ヨークタウンに帰還したカークは、実によく働いた。
大きな組織の中で自分のしたいことを通す、という仕事はしばらくぶりだったが、基本的に運は良いほうである。建造中の航宙艦を譲渡いただくくだりでは、もちろん渋る陣営もいたのだが、〝たまたま建造中〟に居合わせる悪魔のような強運、などというなかなかにスパイシーな見解も、カークにとっては処理し慣れたものだった。かつてのナラーダ事件で、航宙艦7隻を踏み台にしてのし上がった若造、なんてそしりを受けつつ堂々と昇進してやったことを穏やかに思い出しつつ、カークはそつなくパリス提督を味方につけ、艦隊本部への稟議書も渾身のものを作成した。宛先には事前に話を通してある将官を含めて、これまでにエンタープライズで成した業績へもさりげなくリンク済みである。カーンの事件でもそうだったが、いつもエンタープライズのおかげで、こういう類のわがままを押し通す羽目になっている気がする。けれど、絶世の美女に振り回されている、と想像すれば、そう悪くもない苦労だった。
稟議が通るには、1週間ほどかかった。
その間にカークは、墜落した船体からの重要物品の回収や、放射性物質を含む船体自体の完全無力化について、プロジェクトの立案と管理に奔走していた。採決を待たされる時間をもっと長く感じるかと思っていたが、ほとんどあっという間である。忙しい日々の合間に、パッドのバルーンでぽこりと表示された稟議承認通知を見下ろしながら、自分も歳を取ったな、などと感慨深く思ってしまったほどだ。
稟議の内容には、ファイブ・イヤー・ミッションの継続についても含まれている。つまり、これが承認されたということは、正式に、ミッション再開の許可が下りた、ということだ。
正直、めちゃくちゃほっとして、報告会が終わったあと、同席していたスポックの肩だか背中だかをあちこちばしばし叩いてしまった。それでもなんだか落ち着かなくて、マッコイを飲みに誘ったら、何故か自分の誕生会が始まったわけである。
ミスター・センシティブのたくらみは、実に鮮やかだった。
こちらは無条件降伏で、ただ彼らの存在に感謝し、遠い宇宙に思いを馳せることしかできなくなる。幸せだった。
ここから発つための仕事はまだまだ残っているけれど、とにかく、エンタープライズへ帰ることができる、という実感はすごく嬉しくて、それを嬉しく思えている自分が、本当の本当に嬉しかった。悪くない、と自然に思えることが、こんなにも幸せなことだったなんて考えもしなかったくらい。
ぽつんとひとり、建造中の航宙艦を見上げていたスポックを見つけて、カークは隣に立った。なんとなくその背中が、寂しいようにも、頼もしいようにも見えたからだ。自分の中にたくさんの葛藤が詰まっているのと同じように、彼の中にもきっとたくさんの葛藤が詰まっているのだろうと思った。
大使の話を振ったら、提督の話を振り返される。その流れに何となく、思うところを感じる。
おおむね、という言葉でお互いのシリアスを終わらせた、翌日の仕事上がり、カークはスポックに呼び出された。
ヨークタウンの艦隊支部が所有している宿舎の空き数は有限であるため、上級士官は軒並み、それ以外でも可能な限り、自力で仮の住処を手配するよう申し伝えられている。ヨークタウン側の献身的な協力もあり、艦隊内の仮眠スペースはあっという間に閑散としたものの、カークはぐずぐずとそこに居座っていた。というのも、まあご覧のとおり、全力で根回しに駆けずり回っていたおかげなのだが、スポックとマッコイにやいやい言われて、やっと自室の契約をしたのが今日である。
「つーわけで、俺んちは人呼べる状態じゃないから。それともどっか飯行く?」
「いえ、プライベートのことなので。私の部屋へご案内します。それよりもキャプテン、あなたはまだ自分の住まいを」
「だから今日やったって言ったろ?! 日当たりよし、公衆転送機まで徒歩1分!」
「どうぞ、ヨークタウン支部のご迷惑にならないように」
「俺を何だと思ってんだお前は。分かった、お前んちな。お前んち行くの初めてだな」
「私も3日前に移動したばかりですので」
「そんでプライベート? なんだ、結婚の相談か? 昨日の帰りも楽しそうにウフーラとふたりでしけこみやがって」
「スポック大使のことです」
ごちゃごちゃと言葉を連ねていると、こちらを遮るようにして、スポックはそう言った。
その名を出されてしまえば、カークはただ息をのんで、彼を見つめることしかできなくなる。
黙り込んだこちらに対し、スポックは静かに視線を合わせてきた。よくよく、気になったものをこんなふうにじっと観察するのが好きな男である。そんなことを考えていると、彼はやがて小さく頷き、帰りましょう、とカークを促した。
スポックの新しい部屋は、彼らしくなく明るい様子だった。航宙艦が完成するまでの長期滞在、といっても半年弱のことである。きっと大したこだわりもなく、家具付きの物件を借りたのだろう。きれいなブルーのソファはふたり掛けで、黄色のかわいいクッションつきだった。白い壁のうち一面だけに明るい緑青の壁紙が貼られていて、天井からはなんだかおしゃれな丸っこいライトがぶら下がっている。
カークはとりあえず、豪快に吹き出した。
「かっ、かわいい部屋だな~! 北欧テイストじゃん! やだスポックおっしゃれ~!」
「お気に召したようで何よりです。適切な部屋数を有する物件がここでしたので」
「は~、ちょっと、ちょっとスポック、このソファに座って。それからこのクッション抱えて。よーしそのまま、写真撮るから待って」
「ジム」
困惑したようなスポックをかわいいソファに押し込んで、カークは私用の端末を構えた。めちゃくちゃかわいい写真が出来上がって、うんうんと満足する。
「次はもうちょっと偉そうに、こう、このくそキャプテンが、みたいな感じで腕組んで」
「なんの注文ですかそれは」
「すごいかわいいとこでぷんぷんしてる風景がかわいい」
「何ひとつ理解できません」
どこか呆然とそんなことを言うスポックもかわいくて、カークは気にせずシャッターを押した。ああしろこうしろという注文に、彼はぶつぶつ言いながらも付き合ってくれて、ずいぶんと自分に甘くなったよな、となんだか感慨深く思う。
スポック大使のことである。
最初に彼の訃報を聞いたとき、驚きと悲しみにそれ以外が吹き飛ばされ、しばらくは何も考えられなかった。けれど、彼が寿命をまっとうしたことや、始終穏やかだったその様子を思い浮かべれば、右も左も分からなくなるような混乱は落ち着かせることができた。
そして、考えたのは、スポックが帰ると言い出すんじゃないか、ということだった。
彼の思考を、ある程度追えるほどには親しくなった、と信じている。スポックにとって、母星というものは特別だ。彼が『半分地球人』ではなく、『半分ヴァルカン人』であることを選んだ歴史を考えると、普通のヴァルカン人以上に、彼にとっては強烈なアイコンになっているのだろうと思っている。
それに、そもそも彼は、スポック大使がいなければ、ナラーダ事件のあと、そのままニュー・ヴァルカンに帰っていたはずなのだ。あの時点で彼に「乗船の許可を」と言わせるためには、自分だけでは不十分だった。
今ならきっと、彼を引き留められるだけの信頼がある、とは思うのだが、どうしたって確証はない。自分が思うよりたくさんの愛情が必要だった、と後から気づくのは簡単である。大使に対する強烈な喪失感と共に、自分の大事な人もいなくなってしまうのではないかという猛烈な焦燥感に襲われて、カークはマッコイに病室でべそべそと泣き言を言ってしまったうえ、スポック本人にもしがみついてぽろっと欲をこぼしてしまったほどだ。エンタープライズでのあれは本当にやばかった。
そんなふうに、実際どうなのか詳しく知りたい、という気持ちと、聞いてしまって何もかもを確定させてしまいたくない、という気持ちをジャグリングさせながら、カークは毎日スポックの動向に神経を使う羽目になっていた。けれど、ここ1週間の彼の様子は、いたって安定している副長然とした態度で、ファイブ・イヤー・ミッションの継続にもほっとしたような顔を見せたくらいである。
もしかしたら、自分の思い違いだったのかもしれない。
そう思ったのもつかの間、わざわざ『プライベート』と銘打って呼び出されたのだ。
「もうよろしいですか」
「次はアップで撮る」
つまるところ、こんなふうにろくでもない会話を延々つなげようと腐心しているのは、自分が決定的な話を聞いてしまいたくないからだ。かわいそうに、とカークは思う。こんな馬鹿な上官に捕まってしまって、なんてかわいそうなスポック。
「ジム」
最悪、めちゃくちゃ落ち込んだらこの写真を見て元気出そう、と思っていると、とうとうしびれを切らしたスポックが手を伸ばした。
アップで撮ろうと突き出していた腕を掴み、レンズ越しに強い視線を据えてくる。
穏やかな間接照明に似合わない、凛とした双眸。目元は涼しげであるのに、その瞳だけはひどく濃く、奥に熾火を隠している。
シャッターを押そうとして伸ばした指を、カークは結局引っ込めた。こんな表情のスポックを残してしまったら、いつか大泣きしながら彼に跪いて、足にしがみつきながら許しを乞うてしまいそうである。
「分かったよ。話な?」
「その前にお茶を淹れます。座ってください」
顔を上げておどけたようにそう言えば、彼は腕を引いてカークを座らせ、入れ替わるように立ち上がった。
彼が淹れてきたお茶は、彼が好んでいるものだった。その大自然が詰まったような、一言で言うと土を食ってるみたいな気分になるお茶を、カークはよくよく揶揄したものである。マグカップを受け取って中身を見下ろし、にやりとした顔を上げると、スポックは片眉を跳ね上げてから隣に座った。
それから彼は、無言でタブレットを取り出すと、ソファの前に下ろしたディスプレイに電源を入れて同期する。そうして部屋の照明を薄暗がり程度に落とし、ひとつのファイルを再生した。
前言どおり、スポック大使が映っている。
ニュー・ヴァルカンの話をしているので、彼がいつもやり取りしていたビデオレターのひとつだろう。
そしてきっと、これが最期のレターなのだ。わざわざスポックがこうして用意するくらいだから、きっと重要な内容が含まれている。
そう考えて、カークはごく真剣に、自分の友人でもある老人の姿を見つめていた。自分のろくでもないあれやこれやは一旦置いて、頭の中をクリアにする。そういうことは、割と得意だった。もしかしたらヴァルカン復興に関する特大のミッションが残されていて、それを手伝ってほしいという依頼かもしれない。
けれど、そんなふうに身構えたカークをまるであざ笑うかのように、かのハーフヴァルカンはとてつもない感情を置いて、Good Luckなんて軽やかなことを言い残し、まるで鮮やかに去っていった。
「彼の残した私物の中に、これがありました」
映像が終わって画面が黒くなると、スポックは静かにそう言って、ガラス製のローテーブルに置いていた小さな金属の板を拾い上げる。
差し出されたので、受け取った。今はただ、そのようにすることしかできない。
会いたい人がいる、と微笑んだスポックの、あまりにも巨大な、懸命で、独りよがりの、それでもこの世で最も純粋な美しいもの。まるで生涯を賭して塗り込められた教会いっぱいの天井画を見るような、圧倒されて膝を折るような、そんな呆然とした心境だった。カークはほとんど呼吸を忘れたまま、渡された板の緻密な彫に触れる。裏返してから側面を見て、もしかしてと思い天板をスライドさせた。
「彼は意図せず、こちらの世界に飛ばされています。ですから、普段から常に持ち歩いていたものと思われます。ディスプレイは蓄光する塗料を使用しており、電源は必要としません。いつでも開きたいと考えるなら、私も同じ機構を利用するでしょう」
これを、スポックが、あのスポックが、こんなふうにして、ひとりきりになってもずっと胸に秘めていた、ということを、彼のみんなに伝えて回りたい、と思う。
きっとびっくりして、そのあとめちゃくちゃ嬉しくなって、うんと抱きしめたくなるだろう。もし自分だったら、飛び上がって有頂天になって、絶対に泣いちゃうはずだ。
照明の絞られた室内に、ちかりと浮かび上がるその写真を、カークは丁寧に仕舞い込んだ。
それから乱暴に靴を脱いで、両足を揃えてソファの上に引き上げる。立てた膝の上に両腕を組んで、覆い隠すように顔を伏せた。鼻頭につんとした痛みを感じて、カークは慎重に息を吐く。
「ジム。私は彼の逝去を知ったとき、宇宙艦隊を去ることを考えました」
スポックは身じろぎもせず、静かにそう告白する。
「社会的、そして生物的な復興を手伝うためです。ニヨータとの交際を解消し」
「解消? ウフーラに話したのか?」
「はい。
――あなたには、話せずじまいでしたが」
突然の衝撃的事実が飛び出してきて、カークは思わず顔を上げた。やや驚いたような表情のスポックと目が合い、彼は少しだけ、痛切に眉を寄せる。
「ですが、あなたに話す必要がなくなったのです。私はその後、意思をひるがえし、艦隊に残る決意をしました」
「えっ」
「『やめるのをやめた』のです」
「は
――」
「すみません、ジム。私が入院した日を覚えてらっしゃいますか。ヨークタウンに戻った日の夜です」
「あ
……」
「あなたが面会に来てくださったとき、私は途中から起きていました。正確に言うと、レナードに起こされたのですが」
「
……ボ」
「ですから、あなたの話をすべて聞いています。そして今から、私は私の罪悪感について、すべてあなたにお話しします」
スポック大使のことで呆然としていたところに、にわかには信じがたい話をまるでマシンガンのように撃ち込まれ、カークの普段ならよく回る思考は完全に停止した。
ただ静謐に、どこか決然と、そう言うスポックの表情を、ただただ放心状態で見つめる。
彼の真摯な眼差しを、薄暗がりでもきれいだと思った。あの日、自分がどこまで何を話したのか、うまく思い返せない。
そうして、彼は淡々と、澄明で確かな心情を、ひとつひとつ並べていった。感情をあらわにすることを忌避するヴァルカン人らしくなく、けれどすごくスポックらしい、よく整理された、理知的な声で。
エンタープライズの副長であることと、長寿と繁栄を尊ぶヴァルカン人であることを、どちらも優先したくて陥っている二律背反と、どちらに決めてもどちらかを一生引きずることになりそうな覚悟の話。聞いているうちに、マッコイへの恨み言とか、自分が何を発言してしまったのかなんて吹き飛んで、こうして目の前で苦しんでいるきれいな人をただ助けたくて、慰めたくて胸がいっぱいになる。
「ジム、あなたを裏切りたくありません」
いいよ、とカークは思った。
いいよ、いくらでも裏切ればいい。君にされるならなんだっていいんだ。
まるで祈りを捧げるような、敬虔な表情のスポックには絶対に言えない、そんなあさましいことを、舌の裏に仕舞い込む。
「ですが、彼のこの宝物を見て
……、私は、私自身のために、今必要なのはあなただと確信しました。いつか私がひとりきりになってしまったとき、私を生かすのは、あなたたちだ。だから時が来るまで、私はあなたの船に乗りたい。何を引きずってでも、そこにいたい」
「スポック
――」
「乗船の許可を、キャプテン」
まるで疑いを知らないような、純度の高いまっすぐな眼差し。
カークはそれを真正面から受けて、思わず両手で顔を覆った。
まるっきり心はぐちゃぐちゃだ。嵐に飲まれてあらゆることを見失うような、こんなにもわけが分からなくなる感じは久しぶりだった。どのように自分を立て直せばいいのか、途方に暮れて動揺する。自分をコントロールできないことほど、恐ろしいことはなかった。死ぬことよりもずっと怖い。けれど、スポックがいなくなるほどには怖くない
――。
乗船の許可を。
その言葉をひとりでは引き出せなかった、かつての自分が胸をよぎる。
けれど今の自分はもう、あのときみたいに純粋な気持ちではいられなくなっている。彼のこの誠実さに応えられるほど、正しくもない。自分のきたなさがどんなにみにくいかを知っているし、そういうものからこそこの男を守りたいと、自分は確かに思っていたのではなかったか。
でも、許可をすれば、スポックは一緒にいてくれる。
――ここに、いてくれる。
「キャプテン」
引き攣れるようになってしまったこちらの呼吸に、スポックは再度、そう呼びかけた。
大使のことでも頭がいっぱいなのに、スポックのことでも胸がいっぱいで、自分のずるさにもほとほと呆れ果て、完全にキャパシティオーバーだ。ひっ、と勝手に喉が鳴って、とうとうスポックはこちらの腕を優しく掴んだ。
ゆっくりと、けれど有無を言わせず、顔から手を外される。とっさに閉じたまぶたに押され、溜め込んでいたしずくがひとつ、落ちてしまったのを頬に感じた。薄暗いからごまかせる、と絶望的に考える。いつだってごまかせるわけなんかないのに、どうしたって見苦しく足掻いてしまう。
腕を掴んでいたスポックの両手が、肌を撫でながらするりと滑った。そのまま両手の甲を温かく包み、ほんの少しだけ躊躇して、くるりと手のひらに回ってくる。
びっくりして、思わず目を開けると、目の前にスポックがいた。
そりゃいるだろう、当たり前だ。当たり前だけどびっくりして、失敗した、と直感する。
ひたと見つめる、濡れて濃い色をした虹彩。
そうして彼が唇を薄く開け、何かを言おうとするのが分かって、カークはとっさに息を吸った。
「許可する」
――ああ、もう本当に救いようのない。
でもどうせ、そのうちそう言ったはずなのだ。結局自分はそう言った。そんな見下げ果てた安堵を感じることが後ろめたくて、ぼろっと涙がこぼれてくる。これは悔し泣きなんだろうか。それとも嬉し泣きなんだろうか。嬉し泣きだとしたらずいぶんとひどい話である。
許可を得たスポックは、わずかに眉を寄せた、ようだった。嫌だったのかと思ったが、それならまずこんなことは言い出さないだろう。視界が悪くて、いつものようにスポックの感情を推し測れない。
顔をぬぐおうとして手に力を入れると、まるで逃げられるとでも思ったように、彼は引き留め、手のひらを掴んだ。その欲するような切ない動作を、嬉しい、と思う自分が恐ろしくて、ひどい頭痛に襲われる。今や涙腺はバグっていて、手が付けられない状態だった。このまま全部水になって、流れ去ってしまいたい。
ひっ、とまたしゃくりあげてしまったとき、スポックは掴んでいた手のひらを合わせて、そのまま指を絡めて握り込んだ。
それから、とても慎重に、その美しい瞳を伏せると、割れ物に触れるように、唇を合わせてキスをした。
カークは帰ると言い張って、彼の家を飛び出した。何か弁明しようとするスポックを遮って、とにかくがむしゃらに艦隊支部まで戻ったのである。今日から転居可能だということを完全に忘れていて、カークは仮眠室の硬めのマットレスに頭から突っ込み、豪快に毛布をひっかぶった。
スポックの大きすぎる敬愛は、いつだって少しはみ出ていて、たぶん、地球人が考える友情と愛情の境目は、ヴァルカン人が考えるそれとは少し隔たりがあるのだろう、とカークはずっと思っていた。幼少期にもれなく婚約者を据えるような文明である、もしかすると〝それ〟以外は、一緒くたにされてしまうのかもしれない。
だから、こんなことをさせるつもりは一切なかった。
本当に、なかったのだ。
……彼が指を割り、顔を寄せるまでは。
カークは頭を抱え、ごろんと寝返りを打った。結局あの瞬間、自分は動かなかった。少しでも顔を背ければ済んだことをしなかった。馬鹿で間抜けで貪欲な自分は、望んでそうなったのだ。彼と初めて指先を触れ合わせたときもそうだった。あれからずいぶん経ったのに、その愚かさはちっとも変わっていない。
しこたまの後悔と、驚くほどの高揚と、残りのよく分からないいびつな何かが詰まった体が憎たらしくて、自分で自分の頭を叩く。そんなことをしても何も解決しないことは、もちろん百も承知である。
小さな音がして、カークは身を起こした。
見ればタブレットが光っていて、通知を受けたことを示している。このタイミングなら、どう考えても送り主はスポックだろう。カークは恐る恐る端末を取り上げ、死刑宣告でも受けるように、そっと画面に目を落とす。
――おやすみなさい。また明日。
しばらく、呼吸を忘れてしまった。
どんな顔をして、こんな非論理的な文章を打ったんだろう。何を思って、何も問わないことと、それでも明日への約束を誓うような言葉を選んだんだろう。そう考えると、たまらない気持ちになる。画面を自分の胸に伏せて、カークはばたんと倒れ込んだ。
スポックを、心から大事にしたいと思う。
だから、今の自分ができることを、きちんと真摯に考えるべきだ。
彼のためにできることを。カークは目を閉じて、混乱した自分の心をひとつひとつ尋ね出し、整理する作業を始めた。
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