トリミング 望普編9

twitterなどに掲載していた極短編のまとめです。望普、伏普、原作軸、現パロなどいろいろ。

「普賢真人、実は崑崙十二仙になりました!」


【絵を描く】望普ワンドロ・ワンライ/〇〇の秋/芸術の秋
バスを降りて坂道を上った。
石畳は昨夜の雨に洗われてつややかで、ところどころに朱くなりきっていない落ち葉が模様のように散っている。風は涼しいが日差しには晩夏の名残があり、日陰を選んで右に左に、舗道をふらふらと歩いていく。
小さな美術館でデッサン会が開かれると聞いた。目立たない私設のそれは、普段からあまり来場者が多くなく、だからこそたびたび足を運んでいたのだが、先日「よかったらどうぞ」と案内を手渡されたのだった。
「いや、絵を描く趣味は……
「いいんですよ、描かなくても」
学芸員はにこやかにそう言った。
「だれかが絵を描いている姿を見るのも、アートに触れる一つの形ですから」
絵の心得はないが、併設のカフェでのんびりするのも眺めるのも悪くない。そうして休日の昼下がり、電車とバスを乗り継いでいつもの坂を上ったのだった。
天井近くまである扉を開くと「本当に来てくださったんですね」と学芸員が笑顔で迎えてくれた。「もう始まっていますよ」
彫刻や油彩画、日本画など、収蔵作品が並べられた展示室で、何人かがイーゼルを立てたり、画板を膝に置いたりして思い思いに絵を描いている。子供の横顔をかたどったブロンズ像の前で、難しい顔でうなっている男性は、どうやらなかなか思うように筆が進まないらしい。その横で、フロアに座って静物画を模写している小学生は、迷いなくのびのびと鉛筆を走らせている。なるほど、描き手の目を通じて鑑賞するとはこういうことか。
コーヒーでも頼もうとカフェへ行きかけ、一人の青年のそばで足を止めた。スケッチブックには淡い色調で風景画が描かれていた。晴れやかな青空とせせらぎ、緑の木々。どことなく懐かしさを感じる情景だった。上手い下手はわからないが、きらきらした木漏れ日が感じられるような色使いだ。しげしげと覗き込んでいると、青年が手を止めて「どうかな」と訊ねた。
「なかなか……いや、とてもいい」
よかった、と青年は目を細める。
「見たものをそのまま絵にするのはなかなか難しくて」
そうだろうと頷こうとして、ふと不思議なことに気づいた。展示作品の中に、彼が描いている絵はなかったのだ。
気づいたことに気づいたのだろう、青年は「ここの中に」と自分の頭を指さした。
「記憶を記憶のままにしておくと、忘れてしまいそうで、心もとなくて」
瞼裏になにかを思い描いているように目を閉じる。
「当時は写真もなかったから、こうして絵にすることで記憶がすこしでも残ればいいなって。……きみはまだ覚えている?」
だれにも聞こえないささやきが、耳にそっとしのびこんだ。その瞬間、時間がかろやかに巻き戻り、目の前にありありとあの昼下がりが描き出される。川の冷たさ、鳥の囀り、いきおいよく魚が跳ねたときの水しぶきのまぶしさも、一度たりとも忘れたことなどない。
「そのままじっとして」
その声にはっとわれに返った。こちらに向けられていたのは、荒く削った鉛筆だった。幾度となく描いたのだろう、彼の小指よりも短い。
「ちょうどよかった。何か足りないと思っていたんだ。モデルになってよ」
……わしを描くのか?」
「言ったでしょう、忘れちゃいそうなんだ。きみがなかなか会いに来てくれないから」
わざと渋い顔をしてからそっぽを向いた。ちらりと横目でスケッチブックを見ると、岩場に人物が描き足されている。長く伸ばされているのは釣り糸だ。
「ちゃんと釣れたのだ。魚も描いておけ」
「食べられないでしょ」
「キャッチアンドリリースはしたであろう」
青年は愉快そうに笑う。描きあがった釣り糸の先には、見覚えのある針が描かれていて、そんなことまで覚えているのは自分だけではなかったのだなと、彼は思った。