はるの
2023-09-19 21:11:09
162116文字
Public スタートレック
 

空に心臓

+13|AOS spirk|2023.10.1|2023年の日本で暮らしているジムが、倒れていた迷子のヴァルカン人を拾う話。現代ものパロディです。

おまけのその後


 エンタープライズ各部門の残留タスクを最終チェックして、スポックは立ち上がった。次のシフトを担当するスールーにキャプテンチェアを任せ、速やかにターボリフトへ移動する。すぐに到着した目的地、すなわちトレーニングルームのあるエリアを進む自分の歩幅は、普段より確実に大きくなっていた。
 ジムは現在、正式にアカデミー生として登録されている。
 宇宙艦隊アカデミーは早期に再建され、今ではかつて地球にあった規模の施設も存在するが、ジムが受講しているのは遠隔で修学を進めるコースである。特定の場所に集まることが困難な情勢を鑑みて創設されたもので、その条件には、上級士官による一定のサポートが必須とされていた。
 ルームナンバーを一瞥して、スポックは部屋のひとつに入る。このエリアにはさまざまな訓練を可能にする設備が揃っているが、ジムとマッコイがいたのはごくシンプルな部屋だった。医療機器をずらりと並べたホログラムのそばで、彼らはいくつかの実物を片づけているところである。
「あっ、スポック!」
 入室した途端、ジムはぱっと顔を上げて、ぱっと華やいだ笑顔を見せた。スポックは慎重に、情動を腹の奥に押し込める。この瞬間はいつでも、感情でできた熱い槍で体を貫かれるような高揚があった。
 遅れてのっそりと振り向いたマッコイは、ぱちんと機器の蓋を閉めて、いじわるそうに唇をひん曲げる。
「相変わらず、時間ぴったりのお出ましだな」
「時間厳守は士官の積極的義務です」
 にやにやと揶揄するような口角に、スポックは片眉を持ち上げた。ジムを迎えに行くときに限定して歩行スピードが上がる自覚がある分、とびきりのすまし顔を返しておく。ジムはそんなやり取りに、あきれたような笑みをこぼした。スポックは彼の隣まで行って、部屋の片づけに手をつける。
「だとよ、ジム」
「何、昼飯に遅れたこと言ってる? 講習はちゃんと来てるからいいだろ」
「おとといの飲みの話も蒸し返そうか?」
「俺、仕事とプライベートは分けるタイプなんだよね」
「ああ言えば」
「こう言う~わはは」
 ジムはそう言ってマッコイの腕を軽く叩くと、無邪気に口を開けて笑った。対してマッコイは、苦労が絶えない、というポーズで溜息をついてみせる。ずいぶん仲良くなったものだと考えながら、スポックはホログラムを停止した。ジムはこちらの世界に来るやいなや、医療主任のお世話になりすぎるような真似をしでかしてくれたし、その後に発生した免疫関係の大騒動も、彼らの仲に一役買っているだろう。医者にいい思い出がないと言っていたジムは、マッコイとの出会いをパラダイムシフトと称していた。
 スポックが片づけに参加したのを見て、マッコイは手元の道具を放り出す。その粗雑な態度に眉を寄せても彼は構わず、パッドを拾ってきて操作を始めた。ジムはにやっと笑うと、覗き込むぎりぎりまで顔を寄せていく。
「いい点数つけてくれよ。いい酒おごるからさ」
「露骨な賄賂をちらつかせてくるこの候補生」
 嫌そうな顔でパッドを引くマッコイの背後に回って、スポックは遠慮なくその評価表をのぞき見した。そして、胸いっぱいの誇らしさを覚える。ジムの能力は、ここに彼がいることを誰にも否定させないだろう。知識の面では劣るものの、やはり発想と応用が素晴らしい。
「あっ、ずるいぞ、スポックだけ見るの!」
「ずるくはありません。私にはその権限があります」
「もし『落ち着きがなく話が脱線する』とか書いてあったら、その権限で『エレガントで立派なハンサム』とかに書き換えておいてくれ」
「不正行為です。それに、ハンサムは何の評価材料にもなりません」
「話を脱線させてる自覚があるなら授業中に遊ぶな」
「ユーモアだよ、ユーモア。心の余裕ってやつ」
「ああ言えば」
「こう言う~」
 先ほどの会話を繰り返して、ジムは満面の笑みになった。輝くようなそれに再度溜息をついて、マッコイは我慢しきれなかったように口元をゆるめる。笑って片手でジムの頭髪を荒く撫でると、その手はパッドを繰る作業へ戻っていった。
 入力情報を確定しているマッコイを見て、スポックは片づけ終わった医療パックを見下ろす。それから、崩れた髪型を直しているジムの柔らかな目元もじっと見つめた。
「ドクター。あなたはジムの講義に時間を割いていますが、医療ベイのほうは滞りありませんか?」
「は? お前が許可したシフトだろ。滞りないことも、確か報告したよな?」
「はい、いただいています」
……で? 自分で分かってる答えをわざわざ質問する意図は?」
「意図はありません。問題がないなら結構です。あなたの腕は確かですし、その知見が受け継がれるのは最良です」
「ふうん。で? おいジム、スポックのデレが見られるかもしれんぞ」
「最近よく見るから別に珍しくないよ」
「この仏頂面が?!?!」
「デレはしません」
 にやにやしていたマッコイは、失礼にも不審げに目を見開いて指を差してくる。ジムはちょっと笑って、気軽に肩をすくめていた。それぞれを見やって小さく首を傾げ、スポックははっきりと断言する。
「ですが、私はかつてアカデミーの教官を務めていました。講義の実施には練度があり、また知識には事欠かないと自負しています。つまり、私が、適任であるはずです」
 目を見開いたままのマッコイは、数秒の間をおいて、こちらに差していた指をぐぐっと医療パックに向けた。続けて、口を突き出すようなばかげた顔つきになる。
……救急医療講座も?」
……それは、あなたの仕事です。つまり、私が言いたいのは」
「はーん。これ妬いてるっつーより、拗ねてんだな」
 マッコイは突然こちらの話を無遠慮に遮って、そんな不可解な見解をジムに投げた。受けたジムは、わざとらしい笑顔を作って踵を返す。
「君は忙しいだろ、キャプテン」
 そんなことを言いながら部屋を出ていくジムを追って、スポックは彼の半歩後ろについた。もの言いたげな視線を送ってくるマッコイも、同じように肩を並べる。
 ジムのアカデミー課程の履修に関して、スポックにはひとつ気になっていることがあった。大きな問題ではないので指摘はしなかったが、彼の講義風景を見かけるたびに思っていることだ。同時に胸中をよぎる感情の処理も、そろそろ専用のボックスがいっぱいになりそうだった。
「ジム、どうしてあなたは私の空き時間に講義を組まないのですか。私にできることは多いはずです」
 隣から吹き出すような音がしたが、スポックは黙殺する。振り返ったジムはちょっと困った顔をしていて、ごまかすように首の後ろを触った。
「組んでるだろ、ときどき」
「ときどきです」
「駄々っ子か。君の講義はくそつまらなくてとっても楽しいから、そりゃ、聞けるならいくらでも聞きたいけど」
「それならば」
 くるっと体を反転させて、後ろ向きに歩きながらそう言ったジムは、スポックが問い詰めると再びくるっと背を向ける。
「君の空き時間はそれ以上に、ただ君と一緒にいたいんだよ、言わせんな」
 その声はとても小さかったけれど、スポックはヴァルカン人なので非常にクリアに聞き取ることができた。おそらく、ジムもそれを狙ってのことだろう。ヴァルカン人でよかった、とふいに思って、あまりに脈絡のない自分の情動に動揺する。
……盲点でした」
 かろうじて、それだけ言うと、自分の前を歩くジムは肩を揺らして笑った。そうして再び、くるっと反転する。さっきより頬の高いところの血色がよくなっていて、スポックはきゅっと唇を引き結んだ。自分を厳しく律していないと、公共の場にふさわしくないことを言ってしまいそうだ。
 ジムは、その鮮やかな虹彩を柔らかく細めて、おどけたようにぱっと両手を開いた。
「というわけで、念願の空き時間だ、スポック」
「いちゃいちゃするならよそでやれよ。俺がいること忘れてないか」
「むしろボーンズだしまあいっかって思ってるよ。よかったな、特等席だぞ」
「かけらも望んでないんだよな」
「ま、今日は出かけなくちゃだけど。残念だったね」
「何ひとつ残念じゃないから安心しろ。気をつけて行ってこい」
「ありがと。ほら、ぼっとしてないで行くぞ、スポック!」
 ターボリフトの搭乗エリアにたどり着いて、ジムはスポックの腕を掴む。うまく言語化できないような感情が皮膚の下で渦巻いていて、スポックはただ彼の言うままに引かれて歩くことしかできなかった。彼から目が離せないし、なんだか視界もぱちぱちと明るい。スパークリングワインのような特別な風味と軽やかさを感じるのは、ジムに触れているからだろうかと考える。
「こうなると形無しだな、キャプテンも」
「はは、かわいいだろ?」
「同意しかねる。なんなら早くアカデミー課程終わらせて、お前が船長職取っちまえよ、ジム」
「おっとぉ。ま、なんたって俺は優秀だからな。覚悟しろよスポック?」
 ジムはスポックを引っ張ったまま、慣れた手つきでターボリフトを呼び寄せた。彼はスポックの21世紀日本に対する順応速度に驚いていたが、ジムこそエンタープライズになじむのが早いと思う。まるで昔からずっとここにいたかのようだ。
 こましゃくれた顔でこちらを覗き込んでくるジムに、スポックは居住まいを正した。
「そうですね。あなたならいずれ、可能でしょう」
「え、そう? 嫌じゃない? 取られるの」
「私は自分の役割をまっとうできるのであれば、役職にはこだわりません」
「へえ」
「ですが、もしあなたが船長を担うというのであれば、私は必ずあなたの隣に控え、必ずあなたの非論理的で衝動的な短所を是正する役割を担います。必ず」
「なあ、3回も言う必要あったか、その『必ず』……、おいボーンズ笑いすぎだろ、なんだよ! 俺だって社用の俺は前職でもしっかりしてるって評価だったんだぞ! ロジカルお小言がもれなくついてくるプレゼントキャンペーンに応募した覚えはないんだよ!」
「ジム、リフトが到着しています」
「おう、じゃあな。いや~楽しみだな、お前の出世」
「絶対に面白がってるだろ!」



 マッコイと賑やかに別れて、ふたりは通路を進んだ。ご機嫌なジムの隣で歩いていると、彼はふと、何かに気づいたしぐさをして、ポケットから通信端末を取り出す。ディスプレイを開いてメッセージを確認したジムは、露骨に面倒そうな表情になった。
 スポックは文面を盗み見ないように注意しながら、額を押さえたジムに目を向ける。
「問題ですか?」
「問題というか……、まあ、問題かな。カーンがさ、これ」
「待ってください、あなたは奴と個人的なメッセージのやり取りをしているのですか?」
 突然飛び出してきた不吉な名前に、スポックはぎょっとして首をひねった。ジムの顔をじっと注視すると、彼は顔をしかめて片手を振る。
「仕方ないだろ、なんか知らないけどあいつ、艦隊と交渉するときは絶対に俺を混ぜようとするし」
……いつ、連絡先の交換を?」
「交換してない。ちょっと前に急に通話がきて」
「不正アクセスですね。分かりました。つまり規律を違反し、倫理を愚弄し、あなたの個人情報を身勝手に」
「怖い怖い、顔も声も怖いしすごい早口。まあいいよ、役に立つこともあるだろうから」
 ジムのこうした楽観的な許容は、彼の長所であるものの、自衛の観点においてはあまりに無防備なときがある。由々しい、と苦慮して眉を寄せていると、彼はのんきにその皺を指でつついてうれしそうな顔をした。こちらこそ額を押さえて嘆いてしまいたい衝動を抑え込んで、スポックはジムが自ら提示してきたディスプレイの内容に目を通す。
 彼の仲間のひとりが、とある惑星で艦隊相手に問題を起こしたから何とかしろ、という内容だった。スポックは外交上の諸問題を連想し、今後起こりうる想定に眉をひそめる。ジムは顔の真ん中をくしゃくしゃにする変顔をしながら、とつとつと短い文章を作った。カーンに送り返された内容は、こうだ。
 ――本日の営業は終了いたしました。次回の受付開始より、順次対応させていただきます。
 確かに、プライベートメッセージでやり取りする事案ではないだろう。スポックはそう受け取った。
……何故、奴はあなたに構うのですか」
「こっちが聞きたいよ。どうも、俺があいつらより前の時代の地球で生きてたからっぽいけど」
 メッセージを送信した途端、ジムの端末は通話を受信し、それを取らずに切るということが3回繰り返されたあと、ジムの手によって電源を落とされた。ふう、と溜息をつく彼を見やって、スポックは難しい顔をする。
 ジムがこちらの世界に来た記念すべき日に、呼んでいない闖入者として現れた優性人類とのトラブルは、実に頭を抱えるに値する事件だった。ジムはカーンによって人質として拘束されたり、そこから逃げ出して奴の船を損壊したり、殴り合っていたかと思えば共通の敵を相手に肩を並べたりと、めちゃくちゃなやり取りをした挙句、何故か最後には停戦に持ち込むだけの関係性を作っていた。スポックとしてはあまりに超展開だったし、誰もが予想しなかった未来を、誰もが想像しなかった形で、確かに彼は作ったのである。
「そういや俺さ、あいつにベッド投げつけられたとき、俺はエンダードラゴンじゃない! って抗議したら、そばにいたあいつの仲間にウケたんだよな」
 そして当の本人はというと、そんなふうに思い出し笑いをしながら、自分の隣でのほほんと歩いているのだ。
 しこたま怪我を作って戻ってくるということを短時間で3度やったジムに雷を落としたマッコイの気持ちが、不本意ながらも深々と分かろうというものだった。聞き捨てならないことを聞きとがめて、スポックは眉を攻撃の位置に配備する。
「ベッドを……? いったい、それはどういう状況ですか。私は聞いていません。あなたから、その状況を」
「迫力が怖い。大したことじゃないよ、こうして無事に戻ってきてるんだからいいだろ?」
「すべてが良いとは断言しかねます」
「してくれ。俺だって引っ越し直後に家を壊されたくなくて必死だった」
 ジムはむっとした顔で、ふいと視線を向こうに逸らした。スポックはその頬のラインを見つめて、脱力せざるをえなくなる。危険で無鉄砲な判断はしないでほしいという話は、事件後にさんざんしてきたことで、私は引っ越し直後に大切な人を奪われたのだ、という至極真っ当なスポックの抗議を、彼は反省して受け入れていた。つまり、このあたりで手打ちである。
「エンダードラゴンとは何ですか」
「えっ? あー、はは、俺がいた時代に流行ってたゲームの話だよ」
 意図して質問の方向を変えると、ジムは汲んで軽く笑った。
 スポックは、この柔らかい生き物を守るために、今後必要となる努力のことを考える。老賢者スポックをして、そんなことある? という顔をさせるに至る稀有な存在なのだ、生半可なことでは太刀打ちできないだろう。
「俺、あの笑ってる顔見て、ああ、こいつら俺と何も違わないな、って思ったよ」
 もういっそ自分もジムと同じテンションで飛び出してしまうのが最適解なのでは、という予定調和めいた着地をしかけたスポックは、その言葉を聞いて隣を見た。
 ジムは少し上を向いたやさしい表情で、考えながら手振りをする。
「遺伝子いじられて、特異な環境で育ってるけど、なんにも変わらないなって。たぶん、彼らもさ、生まれた瞬間から危険思想に傾倒していたわけじゃなくて、喜怒哀楽を特別に感じるまでもないような、ごくありふれた暮らしをしていた時期が、きっとあったと思うんだ。カーンたちが俺の話を聞いてくれるのは、そういうのを思い出すからじゃないかな。古代人の俺を見るとさ。分かんないけどね」
 目を合わせて、ジムはちょっと困ったように微笑んだ。
 スポックはその視線を、エンタープライズの白く清廉な光の中で青い虹彩を際立たせる彼を、ある種の感嘆とともに見つめる。
「あの選民的な危険思想だけ、捨てるか、実行をあきらめてくれたらなあ。仲良くはできなくても、喧嘩はしないで、きっと同じ宇宙で暮らしていけるのに。難しいな」
 自分はきっと、これからもずっと、彼の意志のもとにあるだろう。
 己だけでは決して持ちえない、明るく、楽天的で、発展的な、この意志のもとで、彼の背中を追い、それを守っていくのだ。
 おそらくそれが、自分の人生の命題であるのだ――
 そんな、まるで新しい概念の扉を開いたような心境でいると、ジムはちょっと笑ってから、見すぎ、と言ってスポックの鼻をつまんだ。軽やかに先へ進む彼の肩を追えば、ジムの自室はすぐそこだ。
「あと、やたら思想誘導してくるのもやめてくれればなあ。俺は誰も滅ぼしたくないし、俺の居場所はここだって何度も――、あ」
 ドアを開ける彼を穏やかに見守っていると、ジムはぼやぼやとそう続けた。
 もちろん、問題発言であったので、スポックは鋭敏に眉尻を吊り上げる。
――なんですって?」
「あ、いや」
「あなたは奴からそういった誘いを受けているということですか。一緒に弱者を滅ぼしたり、自分と一緒に住めと?」
「いや、まあ、あれは嫌がらせの挨拶みたいなもので」
「奴は挨拶をする頻度であなたを引き抜こうとしているのですか」
「喧嘩を買いつけたチンピラみたいな表情になってんぞスポック」
「やはりあの男、私の手で粉砕します」
「もう1回粉砕しただろ! 君たちが喧嘩すると船が壊れるんだよ! スコッティ泣いてたぞ!」
「我々の優秀なドクターが治してしまいましたので、粉砕は完了していません」
「だから完了させんなって――よし、この話はいったん保留! 今日は大切な用事があるだろ!」
 スポックは速やかな話し合いが必要と判断し、わあわあ言うジムを部屋に放り込んだ。






 ジムを迎える際に起きた未曽有の事件が落ち着いてからしばらくして、スポックはジョージからの連絡を受け取っていた。
 彼の無事を知り、併せて彼の母も生存していると知ったスポックは、もちろんジムへ報告したわけである。
「ジョージは再会を希望しています。会いますか?」
 その問いに対し、スポックの自室のベッドを我が物顔で占拠していたジムは、ぼんやりとあいまいな表情だった。寝転がったまま両手を天井に伸ばして、かぞく、と複雑そうなささやき声を落とす。スポックはすぐさまベッドへ戻り、彼のそばに腰を下ろした。
 ジムの命を助けるためとはいえ、彼から家族を取り上げたのは自分である。この事実を告白したとき、捨てられたわけじゃないって分かってうれしい、などと言ったジムには、できることのすべてをしたいと思っていた。
「当然、あなたの意向が固まるまで待ちます。会う気がしないのなら、それで構いません」
「スポックの『返事をお待ちしております』は、俺ひどい目に遭ったイメージしかない」
「何かしましたか? 私が?」
「これだよ。君が毎日くれるダズンローズで俺は窒息しかけてたよ」
「バラを送った覚えはありませんが……
「これだよ」
 ごろん、と転がってきてうつぶせに腕を組み、不満ですという主張をめいっぱいするジムの乱れた髪に、スポックはやさしく指を差し入れる。ゆっくりと梳くように撫でていけば、ジムはうっとりと目を閉じた。うなじまで来て手を離すと、むずがるようにくっついてきて、スポックの腿にぐいぐいとこめかみをこすりつけてくる。
……もし、会うとしたら、スポックも一緒に来てくれる?」
 そうして差し出された、甘えるような、怯えるような、試すような、そんな誘いを受け取って、スポックは彼の肩に手のひらを置いた。
「あなたが望むなら」
……うん」
「それと、あなたの幼少期の記憶について。転送時の不具合で物理的に失われたものと思われますが、あなたが考えていたように、健忘症の可能性もあります。私はマインドメルドによって、あなたの記憶の有無を確認することができます。もし記憶が存在し、さらに手に負える状態であれば、取り戻すことも可能でしょう。再会前に、確認しますか?」
 ジムはこちらが説明している間に、両腕をスポックの腰に回して抱きつくと、ベッドの中へ引きずり込もうと画策し始めた。スポックは抵抗せず、彼の望みどおりに両足を持ち上げる。んう、とときおり唸りながら、獲物を巣穴に運ぶ動物のような一仕事を終えると、彼は仰向けに倒したスポックの上に意気揚々と乗り上げてきた。
「確認はしない」
「何故?」
 鼻先のジムは、得意げに口角を持ち上げて断り、すぐさまスポックの耳元に鼻を突っ込んでしまう。その背を撫でてゆっくりと疑問を返せば、ジムはうつむいたままぎゅうとしがみついてきた。
「たぶん、それを戻したら、今の俺も変わっちゃう、気がするから」
「ジム」
「ずっと、知りたかったけど。でも、今は怖いよ。失ってるなら、それでいいんだ」
 スポック、とすがるような小ささでこぼされた呼び声は、まるで星に願うような遠さだった。スポックは撫でていた背をぐっとその手で支えると、反転してジムに覆いかぶさる。
「あなたがどう変わっても、私はここにいます」
「スポック」
「今の状況を少しでも変えてしまえば、今のすべてがなくなる、などとは考えないでください。あなたがどう変わろうと、あなたが『スポック』と呼ぶならば、私は必ずそれに応えます。たとえ、時空を渡ってもです」
 誰にでも気さくに明るく接するジムは、自分のことになるとこのありさまになってしまう。それが少しずつ分かってきたスポックは、はっきりとそう断言した。この、あまりに当然なことを、実績すらあるそれを、ジムは何故か考えもしないのだ。現に、腕の中に囲った彼は、スポックの作る影の中で驚いた顔をしてみせた。
 目を合わせたまま、ジムはそのうち眉尻を下げると、ふっと柔らかく笑み崩れる。
「やっぱり、過去の確認はいい」
「ジム?」
「それより、未来が見たいから」
 そう言ってふらりと片手を持ち上げて、ジムはスポックの髪を撫でた。尖った耳をくすぐってから首の裏に回して、ぺろりと魅惑的に唇を舐める。その甘いまなざしで、彼は口づけがしたいのだ、と分かるくらいには、スポックは経験を積んでいた。
 紅潮した柔らかい頬を指の背でくすぐると、彼はとろりと目を細める。
「記憶がないあなたのままで会いに行っても、あなたは受け入れられると思いますよ。少なくとも、事情を知っているジョージは、それでも会いたがっています」
「うん……、そうだな。というか、君ってすごく、なつかれてるんだな」
「なつかれて?」
「俺の兄ちゃんに。カーン事件のニュースで君の名前を見たからって、わざわざ探し出して、会いたいって」
「それは、私があなたを助け出していると、彼が信じているからです。彼が会いたいのはあなたで、彼の大切なものは常にあなたでした」
「ほんとかあ? でも、兄弟なら好きなものも似てくるかもしれないだろ」
 口角のそばにあったスポックの指に、ジムはかぷっと噛みついた。不服そうな表情を作って、はむはむと唇だけで咀嚼する彼の鼻先に、スポックは顔を寄せる。再会する、というジムの意志は確認できたので、そろそろ自制を一時離席させてもいい頃合いだろう。
「どうしたら、あなたは安心してくれますか?」
……分からない?」
 鼻を触れ合わせてささやくと、ジムは指を解放して不敵に笑った。






 ジョージとの再会は、とある辺境惑星で計画された。
 エンタープライズからの転送が遅れたせいで、たどり着くやいなや、ジムとスポックはバタバタと担当官に挨拶をして飛び出すことになる。
「君の説教がねちっこくてしつこいからだぞ!」
「あなたに危機管理という概念が存在していれば不要な時間でした」
 競うような早足でそんな言い合いをしながら、エントランスを抜けて外に出る。豊かではないが穏やかな田舎、という風情の惑星は、玄関ポーチの屋根の向こうに黄ばんだ空を広げていた。レトロ加工をされたような環境である。
 そして正面には、地球製に似せたクラシックカーが1台止まっていた。傍らに、ひとりの地球人が立っている。
 彼はぱっとサングラスを外すと、驚きと喜びを混ぜたような、そんな表情でぱっと笑った。
「うわ~! 変わらないな、スポックだ!」
 ジョージは明るくそう言って両腕を広げ、軽い足取りで駆け寄ってくる。特に拒絶する理由はなかったので、スポックは彼のハグを受け入れた。すっかり大人になっていて見違えているが、面差しや雰囲気には、あの頃の生意気な助手がところどころ残っている。
「えっ、あまりに変わってなくないか? スポックってこの顔で生まれてきたの?」
「私があなたに出会ったのは、私からすると最近になります」
「あ、そうなんだ。あー、だからこの温度差? 俺は今めちゃくちゃ懐かしい気持ちなんだけど」
「懐かしさはありませんが、壮健でなによりです」
「あー、あー、ゴホン」
 お祭り騒ぎのように話し始めるジョージに対応していると、すぐそばからそんな咳払いが聞こえてきた。
 隣を向けば、ややむっとした顔をしたジムが、わざとらしく拳を口元に当てている。
 スポックは心得て服の裾を正すと、再会した兄弟を交互に見やった。
「ジョージ、ジムです。ジム、こちらがあなたのお兄さんになります」
 その紹介で、ジョージはジムと目を合わせて頬をゆるめる。反してジムは、じっと疑いのまなざしになった。彼の不可解な反応に、スポックは小首を傾げる。
「ジム?」
「はじめまして。それで、スポックとはどういう関係?」
 平坦な声音で、ジムは開口一番、そんな問いをぶつけていった。ジョージは笑って肩をすくめると、得意げに人差し指を立てる。
……昔の男?」
「むかっ! むかっ……!」
「わはは。冗談だよ。はじめまして、そんで久しぶり」
「は?!」
「大きくなったなあ、ジム」
 ジョージの独特な解釈に、ジムは気を荒げて言葉を詰まらせた。そんな弟が分かっていたようにジョージは歯を見せて笑うと、改めて落ち着いた微笑みで、とても懐かしそうに、興奮して少し頬を赤らめたジムを見つめる。
 毒気を抜かれて肩の力も抜いてしまったジムに、彼は再び両腕を広げた。促すように首を傾げれば、ジムはむっと口を尖らせてから、そのハグを受け入れる。
「俺には記憶がないけど、あんたは意地悪な兄ちゃんだったんだろうな」
「お前は誰にでもいい子だったけど、俺にはよく歯向かってきたよ」
 ジョージはかつての家出について、ジムはあの家でもうまくやれるから、と発言したことがあった。だから、自分は出てきたのだと。そして今、この待ち合わせのためにメッセージをやり取りする中で、彼はその選択を誤りだったと断じていた。ジムが〝いい子〟だったのはそうならざるを得なかったからで、もっと他にできることがあったと彼は言い、けれどジムが何も覚えていないなら、スポックには事情を黙っていてほしい、ずるいけどジムを余計に傷つけたくないから、と懇願されていた。
 しぶしぶ身をゆだねているジムの首元で、ジョージは痛みを覚えたように眉を寄せて目を閉じる。彼は一瞬だけぎゅっと抱きしめてから、ぱっと手を離して明るく笑った。
「それじゃ、立ち話もなんだし移動しようか?」
「俺とスポックは後部座席な」
「取らないよジム、スポックはおもちゃじゃないんだから」
「今のところ評価できるのは車の趣味だけだぞ、お兄ちゃん」
「あ、分かる? かわいいよなこれ、即決で借りてきちゃった。あとでお前も乗る?」
……免許、いろいろあって取ってないんだよ。23世紀の地球外で通用するかはさておき」
「じゃあ俺が教えてやる」
「えっ、嫌だけど……
「嫌ってお前」
 そんな会話をしながら、ジムはきょろきょろと古い車を眺めて勝手にドアを開けた。後部座席に押し込まれたスポックがシートに体を落ち着けると、彼はその隣に滑り込んで勝手にドアを閉める。ジョージも会話を返しながら、運転席に乗り込んでエンジンを起動し、振り返って下唇を突き出してきた。打てば響くような、これがほぼ初対面に近い兄弟の傍らで、スポックはしみじみと感嘆を覚える。
「離れて暮らしていても、兄弟なのですね……
「違うぞスポック、俺の際立った社交力のおかげでこのなごやかな雰囲気が維持できてるんだ」
「出会い頭の第一声が『スポックとどういう関係?』だった人の社交力はそりゃ際立ってるよな」
「あれはそっちが悪い」
「はいはい、俺が悪かったよ」
 何故か等しく口先の強さを兼ね備えてしまったらしい兄弟の会話も乗せて、車はのんびりと進んでいく。落ち着いた交通量と、おっとりとした町並み。スポックは極力、兄弟の交流を邪魔しないように息をひそめていた。そのうちふいに、ジムが腕を絡めてきて、彼はなんだか戸惑った表情をスポックだけに向けてくる。絡んだ手を座席の上で包み込めば、弾んだ感情がしゅわっと浮かんできた。
 もしかしたら、予想外に楽しくて、それで戸惑っているのかもしれない。そうだとしたら、うれしかった。
「あのー、車にはルームミラーがあるんですよ」
「お兄ちゃんのえっち。前向いて運転しろ」
 ジョージがスポックと別れたあと、どういう道のりを辿ったのかは、大雑把な概要だけを聞いている。
 なんだかんだとじゃれていた兄弟の会話が途切れたのを見計らって、スポックは話せる範囲での詳細な説明を求めた。
 明るく陽気な運転手は、少しだけ沈黙する。ルームミラーだけに映る思い悩む表情に、こんなところまで似る必要はないのだが、とスポックは考えた。きっと今回の再会について、ジムがひどく迷ったのと同じように、ジョージも人知れず迷っていたことだろう。
「あなたが私との出会いをきっかけに、ヴァルカン星と懇意にしていたことはお聞きしました。そしてあの厄災が起こったとき、あなたは私の意図を察したはずです。あなたを生き延びさせようとする意図を」
「言いにくいことをズバッと言うよなあ、いつでも、スポックは」
 すでに事情を知っているジムは、今度はしゃしゃり出なかった。手をつないだまま、車窓に目を向けている。
 ジョージはルームミラー越しにスポックと目を合わせると、軽く笑って溜息をついた。
「俺だけがスポックの助言で生き残ったのは、正直つらかったよ」
「本来なら、あなたと私が出会うことはありませんでした。本来なら、あなたがヴァルカン星にいることもなかった」
「分かってる、あんたがそう考えたのは。泣いて叫んでブチ切れて泣いて、そのあとちゃんと気づいたよ。それに、俺はジムに会いたかった。あんたがちゃんと約束を守ったか、この目でちゃんと確かめたかった」
 あくまで軽やかな口調で、ジョージはそんなことを言った。つないでいた手をぐっと握られて隣を見たが、ジムは変わらずただ静かに外を眺めているだけである。スポックは、前に向き直った。運転席でハンドルに手を乗せている、実直な地球人の丸い耳を見つめる。
「申し訳ありません」
「謝るなよ。本末転倒だ。悪いと思われてるなら余計みじめだし」
「いいえ。あなたがとても悲しんでいるときに、そばにいられなくてです」
 大切な人が悲しんでいるときは、そばにいて、やさしく頭を撫でること。これは、ジムから教わった『人を大切にする方法』である。何の解決にもならないこの方法こそ、人をなぐさめ、落ち着かせ、少しだけ明るくすることができるのだ。さすがに髪を撫でたいと思うのはジムだけだが、ヴァルカン星を失ったときのあの絶望を、その慟哭を、その場で受け止められるのならそうしたかった。
 息をのむようにして押し黙ってしまったジョージに、スポックは首を傾げる。
「意味が伝わりませんでしたか? つまり」
「あー、ごめん。スポックのこれは、まあ、うん、思いやりと取ってくれ。ちょっと教育方針見直さないとな……
「俺、もしかして告られてんのかな? ってなっただろ。割とシリアスな話をしてたんだぞ。どんな教育してるんだ」
 言葉が足りなかっただろうかと考えて補足しようとしたところで、それまでおとなしくしていたジムが口を挟んだ。どこか気まずそうな、あきれたような口調である。ジョージの返しもなんだか疲れ果てていて、何故か誰かの教育について議論を始めてしまった。
「失礼、脈絡が不明瞭です」
「なあ、それでも俺はさ」
 伝達したい内容を再確認しようとすると、ジムに手を引っ張られる。スポックが口を閉じれば、彼は得意げな笑みを寄こして、そのまま運転席と助手席の間に首を突っ込んだ。
「こうして会えてよかったと思ってるよ、ジョージ兄ちゃん」
 ジョージは引き続き、沈黙を保っている。
 顔を引っ込めたジムは、こちらを見てぺろっと舌を出してから、再びシートへ収まった。少しだけ耳の端が赤くなっていて、スポックは目線でその輪郭をなぞる。そうしていると大抵の場合、赤みがほんのり深くなるのだ。
 ジムが、よかったと思っている。その事実はスポックの心を浮き立たせ、自分の謝罪よりジョージをなぐさめるだろうと確信させた。
「俺も」
 心を整理する時間をたっぷり取ってから、ジョージは小さくそれだけ返す。
 ジムはスポックにウィンクして、満足そうにつないだ指を絡ませた。



 車が減速したのは、簡素なアパートの前だった。平屋でシンプルな塗装を持つ家屋には、テラス窓と玄関扉のセットが6つ、均等に並んでいる。ジョージはアパート横の空き地に車を止めると、ついたぞ、と言ってエンジンを切った。
 乾いた土を踏んで降り立ち、スポックは周囲を見渡す。いかにも住宅地といった場所で、騒音もなくのどかだった。それぞれの玄関前にはささやかな庭がついていて、興味深い形状の飾りや、収納用のケースが置かれている。
 一番端の家には、いくつかの鉢植えが並んでいた。そのうちのひとつ、小さな青い花を咲かせているのは、地球産の忘れな草だ。
 ジョージに視線を向けると、彼は小さくうなずいた。そのままジムに目を向ける彼に倣って隣を見れば、そっと寄り添ってきたジムは、じっとその玄関を見つめている。
 かつての艦隊本部でスポックと別れたあと、ジョージは気が済むまでいろいろな場所を転々としたらしい。そして成人を期に、アイオワへ帰郷したのだそうだ。
 けれど、そこで彼が見たのは、すでに空き家となっていた実家だった。
 彼らの家族は、息子がふたりとも行方不明になるという事態でもって、離散に至っていたのだ。ジョージは宇宙艦隊に問い合わせたが、彼らの母はすでに引退しており、行方が分からない状態になっていた。そこで彼は、若い頃に培った旅行スキルを最大限に発揮して、母を探すことにした。そして無事、彼女が辺境の惑星に移り住んでいることを突き止めた、というわけだ。
 ジョージがウィノナに会うのは、今回が初めてではない。彼らは再会後に和解して、地球が消滅したのちは定期的に連絡を取り合っていた。だからもちろん、スポックへの連絡の中で、ジョージはこの件も確認事項に含めていたのだ。すなわち、自分と邂逅したあとに、母を訪ねる気はあるかと。
 呼び鈴はないのか、ジョージは玄関をノックする。ジムはさらにスポックに身を寄せて、けれどドアからは決して視線を外さなかった。
 小さな物音がして、扉がゆっくりと押し開かれる。
「ジョージ。いらっしゃい」
「やあ、母さん。ジムを連れてきたよ」
 ジョージの背中越しに見えた頭は、その言葉を聞いて横に振れた。彼がさっと身を避けると、そこにはほとんど驚いた、けれど確実にそれだけではない感情を持っている、口を開けた女性の姿が現れる。
……ジム?」
 彼女はふらりと玄関から出てくると、おそるおそるそう呼んだ。ジムがくっついているせいだろう、スポックを一瞥してから、彼の前で立ち止まる。ジムはなんだか呆けたような表情になっていたが、ウィノナとそっと目を合わせると、ちょっとおどけた笑みを見せた。
「えっと、母さん?」
「ジム……
……あー、こういうときは、なんていうか、ハグとかする?」
 それ以外にできることがなくなってしまったように立ち尽くすウィノナに、ジムはわたわたと両腕を動かす。彼女の感情を推し量ることはできないが、ジョージの家出理由を知っているスポックには、とても複雑な表情に見えた。
「くそ生意気に育ってるから、遠慮することないぞ」
「おいくそ兄貴は黙ってろよ」
 停滞してしまった雰囲気をかき回すように、ジョージが横から口を出してくる。それを打ち返すジムのむっとした顔を見て、ウィノナは少し頬をゆるめた。彼女が両腕を開いたのを見て、ジムはスポックから離れる。ハグはぎこちなかったけれど、とても穏やかだった。
「えーと、よろしく」
「ええ、よろしく……。それから、あなたがミスター・スポック?」
 ハグを解いて、ウィノナはスポックに向き直る。スポックはびしっと姿勢を正して、まっすぐ誠実に彼女を見つめた。
「はい。ジムの周りで起きたことに関して、事情はすでにジョージが伝えていると聞いています。ですが、込み入った内容になりますので、ご質問があればおっしゃってください」
「ありがとうございます。あなたがふたりを助けてくださったのですね」
「いいえ、ミズ・カーク。彼らは彼ら自身で道を切り拓き、未来へ到達したまでです。私は補佐をしたにすぎません」
 きっぱりと事実を訂正すると、ウィノナは両目をぱちぱちとさせる。ジムは含みのある笑い方をして、ジョージはあからさまに肩をすくめた。そんな息子たちを見て、母も口元をほころばせる。
「あなたの補佐に、心から感謝いたします。さあ、入って。狭い家だけど」
 何かおかしなことを言っただろうか、と首を傾げるスポックに、ウィノナは丁寧なお辞儀をした。それから踵を返して扉を引き、訪問者を迎え入れる。
 確かに、体格がかさばる3人を迎え入れるには少々手狭な、ひとり暮らしの部屋だった。けれどその光景は、日本のジムのアパートを思い起こさせる。ささやかな陳列の古ぼけた食器棚や、カウンターに置かれたレトロなタイマーつき時計を眺めながら、スポックはふと懐かしく思った。ジムとふたりで暮らした、あの日々を。
 リビングの壁の一角には、いくつかの写真が飾ってあった。それは紙に印刷されていて、素朴な額縁に入っている。夢遊病のような足取りでそれに吸い寄せられたジムを追って、スポックもまたそれを見た。小さな男の子たちや、今の成長したジムに似ている男性の姿が映っている。
……これが、父さん?」
 ジムはやはり呆然としたようになっていて、息を詰めるように父の姿を見つめていた。スポックが振り返ると、ウィノナは眉尻を下げて、やはり複雑そうな笑みをする。
「そう。あの人はレトロ趣味だったから、こんなふうにね、飾ってみたんだけど」
「すごく、色褪せてる」
「ええ、ここの恒星の光だと、印刷物はどうしてもこう見えちゃって。やっぱりアナログはだめじゃないって、あの人に文句を言いたいくらい」
「でも、それがいいんだよ。――なんて言いそうだな、そんな父さんは」
 くるりと振り向いたジムは、今度は生意気そうに口角を持ち上げてみせた。ウィノナは少しだけ驚いたあと、懐かしそうに目を細める。






 ソファとダイニングテーブルの椅子を駆使して行われた懇親会は、なごやかに進んだ。ひとしきり近況を話したのち、ウィノナは買い物に行くと言って、家をジョージに任せて出かけてしまう。おそらく、大量の情報を聞かされたジムに、落ち着ける時間を作るためだろう。あるいは、自分がそうしたかったのかもしれない。現に、座りっぱなしで腰が痛いからしばらく寝る、とソファを占領したジョージによって追い出されたジムは、むかむかしたポーズを取りながらもどこかほっとしているように見えた。
 玄関を出て柵をまたぎ、庭に侵入する。テラス窓のレースカーテン越しに、寝そべっているジョージの姿がうっすらと視認できた。ジムはおもむろにしゃがみ込み、青い花を嗅いで不思議そうな顔をする。強い匂いのする花ではないからだろう。
 スポックは彼の隣に佇み、空を見上げた。相変わらず、色褪せたような空である。あの壁の写真の中にいた、小さなジムの目の色に似ていた。
「なあ、時空のどこかに、こことは違う世界があるんならさ」
 ジムはしゃがんだまま、こちらを振り仰ぐ。話題は先ほどまで話していた、時間跳躍と世界分岐についてだった。
「ガキの俺がうまいこと事故らなかった世界も、どこかにあるかもしれない、ってことだよな」
「あなたが何故あの状況に陥っていたのかは、もはや誰にも分かりませんが、可能性はあるでしょう。私はあなたの落下死も防ぐよう、タイムマシンの設計図とともに過去の私に言いつけておきましたが、それ以外の」
「いや待って、何、初耳だけど?! 俺のことも?! そんなわけ分からん指令を自分と名乗る未来人から受け取った若かりし君、絶対ぽかんとしてるよ! スポックなら信じないんじゃないか、そんなの」
 素っ頓狂な声を上げたジムは、その拍子にしりもちをつきそうになってふらついた。とっさにしがみつかれた足を踏ん張りながら、スポックはかがんで彼に手を差し出す。
「もちろん、疑って実行しなかった私はいるでしょう。ですが同じだけ、言いつけを守った私もいるかもしれない」
「観測されないうちは無限の可能性があるってやつ、ときどき無責任にも聞こえるな」
「責任を負うべき甲乙の関係が不明です」
「感じがするってだけ。それを理由に今目の前にあるものを放り出すのは卑怯だな、とか」
 ジムは素直に手を取って立ち上がった。それからぐんと背を伸ばして、スポックが先ほどまで眺めていた空を見上げる。すべての色を褪せたように見せる光は、彼の澄んだ虹彩をやさしく変色させていた。
「私が負うべき責任について、負わなかった可能性があることを理由に投げ出してはいないつもりですが、あなたから見て何か懸念がありますか?」
「ないよ、ないない。ほんと真面目だな。それとも自分で何か思い当たる節でも?」
 ジムはちらりとこちらを向いて、挑戦的な笑みを浮かべる。懐古趣味な色合いに染まる彼も美しいけれど、やはりエンタープライズの白い光の中にある、何にも染まらないあの青が一番美しい、とスポックは思った。
「ありません。ですが、私はあなたの目を信じています。――無鉄砲で危機的な側面を除いた、半分だけ」
「君のそういう正直なところ、愛してるよ」
「私も愛しています、ジム」
「あー、今のは皮肉です」
 丁寧に返せば、ジムは人差し指で頬をこする。スポックとしては、皮肉と分かって返した言葉なので、彼がむやみに照れている様子に少しだけ満足した。いつまでも翻弄されてばかりの自分ではないのだ、ヴァルカン星でも聡明を誇った自分の学習能力に、スポックは期待している。
 じっとジムの横顔を見つめていると、彼はふいっと顔をそむけた。
「もし小さな俺が、崖から落ちそうになってるときに、突然こんなヴァルカン人が現れて、俺を助けて颯爽と姿を消したりしたら、たぶん彼は俺の初恋を華麗にかっさらっていくんだろうな」
「未来での出会いをお待ちしております」
「はは。大人になってから再会して? ありがちなロマコメだ」
 ジムは目を合わせないまま楽しそうに笑って、そっとスポックの手に指を絡ませてくる。しっかりと握り返して少し引くと、彼は素直にこちらを向いた。ほんのり頬を染めてはにかむジム、というものには、ひどく落ち着かない気分にさせる効果がある。スポックはさりげなく彼から視線を外し、同時に、ジムが目を逸らしていた理由を察した。落ち着かない。
 足の裏がきちんと大地に着地しているか分からなくなるような雰囲気に、ジムは再びしゃがみ込んだ。つないだままの手を引かれて、スポックも隣にかがみ込む。そして案の定、引っ張り込んだジムのほうがバランスを崩して、スポックの肩にぶつかってきた。鼻先でおどけるような表情をする彼に片眉を上げれば、ジムは笑って体勢を戻す。忘れな草以外の鉢はまだ季節ではないのか、青い葉が茂っているだけだった。
「もし、俺が何事もなくアイオワで育って、艦隊に入ってたらさ。君がいた船に、俺も乗ってたかもしれないな」
 ジムは目の前の青い花を指でつついてから、その隣の鉢の葉も同じようにつついて回る。肩先に地球人のぬるい体温を感じながら、スポックは揺れる草花を目で追った。
「もし、そうだとしたら……、もしかしたら、あなたこそが、私の誤りを正してくれたかもしれません」
「あやまり?」
 ひょ、と指を引っ込めて顔を上げるジムに、スポックは目を合わせる。
「あなたならきっと、今まさに星を破壊しようと駆け出した船が目の前にいたら」
「全力で追いかけてってぶん殴る」
「ええ。この感情的で杜撰ありあまる決断が、唯一の正解でした」
「ほめるかけなすかどっちかにしろ」
 歯を見せて笑うジムが作る、柔らかそうに丸まった頬の曲線が好きだ、とスポックは思った。揶揄するように肩をゆるく押されて、彼のなすがままに頭を揺らしながら。
「もしかしたら、そんな世界もどこかにはあるかもしれません」
「Alternate Original Seriesとして?」
「ええ、我々はエンタープライズで、初めて出会うのです」
「でも君、真面目な教官だったんだろ? その前に目をつけられそうな気もする。どうせその俺も、不真面目だろうから」
「これは高い信憑性に基づいての進言ですが、その私は正当な叱責をしていると想像します」
「わはは、すっげえ仲悪そう」
「ですが、その私もいずれ悟るでしょう。私の足りない思考を補うのはあなただと」
 ほんのすぐそばにいるジムは、ぱちぱちっと素早くまばたいた。
 そのちょっと驚いたようなまつげの動きを、丸く開いた無防備な口元を、スポックは好きだと思う。
 うごめくような感情を静かにしまい込んで、ジムをつぶさに眺めていると、彼はそのうち青い花に目を落とした。
……俺の足りない思考を補うのも君だって、そのうち悟るよ、その俺も」
「ジム」
「君の目を、俺も信じてるから。俺は半分だけ君で、君は半分だけ俺なんだ。そうだろ?」
「ジム」
 何度も呼べば、ジムはこちらを向いてくれる。恥ずかしいことを言っている、という自覚があるのだろう、彼はそれにふさわしい表情をしていて、涙の膜を張る双眸が淡い色にちかちかしていた。スポックはそっと顔を寄せて、彼の様子を窺う。ぺろりと赤い唇を舐めるしぐさも、好きだと思った。



 そうしてふたりで目を閉じた途端、背後で勢いよくカーテンの開く音がする。
 と同時に、がらっと勢いよくテラス窓も開いた。
 スポックは顔を引いて、後ろを振り返る。案の定、そこで仁王立ちしていたのはジョージだった。
「ひとんちの庭先ですけべをするな」
「すけべはまだしてない。もう、何なんだよ!」
 ジムは食って掛かるように立ち上がると、猛然と兄に抗議を始める。ジョージはそんな弟の肩を叩いてよしよしとなぐさめ、すぐさまくるりとソファへ戻っていった。手が届かなくなったジムは、思いっきり下唇を尖らせながら、窓の上り口に座り込む。
「ジム、確かに浅慮でした。ミズ・カークの風評に関わることです」
 スポックは再考して、ジムの丸まった背中にそう声をかけた。振り向いた彼は予想どおりに不満そうだったので、背筋を正して誠実にこう付け加える。
「ですので、人のいないところでいたしましょう」
「ス、スポック……! よし行こう、ひとけのないところですぐさまいたそう、今から!」
「今はミズ・カークに失礼です。帰宅後にしてください」
「おいスポック、ミスター・カークその1にも失礼だぞ。はああ……
 スポックの言葉にぱあっと笑って両手を伸ばしたジムにぴしゃりと言い放つと、ジョージのほうから苦言を呈される。伸ばされたままのジムの手を取れば、ジョージは重苦しい溜息をついた。彼は肩を落としてクッションを抱き込み、その状態で上目遣いを寄こしてくる。
……なあ、どうやったらヴァルカン人とそんな関係になれるんだ?」
「は?」
 そして唐突に、そんな脈絡のないことを言い始めたので、スポックは素直に眉を持ち上げた。
 ジムはぶんと音が出るほど勢いよく振り返り、ソファの上でしょぼくれている兄を見上げる。
「うそだろ兄ちゃん、まじで? あ、スポックのことじゃないよな?」
「じゃないっつってんだろ。俺にだってなあ、仲良しの、ただちょっといくら誘ってもデートには乗ってきてくれない、友……、知人がいるんだよ」
「えっ、かわいそう……、友だちだって紹介したら横から知人ですって訂正された過去が透けて見える……
「かわいそうって言うな、精いっぱいやってるんだ俺は」
「今住んでるとこ、ニュー・ヴァルカンだったよな?」
「そう。ずっと一緒に復興を手伝ってたんだよ。俺はヴァルカン星に世話になったし、俺なりにあーだこーだ言いながらさ」
「あー」
「そんなことしてたら、好きになっちゃうこともあるだろ? あんな堅物無表情の皮をかぶった思いやり不器用星人」
「分かってしまう……。でも、堅物無表情から思いやり不器用星人にまで進化を遂げてるなら、それってもうゴール間近じゃないか? なあスポック?」
 何故か瞬時に分かり合った兄弟は、軽妙に言葉を投げ合った。好きになっちゃう、あたりでやっと状況を察したスポックは、謎のジャッジを任されて兄弟をそれぞれ交互に見やる。ジムの意図をなんとか頭の中で解きほぐそうと試みたが、結局は首を傾げることになった。
「私に言えることはありません」
「あれ、照れてる?」
「いいえ。ゴール、の状態が不明瞭です。そして、私は当人ではなく、また対象者を知りませんので、推察もしかねる、という意味です」
 率直にそう答えると、きょとんとしたジムはジョージと目を合わせる。そして、ふたりは揃って似たような笑みを浮かべた。
「これだよ」
「これだな。というか、お前はどうやってこの堅物を落としたんだ?」
「え、どうだろ。俺も知らない。スポックっていつ俺のことが好きになったんだ?」
 かと思えば、そんな開けっぴろげな質問を投げつけられて、スポックは素直に閉口する。さすがにやすやすと答えるには抵抗のある問いだったが、スポックはそれでも逡巡した。できる限り、感情を開示したいとは思うのだ。ジム相手には、できるだけ。
……あなたは?」
 スポックはジョージを一瞥して、結局、質問を返すという逃げの手段を取った。けれどジムは気にしたそぶりもなく、うーん、と口元に手を添える。
「俺? え、いつだろ……、気づいたらっていうか、君みたいなのと一緒に暮らしてたら好きにならざるを得なくない?」
「答えになっていません。その内容では、私みたいなものなら何でもいいように受け取れます」
「そういうことを言ってるんじゃないんだよ。じゃあお前だってやさしくしてくれるなら誰でもよかったんだろ」
「何を馬鹿な。私はあなたがあなただから、あなたといたいと切望したはずです」
「俺だってそうなのに、答えになってないってなんだ。お前だってなんか分かんないけどいつの間にか落ちてたやつだろ、絶対」
「いいえ、理由は分かります。ジムに会って惹かれないのなら、それは私ではありません」
「よーしよし! よし! この会話終了! お兄ちゃんにぶっといのろけが刺さりまくってる! 幸せになりてえ~ッ!」
 気づけば言い合いになっていたふたりの会話を、割って入るレフェリーのようなしぐさでジョージがさえぎった。スポックは内心はっとして言葉を切り、なんとか粛然とした態度を取る。反してジムは、再び勢いよく兄を振り仰ぐと、床を叩くように手をついて訴えかけた。
「なりたいなんて甘えたこと言うな! なるんだよ!! それくらいの気概がないとこんなくそ面倒くさいやつどうにもなんないぞ!」
「失礼、ジム。それはヴァルカン人に対する侮辱でしょうか?」
「いいや、君単体に対する私怨だよ」
……お言葉ですが、あなたも相当面倒でした」
「ち、ちくしょう……、反論できねえ……
「だから俺の悲しい恋バナをだしにいちゃいちゃするなと言っている」
「今のは別にいちゃいちゃしてないだろ!」
 このときのスポックの失態は、このごちゃごちゃとした言い合いにかまけすぎていたことだった、と思っている。本来であれば、この場で最も聴覚に優れた自分が、ウィノナの帰宅を察知してしかるべきだった。
 すなわち、ただいま、という声をかけられた3人は、等しく瞬時に口をつぐんだわけである。そして同時にゆっくりと振り返って、玄関先にいるその姿を視界に映したものだった。
 庭先でわいわいとろくでもない会話をしていた男たちに、荷物を抱えた彼女は慈悲深く微笑む。
「ボーイズ、楽しそうで何よりだけど、そろそろ夕食にしましょう」
 にこにこと玄関から入っていくウィノナの姿を見送って、母親に恋愛事情を聞かれた息子たちは揃って頭を抱え、その息子のパートナーは無意味に空の彼方をしばし眺めた。



 なんとか心を落ち着けたジムは立ち上がり、ジョージは窓とカーテンを閉じ、スポックは玄関へ回るジムに付き従う。彼はドアノブに手をかけようとして、ふと、庭のほうを見やった。テラス窓の向こうには、ウィノナを手伝っているジョージの影が見て取れる。
 ジムは一度、はあ、と息を吐いた。それからスポックを窺って、ちょっとだけ情けない顔になる。
「俺にはもったいない家族なのかも」
 そして突然、そんなことを言い出すので、スポックはほとんど瞠目する心地だった。ジムの中にうずまく感情は、いつも単純なようでいて複雑で、見た目のようにはできていない。目もくらむようで、イリュージョンのようだった。すっかり打ち解けたように話しながら、そんなことも考えていたのかと思うと、超常現象のようですらある。
 けれど、彼は虚構ではなく現実に生きていて、スポックの大切な人だった。
「私はそうは思いません。彼らは十分、あなたを大切にしています」
 しっかりと彼の目を見てそう答えると、ジムはそっとはにかんでみせる。
「ジムって名前、父さんがつけたんだって」
「ええ」
「今までの俺の、唯一の持ち物だった」
 そう言って一度ドアを見てから、彼はスポックに向き直った。今度は決然とした、凛々しい姿で。
「なあ、一度呼んでみてくれる? 俺のこと」
 その『呼んでみる』を、スポックは瞬時に理解した。
 単純で複雑で面倒で愛おしい、彼を理解できる喜びを、身の内にはっきりと感じる。
「ジェームズ・タイベリアス・カーク」
 丁寧に、けれど当たり前の点呼のように。
 そう呼ぶと、ジムはおどけた笑みになった。発した音を体になじませるように、彼はそっと胸元に手を当てる。スポックは少し考えてから、丸い耳に口を寄せた。
「私だけのジム・カーク」
「おい、調子にのった所有格だな」
「あなたが聞き慣れるために必要かと思いました」
「君が冗談を言う日が来るなんてなあ」
 ジムはくすぐったそうに首をすくめると、耳の端を赤くして破顔する。大げさな手振りで恥ずかしさを混ぜ返しながら、彼はさっさとドアを開けた。先に入ってスポックを振り返ると、今度は一転、こましゃくれた顔つきになる。
「君から船長の座を奪ったあかつきには、ちゃんとキャプテン・カークって呼べよ。それまでには情勢も落ち着けて、俺たちは宇宙探索に出るんだ。君の大好きな珍しいものをたくさん見せてやるよ、俺の隣で」
 ジムは――、カークはそう宣言すると、まっすぐリビングへ進んでいく。そのしゃんとした背中を見て、スポックは後に続いた。彼と同じく、姿勢を正して。






 リビングに面したキッチンでは、食材の確認が行われている最中だった。カークはむやみに腕まくりをすると、その輪に加わっていく。
「手伝うよ」
「遅かったなジム、まさかまたいちゃいちゃ」
「ああーっと、手が滑ったあ~」
 にやついたジョージの口は、わざとらしい声とともにカークの手によってふさがれた。もごご、とうめきながら、すかさずジョージもやり返そうとする。すぐに「喧嘩をしない」というウィノナの声が飛んできて、ふたりは揃って両手を下ろした。
 スポックはカークの隣に陣取って、戸棚の調味料をチェックする。
「私もお手伝いいたします。料理は腕に覚えがあります」
「そんなこと言って、君が作れるのは日本料理だけだろ」
「えっ、待った、スポックって料理するの? つまり好きな食べ物がある?」
 おもむろにスポックを肘で小突いてきたにやにや顔のカークに言い返そうとすると、ふたりの間からジョージが首を突っ込んできた。スポックは律儀に口をつぐんだが、カークは大げさに得意満面なポーズを取る。
「あるし、俺はそれが何かを知ってるぞ。兄ちゃんがこれ以上、俺とスポックの仲睦まじさを妬んで余計なこと言わないと誓うなら、作り方を教えてやってもいい」
「ジム、私は好きな食べ物の話をした覚えがありません」
「あのなあ、俺は君が思ってる以上に、君に詳しいってこと覚えとけよ。で、どうする? 差し入れに持っていったら喜んでくれるんじゃないかなあ、それでなくてもヴァルカン人は、知らないことに対して食指が動くものだろ?」
「ジ、ジム先生……!」
「ジム、答え合わせをしていないのであれば、それはあなたの思い違いである可能性があります」
「そんでめげないなこのヴァルカン人は! 君は存外分かりやすいんだぞ」
「あー、ボーイズ」
 めげないと言われても、開示した覚えのない情報を持っていると言い張るほうがかたくなでは、とスポックが口元を下げていると、いつの間にかリビング側にいたウィノナに声をかけられた。同時に顔を上げた3人に、彼女は気まずそうな笑みを浮かべる。
「みんな手伝ってくれるのはうれしいんだけど、キッチンの広さは有限でね」
 その言葉に、スポックはキッチンを見回した。カーク兄弟はお互いを見合って、スポックを確認する。確かに、今はすし詰めと称して問題のない状態だろう。身長の低いウィノナは、追い出されてしまったものと思われた。
「揃いも揃ってでかくなったからなあ」
 ジョージはしみじみとそう言って、カークとスポックの背中をばしんと叩く。
 その言葉に、ウィノナはゆったりと目を細めた。満ち足りたような、失ったものを想うような、そんな表情だ。
 見つめられたカークは少し戸惑ったように目を逸らすと、考えるそぶりをしてから、ぱっと明るく前を向いた。
「じゃあ、今日は俺とスポックが作るから、母さんは座っててよ」
 スポックは、彼が『今日は』と言ったことを、大切に心の中にしまい込む。
 ウィノナは一瞬きょとんとしてから、柔らかく笑って了承した。リビングに落ち着く彼女を見送ったカークと目を合わせれば、彼は気恥ずかしそうに笑って肩をぶつけてくる。
 すかさず、ジョージがその肩の間から再びぬっと顔を出してきた。
「ほんと隙あらばいちゃいちゃしますよね」
……もう兄ちゃんには何も教えない」
「あーあー! あ、でもスポックに訊けばいいわけか? スポックは俺の味方だもんな~」
「スポックは俺の味方だよ!」
「ほら、喧嘩しないの」
「早く始めないとミズ・カークを待たせることになりますよ」
 結局、その日の夕食ができたのは、2時間ほど後のことである。
 最初に作った品は冷えてしまっていたけれど、囲んだ食卓はあたたかく、カークは始終笑っていた。