はるの
2023-09-19 21:11:09
162116文字
Public スタートレック
 

空に心臓

+13|AOS spirk|2023.10.1|2023年の日本で暮らしているジムが、倒れていた迷子のヴァルカン人を拾う話。現代ものパロディです。

1.


 おやすみ、と挨拶を投げて、ジムはカフェバーを出た。
 両手をジャケットのポケットに突っ込み、片手でスマホを取り出す。特に通知はなく、日付はもう土曜日になっていた。
 は、と酒気帯びの息を吐く。春先の雨は、いつの間にか止んでいたようだった。桜はどのくらい散っただろうか。濡れたアスファルトへ踏み出しながら、ジムは近くの公園を思い浮かべた。この様子じゃあ、道は花で汚れているかもしれない。きっと日本中に何千人といるだろう、今週末に花見予定だった連中は気の毒だ。
 ちょっぴり感傷的な気分が湧いて、ジムは少し笑ってしまった。まさに花に嵐というやつだ。さよならだけが人生だ。
 酔っているな、と自覚した。
 雨のためか客が少なく、結局ジムは閉店までだらだらと飲んでいた。店長のイケヤとは古い付き合いで、その振る舞いが咎められるようなことはない。ジムはほとんど自宅でくつろぐように、飾ってあるギターを触ったり、くだらない話を投げつけたりしていた。けれどイケヤのほうも堂々と、客がジムひとりになった途端、レジを締めて掃除までしやがったのでおあいこである。
 帰路を歩きながら、ジムは星空を見上げた。
 ひとりだな、と感じるとき、いつもなんとなくこうしてしまう。うっすらと雲の残る空は、宇宙の向こうをあいまいにしていた。欠けた月はおぼろなまま、どこか所在なく夜に引っかかっている。
 ――どこか。
 そう、どこか。自分の居場所はここではなくて、どこかほかにあるんじゃないか。
 そんなことを、考えるときがある。年甲斐もなく。もう少年時代なんて、とっくに過ぎ去ってしまったのに。それでも頭は勝手に思いわずらうのだ。
 もしかしたら、今見ているすべては夢の中の出来事で、俺自身は、俺のほんとうの心臓は、この空のずっと向こうで正しく動いているんじゃないか――
 現実逃避だな、とジムは再び微笑んだ。こういうときにいつも出てくる自嘲を積み上げたら、きっと月に届くだろう。



 国道からは2本ほど入った道なので、周りに歩いている人はいなかった。通いなれた道だ。入りびたるほどではないが、イケヤは20代そこそこで店を持っている。あれからそこそこの頻度で訪れていることを考えると、日常風景のひとつだった。
 その一角に、今日は見慣れないものがある。それを目にして、ジムはぴたと足を止めた。
 人がひとり、倒れている。
 ゴミの日の回収ルールが張り出されている看板の下で。
 ジムは一瞬、現実をうまく認識できなくなって、ぽかんと間抜けに口を開けた。それからまじまじと、その人影を凝視する。え?
 いや、どう見ても人が捨てられている。
 その考えに至った途端、ひや、と悪寒が全身を撫でていって、ジムはほとんど飛び上がるように我に返った。慌てて駆け寄れば、横臥して身を縮こまらせているその人は、うう、と小さく唸っている。
「大丈夫ですか?」
 生きていることに安堵して、ジムは声をかけて肩を叩いた。酔っぱらいかもしれないが、揺さぶらないほうがいいだろう。声はたぶん男性で、近くで見ると結構な大柄だった。街灯が遠いため、暗くて人相はよく分からない。ジムは再びスマホを取り出し、懐中電灯をオンにした。
 ぱ、と肌が反射する。
 髪は短く切りそろえられていた。だから、その造形はよく見える。苦しそうな息遣いより何より、ジムは彼の耳に意識がくぎづけになった。
 先が、妙に尖っている。エルフとか、エイリアンみたいに。
「え」
 事態が予想外すぎて、ジムは再びぽかんとした。ハロウィンにはまだ早いよな、とどうでもいい思考がよぎって消える。驚きに後ずさったせいで、靴の裏がアスファルトをこすった。その音で、彼はゆっくりと仰向けに転がり、難儀そうに薄目を開ける。
「誰だ?」
 神経質そうに整えられた鋭角の眉は、見事にしかめられていた。見たこともない角度だ。いや、そうだろうか、どこかで見たことがあるような――、映画かドラマで?
 ジムは驚いたまま、ふらりと膝をついた。彼は片手でわき腹を押さえている。そこはぐっしょりと濡れていて、どす黒い色をしていた。どう考えても、負傷して血を流している光景だ。けれど、それは嗅ぎなれない匂いをしていて、彼の手の甲を染めている液体は、見るからに緑色だった。まるっきりわけの分からない状況だ。耳の奇形ならあるだろうが、果たして、血が緑色な人間なんているのだろうか。
 ――けれど。
 けれど、だ。
 最もジムを驚かせたのは、彼が発した言葉だった。
 ジムは再びはっと我に返ると、言語を日本語から英語に切り替える。
「大丈夫か? 待ってくれ、今救急車を、いや救急車でなんとかなるのか分かんないけど」
「何も、するな」
 彼は息も絶え絶えにそう言うと、ふいに血まみれの手を伸ばしてきた。それは救いを求めているというより、単純にこちらの顔を触ろうとしているようなしぐさで、ジムはとっさに身を逸らす。すると手は何にも触れることなく地に落ち、男の意識もそのまま落ちてしまった。ぐったりと伸びきった謎の人物を前に、正座になったジムは途方に暮れる。
「えっ、いや、し、死ぬよな?!」
 再三、我に返って上げた声は、素っ頓狂に裏返っていた。
 日付も変わった深夜、緑の血を流している尖り耳の不思議な男が、目の前で死にかけている。
 どういう状況だよ、と叫び出したい気持ちをなけなしに押し込んだあと、ジムは憤然と立ち上がった。どうあれ、この状況を見過ごすなど、ジムには不可能なことである。そうしてしまったら最後、自分の存在を疑ってしまいそうだった。
 なんとか、彼の腕を取って持ち上げ、肩に回して体を支える。負傷しているせいか、体はひどく発熱していた。身長はほぼ同じくらいで、つまり、ずいぶんと引きずる形になってしまう。けれど、仕方がないのだ、何もするなと言ったのは彼だし、たとえ彼の要望を蹴って救急車を呼んだとしても、この得体の知れない人物に対して、その救急隊員はどうするだろうか。UMAが発見されたときにそのUMAがどうなるかなんて、想像もつかないけれど、少なくとも、こいつにとってあまりいいことにはならない気がする。
 それに、彼は、英語を喋った。
 この日本の片隅で、絞り出すように発せられた言葉は英語だったのだ。
 重い、と食いしばった歯の隙間から、泣きごとがこぼれ落ちる。それでもジムは、ずるずると、なんとか、来た道を戻っていった。
 何故なら、イケヤの店には、3人掛けの大きなソファがあるからだ。



 なんだ忘れ物か? と迎えた店長は、息の上がったジムが抱えているものを見て息をのんだ。それはそうだろう。
 とにかくソファを貸してほしいと頼んで、ふたりで気絶した男を運んだ。イケヤは、その体が持つ分かりやすい奇妙な特徴を、無遠慮かつ豪快に二度見していた。気持ちはとてもよく分かる。
――ジム」
「うん」
「なんだこれ」
「俺も分かんない……
 彼を見つけた顛末をかいつまんで話しながら――つまり、ゴミ捨て場に落ちていたのを拾った、と伝えた――、ジムは彼の眠るソファのそばにひざまずいた。ウェストポーチのベルトを外し、詰襟のつなぎを探って全開する。中に着ている鮮やかな青色のシャツは、わき腹の惨事をいっそう克明にしていた。ジムは慎重に、黒のインナーシャツと一緒にその部分をめくり上げる。
 傷ついた皮膚の亀裂から、とろりと緑色が垂れていた。
 彼がどういう生き物なのかは分からないが、きっと血を失えば死ぬだろう。ジムは勢いよく、両手でその傷を押さえつけた。
「これ、どうやったらふさがる?!」
 触れた患部は、まるで灼熱のようだった。焦って振り向けば、イケヤはちょうど部屋を出て行くところだ。
「医者なしで?」
「なしで! いや俺は連れていきたいけど、でもこれ、連れていったらどうなる?」
「想像つかん。待ってろ、確かガーゼはある」
 店長の生活スペースは、このバーの上階だ。そう言い残したイケヤは、すぐに戻ってきて救急箱を貸し与えてくれた。山盛りのガーゼをむしり取って傷口に重ね、すぐさま圧迫止血を再開する。手のひらの下にじわりとした湿り気を感じて、ジムは顔をしかめた。
「止まんない」
「裁縫道具も持ってくるか」
「それって普通の縫い針だろ?! 絶対よくない!」
「死ぬよりましだろ? もしくは焼いちゃうとか。そういうの映画で観た」
「よい子は真似しちゃだめなやつじゃないそれ?!」
 それからイケヤは、大怪我をしたときの対処をインターネットで調べたのち、医師にかからないなら圧迫し続けるしかない、という結論に達する。それはジムもすでに達していた結論だった。
「代わろうか?」
 しばらく、対面のソファで様子を眺めていたイケヤは、そう申し出てくれる。
 確かに、一か所を強く押さえ続けている手は、じょじょにしびれてきていた。ジムは少し考えて、小さく首を横に振る。
「今はいい。限界が来たら頼む」
「分かった。それにしてもこいつ――、なんだろうな? やっぱ、エイリアンかな」
「英語喋ってたよ」
「え、こいつ英語喋るの? 宇宙共通語かよ。それともゴールデンレコード読者?」
「分かんないけど……
「ま、なんにせよ、起きたら訊けばいいか」
 イケヤは、まるで起きることを疑わないように、軽く笑ってそう言った。なんとなくこちらを気遣っているように感じて、ジムも軽く笑い返す。
 暫定エイリアンは、しばらく見つめていても、ピクリとも動かず息をひそめていた。
 どこからか落ちてきて、迷子になってしまった男。
 そう考えると、ジムとしては、このまま彼を手放すわけにはいかなかった。どうしても。



 今のジムに残っている最初の記憶は、病院のベッドから見上げた天井である。
 およそ10歳頃のことだった。およそ、というのはつまり、そのときジムが何歳だったのか、自分でも分からないからだ。もっと言うと、自分の来歴も、自分の名前すらも分からない。いわゆる記憶障害というやつだった。
 ジムはこの近くの路地にぶっ倒れていたらしく、通りかかった人が保護してくれたのだそうだ。そして記憶にはないが、発見当時、もうろうとしながらも、気絶する前に自分は名乗ったという。ただ、発見者は英語に不慣れだったため、かろうじて聞き取れたのは「ジェームズ」だけだった。自分のミドルネームも、ラストネームも、このとき永遠に失われたのだ。ジムは英語話者だったから。
 この日本の片隅で、捨てられて迷子になっていた自分は、見るからに欧米人だった。生活習慣や言語自体を完全に忘却していなかったのは不幸中の幸いと言えるが、人生そのものをごっそりと失ったジムは、言葉の通じない、社会通念も分からない、未知の世界に、ひとりで放り出されたようなものだった。日本風の適当な名字と戸籍を与えられて今に至るが、厳密に自分のものと言えるのは、倒れていたときに身に着けていたらしいものと、ジェームズという名前だけだ。
 ジムはそっと意識不明の男を見下ろした。この男を迷子だと感じるのも、助けなければならないと感じるのも、そういうとても個人的な理由だ。おそるおそる、しびれた手を離してみる。追加で重ねたガーゼがじわりと緑に染まって、慌てて再び封をした。
 軽く息をついて顔を上げる。対面のソファで、イケヤはうつらうつらしていた。先ほどまで止血役を代わってくれていたこの店長は、日本語指導教室の同級生だ。両親ともに日本人だが、幼少期はイギリスで暮らしていたらしい。言葉の通じる同世代は、ジムにとってひどくありがたい存在だった。義務教育だからと問答無用で入れられた学校で、出会い方は強烈だったけれど、イケヤと知り合えたことはよかったと思っている。
 店には時計がないので、経過時間は不明だった。何時間も経ったように感じるたび、そっと傷口を覗いて手のひらを押しつけることを繰り返す。やがてうっすらと、窓の向こうが明るくなってきた頃、手を離しても派手な出血はしなくなってきた。ほっと溜息をついて、ジムは床にへたり込む。心底疲れていたし、腕は上がらないくらいだが、血が止まってくれたことへの安堵のほうが大きかった。
 倒れた男は、静かに息をしている。ぶあついまぶたに、まっすぐなまつげ。やっぱり眉はどうしてそんなにと思うほどに鋭角だ。ジムはそれを視線で順々になぞり、胸の上にある彼の手に目を留めた。血まみれのはずなのに、色が緑だからか、単に汚れているだけのようにも見える。
 そっと手に取って、汚れを指の腹でこすってみた。乾いた血液はぼろぼろと落ちるものの、きれいになるとは言いがたい。一緒に血に濡れたらしい腕時計は、壊れたのかディスプレイが消えていて気の毒だった。そのバンドを確かめていると、ふいに指先が手首の内側に触れて、ジムはぴたと動きを止める。
 脈拍があった。自分と同じように。ゆるやかすぎるようにも思えたが、確かに。
 耳が尖っていて、血が緑色で、推定迷子の異星人でも、血管があって、それが脈打つのは同じなんだ。
 なんだかそれがすごく、不思議で、少し感動的にも思えて、ジムは思わず手に力を込めた。むやみに感情が振れたのは、きっと疲れていたからだろう。
 次の瞬間、死体未満だった男の両目が勢いよく開いた。



 早朝、薄暗がりのカフェバーで、その虹彩は黒曜のように見えた。
 ジムが驚いていると、彼はこちらを見て、素早く自分の手首を見下ろし、ほとんど強引に手を振り払う。疑いの強いまなざしを突き刺してから、警戒したように素早く身を起こす――、ところで、彼はうめき声を上げた。わき腹を押さえて顔をしかめ、体を丸めてしまう。
 ジムは、正直むっとした。一生懸命看病したのに、こんな犯罪者に遭遇したみたいな振る舞いはあんまりじゃないだろうか。
 素直に眉を寄せていると、男はふいにきょとんとした。彼はとっさに押さえたわき腹、つまり、いくつも重なったガーゼの山を見て、もう一度顔を上げる。ぱちくり、とまぶたが動いて、そのほどけたようなしぐさにきょとんとし返すと、男は再度動こうとして、もう一度うずくまるということをした。ジムは慌てて床に膝を立て、かしいだ彼の肩を手で支える。
「大丈夫か?」
 そう問いかけると、男はちらりとこちらを見た。それからテーブルに視線を投げる。
「あれを取ってください」
 あれ、と言われて、ジムは体をひねった。テーブルに置いていた彼のポーチを拾って手渡すと、彼は中から小さな筒のようなものを取り出す。そして一瞬、躊躇するようにジムを見やってから、容赦なくガーゼを剥いだ。
「それに、『大丈夫』というのは、ひどくあいまいな言葉です」
「あ、血、血が、血が」
 もちろん、ジムは大いに慌てた。無理に剝がされた患部には新鮮な血がにじんできて、自分の一晩の頑張りが秒で無に帰している。けれど男はいたって冷静に、筒の中から半透明のシートを取り出すと、素早く丁寧に傷口を覆った。それはぴたりと貼りついて、肌になじんで、自分の見間違えでなければ、見る間に裂傷をふさいでいく。
 もう何度目かのぽかん顔で、ジムは彼を見やった。視線を返してきた男は無表情で、何もおかしなことなどありません、という態度だ。乱れたシャツの裾を直して、開いたつなぎをきっちり閉じ、ポーチのベルトを留めている。
 ソファにきちんと座り直した彼の前で、ジムはしりもちをついたままだった。いやこれどういう状況? と声を上げたかったけれど、ジムにできたのは口をぱくんと閉じることだけだ。彼はこちらを見ていたが、目の奥では、何事かを思案している雰囲気だった。そりゃあ、こっちだってこんなとき、何を話せばいいかなんて分からない。
「そんなものがあるなら、早く使えばよかった」
 とりあえず、軽い調子で始めてみた。彼は小さく首を傾げ、それからジムの肩ごしを見やる。振り返ると、イケヤが起きてきていた。
「もう大丈夫なのか?」
「『大丈夫』というのは、ひどくあいまいな言葉です」
 英語を話す、とあらかじめ伝えておいたからだろう、イケヤも英語で話しかける。結果、律儀に繰り返された返答に、ジムはちょっと笑ってしまった。
「それ、君の決めゼリフか何か?」
「決めゼリフではありません。事実です。それより」
「それよりと言われた」
「ここはどこですか? あなたたちは?」
 まぜっかえす言葉にもひるまず、彼は無表情のまま、強い口調でそう尋ねる。ジムは店長を振り仰いで――イケヤが肩をすくめるのにちょっと笑って――、不愛想な男に向き直った。
「君こそどうしたんだ。まさか記憶喪失だなんて言うんじゃないだろうな」
「記憶は連続していますので、そのようなことは申しません」
「ならよかった。君は道で倒れていたんだ。怪我をしていたから、ここまで連れてきて止血してた。引きずってくるときに足をぶつけたと思うけど、あざくらいは見逃してほしい」
「あなたは……
「あ、あんまり覚えてない? 俺が君を見つけたんだ。君は何もするなと言ったけど、やっぱりちょっと、そんなの難しいだろ? 目の前で人が死にそうになってたらさ」
 救助を拒否されたことについてはさらっと言うつもりが、ややひねた唇になってしまう。まさか彼と自分の境遇を重ねていたとも言えず、ジムは努めて明るい笑顔を浮かべた。イケヤがじとっとした視線を送ってくるが、全力で無視して目の前の男に集中する。
 背筋が90度な迷子候補は、まっすぐこちらを見下ろしてきた。
 視線が強くて居心地が悪くなり、ジムはもぞもぞとしながら立ち上がる。
「失礼しました」
「え?」
「助けていただいたことに感謝します」
 日の出のきざしがようやく建物群を越えたようで、ぱあっと部屋の中が明るくなった。
 真っ黒だと思っていた彼の虹彩は、陽に透けるととろりとしたチョコレートのような色をしている。
 なんとなく、ジムは言葉を失ってしまった。見つめていると、どことなく、何かが心に引っかかる。そんなジムの様子に、彼はぱちりとまばたいて、けれど静かに、質問を繰り返した。
「ここはどこですか?」
――あ、うん。こいつの店」
「そう。で、ジムがぼやぼやしてるから単刀直入に訊くけど、あんたいったい何もんだ?」
 イケヤに問われた男は、しばし逡巡するように押し黙る。そして言葉を選ぶように、イケヤのほうを振り仰いだ。
「失礼、こちらの説明不足でした。私がどこか尋ねたいのは、あなたの店がある、この星のことです」
「この星!」
 そんなセリフを聞いて、ジムはぱちんと手を叩く。
「この星! つまり君、本当に異星人なのか?」
「少なくともここは私の母星ではないようですので、あなた方にとって私は異星人になるでしょう」
「イケヤ、合ってた!」
「お前、そんなに異星人に会いたかったのか……?」
「そういうわけじゃないけど」
 でも、やっぱり、いつも見上げているあの星空から、こいつは落っこちてきたわけだ。そう考えると少しだけ、うそ、だいぶかなり、わくわくしてしまう。宇宙から来たなんて寒いジョークだけど、少なくともこいつは真実、本物の地球外生命体だろう。一晩看病した自分が言うんだから間違いない。
……ここは、どこですか」
 きゃっきゃとはしゃいでいると、ワントーン低くなった声が差し挟まれた。
 はっとしてソファを見れば、彼は無表情ながら、じいっとこちらを見据えている。
 ジムは咳払いをして、きちんと彼に向き直った。
「失礼。ようこそ、ミスター・異星人。ここは地球です」
 ちょっと気取ったように、軽く会釈して。
 そう伝えると、表情の乏しかった異星人は、盛大に目を剥いた。



 目に見えて驚いた男は、ばねのように立ち上がると、先ほどまで死にかけていたとは思えない素早さで店を飛び出した。
 思わずのけぞって見送ってしまったジムは、慌てて彼を追いかける。よく考えれば、それはそれで別に構わなかったのだが、挨拶もせずにさよならをするなんて、今のジムにはかけらも考えられなかった。
 勢いよく店を飛び出すと、目の前に背中が迫ってジムは豪快にぶつかる。戸口で立ち止まっていた異星人は、衝突されても微動だにすることなく、呆然とただ浴びるように周囲を見つめていた。ジムは鼻をさすりながら、横からそっと彼を窺う。視線を感じたらしい彼は、こちらを向くと、まさに迷子のように、頼りなく口を開いた。
「地球……?」
「もしかして、行く予定じゃなかったところ?」
 そう訊けば、男は視線をさまよわせ、眉を寄せて目を閉じてしまう。傷つき、追いつめられたような雰囲気に、ジムは息を殺して答えを待った。もしかしたら、何かとんでもない事故にでも遭ったのだろうか。宇宙のことなんて、ほとんど分からないけれど。
――今は、宇宙歴何年ですか」
「宇宙歴?」
 聞きなれない単語に、首を傾げる。すると男は再び目を剥いて、さらに思考を挟んだ。
……でしたら、西暦は?」
「2023年。なあ、何か困ったことでもあるのか?」
 頑張って助けた命だ、ジムとしては、できるだけ健やかに生きてほしい。そんな気持ちで尋ねれば、彼はゆっくりと首をこちらに向けた。そしてゆっくりと口を開き、再び閉じ、厳しい表情を見せる。え、と思っているうちに、ぬっと手を伸ばされた。
 その汚れた指が、顔に触れようとしてきたので、ジムはぱっと身を引いて避ける。こんなこと、彼が倒れていたときにもあったな、と思い出した。
「なに?」
 いずれにせよ、初対面の人の顔を触ろうとするのはあまりにぶしつけである。眉をひそめて問いかければ、彼は宙を掻いた手を掲げた。
「あなたのメルドポイントに手を置くことをお許しください」
「メル、何?」
「私に関するあなたの記憶を消去します」
 彼は、いたって真剣なまなざしである。
 ジムは、言われた言葉の意味をかみ砕くのに、ひどく苦労した。
「ほかの記憶には触れません。あなたはこれまでどおりに過ごすだけです。記憶操作を受けたことも消去しますから、あなたには何の影響もありません」
 固まってしまったジムを助けようとしたのか、彼はそのように補足する。
 記憶を消す。操作する。あったはずのものを、忘れたまま生きていく。探しても探しても見つからないもの。自分のルーツ。きっとそこにいたはずの、たとえば、家族のことも。
 もちろん、ジムは逆上した。そんなのは、もちろんだった。
「いやだ! お前、記憶を消せるのか?!」
「はい、そうお話ししました」
「いやだ!」
「何故。私の情報を消すだけです。あなたは私には会わなかったことになるだけで、何も問題はありません」
「あるだろ!! あるよ、俺は夜じゅう、ずっとお前の傷を押さえてたんだ! それがごっそり抜け落ちたら、つじつまが合わなくなる!」
「抜け落ちていることに気づかない縫合は可能です。私は精神操作について、高度な習熟を授かっており」
「絶対にいやだ」
「何故。私が失敗することを恐れていますか?」
「そうじゃねえよ!! そんなんじゃ」
――おい」
 1歩下がれば、1歩詰め寄られる。ジムは両腕を顔の前に掲げて、防御の体勢を取った。その状態でわめいているうちに、横から第三者の声が飛んでくる。
 イケヤは、剣呑な表情で、ジムを見て、異星人を見据えると、横柄な態度で顎をしゃくった。
「うるせえから中に入れ。それから、人が嫌がることをするな」
 その言葉に助けられて、ジムは店内に飛び込む。近くのソファに突っ込んで腕で顔を覆えば、そのうち背後でドアの閉まる音がした。



「すみません。必要でしたので」
 やつの言い訳はこうだった。イケヤは緑色に汚れたソファをずるずると壁際へ移動させながら、露骨に顔をしかめてみせる。
「必要な理由くらい話せよ、嫌がってんだから」
「嫌がった事実ごと消すことができます。問題ありません」
……うん。なんかこう、お前、あれだな。デリカシースレイヤーだな」
「デリ……、なんですか?」
「地球人はな、もうちょっと情緒があるんだ。なかったことにすることと、最初からなかったことは、似てるようでまったく違うんだ。分かるか? 分かったふりでもいいから分かってほしい」
「ふりでもいい、というのは非論理的です。目標達成に至っていません」
 ジムは顔を覆いながら、デリカシースレイヤー、あたりでちょっと笑ってしまった。そろっと腕をずらして様子を窺えば、相変わらず無表情で直角に座る異星人が、同級生からこんこんと説教されている。わけが分からなくて、やっぱりちょっと笑える光景だった。
「なんで記憶を消す必要がある?」
 ソファを片づけると、イケヤは淡々とペリエを用意する。氷入りのグラスを、ジムの席と、叱られている異星人の前に配膳すると、自分はカウンター席に腰を下ろした。異星人は興味深そうにグラスを見下ろし、それからまっすぐイケヤに顔を向ける。
「規則だからです」
「規則」
「詳しくお伝えすることはできません」
「どうせ全部消すとか言ってるくせに?」
 ジムは思わず、そう口を挟んだ。途端にこちらを見つめてくる男に、ジムは座り直して姿勢を崩す。
「詳しく伝えたことごと消す気なんだろ? じゃあ別に、詳しく伝えたっていいじゃないか」
……できれば消したいと思っていますが、無理強いはしません」
「初手で断りなく触ろうとしてきたやつのことは信用できない」
「それは……、失礼いたしました。私は、ただ」
「ただ?」
 ペリエをひとくち飲んで、ジムは煽るように問いかけた。喧嘩を売るように、と言ってもいい。すると彼はぎゅっと眉を寄せてから、一瞬だけ唇を軽く噛んだ。それはすぐにほどかれて無表情に埋もれていったが、失せた色がじわりと戻ってくるさまは、彼に流れる血のことを思い起こさせた。
――あなたが私を見つけたとき、私がしようとしていたのは、あなたを昏倒させることです。非常に恥ずべきことですが、私は動転していました」
「こん、とう?」
「はい。そして先ほどは、ここが2023年の地球であることに動転しました。もちろん、落ち着きがなかったからといって、すべてが許されるわけではありません。ですが、私はすぐさま、あらゆることをすぐさま、しなければならなかった。ぶしつけにあなたに触れようとしたことを、改めてお詫びします」
「う、うん……
 それ以外、何が言えるだろうか。おとなしく腿の上で手を重ねて、なんだか傷つき疲れたように、肩を落とす異星人に。ジムはゆっくりとソファに座り直し、少し考えてからグラスを取った。歩いていって、彼のいるテーブル、その目の前の席へ移動する。
「記憶、消さない?」
……同意なしには」
 憔悴した顔を見据えれば、彼は真摯に答えを返した。ジムは、その言葉を信じることにする。生きづらそうだな、とすら思った。消さない、と嘘をついてしまえばいいのに、ごまかすつもりはないらしい。きっとこいつは、地球とはうんと相性の悪い性格をしているのだろう。
「あんな怪我してたんだもんな。動揺して変な行動しちゃうくらい、別に恥ずかしいことじゃないよ」
「いいえ、自制を徹底します」
「ええ……、まあ、君がそれでいいならいいけど……
 ちょっとだけほだされて、フォローする言葉を挟めばこのざまだった。カウンター席から「デリカシースレイヤー」という言葉が飛んできて、ジムは笑ってしまう。
「なんにせよ、君は今地球にいるってわけだ。それが困ったことなのか?」
 咳払いをして話題を戻すと、彼は静かに息をのんだ。
 そのまま言葉を待っていても、一向に話し始める気配はない。ジムはペリエで濡れた唇を舐めた。
「もしかして、本当に迷子なのか? 君、自分の星まで帰るあては?」
………
「困ると黙るタイプか?」
 貝のように押し黙る異星人を前に、ジムは軽く息をつく。ちらとイケヤを見やってから、背もたれに背中を投げ出した。
「どうしようもなくて困ってるんだったら、しばらくここにいたらいい」
「は? おい、嫌だぞ。こっちに人の面倒を見る余裕はない。お前が拾ったんだから、お前が面倒を見ろ」
 暗に店長を頼れば、速攻でNGを食らってしまう。なんだよ、どうせ部屋余ってんだろ、と口を尖らせたところで、次にNGを出したのは異星人だった。
「結構です。私はひとりでどうとでもなります」
 しれっとした表情で、淡々とした口調だ。彼は本当にどうにでもなると思っていて、人に頼る気などないのだろう。
 ジムはぐいっと口角を持ち上げた。
「ふうん? それで? 君はここから出てどうするんだ? 行く当てもなく? ひとり迷子で? ちなみに君、日本語は喋れるか? 日本のルールや文化は知ってる? 金はあるの? 身分証は? 何もないなら、君はおなかをすかせてのたれ死ぬだけだぞ」
 不遜にそう言い放つと、反論するつもりだろう、彼は口を開く。ジムは人差し指を立ててそれをさえぎると、にっこり笑って小首を傾げてやった。
「君の考えは甘いんだよ」
 何故なら、自分がそうだったから。
 いつかの自分がそうならなかったのは、たまたま、ラッキーだったからだ。
「実際に住んでるやつの助言だぞ。素直に助けられてやれば?」
 イケヤの軽く投げるような声に、迷子の男はそちらを見た。それからジムを見返して、きゅっと口を引き結ぶ。
 ここからの長考は、ちょっとしたものだった。威圧する完璧スマイルも引きつってきた頃、そろそろ出勤時間だから帰れと騒ぎ出したイケヤのおかげで、彼はようやく結んでいたものをほどいた。