はるの
2022-08-08 22:36:46
117528文字
Public スタートレック
 

未踏の楽園

全年齢|AOS spirk|2021.4.15|STBのあと、ヨークタウンでふたり暮らしをするジムとスポックがそのうち付き合う話。「そのうち付き合うタイムライン(https://privatter.me/page/65a92eff4fa14 )」シリーズの集大成になりますので、シリーズ内他作品からの遠慮ないエピソード引用を含みます。



 今日は起きてからずっと頭が痛い。
「体調がすぐれないようですね」
「頭が痛いだけ」
 不快感が態度に出てしまっていたのだろう、心配そうな顔をするスポックにはおざなりに微笑んで、カークはいつものことだとでも言うようにごまかした。実際、割れるような痛みでもなければ、倒れそうな感じでもない。
「薬を」
「んー、適当に、もらっとく。仕事行ってこい、遅れるぞ」
……分かりました。何かあれば連絡を」
「最悪ボーンズを頼るよ」
「そうしていただくのが最適かと」
 マッコイの名前を挙げると、スポックは神妙にこくんと頷き、気が済んだように踵を返す。このスポックの、マッコイに対する妙な信頼度の高さは何なんだろうな、とカークは思わず笑ってしまった。彼らは普段、お互いに信用ならないという顔をしているくせに、ここぞというときには頼るのである。ちくしょう、うらやましくなんかないぞ。
「いってらっしゃい」
「早めに帰ります」
 そんな会話をして玄関までスポックを見送ってから、カークは部屋に戻ってきて、とりあえずソファに撃沈した。ときおり片頭痛に襲われることはあるけれど、なんとなく、いつものとは違う感じがする。どことなくだるくて、どことなく、現実味がない。
 変な病気だったらどうしよう、と考えて、カークはゆるゆると笑みを刷いた。たぶん、真っ先にマッコイに叱られるだろう。病気になるなんて自分ではどうしようもないことなのに、あいつは何故か怒るのだ。どうしてなんだ、ジム。
 どうしてか、なんて俺が一番聞きたいよ。
 カークはスリッパを放ってひょいと足を上げると、ソファに横に寝転んだ。この前、こんなふうにしてスポックが居眠りをしていたな、と思い出して、笑み交じりに吐息する。油断しているヴァルカン人は、どうしてあんなにかわいいんだろう。根拠を説明する何か良い学説でも出ていないだろうか。
 頭の下にクッションを挟んで、丸まって目を閉じた。やっぱり、なんだかぼうっとする。
 たとえば不治の病になったとして、とカークは口元をゆるめたまま考えた。
 余命3か月と宣告されたなら、この散らかった悩みも全部吹き飛んでしまうのにな。



 そのまま、カークも居眠りをしてしまったらしい。ふわんと覚醒して目を開けると、ソファのきれいな色が眼前に現れて、あれっと思った。それから横になっていたことを思い出して、ゆっくりと体を起こす。
 ずずず、と引きずられるような頭痛がして、カークは思いっきり顔をしかめた。寝起きにしても、いつもより意識がぼんやりとしている気がする。
 あれっと思いながら、きつく目を閉じた。眉間をこねてみると、なんとなく、指先が熱すぎる気がする。あれっ。
 おかしいな、と思いながら、首にぺたりと手のひらを貼りつけた。そこはかとなく、脈が速い。そしてやっぱり熱い気がする。
「あー……
 思わず声を上げると、切なそうな、やるせなさそうな、そんな音がして小さく笑った。こりゃああれだ、熱がある。
 風邪というより知恵熱だろうな、と思うと、情けなくて無限に笑えそうだった。たぶん、自分にはまだ乳歯が生えていて、ついていると思い込んでいる物心も全部、思い込みの産物なんだろう。スポックがいないと何もできない赤ちゃんだ。バブー、お世話してください。
 うん、順調に頭が回ってないな。カークはそう納得して、のろのろと立ち上がった。キッチンで水を飲んでから、おとなしく寝室に引っ込むことにする。つまり、あれだ、交感神経がアホになって、副交感神経が死んでるわけだ。休息、睡眠、リラックス。マッコイに口酸っぱく言われ続けている三種の神器が必要というわけである。
 ばたんと倒れ込みたかったけれど、それをするとひどい頭痛に見舞われそうで、カークはそろそろとタオルケットを持ってベッドに横になった。それから少し考えて、もそもそとスポックの上掛けを引っ張り上げると、頭からまふっとかぶる。包み込むような熱さと、安心する暗がり。自分の脈動のリズムと、スポックのうっすらとした匂い。
 余命3か月だったら、今すぐスポックに連絡して、セミナーがあっても大事な実験があっても帰ってきて、って言えるのにな。そんなことを考えながら、目を閉じた。



 寝ていた、わけではなかったけれど、起きていた、わけでもなく、まどろみの中で苦しさをやり過ごしていたら、突然せり上がるものを感じた。このベッドを汚すわけにはいかない、と憤然と立ち上がり、同時に頭蓋をアイスピックで突き刺されたような痛みに震えながら、カークは口元をぐっと押さえて慌ててバスルームへ駆け込んだ。
 しゃび、と胃の中のものを吐き出して、うそでしょ、と普通に驚いてしまう。嘔吐なんて久しぶりで、こんなにも簡単に、いつもは出てこないものが出てくる、という神秘になんだかしみじみとしてしまった。うへぇ、なんて言っていると、もう一度衝動が来て、残りです、みたいな胃液がシンクに吐き出される。喉がイガイガするし、口の中がしこたま酸っぱかった。カランからぬるま湯を出して口をゆすぎながら、これが久しぶりなのは間違いなく、スポックとボーンズと、クルーみんなのおかげだろう、と考える。深酒が理由なこともあったけれど、大抵の場合の嘔吐といえば、酒場で殴られた拍子に起こることだったからだ。本当に健康になったな、と感慨にふけりながら、顔も洗って背を伸ばす。
 髪が伸びたなあ、と思った。短くすると少年みたいになってしまうので、ちょっとでも威厳を出すために、横に流すようにしているのだが、こうして身も蓋もなくずぶ濡れの、捨てられた子犬のような顔をしていると、威厳にカッコワライがつきそうである。威厳てお前。どの口がだ。
 カークは口を尖らせて不満げな顔を作ってみて、その子供っぽさに自分で鼻白んだ。くしゃっと鼻頭に皺を寄せて、おとなしくタオルで顔を包み込む。確かに顔色は悪いように見えた。いつもよりうんとぶさいくだ。
 たとえば、これがつわりだったとして、とカークは馬鹿なことを考える。
 なんか分かんないけど不思議なパワーで、自分の真っ平の腹が突然大きくなったら、それはそれで決着がつくんだろうか。自分は日がな一日子供服の雑誌なんかをめくりながら、俺たちのバンビーニのために必要なものを指折り数えるのだ。スポックの使うソープは赤ちゃんにも使えるから、わざわざベビーシャンプーの通販サイトを見る必要はない。だからスポック、心置きなく責任を取ってくれ。
 いや、これはだめだな。キッチンに寄って、吐き出した分の水分を補給してから、カークはすごすごとベッドへ戻った。これはどう考えてもなしだ。熱に浮かされるにもほどがある。やっぱり余命3か月プランがベストだろう。
 自分が余命3か月だったら、スポックといっぱいセックスがしたい。



「ジム?」
 ささやかな呼び声と、優しく肩に触れる手に、カークはうっすらと目を開けた。そして自分の健康状態に、思わず舌打ちをしそうになる。
 なんだかどんどん、朦朧としてきているようだ。熱が上がってんのかな、嫌だな、と思いつつ、ふわふわした体を反転させると、ベッド脇にスポックがかがみ込んでいる。
「おかえり」
「顔が赤い」
「もぐってたから」
 布団が熱かったのですよ、という主張を、お得意の人好きがする笑みで繰り出すと、スポックはそれをガン無視してこちらの額に手を当てた。それからきゅっと眉を寄せて、きびきびと姿勢を正してクローゼットを開ける。
「発熱しています。症状は?」
「風邪じゃない」
「耳鼻咽喉は無事のようですね」
 スポックはメディカルケースを取り出してくると、薬剤を取り出した。顔をしかめるこちらに対し、彼は毅然とした態度だ。
「薬はいやだ」
「鎮痛剤です。頭痛もあるでしょう」
「ううう」
「1分でもごねればレナードに連絡します」
「ち、ちくしょう、ハイポも嫌だ」
「何か食べましたか」
「水」
「錠剤を飲み込むのに必要ですね、少々お待ちください」
「そういう意味じゃない」
 やはり、まったく意に介さない。スポックは姿勢のいい歩き方で、さっさと寝室を出ていってしまった。こういう、「船長に正しい選択をさせるために絶対に必要である」と心底確信したときのスポックは、最高にこちらの話を聞いてくれない。大抵の場合はそれが正しいので、よほど腹に据えかねているとき以外は、こうしてカークも流されることがある。今は特に、頭が馬鹿になってるし。
 水で満たされたグラスを持って再登場したスポックを見て、カークはしぶしぶと体を起こした。やはり少しでも揺らすと頭が痛い。びく、と肩を震わせて、ぎゅっと目を閉じていると、優しい手のひらがそっと背中を支えてくれた。
 座り直して見上げれば、断固とした表情のスポックが、静かにタブレットとグラスを差し出してくる。
 カークはそれを見つめて、再びスポックの顔を見上げた。できるだけ哀れに見えるように、眉の角度なんかを調整して。
 スポックは、すうと息を吸ってから、ふっと吐き出す。
 そしてサイドチェストにグラスを置くと、錠剤をひねり出し、摘み上げ、問答無用でこちらの口にねじ込んだ。その強引なやり方にびっくりして、カークは吹き出しそうになる。普段は控えめで丁寧な振る舞いをしているスポックに、こうも雑な手段を取られると逆に愛おしかった。きっとこんなふうに振る舞うのは、自分に対してだけだろうから。
 押し入ってきた指が帰ってしまうのが寂しくて、カークはスポックの人差し指に吸いつくと、爪の丸みを舌先で確かめた。その指先は、自分に熱があるせいか、いつもみたいにほてってはいなくて、どこかぬるくて輪郭が曖昧だ。確かにこれはスポックだよな? と不思議に思いながら無心でねぶっていると、唾液があふれてきて薬と一緒に飲み込んだ。喉に引っかかるような感覚に、ん、と声を漏らせば、ゆるんだ唇のあわいから、ずるりと乾いた中指が入り込んでくる。嬉しがって好き放題に舐めていると、そのうち喉の違和感もなくなった。
 身を乗り出してむき出しになった腿に、顎を伝ったものが、ぽた、と落ちる。そこではたとして、カークはいつの間にか閉じていた目をぱっと開けた。ほとんど同時に口の中から指が抜かれて、目の前のスポックは少し困ったような、持て余すような表情で視線を落とす。
「あ」
 あ、と言ってしまった。そんなことを言ったら、逆に妙な感じになってしまうのに。ここはざまあみろみたいな、そういう表情が似合うはずだった。わざわざ薬を飲んでやったのだから。
 ガンガンと頭が痛い。こめかみがどくどく言うたびに身をさいなむようだ。思わず、口元を指先でふさぐと、スポックはおもむろに手を伸ばし、グラスを取ると一気に水を飲み干した。
「あ」
……すみません、飲んでしまいました」
「あ、いえ……、大丈夫です……
……あなたはずいぶんと、ぼんやりしているようですので」
「ね、寝ます。寝ます……
「それがよろしいかと。次に起きたら何か口にしてください。何が良いですか?」
「スポック」
――
「あ、いや、あの、スポック、ありがとう。今はちょっと、食べ物のことは考えられない」
……分かりました。こういうときに最適な献立を調査しておきます」
「そ、そこまでしなくても。スープとかでいいよ」
「分かりました」
 スポックは、怒涛の真顔でそう言った。ああもう、とカークは思う。変なことを考えながら寝たからだろう、完全に油断していた。頭が追いついていかなくてしどろもどろになる。
 もたもたと横になっていると、スポックはこちらが布団に収まるのを介助してくれた。上掛けを引き上げる彼の手の、2本の指だけがうっすらと濡れていて、カークはとうとう顔を覆ってしまう。ああもう。ああもう。痛みと熱と馬鹿な何かで、頭が派手に破裂してしまいそうだった。
 パタン、と静かに閉じたドアに、カークはふううと息を吐く。意識はふわふわで、感覚もふわふわだ。だいぶ混乱しているし、うまく思考がつながらない。
 早く余命3か月になりたかった。あらゆる意味で、もうそれしかないんじゃない? これさあ。



 薬を飲んでひと眠りしたおかげか、次に目覚めたときにはずいぶんと楽になっていた。
 ほっとしたのもつかの間、自分がしたことを冷静に思い出して、冷静に頭を抱える。本当に、ろくでもない卑怯者のジム・カークめ。お前のその愚行が何を損ねているのかをよく考えてその身に刻め、このおたんこなす。
 窓の外はまだ暗く、おそらく深夜だろうと思われた。そっと寝室のドアを開けると、間接照明の抑えた明かりがリビングだけを照らしている。
 スポックはソファで、私用の端末を見下ろしていた。その真剣な表情には彫を深めるように影が落ち、端正な横顔は清廉とした雰囲気に満ちている。きれいなんだよなあ、とカークは思った。ついついぽかんと口を開けて、ぼうっと見入ってしまう。
 立ち止まると、彼は顔を上げた。きっとドアを開ける音がしたのに、歩いてくる音がしなかったからだろう。地獄耳である。
「起きましたか」
「だいぶ良くなったよ」
「良かったです。夜中になってしまいましたが、スープを召し上がりますか?」
「うーん、そうだな。ちょっとだけ」
 もうあまり寝られそうにないし、夜中だからって構わないだろう。そう言うと、スポックは軽く頷き、端末を置いて立ち上がる。
 キッチンで用意してくれるらしい彼に甘えて、カークは入れ替わるようにソファに座り込んだ。つけっぱなしの彼の端末には、小難しそうな文章が整然と並んでいる。とてもらしくて、自然と笑みがこぼれた。とはいえプライベートなので、あまり見ないようにしながら、カークは首を後ろに逸らして状態を確認する。強い痛みもなく、快適だった。
「というか、君は明日も仕事だろ。今何時だ?」
「あなたがスープを1杯飲む程度の時間ならあります」
「自分のスケジュールを優先したいときは言ってくれよ、まじで」
「はい。私は今、自分のスケジュールを優先していますので問題ありません」
……君はほんと、俺に甘いよな」
「無茶な作戦を立てるあなたを前にした私にも、その言葉が欲しいものですね」
「前言撤回。部分的に、すごく甘いしすごく辛い」
「そういうものを飽きない味と地球人は称賛します」
「スポックをこんなああ言えばこう言うヴァルカン人にしちゃったのって、俺なのかなあ」
「うぬぼれでは?」
「お、言うねぇ?」
 ほかほかと湯気の立つ器を持って戻ってきたスポックに、カークはにやりと笑みを投げる。スポックは取り澄ました表情で、けれど丁寧に、木製のスプーンが刺さったスープボウルをローテーブルに置いてくれた。そのまま隣に座るのを見て、カークは手をこすり合わせる。
「ありがと。ほんとに感謝してる。食べるぞ!」
「どうぞ。こぼさないように」
「子供かよ」
「そのもののような気がしています」
 そんな当てこするような言い方に、わざとらしくしかめた顔を向けてやった。彼はスンとした顔つきのままだったが、カークは構わず器を取って、温かいスープに口をつける。細かく切った野菜が沈んでいる、優しい味のスープだった。出来合いなのか、自分が寝ている間に彼が作ったのかは分からないが、スポックがそうしてくれるというだけで価値がある。にこにこしながらスプーンを動かしていると、隣のスポックは、再び手に取ったはずの端末を、早々に投げ出した。
「美味しいですか?」
「美味しいよ」
 こちらを向いて、慎重に問われたことに、カークは満面の笑みで答える。スポックはかすかに吐息すると、感慨深げにゆっくりとまばたいた。
「満足です」
「はは、君が?」
「はい」
「まあ、そういうもんだよな。分かる。君は百点満点、スポックくんはA+!」
「教官のあなたは採点が甘そうですね」
「君が厳しすぎるとも言う」
「私は適正でした」
「それとも俺だけに特別厳しかった?」
「そんなことは――
「ない?」
――でしたら、あなただけに、でしょうね」
「嫌ぁなOnly Youだな、それは」
「Only Youに変わりはありません」
 味わうようにスプーンを動かしながら、けれどスポックが早めにベッドへ行けるように。そんな速度を意識して、他愛のない会話をつなげる。ぽんぽんとリズミカルな受け答えを作りながら、カークは内心、どっと安堵していた。よしよし、これが普通の思考回路だ。安心した。あのままぶっ壊れてしまっていたらどうしようかと思ったし、その懸念をしてしまうくらい、自分がほとんどぶっ壊れる寸前なのも分かっている。
「あなただけです、ジム。私がこんなふうになるのは」
……言っとくけど、俺もだからな。お前だけがそんなじゃない」
 肩が触れるような、触れないような、そんな距離を保ちながら。
 もし余命3か月だったら、とカークは考えた。器を取って、横着に直接口をつけて、スープを飲み干しながら。
 それでも結局、臆病な自分は、呆然と立ち尽くしてしまうのかもしれない。
 こんな彼が泣いてしまわないようにするには、どうやったらいいんだろう。そう、思った。