はるの
2023-09-19 21:11:09
162116文字
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空に心臓

+13|AOS spirk|2023.10.1|2023年の日本で暮らしているジムが、倒れていた迷子のヴァルカン人を拾う話。現代ものパロディです。

5.


 検討の結果、窓辺の棚に溜め込んでいた重要そうな郵送物たちを、引っ越しさせる必要が生じた。ジムはそれらをがっさがっさと集めて、別の引き出しへ雑に移動させる。スポックからは胡乱な視線が突き刺さってきたが、彼が何かを言うことはなかった。この書類が何なのか、分からないからだろう。知られたら小言のひとつでも飛んできそうな勢いだった。
 空いたスペースに、図書館から借りてきた本を並べ立てる。
 そうしてジムは、そのうちの1冊、物理学書を取り出して読み始めた。けれどそれを見たスポックが、日本語入門の本を取り出したのを見て、あっけなく気もそぞろになる。
 結局、彼がめくっている本のページを、ジムは背後から覗き込んだ。スポックはちらと振り返ったけれど、ジムの行動を咎めることはない。
「私が最初に覚えた日本語は『いただきます』になりますね」
「食いしん坊か?」
「あなたがそうしたのですよ、私を」
 たどたどしくローマ字を発音していくスポックの肩を、ジムはじっと見つめた。
「君、読むの早いな」
「そうですか?」
「絶対に頭いいよな」
 今、ここに顎を置いてみたい。だめだろうか。だめだろうな。でも、子供みたいに無邪気にふるまったら、なんとか大丈夫にならないだろうか。
「私は言語学も一部習得しています」
「ふうん? 君の専攻って何?」
「専攻?」
 顎の裏側で、この低い声の振動と、あのほてるような高い体温を、感じてみたい、というのは、まともな発想だろうか。自分と異なる生体に興味を持った、とか、そういう方向ならいけるんじゃないか?
「『専攻』って言葉の意味自体を訊いてる? なんだろ、よく学んだ分野のこと、かな」
「何故あいまいなのですか」
「自分で使ったことないから」
 ふむ、と考え込むスポックの顎に、彼自身の手が添えられるのを見て、ジムは体を離した。彼の正面に回って、指を入れておいた本のページを再び腿の上で開く。
「特に、ということなら、情報技術でしょうか。ですが、私は全般的に学んでいます」
「全般? えっと、学問ぜんぶ大学生レベルで頭に入ってるってこと?」
「大学生レベルが不明です」
「うーんと、論文を書いたりできる、とか」
「書こうと思えば誰でも書けると思いますが……
「誰でもは書けないんだよスポック。なんか今ので分かった。君、規格外に頭がいいな?」
 そう言って、気軽に、まるでからかうように、彼のおでこをつついたりできないだろうか。
 上がりかけた手を、ジムはページに滑らせた。スポックはちょっとだけ首を傾げてみせる。微動だにしない髪の毛が面白くて、乱してみたいという欲求に胸が浮ついた。
「規格外ではありません。ヴァルカンアカデミーでは、正規に評価を受けていました」
「ヴァルカン、ってことは、君の星で一番の学校?」
「はい」
 本を読むのだから、カーテンは引いたほうがよかっただろうか。昼間の日差しはレース越しに、真面目な異星人を明るく照らしている。
 そういえば、スポックの虹彩は、陽に透けるとチョコレート色になるんだった、とジムは思い出した。
「そこでの君の成績は? 順位とかつくのかな」
「主席でした」
「わぁお。こりゃタイムマシン作れちゃうな」
「現時点では不可能です」
 美味しそうだな、と思った。なんとなく。
 彼がかたくなにないと主張する、直截的な感情で。
「ん? おっと? 現時点ではって言ったか今? はは、君もやっと俺の無限の可能性を認めたな!」
「可能性の話です。公理に反しない限り、皆無と言い切ることはできません」
 スポックのその言い分に、ジムは思わず吹き出した。分かんないけどちょっとたぶん、ほっぺたが赤くなっているかもしれない。
 彼が自分に影響されて、意見を変えているということが、なんだか無性に恥ずかしくて、なんだか無性に、うれしかった。
「君は素直じゃない」
「ヴァルカン人は嘘をつきませんので、その論説は誤りです」
「誤りという指摘が誤りです。天才でも分からないことってあるんだなあ」
 スポックは、こちらがへらへらと笑って話を取り合わないと悟ると、早々にあきらめて本に視線を移す。伏せられたぶあついまぶたと、まっすぐのまつげ。ふいにまた手が伸びそうになって、ジムは自分の口を押えた。スポックの手元では、ぱら、とページがめくられて、彼はそれを確かめるように、指先で紙面をなぞる。
 ジムは、深々と目を閉じた。
 しばらくそうしてから、手を握り込んで隠す。
「日本語で話してみてくれませんか?」
 何気なく、顔を上げて提案してきたスポックに、ジムはにんまりと笑みを作った。途端にスポックは眉をひそめるので、声を上げて笑ってしまう。
「そんなに警戒するなよ」
「それに足るだけの実績があります」
「〝君って思ってたよりずっとかわいいね、スポック〟」
 日本語で茶化すようにそう言うと、スポックはきょとんとした。それがやっぱりかわいく見えて、ジムはにやにや笑ってしまう。
「〝君の願いが叶うといいね〟」
「ジム。同時に意味を知らなければ意味がありません。〝いいね〟という言葉の重複は理解しました。類似の言葉ですか?」
「〝でも、そうしたら、君は帰っちゃうんだな〟」
 一向に英語が返ってこなくなって、スポックはむいっと口角を下げた。露骨に不満そうな表情に、ジムは弾けるような明るい笑みを作る。
 怖いと思った。
 もしかしたらいい友だちになれるかも、なんて思ってしまっている自分が。
 彼に傾倒している自覚が。
 いなくなることは、決まっているのに。



 暮らしの中で時間ができると、ふたりはタイムマシンの話をするようになった。だいたい、そのまま逸れて全然違う話になってしまうのだが、つまりジムは、スポックと会話する機会が一気に増えたのだ。議論したり、くだらない言い合いをしたり、じゃれるのをあしらわれたり、堅物をからかうようなことが、まるで日常になっていった。
 誰かと生活を共にする、というのは、保護されたあとで世話になった施設以来である。けれど、スポックとの暮らしは、予想よりずっと悪いものではなかった。生活スペースに他人を入れるということに、自分がこれほど耐えるなんて、思ってもみなかった。
 もちろん、ひとりの時間を過ごしたくなって、スポックに言い添えて単身出かけるようなことはあったけれど、そんなとき、彼はただ承諾をするのみである。自分たちは、家族や恋人のように、お互いに対して何らかの責任を有しているわけではない。その距離感が、この長続きの秘訣ではないかと思っている。スポックは知識の披露はしても、自分の事情は話さなかったし、こちらの事情も訊かなかった。ジムも同じく、訊かなかったし、話さなかった。本当にただの、迷子になった異星人とその保護者という関係であって、それが自分たちのすべてだった。それを「ただの」と言ってしまっていいのかは、疑問の余地があるけれど。
 スポックという異星人は、よくよく話してみたところで、およそイメージが変わることはない。
 頭脳明晰で冷静沈着、物事がはっきりしていて合理的。すべてをロジカルに理解しようと努め、ロジカルに処理を行う。2023年の地球に不時着した当初は乱していた感情も、いまやすっかり落ち着いて、その片鱗を見せることはあまりなくなっていた。
 精神が安定したスポックは、その冴えわたる論理主義によって、ときどきピュアにデリカシーをスレイヤーしてくることがある。彼はいわば、極端なマイペースなのだ。
 ある日、ジムが仕事から帰宅すると、図書館から借りてきた本がごっそりと見知らぬ本に差し変わっていたりする。慌ててどうしたのか尋ねると、スポックは湯気の立つ炊飯器を開けながら、返しに行きました、なんて言うのだ。ちなみにジムは、まだ読みかけの本があった。
「なんで突然?! 俺に一言もなく?! というか、お前ひとりで図書館まで行ったのか?!」
 あらゆることが予想外すぎて、素っ頓狂な声を上げても、スポックはしれっとした態度だ。ジムが面白がって買い与えたエプロンを律儀につけてくれている彼は、むしろ得意げにしゃもじを構えて、顎を引くくらいはしてみせる。
「図書館への行き方、貸し出しのシステムは、前回の訪問で学習しています。そして、今日が返却期限でした。あなたは利用カードを本棚に置いていましたので、私がすべき行動と判断しました」
「え、あ、もう半月経った……、あれから? いや、そうじゃなくて!」
「あなたは返却を完全に忘れているようでした。そして、私には時間がありました。ですので、私が返却を担当しました」
「うん、見事な三段論法だな。うん。まあな、君が返しに行く、というのは別にいいんだ。でも、それは事前に俺に言うべきじゃないか?」
 これはちょっと話が通じなさそうだぞ、という気配を察知して、ジムは鞄を放り投げた。キッチンで並んで、ハンドソープでわしゃわしゃと手を洗いながら、じっくりと心を落ち着かせる。
 スポックはみそ汁の入った鍋の蓋を持ち上げながら、不思議そうな顔をした。
「返却期日を確実に失念している、と分かっているのに? あなたは仕事でしたし、いずれにせよ、私が行うことになります」
「うん、そりゃそうかもだ。そして君の推測はおおよそ正しい。たとえば君が前日の夜に、明日が期限だって進言してくれてたら、ごめんけど返却お願いできる? 置いてくるだけだから、って俺は言っただろうな」
「そうでしょう」
「だからつまりさ、俺に言うべきだよな、先に? 君が前日の夜に?」
「そうなると分かっているのに?」
 ジムは手を拭いてから、配膳に手を出した。スポックの朴訥な表情に顔をしかめて、くじけそうになる心を叱咤する。彼は、善意でこれをしているのだ、まったく、驚くことに。
「なるけど、そういうことじゃねーんだよ。そんで、なんで新しい本借りてきてんの? 俺、読みかけの本あったから、もう1回借りてきてほしかった」
「なるほど、そういうこともできるのですね」
「そうだよ。そういう情報共有もできただろ、事前に言ってくれてたら。お前の読みたい本だけ借りてくるとかじゃなくてさ」
 ふたりで向かい合って着席すると、スポックは思慮深いまなざしで小さくうなずいた。
 やはり、異星人との相互理解の第一歩は、対話。それも丹念な対話である。あきらめない強い心だ。譲り合いとリスペクトの精神だ。
「分かりました。明日、未読の1冊を返却し、代わりにあなたの読みかけの本を借りてきます」
「ありがとう。で、反省はしたのか?」
「明日、借りてきますので、問題ありません」
「ごめんなさいは?! おい、むっとした顔すんじゃねえ、これは気持ちの問題だ!」
「していません。気持ちを問題にしなければよいのでは?」
「し・ろ!!!」
 前言撤回、異星人との相互理解は、地球人が思い描くただの幻だ。俺たちは『分かり合えない』というところから、1歩を始めなければならない。このデリカシーの死体の山を越えて。
 結局その日、ジムは腹を立ててしばらくつんけんした態度を取り、スポックは無表情で困惑を極め、今日という貴重な1日を浪費した。
 けれど、たとえばこのあと、半月と1日前の夜に、スポックはしれっとした顔でこう言ってくるのだ。
 ジム、図書を返却しますが、読みかけの本はありますか?
 ジムはもう、そこでほだされてしまって、どうして「一緒に行きませんか」って言えないんだ、と別の欲求不満に噛みつくことになる。
 しこたま面倒で、しこたま厄介で、けれど捨てられもしない、そんな、たんすの奥に押し込んだ古い思い出の品みたいな一面を持つのが、スポックという異星人だった。



 彼の言うとおり、ありあまる時間を持っているスポックは、またたく間に21世紀の日本に順応していった。
 見知らぬことに出くわすと、ぴくりとも動かない顔を輝かせてあれこれと調べ始める彼は、結構な好奇心の塊である。それを指摘するたび本人は否定するが、彼の頭脳明晰さは、おそらくこの衝動によって培われたものだろう。珍しそうに質問を投げてくる異星人は、何故空が青いかを問う子供のように無邪気で、気づけばジムもあれこれと構い倒してしまう始末だった。
 時間ができると、ジムはスポックに映画を観せて、音楽を聴かせた。しばらく触っていなかったテレビゲーム機にも電源を入れた。
 そういった娯楽に対する、スポックの素朴な疑問は、だいたいこうだ。
 これは、何のためにあるのですか?
 何のためにもならない時間の過ごし方を、彼は知らないまま大きくなってしまったらしい。未来の地球を知っているようなのに、23世紀にはディストピア世界にでもなってしまったのだろうか。
 ジムはほとんど同情して、そんなことを何度か質問したことがある。けれどそのたびにスポックは、口を強く引き結んで固い岩のようになってしまうので、ジムはそのうち発言を控えるようになった。どうあれ、きっとスポックにとっては、未来の出来事全般が、あまり明るいものではないのだろう。
 ある夜、登場人物がチェスをする映画を観たあと、チェスはできます、とスポックは発言した。
 初めて彼から出てきた娯楽らしい特技に、ジムは身を乗り出して喜んだものである。そしてその日のうちに、ネットで安いチェス盤を購入した。
「私が習ったのは3次元のものでしたが、基本ルールは同じでしょう」
「3次元?」
「このあたりにも面があります。駒はX軸でスライドするほか、Y軸にジャンプします」
 商品が届くと、すぐさま梱包をむしり取った。折り畳み式の盤をテーブルに広げれば、スポックはもちろん、そそくさと寄ってきてきちんと着席する。無表情きらきらタイムだ。
 説明書を取り出して、しかつめらしい顔をしている間に、スポックは勝手に袋を開けて、こつこつと駒を並べ始めた。眉を上げてそれを見やってから、ジムは持っていた紙を放り出す。
 テーブルに身を乗り出せば、スポックは顔を上げた。
「地球産のクラシックボードゲームが君の星で流行ってたなら、それはちょっと面白いな」
「流行っては、いませんでした」
「ふうん? じゃあ、これは君のニッチな趣味であるわけだ。君、地球のこと、割と結構好きだよな」
「特定の惑星に対して、好悪の感情はありません」
「地球人が訊いてるんだから、そうですねっておだてておけばいいんだよ。やり方、誰に習ったんだ? やっぱり地球人?」
 そんなに変な質問ではないはずだ。けれど、スポックは完全に手を止めて、また岩になってしまった。
 ふいに彼がする、この叩けば鉱石みたいに割れそうな表情を見るたびに、ジムは心底やめてほしいと思う。無限に悲しい気持ちになってしまうから、愉快な無表情でいつでもきらきらしていてほしい。ちょっとくらい融通が利かなくてもいいから、ばかみたいに、平和そうに。
「ちなみに俺は、スポックから」
 ジムはテーブルに両肘をついて、両手のひらに顎を乗せると、上目遣いで口角を上げた。
 そんなふうに、さも得意そうな顔つきをしてやれば、スポックは片眉を跳ね上げる。
「私、ですか?」
「チェスのやり方なんて知らないから、今から君が教えるんだよ、俺に。つまり、俺の出来は君の責任だ」
「ゲームの出来は、プレイヤー自身の責任です」
「固いこと言うなよ」
「発言に硬度はありません」
「意外性のない言葉を吐きやがって」
 体を斜めにして、より横着に見えるように。そんな態度でジムは頬杖をついたまま、白い駒をひとつ摘まんだ。
 スポックはその指先を見やってから、目を伏せて駒並べを再開する。
「ルール説明に独創性は不要です」
「おっ、ルール説明だって。やる気だな。よおし! じゃあ俺も大喜利のエンジンかけてくぞ」
「真面目に聞く気がないなら説明しません」
「いやだわ、先生。冗談ですわ」
 ジムは摘まんだ駒を元に戻して、大げさにいそいそと、姿勢を正して肩肘を張った。ややあきれたような雰囲気になったスポックは、構わず行儀よく駒を並べていく。
 一分のずれもなく、すべてが直線にまっすぐ対峙した、理想的な戦場だった。手先が器用だな、と素直に感心する。
「地球人の冗談は――、訂正。あなたの冗談は、しばしば目に余ります」
「そういうのは地球人でくくっていいんだよ」
「いいえ、断固区別します」
「要らん情熱を燃やすな。それともあれか、地球人の中でも俺だから、そんなに突っかかってくるわけ?」
 ちょっと、言いすぎたかな。そんなことを考えながら、ジムは唇を舐めた。手持ち無沙汰な思いで適当に駒を触ると、スポックはあからさまに眉をひそめる。ちょっと面白くて、そのまま適当な位置に移動させれば、彼はすかさず駒を戻した。
「質問の意図が不明です。今、目の前にいるのはあなただ。そしてあなたは、あなた以外の地球人が言いそうもないことをいつも発言する。その事実に対する帰結です」
 ジムは盤上を見下ろして、ふうん、と軽く鼻を鳴らす。スポック側には黒い駒が集結して、一番奥の真ん中に、殊更ゆっくりと、王冠をかぶった駒が置かれた。
「それってつまりさ、君にとって俺は、地球人のその他大勢じゃないってわけだ」
 スポックの手が引っ込んでいくのを眺めながら、からかうように言葉を投げる。その手はそのまま、テーブルの下にしまい込まれてしまった。きっと律儀に両手を重ねたりしているのだろう。
「それ、が何を指すのか分かりませんが、私はあなたのような地球人を知りません」
「おっと、そりゃいい意味か? いや待った、いい意味だな、異論は認めない。じゃあ、俺と出会えてよかったなスポック?」
 にやっとした笑顔を作って、ジムは顔を上げた。
 スポックは、盤上のように素晴らしく統率された無表情だ。けれど、その顔は少しだけ、気まずそうに傾いた。
……否定はしません」
「なら元気いっぱい肯定しろ~?」
 ああ、今、気軽に手を伸ばして、そのまっすぐな髪をくしゃくしゃにかき混ぜられたらいいのに。
 ジムはそう思って、自分も両手を重ねて握り込んだ。口元がむずむずして、座り直すように体を揺らしてしまう。
 スポックは、俺に会えてよかったと思っている。そう思うと、これっぽっちも落ち着けなかった。彼はただ、さまざまな妥協の末に、ジムを居候先に選んだだけで、別にジム自身を好んでここにいるわけではない。スポックをここに留めているのは、ジムの多大なシンパシーによる自己満足な引き留めと、彼の考える論理的な合理性に基づくものだけだと、今までは思っていたのに。
「えっと、これを交互に出して、白で挟めば取れるんだっけ?」
「リバーシと混ざっています。それは冗談ですか?」
「本気だよばか。早く、ルール説明」
「あなたが脈絡を吹き飛ばしたのでは……。不用意に人を誹謗する発言は控えることを提案します」
「これは動かしていいんだっけ? 最終的に俺はどうすれば、君を仕留められるんだ?」
「私のこの駒を取ってください。それぞれの駒の動かし方を説明します」
 スポックは、ひとつひとつ駒を指差しながら、時に白側の駒を摘まんで、動かし方を説明した。
 丁寧に扱う指先がどことなく繊細で、じっと見つめていると、スポックはふいに目を伏せる。その先で落ち着きなくばらばらと動かされた指が、なんだかいたたまれずかわいいように見えて、ジムは声を上げて笑った。



 あんなにも定期的に通っていたイケヤの店からは、すっかり足が遠のいていた。メッセージのやり取りはしていたが、休日はスポックを構うので精いっぱいである。生活パターンが落ち着いてきて、お互いにだいぶ慣れてきたと思う、と伝えられるようになった頃、イケヤはスポックを連れてこいとやたらせっついてきた。
『真っ先に連れてくるかと思ってたけど、そんな気配微塵もないだろ。なんか、隠したがってない?』
 久しぶりに通話を投げたら、そんな疑り深い声音が返ってきて、ジムは鼻頭に皺を寄せる。
「そういうわけじゃないけど、連れてったらお前、すげー余計なこと言いそうで」
『余計ってなんだ。お前、あいつになんか悪いことでも仕込んでんのか』
「してねえよ! ただ、事情を知ってるのは、俺以外にはお前だけだろ?」
『宇宙人だって?』
「そう」
……それを理由に連れてくるのを嫌がるなら、独り占めしたいから、くらいしか理由が浮かばないんだが』
「は」
『あいつ、そんな深窓の令嬢みたいな感じだったっけ……? どちらかというと手負いの獣みたいなイメージある』
「あのさ、あんまスポックのこと、話さないでほしいんだ」
――独り占めしたいから?』
「ちげーよその発想から離れろ! いいか、あいつがどこから来たかとか、そういうのを聞くのはなしにしてほしいんだ。あいつ、自分の世界の話になると、ものすごく傷つくから。この約束を守ってくれるなら、連れて行ってもいい。スポックがいいと言ったらだけど」
『ふうん、分かった。分かったがもうひとつ分かった。お前は誰かを扶養すると過保護になるタイプだ』
「うるせーよ!!」
『あいつ、今何してんの?』
「風呂入ってるよ。もうすぐ出てくるから」
「いいえ、今ちょうど出ました。あなたの通話相手の声に聞き覚えがあります」
「うわああ!! じ、地獄耳! あ、ボディソープ足りた?」
「明日、詰め替えるべきですね。やっておきます」
『おい、こっち置き去りにして生活感丸出してくるのやめろ』
 そんなふうに合流したスポックの意見も聞き入れたのち、ふたりは揃ってイケヤの店を訪れた。
 金曜の夜である。出会ったときと同じタイミングだな、と思いながらドアを開けると、店はそこそこ繁盛していた。けれど、イケヤのいるカウンターの隅の2席は、用意周到に空いている。ジムは断りなくそこに座り、店長からの苦笑を頂戴した。イケヤは帽子を脱げないスポックを見やって、にやっとした笑みを見せる。
「元気か?」
「健康です。先日は私を救助いただきありがとうございます」
「そりゃどうも。お前ってアルコール飲める人?」
「飲めますが、楽しむことはありません」
「こっちは楽しんでほしいと思って提供する仕事をしてるんだが」
「ヴァルカン人には感情がないから、喜怒哀楽がないんだってさ」
「ジム、それは不正確です。正しく制御をしているという点で」
「はいはい分かった分かった。何ひとつ分らんが分かった。お前はトロピカルミックスジュースな」
「トロピカルミックスジュース」
「パインとマンゴー混ぜてやる」
「構いませんが、砂糖は加えないでください」
「シロップか? なんで?」
「私は砂糖で酩酊します」
 のんびりとそんな会話を聞いていたジムは、スポックの発言でうっかり椅子から落ちかけた。
 何故なら、未知なる異星人の生態について、まったくの新しい情報が飛び込んできたからだ。
「は?! なっ、なんだそれ?! 俺は知らないぞスポック!」
「教えていないので、知らない状態が正常です」
「そうじゃなくて!! えっ、じゃあ煮物の砂糖ってあれどういう扱い?! スポックほろ酔いだったってこと?!」
「調味料程度であれば酔うことはありません。あなた方も調理酒で酔うことはないでしょう」
「でもアルコールは熱で飛ぶだろ! おさ、お砂糖で酔っ払うスポック……
「なんでお前がそんな衝撃を受けてるのか分からんし、その気持ちが何なのかもちょっと怖えけど、とりあえず注文。ジム」
「強い酒をくれ」
「気持ちが怖い」
「酩酊しないでくださいね、帰宅というミッションを残していることを忘れないように」
 いや、こんな融通の利かない堅物が、甘いものでふわふわしちゃうとか反則だろう。こんな場所でそんなやばい新情報を浴びることになるとは思っていなかったジムは、ほとんどふてくされたように足を組んで背を丸めた。
「で、うまくやってんのか?」
 イケヤはドリンクを作りながら、そんな質問を投げてくる。首を傾げているスポックに代わって、ジムは仕方なく前を向いた。
「うまくないよ。スポックが帰る手段、まだできてないし」
「そうじゃなくて、お前らがだよ」
「俺らのことはいいだろ!」
「スポックはどう思ってるわけ?」
「何がでしょうか」
「だから、うまくやってんのかって」
「うまくやる、の詳細が不明です。生活全般の総評であれば、困難なことはありますが、危機的ではないと判断しています」
「そっか。ジム、こいつはいつもこうか?」
「おもしれーエイリアンだろ。そのうちお前もこれを聞かないと落ち着かなくなるからな」
「こわ……
 イケヤの店は、昼間はカフェを営んでいるが、夜はこのとおりバーになる。
 カウンターとテーブル席。店長たるイケヤの趣味で、ちょっとしたオープンマイクのステージもある。知り合いたちがときおり楽器を持ち寄って、セッションを行うことがあった。
 しばらく飲んだあと、あの場所はなんですか? と素朴な疑問を寄こしたスポックに、ジムは満面の笑みを浮かべる。ちなみに、イケヤは面倒くさそうな顔をした。
 ぽんぽんとスポックの肩を強めに叩いてから、その勢いで立ち上がる。1歩離れて振り返れば、スポックは何事かという顔で、わずかに腰を浮かせていた。ついて来ようとしているのだ、ジムが移動するならば。まるで一緒にいたいとでも言っているようなそのしぐさに、ジムはちょっと浮かれた気分になる。自分の手のひらに音を立ててキスしたあと、その手をスポックの額に押しつけると、彼はぽかんと腰を下ろし、こちらを見つめたままずれた帽子を直した。
 俺は酔っている。そう思いながら、踵を返す。酔っているから、仕方ないんだ。
 ジムはステージまで行くと、立てかけてあるアコースティックギターを手に取った。イケヤの持ち物のうち、自分がよく使うものだ。椅子を引いてきて中央に座って、弦を弾きながらチューニングすると、テーブル席の人たちがこちらに注目するのが分かった。この店は常連が多いので、お互いになんとなく顔を知っているのだ。
 視線を上げれば、一番遠くにスポックがいる。彼はお行儀よくちょこんと座って、じっとステージを見つめていた。
 少し笑う。思い浮かんだのは『You Are My Sunshine』だ。有名な曲だから、もしかしたらヴァルカンの教科書に載っているかもしれない。
 思いっきりポップにアレンジした曲を歌い終わっても、スポックは微動だにしなかった。客からは拍手をいただいて、ジムはみんなに会釈する。それから近くのおじさんにリクエストをもらって、いくつか弾き語りをした。奥ではイケヤに話しかけられて、スポックが目を逸らす。派手な装飾でギターをクレッシェンドさせると、スポックは音につられてこちらを向いた。イケヤは面倒くさそうな顔だ。お前その顔しかできないのか。
 ふたりがそのうち話し込むのを見て、ジムはステージを終了した。拍手には手を挙げて笑顔で返して、カウンターに戻る。イケヤは無言で1杯の冷水を渡してくれて、それを無言で飲み干したジムは、その場で会計して店を出た。
「あなたの特技を理解しました」
 ドアの外で立ち止まると、後ろをついてきたスポックが、肩を並べてそんなことを言う。
 ジムは、星空を見上げた。なんとなく、ひとりだな、と感じるときに、いつもしていたことだ。最近はしていないな、と思いついて、まるっきり頭痛がするような心地になる。この隣の気配を知る前は、さよならだけが人生だ、なんて思っていたはずなのに。
「びっくりした? なかなか上手いだろ」
 ジムは横の無表情に笑いかけて歩き出した。自然と、隣に靴音が並ぶ。
「はい」
「君を拾ったの、あのあたりだったなあ」
「帰るときにはきっちりしろ、と言われました」
「えっ?」
 脈絡を置き捨てるのは自分の得意技だが、スポックがそうすることはほとんどない。唐突な話題を返されて、ジムは驚いて隣を見やった。
 スポックは、ごく真剣な表情で、まっすぐこちらを向いている。
「あなたが引きずらないように、きっちりさよならしろ、と」
「は……
「あなたはひとりだとさみしさを強く感じますが、人に近づくのは苦手なのだそうです。いろいろあったから、とイケヤは言っていました。そんなあなたが、私には気を許しているように見えるので、きっちりしろ、とのことです」
……それ、俺本人には言っちゃだめなやつなんじゃないの」
「口止めはされませんでした」
「はは。まさか、あいつもこんなふうにチクられるとは思わなかっただろうな」
 言われた内容に全身がぞっと冷え込んだが、スポックの堂々とした態度になかばあきれてしまって、ジムは軽く肩をすくめた。余計なことを言いやがって、とは思うものの、それに輪をかけて余計なことを言ってしまっているスポックがいて、笑えるような状況だ。
 けれど、スポックはずっと、真剣だった。
「いろいろ、とは何があったのですか?」
「その話聞いて引っかかるのそこ? 俺がなついてることに関してはなんにも思わないわけ? わっ、こんなハンサムに好かれてうれしい! とかさ」
 深刻にすら見えるそのまなざしを避けて、ジムは明るく笑い飛ばす。スポックはそれを聞いて、わずかに眉を寄せた。
「ハンサムであることと、好かれることに、関連性が見いだせません」
「美醜のジャッジがないのかヴァルカン人は」
「ありますが、好感は分離します」
「はいはい、どーも。ま、俺に好かれたってどうでもいいよな、つまりさ」
 言ってしまったあと、ジムはさりげなく唇を噛む。どこまでなら、酔った勢いにできるだろうか。そんなふうに頭を悩ませていると、難しい顔をしていたスポックは、さらに眉間を刻み込んだ。
「どうでもいい、は不適切です。あなたは私の恩人であり、私の――
 続きを探して浮いた言葉尻が、夜のしじまに溶けていく。
 スポックは、そのまま、つまり口を少し開けたまま、ゆっくりと立ち止まってしまった。ジムはなんだか衝撃と驚愕に見舞われる思いで、そんなスポックを見やる。
……なんでそこで言いよどむ?」
「いえ、何……、でしょうね……。端的に言うと、同居人です」
「居候だよばか!」
 不思議そうになってしまったスポックの肩をばしんとはたいて、ジムは歩き始めた。スポックはすぐについてきて、慣れたようにそつなく肩を並べる。
「根拠のない誹謗はやめてくださいと何度も提案しています」
「真実を伝えてるんだ俺は」
「その話はあとにしましょう。つまり、言われずとも、退去するときはきちんとご挨拶をするべきだ、と私はきちんと把握しています」
……いつになったら来るのかな、そのきちんとは」
「我々はいずれ来るように努力をしています」
 時間帯的に、まだ人通りは見受けられた。スポックを連れ帰ったときとは違って、彼は物珍しげにきょろきょろとはしないし、見た目は地球人に偽装している。誰彼と注目を集めてしまうことはなかったし、スポックは道の歩き方を熟知していた。
 ジムは再び、星空を見上げる。
「我々、ね」
「はい。私とあなたです」
「そうだな」
 そうであるように祈ってるよ、心から。
 そんな言葉を胸にしまい込んで、まっすぐと前を向いた。