろそろ発言を拒否しますボタンとか作ってもいい頃だな。まあいいか」
 およその事情が分かったところで、ジムはぐんと伸びをした。説明を一切しようとしないスポックには腹も立ったが、別にジムだって、何もかもを根掘り葉掘り知りたいというわけではない。誰にだって話したくないことはあるし、それが初対面の、ちょっと数日お世話になるだけの間柄ならなおさらだろう。ともかく、彼が困っている状況が分かれば、こちらの心情としては事足りるのだ。
「分かった。君は装置が壊れて家に帰れない。そして、君はすぐにでも、どうしても帰らなければならない」
「必ず、どうしてもです。やり残していることが多くあります」
「そのためには、装置を直さなければならない。そうだな?」
「はい」
「だったら、直るまでうちにいたらいい。エイリアンひとりくらい、ちょっとの間なら面倒見てやるよ」
――何故ですか?」
 ジムが軽く請け負うと、スポックは一瞬、強い視線を返してきた。それから何事もなかったかのように、けれどとても注意深く、そう問いかけてくる。ジムはおどけた笑顔で肩をすくめて、座椅子から立ち上がった。
「べつに。俺がちょ~親切ってだけじゃねーかな」
「得体の知れない異星人に生活スペースを分けることは、あなたの利益になることではありません。何のために?」
「それ、当てこすりで言ってる? ちょっとは得体が知れたからいいよ。それより君、シャワー浴びる? 俺も入りたいから、交代で」
「シャワー」
……まさか、入浴の文化がない?」
「あります。私が言いたいのは、あなたの会話術に脈絡というものが存在するのか、ということです」
「いやもうだいぶいい時間じゃん。夜入らなかったら、朝入るだろ、おふろ」
 ごちゃごちゃ言うスポックを立たせて、ジムは彼を浴室に連れ出す。途中で部屋干しのハンガーから部屋着を取って、スポックと一緒に脱衣所へ押し込んだ。軽く使い方を説明してから、呆然とした様子の彼を置き去りにする。一応、何かあったら言えよ、とは伝えておいた。
 正直、じゃあ彼が何泊することになるのか、という最も現実的な疑問について、明確な答えは得られていない。転送装置を直すのにどれだけかかるのか――というか、それは21世紀日本の一般家庭で実現可能なのか――と考えると、少なくとも1週間くらいじゃ間に合わないような気がしてきた。かといって、じゃあ1年います、と言われても、ジムとしては困ってしまう。自分のプライベート空間に誰かがいる、という状況を、自分がどこまで許容できるか分からなかった。おそらく、あまり長くは持たないだろう。
 ひとりになったジムは、部屋を片づけ始めた。ものを寄せて、少し掃除機をかけ、ベッドに乗せておいた布団を床に置き直す。座椅子とテーブルを部屋の隅に寄せれば敷けそうだな、と確認したところで、かちゃ、と控えめにリビングの戸が開いた。
 ぼんやりしたグレーのスウェットに身を包んだ長身は、どことなく所在なさげだ。しれっとすました表情をしているが、着ていた服を抱えて、はだしで立ち尽くすそのありさまは、完全に困っていると断じていい。ジムは笑って彼に近づいた。
「洗っとくよそれ。洗濯機で大丈夫なやつ?」
「洗濯機の機能が不明ですが、頑丈な服であり、水洗い可能です」
「よしきた。あと髪、濡れたままだな。ドライヤー貸すよ」
 迷子のスポックから汚れた服を受け取って、ジムはそれを浴室に投げ込む。成分が鉄じゃなかったとしても、血痕は手もみ洗いしておいたほうがいいだろう。そして洗面台の棚からドライヤーを引っ張り出すと、リビングへ戻った。
 スポックは微動だにせず佇んでいて、ジムは再三吹き出してしまいながら、彼をコンセントのところまで連れて行った。
「やり方分かる?」
「拝見します」
「コンセント。ここスイッチ。温風が出る」
 ひとつひとつ、声に出して過程を見せながら、ジムはドライヤーをオンにする。突然の轟音に、スポックは警戒する猫のようなしぐさを見せた。微笑ましさを噛み殺して、ジムは温風を彼の髪に向ける。濡れていても素直な髪は、ばさばさと乱れてスポックの顔に散らばった。
 されるがままの彼にまた笑って、ジムは髪を梳いてやる。
「まんべんなく当てて、乾かすんだ」
――はい」
 ドライヤーを差し出せば、スポックはぎこちなく受け取った。何か不思議なものと出会ったかのように、手の中の機械を見下ろす彼は、今まさに異文化と触れ合っているのだろう。ジムはぽんぽんと彼の肩を叩いて、自分もシャワーを浴びに行った。



 濡れた髪のまま戻ってくると、スポックは座椅子に収まっていた。
 お、と思ったのは、彼が目を閉じていたからだ。電源コードをゆるく束ねたドライヤーは、彼の手元から転がり落ちたように、太腿のそばに置かれている。ジムは足音と息を殺して、そろっとスポックに近づいた。髪はさらさらに乾いていて、彼は静かに呼吸を繰り返している。スポックは、健やかに眠っていた。
 宇宙のどこかから落ちてきた人。
 ジムはそっとそばにしゃがみ込んで、無表情の顔を丹念に眺めた。人間とほとんど同じ造形でも、人間とは決定的に違うもの。すごくチープな表現だけど、まさに映画みたいだった。今度、ファーストコンタクト系の映画でも観るかと考える。彼が観たら、どんな顔をするだろう。この調子なら、やっぱり真顔だろうか。
 ドライヤーを拾って、そばに落ちている手を見やる。倒れた彼が最初に目を覚ましたとき、この手に無残に振り払われた。そんなことを思い出して、ジムは勝手にむっとなる。まあでも、起きたらいきなり知らない場所で、知らない人に触られていたら、自分でもそうするかな。一晩の苦労を水に流して考え直せば、自分の機嫌は勝手に直ってくれる。
 ジムは立ち上がって、ドライヤーをテーブルに置くと、自分のベッドから毛布を引っ張った。それをそっと広げて、そっと近づいて、スポックにかけてやる。
 ふいにぐっと、手首を掴まれた。
 熱い、と思うやいなや、ジムは強い力で引き倒される。床で強打した肩を痛がる間もなく、俊敏に身を起こしたスポックによって、ひっくり返ったジムは馬乗りにされた。
 声を上げる隙もなかった。スポックは容赦なくジムの首に手をかけると、尋常じゃない力で絞め上げてくる。
 茫洋としたまなざしのスポックを、確認している余裕はなかった。ジムは必死にスポックの手に両手をかけ、彼の体を蹴り上げる。体格はそんなに変わらないはずなのに、その腹はびくともしなかった。体をひねればテーブルの足が床をこすり、がちゃんとドライヤーが落ちる。
 苦しさよりも、痛さが勝った。スポックの手を掻きながら、なんとか、あぐ、とうめき声を上げる。
 途端、首元から熱が消えた。
 一気に空気を取り込んだ肺は、気管をきしませて痛みを訴える。ジムは転がってうつぶせに丸まり、ぜいぜいと呼吸しながら首をさすった。生理的な涙で視界がゆがんでいる。こぼれた唾液を手の甲で拭いながら、なんとか、顔を横に向けると、スポックは飛びのいた姿勢のまま、愕然とこちらを見つめていた。
 しばらくの間、その状態で、何事もなく時が過ぎていく。
 ジムは呼吸が落ち着くと、ゆっくりと体を起こした。スポックはびくりと肩を跳ねさせて、のけぞるように少し身を離す。
 いや、今、俺、殺されかけたよな。
 その努めて平静を保っているような無表情を眺めて、ジムは考える。彼自身、驚いているようなので、もしかしたら無意識だったのかもしれないが、無意識に人を殺しかける発作を持っている、ということなら、さすがに自分の親切と交換するにはあまりある。
……スポック」
 小さく呼ぶと、彼はびくんとこちらを向く。無表情なのに、どこか叱られるのを待つ子供のような雰囲気を醸し出してくるのは勘弁してほしい、とジムは思った。
「説明」
………
「説明」
「すみません、黙りたいのではありません。私――、私は」
「殺人鬼の第二人格を持っている?」
「は? いえ。そのようなことはありません」
「本当は俺を殺して、俺の存在を乗っ取ろうとしている」
「違います。そのようなことはいたしません」
「ヴァルカン人風の『おはようございます』が、この絞首スタイル」
「それはヴァルカン人への侮辱でしょうか? 起床時の挨拶は、地球人とさほど変わりません」
「落ち着いたか?」
――ジム」
「説明」
 のけぞったままでいたスポックは、こちらの物言いに、ゆっくりと体を戻す。混乱しているようだと判断して、彼がぽんぽんと口を回しそうなことを言ってみたのだが、どうやら功を奏したらしい。スポックはジムが押さえている喉を見やって、沈痛そうに目を伏せると、自分の手のひらを見下ろした。
「申し訳ありません」
「おう、心から謝ってくれ。それで?」
「眠り込んでいました」
「それで」
「めったにないことです。おそらく、失血のせいでしょう。それで、もうろうとして」
「うん、待った。ヴァルカン人って眠らないのか?」
「クリンゴンに襲われたのかと。ヴァルカン人も眠ります。地球人よりは少ない時間ですが」
「んん、待った。クリ、何? 襲われた?」
「現実を誤認しました。とっさに反撃してしまいましたが、あなただったのですね。ジム、私を攻撃しようとしましたか?」
「してねーよ! 俺はただ――、いや、俺のことはいいんだ。何? とっさに反撃? 君は人の気配にとっさに反撃しなきゃなんないような環境にいたってこと?」
「そこまで切迫してはいませんでした。現在は、負傷直後で過敏になりすぎているようです。ジム、毛布が落ちています。眠り込む前にはありませんでした」
「毛布のことは気にするな。いやそれ、君……、どんな戦場?」
「発言を拒否します。ジム、ドライヤーをお返しします。あなたも使用するでしょう」
 スポックは、答えたくないことにはそう答えるので、はぐらかしているつもりはないのだろう。それでも断片的に垣間見える、彼の元の世界のなんだか殺伐とした雰囲気に、ジムは思いっきり顔をしかめた。彼は、のんきに昼寝をしていたら殺されてしまうような、そんな星にいたのだろうか。クリンゴンというのが、彼と敵対している何かのことか? それもまた、異星人だろうか。
 怪訝な表情を隠さずに、じろじろとスポックを観察しながら、ジムは毛布を拾って畳んだ。自分のちょっとした親切をここでひけらかすのも癪で、ごまかしながらベッドへ戻す。手ぶらになったジムには、スポックからドライヤーが渡された。
「顔の赤みは引きましたが、喉がまだ赤いです」
 露骨な視線には動じないスポックは、こちらの様子には少し動じてくれた。ぴくりと動いたその眉を見て、ジムは許してやることにする。ちょっと笑うと、彼は不思議そうにまばたいた。
「そのうち引くだろ、今は痛くない」
「念のため、気配を消して近づく、といった行為は今後控えてください」
「普通に生きてたらなかなか聞かない忠告だな」
「あなたの命にかかわります」
「分かった分かった。キリングドールか君は。ま、気を抜けよスポック。この世界にも地獄はあるけど、いきなり君を殺そうとするやつはきっといないから」
「地獄?」
 未知の単語に出会った、みたいな顔で、スポックは問い返す。
 ジムはそんな異星人を見やって、にっこりと極上に微笑んでやった。



「で、君の転送装置は、どうやったら直るんだ?」
「まずは検証ですね」
 転送装置とやらをどこに隠し持っているのかは分からないが、そう言いながらポーチを引き寄せるスポックを見て、とりあえずジムはあくびをかます。そういえば寝てない、と思いながら頭を掻いていると、スポックはそんなこちらをじっと見つめてきた。きょとんとしたあと、彼の『規則』を思い出して、ジムはへらっと笑いながらホールドアップする。おそらく装置を見られたくないのだろう。
「家主を追い払うか普通?」
「追い払いたいわけではありません。ここと向こうの部屋には間にドアがありますので、あちらの部屋をお借りしても?」
「あちらの部屋にキッチンがあるから、俺があっち行くよ。飯作る時間だけな」
「飯」
「もしかしてヴァルカン人、飯は食わない感じか?」
「食べます。菜食主義です」
「おっと。お肉駄目か。ここがごはんとお味噌汁の国でよかったな」
 言いながら、ジムはキッチンへ移動した。念のため、ドアは開けたままにしておいたが、今のところ覗き見をするつもりはない。冷蔵庫を覗いて、う~ん豆腐しかない、と考えている間も、スポックがドアを閉めにくる気配はなかった。小さな電子音が一度しただけで、ごく静かな様子である。
 ふたり分の用意は慣れなくて、食器もありあわせだった。できない格好をつける必要もないか、と早々にあきらめて、ジムはドアの向こうに声をかける。すぐさまどうぞと答えたスポックは、リビングに戻ると、ちょうどポーチの蓋を閉じたところだった。早業である。
「転送装置、どう?」
 テーブルに食事を並べて、座りながら尋ねてみた。対面にカトラリーを置けば、スポックはそれを見て、しずしずと移動してくる。
「すべての検証を行ったわけではありませんが、あまりよくありません」
 彼が着席するのを待って、ジムは威勢よく手を合わせた。いただきます、と日本語で言えば、目の前の男はじっとそれを観察する。それから少し考えて、同じように手を合わせ、いただきます、と小声で言った。耳がいいし学びが早い。なんだかしつけをしているような気分になって、ジムはもぞもぞと落ち着かなさを覚えた。
「じゃあいよいよ、地球のものを使ってなんとか直さなきゃなんない?」
「そうですね……
「うーん、ドライバーとか要るのかな。あ、機械なら精密ナントカってやつになるのかな」
 思いついたことを適当に言ってみると、スポックはなんだか途方に暮れたような雰囲気になってしまう。もしかしたら、地球のレベルに呆れてしまったのかもしれなかった。なんたって、相手はワープができる文明である。
「えっと、今の地球のテクノロジーをまずは紹介したほうがいいか?」
「基礎知識はあります」
「ヴァルカン星の教科書とかに載ってんの? 一方的に知られてるのは怖いな」
 スポックはその軽口を聞いて、ふいに目を伏せた。そんなふうに何か考え込むようにしてから、黙々と食事を再開する。
 拒否を行使しないのなら、規則ではなく個人的に、何か言いたくないことがあるのだろう。
 それを訊こうとして、まるで見えないバリアを張っているような彼の無表情を見て、ジムは結局口をつぐんだ。答えを聞かなくても、居候する分には問題がないことだからだ。
……飯は、こんな感じ? いつも?」
 代わりに、今後に支障がありそうなことを選んで口にした。スポックは手を止めて、静かに顔を上げる。
「質問の意図が不明です」
「AIみたいな返答するな……、適切に問いかけないと返ってこねえ、答えが」
「こんな感じ、とは?」
「これで大丈夫かってことなんだけど」
「大丈夫、とは」
「あいまいな表現、だったな。OK。じゃあ素直に訊くけど、美味いか?」
 ヴァルカン人が食べられるものを提供できているか、ということが確認したかったものの、食べているということはそういうことだろう。と、喋っている間に自己解決した答えの引っ込みがつかず、ジムはとっさに質問を変えた。結果、別に聞かなくてもいいことを訊いてしまって、内心で動揺する。これじゃあ、まるで美味しいと言ってもらいたいみたいだ。
 問われたスポックは、ややきょとんとした表情だった。得意げな笑みを維持したまま、ジムは全身で身構える。
「食事に対して、ことさら美味しさを感じることはありません」
 けれど、ヴァルカン人の返答は、想像の斜め上だった。へっ? とこぼしながら脱力して、そのしれっとした真顔を見返す。
「お、美味しいって感じない? 味覚がないのかヴァルカン人は。あまりにかわいそうすぎないかそれは」
「味覚はあります。調味料の多寡や、毒素の検知は行えます」
「毒素って。そんなことしか感じられないのか? それ、味覚って言わなくないか」
「ヴァルカン人は感情を差し控えます。それが生態であり、また礼儀です」
――うん? 差し控えるってことは、感じてはいるってこと?」
 もちろん、スポックからの返答はなかった。彼はきれいに食事を平らげると、終了時の儀式はありますか? と尋ねてくる。
 儀式も何も、開始時もねーよ、とジムは唇をひん曲げたが、彼が手を合わせていたことを思い出して、急いで最後のひとくちを咀嚼した。
 ごちそうさまでした、と手を合わせると、スポックは完璧にそれをなぞる。やっぱり、もぞもぞとした気持ちになった。



 食器を片づけたあと、ジムは座椅子をテーブルに寄せた。それからラップトップを引っ張り出してきて設置し、こちらを見ているスポックを手招きする。
「座れよ」
「ジム?」
「今の地球がどんな感じか、これでだいたい分かると思う。もしかしたら君が必要なものも見つかるかもしれないし」
 基礎知識はある、と途方に暮れていたスポックが必要とする情報は、どうも自分には提供できなさそうだった。それなら、自分で見てもらおう、と思いついた方法である。不思議そうに着席したスポックの隣に座り込んで、ジムはパソコンの動かし方と検索方法を伝授した。スポックは非常に飲み込みが早く、あっという間に使い方を覚えてしまう。キーボードの文字位置には少し苦労しているようだったが、この分だとすぐに慣れてしまうだろうと思われた。
「日本語が出てきて分からなかったら教えて」
「はい。ですが、可能な限り、ここで翻訳いたします」
 できるヴァルカン人はそう言うと、真剣な表情で、ぽちぽちとキーを打ち始める。ジムはその姿に微笑んで、家の仕事に取りかかった。
 スポックはずっと画面にくぎづけで、リビングを通りかかるたびに熟達していくのが窺える。ヴァルカン人が地球人より優秀な可能性よりも、スポック個人がとんでもなく優秀な可能性のほうが高いな、なんて考えつつ、ジムはあくびを連発した。今日は早めに寝よう、と決意する。
 おおむね作業を終えて戻ってくると、もう長年連れ添っています、という風情でマウスをカチカチしていたスポックの手が止まっていた。何事かと見に行くと、画面には地球が映っている。グーグルアースの起動ページだった。
 星が輝く宇宙のただなかで、ゆったりと回転しているほとんど青い惑星。
「地球には詳しいみたいだけど、来たことがあるのか?」
 背中越しに、そう問いかけてみる。スポックは、画面を見つめたままだった。
「はい」
「へー! 未知との遭遇だな。やっぱ発見されてないだけで、宇宙人って来てるんだ。観光はした? 地球観光」
「観光はしません」
「じゃあ、何しに来たんだ。侵略か?」
……発言を拒否します」
「え、まじで侵略か?」
 硬い声に眉を寄せて、ジムは笑いながらスポックを覗き込んだ。こんな堅物の、言ってみれば他人に深い関心とか持たなさそうな異星人が、侵略? そんな違和感から、軽く言ったことだ。
 至近距離でこちらを向いたスポックは、相変わらずの無表情だった。
「私は地球を侵略はしません」
 けれど、こわばったようなその声音は、どこか傷ついているようにも聞こえて、ジムは顔をひっこめる。
「なら、十分だな」
 そう言って軽く肩を叩き、立ち上がった。スポックは再び画面に目を向けて、静かに地球を眺めている。
 その何も言わない肩が、途端に、まるでかたくなな要塞のように見えて、ジムの顔は勝手にくしゃっとしかめられた。
 どうして、とか、何があった、とか、訊いてみたいけれど、聞いていいのだろうか。
 訊いてもおそらく返答は得られないというあきらめではなく、訊くこと自体を躊躇してしまう自分の感情が、ややわずらわしく思えた。
 そんな気持ちを引きずりながら、その日は早めに就寝したからだろう。自分のベッドの横に敷いた布団で眠っている存在を強く感じて、ジムは相当数の寝返りを打った。徹夜明けじゃなければ、もしかしたら、眠れなかったかもしれない。
 それに、人がそばにいる状態で眠りにつくのは、ひどく慣れないことだった。