ツキシキ
2023-07-02 00:29:32
72006文字
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★刀剣乱舞・刀剣乱夢まとめ

7作品9振り。愛憎夢(刀さに)、死ネタ、ホラーなど。


→前ページから続く
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 へし切長谷部は寝所で一人、黙々と床の支度を整えていた。
 といってもやることは少ない。布団を敷いて枕を置いて、後はせいぜい、ふとした目覚めで渇いた喉を潤すための水差しを用意するくらいだ。香を焚き染めることも思いついたが、肝心の主が香を好むのかすらわからず、下手に出過ぎた真似はするまいと取りやめた。近侍であった燭台切光忠なら知っているかもしれなかったが、だからといって安易に聞きに行くことは彼の矜持が許さなかった。
 本来であれば、近侍の任に就けるのはこれ以上ない誉だ。その立場には、主の信頼と寵愛が一心に詰まっている。ゆえに、へし切長谷部はそうなれるよう死力を尽くしてきた。近侍の座に居座り続ける燭台切光忠と己を比べて、あんな奴のどこがいいんだと、胸の内でこき下ろしてやったことも数え切れぬほどあった。
 しかし、実際こうして近侍になれた今、へし切長谷部を満たすはずの喜びはどこにもなく、そこにはただ塞ぎようのない致命的な空洞が漠然とあるのみだった。

 いらない、と。
 非情な言葉がへし切長谷部の脳内で幾度も反響する。

 何故自分は嫌われているのか? 根本的な部分はへし切長谷部自身、全くもって不可解だった。それでも、何とか自分は役立つ忠臣であると理解してもらうべく、粉骨砕身でひたすら働いてきた。そんな日々も明日に終わりになると言う。
 床を整え終わり、落ち着かない心を無理やり据え付けるように、床のすぐ傍で腰を降ろす。自然と姿勢が正座になっていた。
 ふ、と、風を感じてへし切長谷部は振り向く。閉ざされていたはずの障子は音もなく開かれており、そこには審神者が立っていた。白い寝間着が薄暗がりの中でぼんやりと浮かび上がる様は、どことなく幽玄な雰囲気を漂わせる。
 その雰囲気に酔いかけたへし切長谷部は、振り払うように声を出す。

「床の準備は整っております」
「見ればわかるわ」

 審神者は無情にそう言って寝所に入り障子を閉めた。近侍と審神者、二人きりの空間が出来上がる。が、そこに親密さや秘密めいた温かさはどこにもない。
 審神者は布団に足を潜り込ませて、へし切長谷部に命じる。

「灯りを消して」
「はい」

 言われた通りにへし切長谷部は動く。そのくせ、灯りを消してしまった後、訪れた暗闇と沈黙にどうしようもなく焦り始める。
 あれほどまで尽くしてきたというのに全てが無為に終わってしまうのか。これほどまでにあっけなく、終わらせてしまっていいのか。
 未練がましいことを自覚しながら、へし切長谷部は口を開く。

「主。これでお休みになられるなら俺は、」

 なんと続けるべきか迷って、間が開く。審神者は聞いているのかいないのか、一応は身を起こして彼の言葉を待っている。

……下がった方が、良いでしょうか」

 俺はおしまいなのか。言いたかったことを結局胸の内に追いやって、代わりの言葉を口にした。すると、審神者は声を忍ばせて笑う。

「お前はそんなこともわざわざ訊かなければわからないの?」
…………申し訳ありません」

 へし切長谷部は謝罪をして、立ち上がる。主はどこまでも自分を嫌っているのだから、不快にさせないためにも、早々に下がるべきなのは言うまでもないことだ。そう判断して、そのまま障子に手をかけようとする。だが、そこでふと、彼は思いついてしまう。
 あんなにも冷たい会話が最後でいいのだろうか。
 どうせ、今日で終わりだと言うのなら、今までの不当な扱いの理由を洗い浚い問いただす権利くらいはあるのではないか。
 例えここで刀としての生が途絶えるとして、また不可思議な力で呼び出され、新たな主を持つことになる可能性だって、無いとは断じがたい。その時自分は同じ間違いを繰り返さないと言い切れるだろうか? 前の主も、今の主も、俺の何が気に食わなくてお役御免にするのか、わからないままだというのに。

「主」

 へし切長谷部は内なるものに急かされて、気づけば審神者に呼びかけていた。

「なぁに」

 返された声は意外にも柔らかかった。こんな声も出せるのか、とへし切長谷部は内心驚く。今まで聞いたことのない声色だった。今から寝るのだと叱責されるものと思っていたせいか、続けようとしていた言葉が飛びそうになる。
 けれども、これはなあなあで流してしまってはいけない。決心して息を吸う。

「思えば主は、初めから、俺を嫌っていましたね。俺の何が、気にいらないのか、教えて頂けませんか。俺の何が至らないのですか。顔?性能?話し方?」

 へし切長谷部は逆に、主に対しての物言いにしては珍しく、棘を含んで畳みかけた。出した声の低さに自分でも戸惑ってしまうほどだったが、それでも撤回する気は無かった。むしろ、答えられるのならば答えてみろ、という不遜な想いがあったのも確かだった。
 審神者はそんな彼の口調に気を悪くした様子もなく、先ほどと同じように柔らかな言い回しで返す。

「なら、先に聞かせてちょうだい。お前はどうして私の命令をきくの?」

 問われたへし切長谷部は、一瞬何を言われているのかわからなかった。主命をこなすことは彼にとってあまりに当たり前すぎて答えようがない。
 人の成りをしていようが、へし切長谷部は刀であり、物であり、使われるべき存在である。従う物が使い手の命に反するなどということがあるわけがない。故に、へし切長谷部は答える。

「貴方が俺の主だからです」

 最も簡潔で明快なそれは、へし切長谷部を作り上げる第一の原理だった。
 審神者はその答えを、少しの沈黙とため息を挟んで咀嚼する。そして、初めのへし切長谷部の疑問に対してこう返す。

じゃあ・・・、私がお前を嫌う理由はね、お前がへし切長谷部だからよ」

 彼女の口調は例の氷のようなそれに戻ってしまっていた。

…………それは」

 絶句する。
 それは直しようがなく、救いようがない、全否定だ。

「わからない?」

 審神者が再び問いかける。へし切長谷部は、失った言葉をどうにか手繰り寄せる。否定されたのなら作り直さなければならない。そんな考えが彼の頭をよぎる。

「俺が……例えば、燭台切光忠の真似をすれば、」
「違う」

 到底無理なその仮定はきっぱりと切り捨てられる。だんだんと、審神者の語気が荒くなっていく。

「お前がどれだけ上手に誰かと成り変わったとしても、私はお前のことが大嫌いよ」
「それなら!」

 呼応するようにへし切長谷部も声を荒げる。ついには掴みかかる勢いで審神者の傍へ寄り、暗闇の中、それでもキッと互いに目を合わせた。どちらも睨みつけるような眼差しだった。

「それなら俺はどうすればいいと言うんです!?」

 悲痛な叫びが響く。けれども審神者は答えを与えない。

「私が何を言おうと無駄よ。どうせ、明日にはお前だって私の配下じゃなくなるわ。だというのに今さらどうしようっていうの」
「そんなもの、っ!」

 審神者の達観したような態度が、へし切長谷部の心をさらに尖らせた。そう易々と諦められるわけがないと胸中で叫ぶ。終わらせてはいけない。認めさせなければならない。
 手荒い仕打ちに耐え、全身全霊をかけて尽くした結果がこんなものであるはずがない。

「貴方が考え直してくれればそれで済むだけの話だ!」

 衝動が吐き出させた言葉にもはや敬意は削ぎ落されていた。しかし、へし切長谷部は気付かない。気付かないまま、審神者の襟口を手で掴む。

「どうして俺じゃいけないんだ!? どうして俺ばかりがこうなる!」

 へし切長谷部は言いながら審神者をぐいと引き寄せる。本丸の絶対者は思いのほか容易くなすがままになる。その身体の手ごたえのなさにへし切長谷部はふと、我に返り、掴みかかった腕の力を抜こうとして、

「鳴かぬなら」

 突如、ぼそりと呟かれた一言に身を固くした。
 審神者は一切の抵抗をしないまま、その瞳がへし切長谷部を射抜く。そうして目を逸らさないまま、丁寧に、言い含めるように続ける。

「殺してしまえばいいのに」

 よくよく聞き覚えのあるその言葉は、へし切長谷部の癇に障るあの男を嫌でも連想させる。へし切長谷部がへし切たる所以を生み出した、あんな男を。
 ぎり、と下唇を噛み、緩みかけた腕に再び力を入れる。ドス黒い何かが腹の奥から這いあがってくるのをへし切長谷部は感じる。

「そう言ったのは、お前の主でしょう。あれは実にわかりやすくて良い言葉だわ」
「っ、あんな男、もう、」
「忘れた? 気にしていない? そんなちゃちな嘘はやめてちょうだい」

 ここにきて。
 今までさんざ、あらゆる理不尽と無茶に塗れてきたへし切長谷部はここにきて、こんなことで。

「五月蠅いっ!!!」

 ついに己を留めていたあらゆるものを放棄した。
 掴んだ襟元を叩きつけるようにして審神者を押し倒す。どうしようもなく身体がざわつき不快感がせり上がってくる。それを苛立ちというのだと遅ればせながら気付く。ちょうどぴたりとはまるその言葉は、自覚すればますます肥大化して、へし切長谷部の頭をかっと熱くさせる。苛々、苛々、苛々! こんなにも苛立つ相手を主と呼んで慕っていたと思うとなおさら腹の虫が収まらない。
 今まで全てをなげうって大切にしてきた感情がどれも汚らしい屑のように思えて、堪えることもせず、動く身体に身を任せて片手を振り上げた。それは拳の形になって勢いよく振り下ろされる。
 怒りの拳は審神者の耳元を掠めて、畳にぶち当たった。

「────殴らないの?」

 審神者が嘲笑する。
 へし切長谷部が拳を彼女自身に振るわなかったのは、臆病でも脅しでも何でもなく、ただの無意識だった。けれども、そうした最後の境界線まで彼女は消そうとする。そんな余裕ぶった態度が、またへし切長谷部を刃として研ぎ澄ましていく。
 へし切長谷部は振り下ろした拳をぶるぶると震わせ、大きく息を吸う。何か、重要なことを起こす前にはその決意をより濃密にすることが必要だ。だから彼は烈火のごとく苛立つ感情を、息を吸うと共に変質させていく。その切れ味で一瞬のうちにあらゆる不快を切り捨てられるよう、静かに冴えた怒気へと。
 そうして、へし切長谷部は初めて、審神者のことを鼻で笑ってやった。

「お断りだ。だが、」

 言いながら拳を解いて、両手を瞬時に審神者の首へと巻きつける。細く華奢なその首は少し力を加えるだけで折れることだろう。審神者がへし切長谷部に言い捨てた、いらない、の一言と同じくらいにあっけなく。

「煽ったのはそちらだ。ですから望み通り、殺して差し上げます。」

 言って、審神者の言葉が返ってくるのも待たずにそのまま首を締める。生々しい肉の感触がへし切長谷部の手のひらへ伝わってくる。
 そういえば。人に直接触れるのはこれが初めてだ、とへし切長谷部は考える。人肌の温かさが自分になじんでいくような心地がして、悪くないな、と思う。しかしながら、それもあと少しすれば冷めて終わりだ。
 何か捨て台詞でも言ってやろうかと口角を上げたところで、押し潰そうとしていた審神者の喉がかすかに上下する。同時に、はくはくと唇が物言いたげに動いたので、へし切長谷部はいっそう愉快な気持ちになった。遺言かはたまた命乞いか、これも一時の情だと手を少しだけ緩め、興味の赴くままに耳を寄せる。
 聞こえたのは、

「ょ、かった…………………

 というか細い声だった。

「は、ぁ?」

 何を言っているんだこの女は、と、言わんばかりの調子でへし切長谷部は怪訝を口にした。恨みごとが来ることも覚悟していたぶん拍子抜けで、手元もさらに緩む。

「俺に殺されたかったとでも言うおつもりですか? 意味がわからないな」

 審神者は急に取りこんだ酸素に噎せて、上体を何度か跳ねさせる。へし切長谷部はその様を見下ろし、もやもやと落ち着かない気分で答えを待つ。

「初め、て」

 審神者の声は咳に紛れて聞き苦しい。それでもへし切長谷部は聞き洩らさないよう注意して耳を傾ける。これはただの情けだと胸中で呟きながら。
 ゆっくりと、震える唇が動く。

「あなたが、私の顔色を窺わずに動くのを、初めて見たわ……

 目から鱗とはまさにこのことである。
 へし切長谷部はこの本丸に来てからの自分を思い返す。単騎で屠れと言われて独り出陣した記憶、だだっぴろい馬小屋を何者の手も借りず掃除するよう言いつけられた記憶、思い通りにできなかったと詰られ、されるがままに頬を平手で叩かれた記憶。どれもが苦く痛々しい。
 それでもへし切長谷部は、一度たりとも彼女の命に逆らったことがなかった。なぜなら彼女は主であり、自分は従うべき物であるからだ。

 しかし今はどうだ。
 彼は今、どこまでも自由に動き、あまつさえ審神者を縊り殺そうとまでした。しかも、抱くべき罪悪感は何処にもない。むしろ妙に高揚した気分が彼を満たしている。敵将を討ち取った時のような、それは解放感にも達成感にも似ている心地だ。
 そう、彼が見下ろしている女はもはや主などという崇高な存在ではなく、ただ理不尽に彼を苛む腹立たしい奴だ。だからへし切長谷部は自らを肯定する。俺は何も間違っていない。

…………それで? 確かに俺は、俺の思う通り、貴方を殺してやりたいと思っている。それが何だというんだ」

 疑問符はそれでも消えないまま、“良かった”と言った理由をまだへし切長谷部は理解しきれていない。
 審神者はそんな彼をじっと、暗闇の中でもそれとわかる輝かしい眼差しで見つめた。そして、肝心の答えをようやく彼に与える。

「嬉しいの。私はやっと主でなくなったのだと思うと、とてつもなく」

 そして、ふわりと。
 眉を下げ、目を細め、頬の緊張を解いて。驚くほど穏やかに彼女は微笑んだ。

「っ、」

 へし切長谷部があらゆる無茶をこなしながら、何よりも欲しいと思っていたそれが。あろうことかこんな状況で捧げられた。
 殺気と笑顔、ちぐはぐの反応にへし切長谷部は当惑する。それに追い打ちをかけるように、

長谷部・・・、ごめんね」

 審神者が手を伸ばし、彼の頬をそうっと、いつになく優しい手つきで撫でた。

「そんな、今さら、」
「許せとは言わないわ。貴方はそのまま私に鬱憤をぶつけるべきよ」

 へし切長谷部は頬に添えられたその手を振り払うこともできないまま、自分はどうすればよいのか思考を巡らせる。
 情にかられる前に、言われた通り鬱憤を晴らすべきでないのか? だがそれではまた審神者の言いなりだ。かといってあんな取ってつけたような一言で全てを水泡に帰すほど温和な性質でもない。
 悩むへし切長谷部を見て、審神者は慈愛の笑みをなおいっそう深くする。

「ならいっそ謝られない方が良かった? でも、私もこれで終わるのは悔しいわ。だって結局、お前の引き金になったのは尊い信長公なんだもの」
「前の主は関係、」
「なくない。あぁ、嫌になる。これだから私、お前が嫌いなのよ」

 嫌い、と言われても、へし切長谷部はそう悲しみを感じなかった。それよりいらないと言われた時の方がずっと、息が止まりそうなくらいの絶望だった。
 そうだ、絶望だ。そこから、怒りという希望が生まれた。へし切長谷部はこの怒りを思い知らせてやらねばならない。だから彼は彼なりの冷静さでもって、言葉ばかりが武器の彼女にせめて一太刀浴びせてやろうと口を開く。

「俺は……

 そこでまた、一つの不可解が邪魔をする。浮かぶ疑問は単純だ。
 俺はこの人のことが嫌いなのだろうか。
 幾度も手酷い目にあった、癇に障る様なことばかりを言われ、衝動的な殺意を抱くほどには憎んでいる。前の主との因縁を軽々しく、わかったように断定されるのも腹立たしい。
 さて、だが、それは嫌いと言えるのか。たった一言に換言するだけで、それはどこか幼稚に聞こえてしまう。では憎いのかと己に問えば、それはそうなのだが、なら早々に手をかけてこの世から消してしまえばすっきりするはずで、そうできるくせにそうしない自分はやはりこの言葉にもどこか違和感を覚えているのだろうと判断する。
 何と言えばいいのだろうか。嫌いだと言っても憎いと言っても殺してやると脅しても、相手が怯むことはないだろう。
 続きを言わないへし切長谷部に、審神者が声をかける。

「俺は、何?」

 それは挑発だ。へし切長谷部は、瞬間的に、自分でもわからないままに言葉を選びとった。

「俺は貴方のことを、殺せない」

 無作為に選んだはずだったが、声にした途端、一番的確な言葉であるように思えてしまった。その通りだ、とへし切長谷部の中で心が喝采をあげる。単に殺すことはとてもできない。それよりずっと、良い方法を俺は知っている。
 そんな裏の意味を読めていないのか、審神者は無表情のままで彼を蔑む。

…………あら、意外と気弱ね」
「はっ。勘違いしないで頂きたい」

 鼻で笑える程度にはへし切長谷部も余裕を取り戻していた。

「殺しません。むしろ、今まで以上に貴方に尽くしてみせましょう」

 その言葉を聞いて、審神者の眉がひそめられる。

…………また、何でもこなしてみせるだなんて言ってみせるの?」
「いいや。俺のやり方で貴方に尽くします」
「言っていることがわからないわ」
「ふふっ」

 へし切長谷部は思わず笑いを漏らした。わからない、と言われるのは想像以上に気分が良い。今まで不可解を抱え込んでいたのはこちらの方だったのだ、それが逆転した今、笑わずにいられようか。
 同じ目に会えばいい。同じ目に合って、俺以上に苦しんでしまえばいい。

「俺はね、前の主に下げ渡されたことが、とてつもなく、腹立たしいんですよ」
…………そうね?」
「だから、俺がするべきは二度と手放されることのないよう、ひたすらに身を削って寵愛を受けることだと思っていました」
…………
「けれど、違った。それを貴方が教えてくれた」
…………何も教えたつもりはないけれど。お前は何を学んだの」
「初めからね、手放されないような土壌を作るべきだったんです」

 言うなり、へし切長谷部は審神者の腕を取って、自分の胸にぐいと引き寄せた。そして、空いた片腕で彼女の頭を上に向かせて、半ば無理やり、口づけた。

「っ…………

 触れるだけ。まだ、ここまでだ。へし切長谷部は何もかも蹂躙してやりたい気持ちを抑えて、堪えて、表面だけの唇の感触に集中する。柔く温かく、意外と不快ではないと感じている自分自身にへし切長谷部は驚かされる。噛みつきたいような衝動も、ぐっと胸の内で消化する。
 お互いが目を開いてにらみ合うような構図は、とても恋人同士の甘やかな関係には見えない。しかし、唇を合わせるだけのその時間はひたすらに長かった。ようやっと距離が離れて、審神者が先に口火を切る。

「お前はそういう答えを出すのね」
「そういう? わかったような口は聞かないで欲しいですね」
…………そうね。私の推測が当たっているとは限らないもの」
「────口の減らない方だ」

 へし切長谷部は再び口を寄せながら、自分の心に溜まって淀み切った衝動がじわじわと解放されていくのを感じていた。間近に感じる吐息、押し当てられる感触、ぎらついてこちらを見つめる視線。殴りつけるより、切りつけるより、ずっと陰鬱で生々しい。初めての接吻は彼にとって至高の暴力行為だった。なんだか癖になりそうだった。
 願わくば相手も囚われてくれますよう。へし切長谷部は切実な呪いを胸中で呟く。
 唇を離して、今度はへし切長谷部が先に宣戦布告した。

「俺をお役御免にするだなんてこと、もう言いませんね?」
「さぁ、どうかしら」

 へし切長谷部は嘲笑する。もうその手は見切ってしまったのだ。煙に巻くふりに惑わされるのは、相手のご機嫌伺いをしなければならないからであって、それが必要なくなった今となってはこんなものに気を取られることはない。

「ここで俺をお役御免にしたら、貴方は負けたことになる」
「へぇ、そうなの?」
「わかっているくせに。俺がこうして貴方に手を出した以上、これは戦だ。もっと人らしく、喧嘩と言い換えてもいい。俺を手放すと言うことは、戦を放棄して逃げ出すと言うことだ」
…………ふぅん。なら、私はその喧嘩を買わなくてはならないわね」

 存外、審神者の態度は変わらない。だが、へし切長谷部は自分の計画の完璧さを疑うことはしなかった。

「俺達は貴方の刀じゃない。俺は貴方のものじゃない。でも、貴方は俺のもので、俺の主だ。……そうでしょう? 違うなどとは、言わせない。俺をこうして呼んだ時点で、もう貴方は逃げられない」

 へし切長谷部の目の前にいるこの女性は、敬愛すべき主ではなく、ただの人なのだと。主という言葉は単なる呼称に過ぎず、敬愛や神と同義ではないと。へし切長谷部は彼らしい物言いでそう啖呵を切った。
 回りくどい下剋上を受けても、審神者はやはり動じないまま、淡々と答えた。

「お前は負けず嫌いね」
「何か問題が?」
「ないわ」
「それは何より」

 へし切長谷部は微笑んだ。この本丸に来て初めての、穏やかな笑みだった。好青年らしい外面の裏に、どろどろとした闘争心を抱えてはいるが、それでも見る第三者がいればさぞ平和に見えることだろう。

「それじゃあ、明日からお前を近侍にしてあげる」
「願ってもない、ありがたき幸せです」

 へし切長谷部は、ようやく、本当の意味で近侍になれることを喜ばしく思う。燭台切光忠が聞いたらどう思うだろうか。説明は面倒だから省くとして、適当な理由付けは必要かもしれないとつらつら考える。
 考えて、ふと、気付いたことをなんとなく、口にした。

「てっきり俺は、一度叩かれてもおかしくないと思いましたが。今宵の癇癪はどこへ?」
「それが、お前がしたいと思ってすることならば、私が怒る権利はないもの」
…………

 へし切長谷部は、どこか釦をかけ違えたような、奇妙な感覚を抱いたが、

「もうそろそろいいかしら。眠いわ」

 審神者がそう言うので、考えることは辞めにした。腕の中に閉じ込めていた彼女を布団に横たえる。

「では、おやすみなさいませ」
「おやすみ」

 そうしてようやく、夜の帳にふさわしい、優しい沈黙が流れた。



◇◇◇



 翌朝。審神者はやはり一切の申し訳なさや躊躇いは見せず、それが当然であると言う様子できっぱりと、燭台切光忠に言い放った。

「光忠、昨日の云々は忘れて頂戴」
………ええと?」

 燭台切光忠は、ぎこちない笑みを浮かべたまま固まった。昨日の云々、に当たることが多すぎて、どれを忘れたものか、判断がつかなかったせいだった。
 へし切長谷部に無体な仕打ちを強いたことか、それともお役御免の件か、はたまた馬に蹴られての世迷言のことか。どれにしても、また修羅場を見ることになるかと思えば気まずいことに変わりは無い。
 燭台切光忠はちらりと審神者の傍らを見やる。そこにはへし切長谷部が控えていた。うつむきがちで、表情は読みとれない。昨日は悄然としきっていて、そのまま倒れて息を引き取ってもおかしくないような面持ちに見えたが、今はどんな心地なのか、燭台切光忠は気になって声をかけようとした。
 しかし、その前に審神者が追撃のように告げる。

「あと、近侍もこのまま。これからは二軍の育成をするつもりだし、光忠はしばらく休んでいて」
「あぁ、うん…………うん?」

 急に暇を与えられたことになり、燭台切光忠はいっそう戸惑う。休み自体は有難い話だったが、昨日から色々なことがめまぐるしく変わり過ぎて、どうにも彼一人では対処しづらい。
 そんな燭台切光忠を見て、へし切長谷部がやっと、顔を上げた。
 嗤っていた。

「今日から俺が近侍を務める。休みといえど、引き継ぎ程度はしてもらいたいものだな」

 見ていて痛ましいほどに忠臣として働いていたへし切長谷部の影は今やどこにもなく、そこには尊大な、自分が将であると言わんばかりの態度の彼がいた。
 燭台切光忠はそれを見て、昨晩、とんでもなく重要でしかし到底理解しえないような何かがこの二人の身に起こったのだろうな、と勘づく。そして彼らの交流の仕方が常軌を逸していることはすでに悟っていたので、燭台切光忠はすぐに疑問を捨てた。

「ええと、うん、引き継ぎね。オッケー。任せて」

 そう言って、ひとまず遠征班の確認から始めようと足を動かす。へし切長谷部がそれについていきかけたところで、

「長谷部」

 審神者が彼を呼びとめた。手招きして、何か色々と耳打ちをする。へし切長谷部はそれに頷いてから、燭台切光忠の方に向き直った。

「悪いが主の支度を整える手伝いをする。引き継ぎは後だ。良いな?」
……了解。じゃ、先に行ってるね」

 燭台切光忠は二人を置いて、足を進める。へし切長谷部の傲慢な物言いに、少々辟易を覚えながら。
 去っていく彼の背中越しに、審神者とへし切長谷部の話し声が聞こえる。だが意外にも、怒鳴り声や痛ましい平手打ちの音は含まれていないようだった。

(あれ、そういえば彼女、長谷部くんのこと、へし切じゃなくて…………

 思い返しつつ、燭台切光忠は廊下の角を曲がる。
 明確な像が見えない関係に振り回されるのも大変だ。燭台切光忠は嘆息する。しかし、仲違いが無くなったのならとりあえず良いことなのだろう、と。平和な思考で結論付けた。



◇◇◇



 そうして彼の耳に届かないところで、ひっそりと、朝の睦言が交わされる。

「主、」
「なに?」
…………お慕いしております」
「そう、ありがと」
「主は俺の事をどう思ってらっしゃいますか?」
「野暮ね。────大嫌い、よ」

 審神者の答えに、へし切長谷部は満足そうに笑う。そのまま審神者の顎を掬って唇を捉える。審神者は目を逸らさない。もはや全てが駆け引きの道具である。
 愛の見返りに愛を求める打算なら、へし切長谷部はこれまで幾度も行ってきた。けれどもここまで暴力的に身勝手に与える無償の愛は初めてだった。それがこんなにも清々しいものだということも初めて知った。これからの自分達の関係を思うと、胸が躍って抑えきれないほどだった。



 ロマンティックな響きはそこに一切なく、ただ、薄氷に隔てられて憎悪と嫌悪が埋まっている。
 それが彼らの愛だった。



<終>