はるの
2022-08-08 22:36:46
117528文字
Public スタートレック
 

未踏の楽園

全年齢|AOS spirk|2021.4.15|STBのあと、ヨークタウンでふたり暮らしをするジムとスポックがそのうち付き合う話。「そのうち付き合うタイムライン(https://privatter.me/page/65a92eff4fa14 )」シリーズの集大成になりますので、シリーズ内他作品からの遠慮ないエピソード引用を含みます。



 カークの出勤日にはいつも、スポックは連れ立って艦隊支部を訪れていた。けれどもちろん、その後の行動は必然的に別になる。それはヨークタウンに限らず、地上勤務では通例のことで、帰宅時間を合わせられる日も、合わせられない日もあった。そもそも、彼とは所属部門から違うのだ、得意分野も違えば、負っている責務も異なっている。違うからこそ互いを補えるのだと、そう認識したのは何年前のことになるだろう。
 けれど今日は珍しく、朝から同一のスケジュールだった。朝いちで予定されていた、ファイブ・イヤー・ミッションの進捗報告会である。
 エンタープライズAの造船は順調で、最終的な動作確認も含めた竣工は約3週間後に設定された。現時点では遅延が発生するような懸念もなく、出航式のあと、出立準備を整えて、今から1か月後にはミッション再開の予定である。
「ま、1回地球でやったことだし、長期航行の準備は順調にいくだろうけど」
 解散になった会議室から退席して、肩を並べて歩きながら、カークは気楽な調子で組んだ腕を頭の後ろに回した。
「ボーンズを現場から抜くのがまた一仕事だろうなあ」
 こちらを見て明るく笑う彼は、生き生きとしていてひどく元気だ。こういう表情をするとき、いつも完璧な曲線を描くその唇を、ほとんど芸術のように感じている。
「所属艦のミッションが優先です。艦隊士官であれば承知と思いますが」
「君は知らないかもしれないけど、シスコでも相当だったぞ。主戦力を連れていかないでくれって、かーなーり、嘆かれた。あいつここでもほぼ主戦力になっちゃってるだろ。だからぜーったい、まーた、優秀な医者をちょろまかす権力、みたいな顔されるんだぜ、どうせ」
「それはドクター・マッコイが適切な引継ぎをすべきでは?」
「ドクター・マッコイは適切な引継ぎをするんだよ。けどあいつ、『あ、ジムが呼んでるわ、ごめんな』つってあっさり手のひら返していそいそ俺の元に帰ってくるから、それを見た医局がものすごい顔をする。なんであいつは行く先々で全力を尽くしちゃうんだろうな、本当に」
「そういうふうにできているようですからね、彼は」
「はあ。でもちょっと、ゆうえつかん、かな。あいつが評価されるのも、そんなあいつが俺のなのも、嬉しい。内緒だぞ」
 人差し指を鼻頭にくっつけて、カークは楽しそうに笑った。ゆうえつかん、なんて少し後ろめたいような気持ちを素直に伝えてくれることに、スポックは胸が熱くなるような心地を覚える。足取りは弾んだように軽やかで、にこにこと微笑む彼の目じりには優しい皺が寄っていた。
 ファイブ・イヤー・ミッションの再開は、彼にとってこのようであるようだ。そう思うだけで、満ち足りるような気持ちになる。
「あ、でも今回は、科学部門からもなんか言われそうだなあ。君、セミナー周り、めちゃくちゃ協力的だったもんな。なんか盛況だったみたいだし。あとラボのメンバーも君のことすごく気に入ってて」
「あなたを煩わせないように、一言言っておきましょうか?」
「ふはっ、それはちょっと、自分で大きく出すぎじゃないか?」
「キャプテンを補佐するのが私の役目ですので」
「いーよ。言っただろ、ちょっとゆうえつかん、なんだ。言われるのは嫌じゃない。それに、ボーンズは下町の愛着感があるけど、君はどちらかというと高嶺の花だからな。案外素直に分かりましたって言ってくれるかも」
「科学士官でしたら、基本的には論理的に返答いただけるはずです」
「医局も同じサイエンスブルーのはずなんだけどなあ」
「それは……、フォローしかねます」
 ありていに言ってマッコイを切り捨てると、カークは声を上げて笑った。その声を聞いて、エレベーターホール脇のラウンジで軽い打ち合わせをしている士官たちがふっと顔を上げ、彼の華やかな笑顔を写し取ったように頬をゆるめる。
 たぶん、マッコイよりも、スポックよりも。
 この人工惑星からジム・カークを連れ去ってしまうことのほうが、彼らは大いに嘆くだろう。おそらく筆頭はパリス提督だし、それは艦隊の垣根を越えて、市井の一般人にまで及ぶに違いない。
 けれど、彼は自分たちのものだ。
 スポックはそう考えて、ちょっとゆうえつかん、という彼の言葉を反芻する。彼が評価されるのも、そんな彼が自分たちのものなのも、嬉しい。確かに、こんな気持ちは内緒にすべきだ。そう思った。



 突然、スポックの部屋に転がり込んできたカークの目的を、スポックはよく分からないでいた。「スポックの生活を知りたい」と彼は言ったが、その知識を使って何をするつもりなのか、あまり想像ができない。けれどもしかしたら、目的なんて何もなくて、ただそばにいたいという、やたらふわふわした何かが動機である可能性も否めなかった。それほどに、共に暮らす彼は、かつてないほどあけすけだったから。
 こちらの好意にも自分の好意にも明確な線引きをするカークが、そうしておいて自分からひょいと線を越えてくる振る舞いは、心臓に悪い反面、とても謎めいていて、彼らしいような、そんな印象を抱いている。じりじりと持て余すような衝動にさいなまれることもあったが、意外とそのような暮らしを続けていると、慣れていくものだった。時に物置にこもって延々と瞑想するような日もあったけれど、スポックはとにかく、彼を好きなようにさせることを最優先として暮らしてきた。それは彼への情に由来する譲歩であったり、諦めであったりもするのだが、一番の理由はもう少しシンプルで、自分本位な欲である。
 下手なことをして、この生活をなくしてしまいたくなかった。
 手を伸ばせばすぐそこに彼がいて、ためらいなく触れても許される、この暮らしを。
 カークに触れるたび伝わってくる感情は、いつになく素直だった。ふたりきりの部屋にいる間は、ずいぶんと気を抜いているようで、逆に彼が今まで見せていた感情は、相当ひねくれて隠されていたもののかけらでしかなかったのだな、と唖然としてしまったほどだ。
 指先で感じる彼の意識は、常に揺れ動いていた。ためらったり、思い切ったり、ゆだねたり、落ち着いたり。けれど必ず、例外なく、スポックだけを向いていた。まるで一途に、スポックだけを意識して、彼はいつもスポックでいっぱいだった。それはひどく強烈な、たちまちにこちらの息を止めるほどの、安心と、優越と、あまりきれいでない欲望を腹の奥に押し込むような感情を呼び起こさせ、スポックはひるみ、立ち尽くすような気分を繰り返し味わった。けれどとてつもなく、それは断ちがたい熱情だった。
 ヨークタウンでの暮らしが終わる頃、とスポックは考える。
 終業前に自分のスケジュール表を確認して、カレンダーの出航日を見つめながら。
 この曖昧で、どっちつかずで、抽象的な関係から、何か確固たるものが生まれるのだろうか。
 帰宅する旨のメッセージを送った端末は、沈黙したままだった。忙しいときは答えが返らないこともあるので、スポックは少し寂しく思いつつも席を立つ。「少し寂しく思う」なんて感情にも、ずいぶんと慣れたものだ。
 この暮らしが終わってしまう前に、もう一度好きだと伝えてみようか。そうして彼がとうとう観念して、白旗を挙げてくれたら一番いい。そしたら自分の腕の中に閉じ込めて、もう何も我慢しなくてもよくなるはずなのだ、お互いに。



 おかえり、というカークの声が返らない、明かりが落ちたままの部屋にも、物足りなさと寂しさを感じる。ずいぶんと贅沢になってしまったものだな、と思いながら、スポックはリビングの照明をつけた。この明瞭なブルーのソファに座って、帰ってきた自分を見上げる彼の、嬉しさをじんわりとにじませているような微笑みを、まるっきり高精細に思い浮かべることができる。何か月もそうしてきたのだ、この部屋での彼の振る舞いは簡単に想像できるし、付随して今までに見てきた彼の言動もつぶさに思い出すことができた。彼はここに並んで座ると、よくよく自分に甘えてくる。ベッドの中に至ってはそれ以上だ。体のどこかをくっつけていないと息ができない生き物のように、薄着の服から伸びたしなやかな手足を絡めて、『キャプテン』からは想像もできないような、ひそやかさと大胆さを併せ持つやり方で。
 ふう、とスポックは吐息して、思考を切り替えた。こういうとき、自分がまるで馬鹿になってしまったようで、後ろめたさと、羞恥心と、それでも『そうあれるのは彼のせい』という唯一の動機に愛着を覚える。奇妙な心境だった。もうずっと前から抱いているものだが、いつまで経っても奇妙だと思う。きっと、この奇妙さが悪いものではなく、どちらかというと魅惑的なものだからだろう。いつだって彼に惑わされていたい。
 制服を脱いで簡単な着衣に変更し、スポックはキッチンに立った。いつも出来合いのものだが、カークは文句を言ったことはない。もちろん、自分も同様である。ふたり分を用意しながら、スポックはちらりと顔を上げた。ソファ前のローテーブルに置いた端末は、まだ沈黙したままである。
 あとは温めるだけ、という段まで来て、スポックは手を洗った。そしてリビングへ向かい、端末を拾い上げる。今日はミッション再開までの正式なスケジュールが出たから、張り切って働いているのかもしれない。もしくは彼の言ったとおり、医局と謎のバトルを繰り広げている可能性もある。
 スポックは首を傾げてから、書斎を経由して仕事用のパッドを取り出した。ソファに座りながらスケジュールを出して、カークの予定を呼び出すが、特に遅くまでかかるような仕事は入っていないように見える。画面のすみに表示されている時刻は、自分の把握と相違なかった。探査帰りの本部勤めならさておき、人員リソースであふれた今のヨークタウンで、こんな時間まで仕事をするようなことは本来皆無のはずである。
 ふと、不安が胸をよぎって、スポックはカークの現在位置を呼び出した。コール結果はなしで、彼はもう支部の建物にはいないようである。
 スポックは立ち上がった。手元のパッドを見下ろしたまま、頭がぞっと冷えていくような、逆にかっと燃えるような、そんな制御しがたい衝動を感じる。
 帰宅する彼に、何かあったのかもしれない。自分がのんびりと甘い思い出に浸っている間に、何か事件にでも巻き込まれたのかもしれない。もしくは自分から突っ込んでいったか。彼にはそういうところがあるから。
 素早く、私用の端末で、カークに通話をつなげる。けれど呼び出しすらなく、彼の端末自体の電源が落ちていると思われた。リトライして同様の結果を得ると、スポックは俊敏に踵を返す。寝室で、着ていた服を脱いてベッドに放り投げた。続けざま、外出用の服に着替える。クローゼットに頭を突っ込んで、奥の上着を引っ掴んで、スポックはふと動きを止めた。
 思考回路が、まるで一気に錆びついたように停止する。
 呆然としたまま顔を戻し、スポックは隣の扉をそっと開けた。そしてカークの衣装箱を持ち上げる。
 すかすかになったハンガーポール、軽くなった衣装箱、なくなっているダッフルバッグ。
 ただ放心して立ち尽くし、それらを見つめることしかできなくなる。なくなっているのは、彼がここへ来たときに持ってきたものだけだった。あとから買い足したものは、すべてそのまま残っている。馬鹿げたダメージTシャツも、ベッドの上のタオルケットも、戸棚の中のマグカップも、彼が好んで飲んだ茶葉も。
 ほとんど呆然自失した、夢遊病者のような足取りで、スポックはインターホンパネルの前に立った。
 何も考えられないまま、呆けたような指先で、のろのろとメニューを呼び出す。
 表示された生体認証リストには、スポックだけが記されていた。