外伝 嘴と無花果

あらすじ
いとしま医学特区に居を構える東都医科大学附属病院。そこに勤務する心臓外科医、嘴馬遼士郎はパリトキシン中毒症で救急搬送されてきた三人の患者に対して刑事事件の疑念を抱き、特殊科学捜査官『螺旋捜査官』である市ノ瀬咲良に調査の依頼を持ちかけた。しかしそれ以前にも同じ中毒症で死亡した螺旋監察官の存在が浮上する。これは果たして偶然か? それとも意図した殺人事件か? 秘匿されたカルテと死亡診断書。背後で渦巻く権謀術数。東医が開発を進める新型手術支援ロボット。
果たして嘴馬と咲良は真実へ辿り着くことができるのか? 二人は調査を開始する――。

***

25/2/14 追記 #000~最終話まで掲載しました。そんでもってセルフ二次創作じゃなくてある話になったんでカテゴリ変えました。
25/2/12 追記 #000~#004まで掲載しています。
25/2/10 追記 #000~#003まで掲載しています。
25/2/8 追記 全編こちらにまとめます。少々お待ちください。現在は #000 のみの掲載となっています。

全年齢版です。これだけ見るとBL要素は薄い気がする。身も蓋もない言い回しですが、私の性癖を如実に反映したBLです。BのLです。
本作品は自創作「レゾン・デートル -天才医師 四宮椿の診療記録-」の外伝(BL)です。別に本編知らなくても何の問題もありません。

よかったら感想くださいの顔でWavebox置いときますね → https://wavebox.me/wave/b064pup7uhwd9l39/



#000-1


羽を濡らさぬよう紫陽花の葉に逆さまで掴まった蝶が、ついにこの豪雨の苛烈さに耐えかねて土へ落とされた。
俺はその様子を窓ガラス越しに眺め、手の中にある未開封の煙草の質量を感じ取る。
イタリアの都市の名を与えられたそれは、軽やかではあるがほんの僅かに酩酊感を与える口当たりをしていた。このいとしま医学特区――即ち医学の手によってあらゆるものを征服せんとする白亜の都市では、基本的に煙草の売買が禁じられているということもあり、殆どこれ以外出回っていないのだ。故にごく自然とそれは彼が纏う香りに苦味を添え、同時に決して忘れることのできない呪いのようでもあった。

たまには外で夕飯でもどうだ、と急に電話をしてきた心臓外科医――嘴馬遼士郎は、絶対に逃す気がないらしく螺旋監査部のロビーにある口縁にまでやってきていた。別に今日の献立を考えていたわけではないし、面倒臭い案件を片付けた直後であったので、何も考える気力が湧かなかったのは事実である。いい店に連れて行ってくれるのは有り難い。
彼へ近づいていけばひらひらと手を振ってくる。丁度俺も用事があったんだよ、とわざとらしいことを言っているが、実際用事は確かにあったのだろう。テーラードジャケットのポケットから黄色い紐が見えていた。臨時入館許可証の紐だった。

「居酒屋ですか?」

俺は時計を確認しつつ横を行く彼に問いかける。
彼は中々酒豪であったし、何よりも焼き鳥と地鶏ともつ鍋をこよなく愛する生粋の地元民だった。

「いーや。コース」
「は?」

どうりで妙にかっちりした服装なわけだ、と納得したのも束の間、俺は自分のスーツの値段に思いを馳せる。上下合わせて四万円いくかいかないかだ。

「安心しろって、別にドレスコードとかねえよ。知り合いの店なんだ。開店したら食べに行くよって言って一年半も経っちまった」
「それで電話かかってきたんでしょう」
「よく分かったな。早く来いって催促されたよ」
……知り合いというよりも、もう友人っつう間柄な気がしますけど」

この人が言う『友人』の定義は少々狭い。簡単に心に触れることを許す人ではなかった。
かく言う俺も『知人』ぐらいのものだろう。名前のつかない、ぬるま湯のような関係を享受している。それ以上でも以下でもない。多分、という枕言葉付きではあるが。

「いやいや」 ふっと綻ぶように笑う嘴馬先生の横顔はどこかいつもより楽し気だった。「何だよ、妙に勘繰るじゃねえか。もしかして妬いてるのか?」
「アホなこと言ってねえでさっさと挨拶でもしてきてください」

へーい、と揶揄うような口ぶりでふにゃりとした笑顔に変わる嘴馬先生は颯爽と店のドアへ向かいそれを軽く引いた。
俺も傘を畳んで店内へと入る。店先に置かれた赤いパラソルと木のテーブルは先程のゲリラ豪雨で散々な姿になっていたが、店内は高級感と温かみのある色調がうまい具合に調和していた。真正面にあるバーカウンターには数人が腰掛け、カクテルと酒の肴に舌鼓を打っている。焦茶色の壁や床、天井から吊り下がるライト、どちらかというとパブやビストロという雰囲気に近い。コース料理と言っても堅苦しくないもので助かったと息を深く吐き出す。ゆったり椅子に腰掛けたのとほぼ同時に、食前酒を小柄な馬子が運んできた。

「嘴馬先生、もう一生来てくれないのかと思ってましたよ! あ、これどうぞ。シャルドネ、サービスです」

ボブカットの黒髪に、細い縁のメガネをした馬子は存外低い声でそう言った。白いコックコートを着ているということは、彼……いや彼女? 分からないが、この馬子がシェフなのだろう。割と馬子は見た目の性別不詳な者が多い。

「悪い悪い。俺も忙しかったんだよ。まあ何はともあれ元気そうで何よりだ」
「身体が資本を痛感しましたから。今まで以上に健康には気ぃ使ってますよ」 シェフは薄い胸を張った。
「まあお前の場合体質もある。通院サボらなきゃまた助けてやるよ」
「ありがとうございます。持つべきものはいい医者の友人ですね」 細い指と腕が食器類を丁寧に並べてくれる。使い込まれた料理人の手であることは一目瞭然だった。
「お連れ様は、苦手なモノやアレルギーなど御座いませんか? 事前に伺ってはいるのですが、念のために」
「特にありません」
「承知しました」 シェフはぺこりと頭を下げた。「すぐに前菜をお持ちします。お楽しみください」

ジャズの音色が際立つ。どうやらバーカウンターを挟んだ向かい側で生演奏が行われているらしい。聴覚過敏気味なこの人は予防に余念がなく、目立たない形の耳栓をしていた。
大概手術室では音楽が流されている事が多く、無音でオペを行うのは少数派だ。しかし嘴馬先生はその少数派側で、ただバイタルの音と人工心肺が駆動する音、言ってしまえば静謐の中でオペをしている。多分店に行くのを避けていたのはこういう側面もあったのだろう。
ウエイターが滑るように四角い皿を二つ持ってやってきた。丸いムースが小ぶりのスプーンの上に載せられ、三つ並んだ可愛らしい前菜である。正直全く説明は頭に入ってこなかったが、丁寧に飾られているだけではなく、全ての処理が味を引き出すため、緻密に計算し尽くされているのが伺えた。

「う〜ん美味い……」 噛み締めるように正面で嘴馬先生が唸っている。「これだけでワイン一本開けられる自信があるぞ」

シャルドネで唇を湿らせる。さっぱりとした後引く香りと残った旨みが次へ進ませてくる。前菜からスープ、魚料理、箸休め、肉料理と細やかな気遣いに心を綻ばせながら、何故唐突に俺を外食へ誘ったのか、という根本的な問いへ思い至る。

「あの。何で俺を、」
「理由が必要か?」 心の内を見透かすように言う。俺のさりげなさのかけらもない問い方にも何の気も留めず、彼は再びワイングラスを手に取った。
「別に理由が必要ってわけじゃねえですけど……ただ、珍しい事もあるもんやな、と思って」
「そう? ひとり寂しくってよりは誰かと一緒の方が酒も美味いだろ」
「てっきり何か込み入った話があるもんやと思ってました」 俺は皿に残っていた牛肉のソテーをフォークで刺し、口へ運ぶ。「いや……だって店に来る事はついでですよね。わざわざ知人の店を選ぶあたり、聞かれたら困る話でもあるんかと」
「椿みてえなこと言いやがる。お察しの通りだよ、螺旋捜査官殿」

その言い回しに納得する。そうでなければ俺をわざわざ食事に誘う理由が思い当たらないのだ。俺はバゲットにバターを塗りながら話の続きを待つ。

「聞かれたら困る話なんていくらでもある。院内で誰と誰が不倫してるとか、誰が誰の腰巾着で虎視眈々といいポストを狙ってるとか」
「はあ」 真意が見えず煙に巻かれるような言葉に俺は呆けた声を出す。「それで――
「咲良お前、冗談通じないって言われるだろ」
……つまり別に用事は無いんですね」
「生み出してもいいんだぞ?」
「そんな事せんでいい。……妙な案件を片付けたばっかで、何も無いならそれが一番やし、それ以上のことはありません」
「何拗ねてんだよ。お前が勝手に勘繰っただけだろ? 本当に椿に似てきたなぁお前」
「しゃあしいわ。ほっとけ」

四宮椿という天才のそばで、彼女が謎を解き明かすところを散々見てきただけに思考をなぞるようになっている自覚はあった。言われると少々照れ臭い。酒精にあてられたせいか耳がほのかに熱を持っている。
じっとこちらを見つめている嘴馬先生は、何かを思いついたような顔でワイングラスのシャルドネを飲み干した。

「足の指を絡め合う程度の仲なんだ。別に食事に誘ったってバチは当たんねえだろ」
「別に嫌だなんて言ってねえでしょう」
「顔に居心地悪いって書いてあんだよ」
……コースが苦手なんです」 俺は素直に白状した。「どうしていいかわからなくなる」
「この後時間あるなら、飲み直そう」

コースは悪く無いが、立場がある者同士の会食は嫌いだろ、と笑う彼は本当に無欲者に見えた。今日は本当に何でも無い話しかしないんだろう。そうすることで本心を覆い隠し、傷を庇っているように見える時がある。
俺は店員を呼び、追加のワインを注文する。白よりも赤を好んでいる自覚があった。いくつか選択肢を提示され、フルボディの赤を選ぶ。肉料理やチョコレートとのペアリングを想定したものらしい。新しく運ばれてきた皿にはチョコレートのムースケーキとアイスクリームがあった。もうそんな時間が経過したのか、と腕時計を見れば、時計は八時半を指し示している。

「妙な案件があってな」 唐突に嘴馬先生が切り出す。「さっきは悪かったよ、揶揄って」
「いえ」 わざわざ今更話を切り出すあたり、言うべきか考えあぐねていたのだろうな、という気がした。「でも内容によっては俺一人ではどうにもできねえかもしれませんよ」
「ああいや、大規模な事故とか事件とかではないんだ。ただ何となく俺が怪しんでるだけかもしれねえ……
「随分歯切れが悪いですね?」

珍しいこともあるものだ、とデザートへ伸びたフォークが止まる。彼はティースプーンでホットコーヒーをかき混ぜながら続けた。

「まあ、な。咲良――お前さ、パリトキシン中毒って聞いてどう思う」
「年間に三件程度報告が上がってきますね。大抵アオブダイを生食したとかで。しかもパリトキシン中毒って治療方法がないんやなかったですか」
「そう。治療法はない。即ち解毒薬がない」 ケーキを切り分けて口へ運び、一息ついてから彼は続けた。「そのパリトキシン中毒患者が三人まとめて担ぎ込まれた。うち一人は軽症で、今はもうICUを出てる」
「その患者、馬子ですか?」
「ああ。だがどうにも引っ掛かっててな……集団食中毒になった、ように見えるんだよ。でもなんかおかしい、としか今は何とも言えねえ。俺の杞憂だってんならそれで全然かまわねえ」

確かに話を聞く限り、三人が共に行動し集団で食中毒になったという単純な話のようにも思える。だがこのパリトキシンをため込んでいる魚――アオブダイは、福岡県ではそうそう釣り人であってもお目にかかる魚ではないはずだ。大分県日向灘などにはいるらしく、時折釣られることもあるようだが。
パリトキシンという毒の恐ろしい所は、嘴馬先生が言ったように解毒薬が存在しないという点もそうだが、これが熱処理を行っても失活しないというところにある。故に「加熱したから大丈夫」が通用せず、煮汁に毒素が移行するというケースがあるのだ。
しかしこれらの中毒が発生するのは年間数件ほどであり、一気に三人もの患者が搬送されてくるというのは異常事態であると考えていいだろう。俺は脳内で考えを整理しながら続けた。

「一応俺の方で調べてみます。あ……椿はこの件、把握してるんですか」
「してると思うぞ。救急部から総合診療科に報告が上がってるはずだ」 しかし彼は「ただ……」と言葉を濁す。
「ただ、何です」
「もし院内で色々調べることになったら、あいつを頼るのはやめたほうがいい。椿のやつ、副院長から蛇蝎の如く嫌われてっから」

それはそうだろうな、と頭の端で思う。俺の表情に「だよな」と独り言つ嘴馬先生は残りのアイスクリームを口へ運んだ。
綾島悟副院長は散々椿に辛酸を舐めさせられている、いわば「四宮椿被害者の会・名誉会員」とも言うべき御仁であった。しかし彼が辛酸を舐めているのは、自分の悪意を持った計略を途中で椿に暴かれるのが原因である。つまり自業自得というやつだ。

「なら、あんたを頼ります」
「いい人選だ。自分で言うのもどうかと思うが、椿よりかは院内の事情には通じてるぜ。それこそ教授陣と愛人関係になってるのが誰かとか」
「死ぬほどどうでもいい情報どうも」

それで言えば俺はこの人と一度体を重ねている。その日以降こうしてズルズルと関係が続いているのだから、俺は世界からその腕を認められる心臓外科医・嘴馬遼士郎の愛人、ということなのだろうか? などと妙な考えがよぎる。
滑るようにやってきたウエイターがコーヒーサービスをくれる。俺はミルクと角砂糖を貰い、角砂糖は二つ、コーヒーミルクは一つをカップへ入れた。新たなブラックコーヒーを貰っている嘴馬先生は俺の方を一瞥する。甘いものがあまり得意ではないと言っていたことを思い出し、俺は何となく――しまった、という気持ちになった。

「煙草で、誤魔化しといて」

俺の心中は駄々洩れらしく、嘴馬先生がテーブルに置かれた俺の左手、その甲をゆっくりと人差し指でなぞり、とんとん、と薬指の付け根あたりを指の腹で撫でる。
ほだされている自覚はあった。僅かに――いや、僅かにどころではなく、のこのこついてきた時点でかなり期待していたといえるだろう。

……それ、やめてください」
「ん?」 するりと指が絡みあう。ごく自然な動作で。俺は熱くなる指に、耳に、どうにか気づかないふりをする。「悪い。煽る気は特になかったんだが」
「あんた本当そういうところですよ」
「会計してくるよ。タクシー呼んどいてくれるか」