外伝[1881-1891] 誰が金糸雀を殺したのか?

あらすじ
1885年、3月。諮問探偵シャーロック・ホームズと、その助手・医学博士ジョン・ワトソンの元にある依頼が届く。依頼の内容は『失踪した娘を探して欲しい』という極めてシンプルなものだった。しかしその依頼の二週間前に起きた、ある歌姫の死とその失踪が繋がっているようで……? 手掛かりは奇妙な手紙「R: WHO KILLED THE CANARY」、そして色濃く残る幻想の気配。その先にあるのは深い森と視界を奪う霧。鳥籠と信仰の密室__。誰が金糸雀を殺したのか? その命題に二人は挑む。


無印べったーの移植版です。一部名前や句点の修正を行いました。

スペシャルサンクス
笋様の作品「赤い純情」、ヘルメス様にご登場いただきました。本当にありがとうございました。素晴らしい作品をインスパイアさせていただき本当に光栄です。
Littorio様 アマネセール家のお名前を出させていただいております(事後報告)。ありがとうございました。





221Bに戻るころには既に夕方になっていた――朝から出ずっぱりで何も口にしていなかったことを思い出す。下宿の女主人であるハドソン夫人が用意してくれた軽食を食べ、ホームズはぽいとコートを脱ぎ捨ててソファにひっくり返った。肌寒くなってきている。火を暖炉に入れてやれば、いつの間にか住み着いた猫が暖炉前に陣取った。

「無理だ」

ホームズはそんなことを言いだした。ガードナーの話だろう。私はコートを回収してしわにならないようにハンガーへ引っかけた。ついでに自分の分も引っかけておく。

「無理だ!」
……外部協力者を使うのは以前もあった事だろう」私は喚くホームズに言う。実際魔術での方面は専ら私がやっていたが。
「それとはわけが違う! そうだろう。ガードナーは掏りの常習犯だぞ。まあ今は更生しているようだが」お前もピッキングの常習犯だろうが、という言葉は必死に飲み込んだ。
「普通にフォークナー卿と話をつければいいじゃない。もういい加減意地を張るのはやめたら?」
「わかったぞ! 君がフォークナー家に強制執行すればいいんだ!」
「駄目に決まっているでしょう! 却下! それにマリアを探すのが優先でしょう。どうする気よ」
「ヤードに電報を送ったが一向に返事がない。捜査中という事なのかもしれないがあまりに何もなさすぎる。嫌な予感がするな」
……本当に、死んでいる可能性もあるか」私は呟く。メアリーが「縁起でもないことを言わないで!」と私の背中をバンバン叩いた。「うっ……いや、だが、その」
「ジョン! 駄目よ! そんなこと……!」

バタバタと階段を数人が登る足音が聞こえてきた。ホームズは「ヤードの警官だ」と言ってのっそり体をソファから引きはがして起きる。私の心臓が早鐘を打っているのが分かる。どうか最悪な予感が的中していないでくれと願いながらノックもなしに入ってきた警官を見た。

「やあグレグソン君。待っていたよ」
「ホームズさん、探していたマリア・アーキテクト嬢ですが」グレグソン警部は険しい顔をしていた。私は何か聞く間もなく彼から無慈悲な言葉が飛び出した。
……遺体が見つかりました。ストランドにオルドヴィッチ劇場があるでしょう。あの近くに比較的新しいフラットがあるんですが、そこで三人、惨殺された死体が上がりました。そのうちの一人がマリア・アーキテクト嬢ですよ。
いずれも惨い死に方をしていました……マリアは首に噛みつかれたような跡があり、頸動脈を食いちぎられたことで失血死したと思われます。彼女以外に若い男性の遺体が二つありましたが、うち一人はヤードの警官です。周辺住民の通報を受けてフラットへ向かったものの、数時間待っても出てこない事を不審に思った同僚が現場に踏み込んで遺体を発見しました」
「遺体に手を付けたかい?」
「いつも通り、触らないよう指示してきました。ヤードの馬車をつけています。行きましょう」

ずしりと重い空気で肺が潰れそうだった。メアリーは221Bに残る、と言って自室に引っ込んでいった。
私はハンガーにかけていた上着をホームズに手渡す。マリアの死についてアーキテクト氏にどう説明すべきか私は必死で考えた。あれほど娘の事を案じていた夫婦にこのような事実を告げるのは残酷すぎる。既にスコットランドヤードが夫妻に情報を流したのかもしれない。そう思うと不憫でならなかった。
馬車に乗り込んだ後も私たちは無言だった。ホームズは『マリアを無事に帰す』と約束したというのに――。私はやるせなさに唇を噛んだ。アーキテクト氏がやって来たあの夜に調査へ出ていればもしかしたら、と無駄な思いが浮かんでは消える。私は手を無意識に強く握りしめていたらしい。爪の痕が手の甲に残っていた。

「ある程度、死んでいる可能性は想定していた」ホームズはそう言って目を伏せた。「しかしこの殺され方はかなり想定外だ。何か明らかに別の――別の存在がいる」
……必ず真相を暴こう。ホームズ」
「勿論だとも。ワトソン、神秘への対応は君に任せるよ」
「任せてくれ」

馬車はストランド通りに面した比較的新しいフラットの前で止まった。私はそこに色濃く残る霞色の幻想を視る。ぞっとするほどの幻想密度だ――間違いなくここには幻想種がいた。隠すつもりもさらさらないのだろうが、噎せ返るような魔力の匂いに思わず鼻を手で覆う。
フラットの前には三名警官がいたが、一人はあまりにも中の様子が酷かったのか気分悪そうに座り込んでいた。グレグソンが彼を助け起こす。彼は不憫にも真っ青どころか真っ白な顔になっており見るからに体調が悪そうだった。
フラットは三階建てで構造は221Bに近かった。玄関を開けると階段があり、一階部分は下宿の主人が使う部屋がある。
階段の上から血で足跡が描かれている。扉の前まで足跡はあったがそこから先は立ち消えていた。霞か霧のように犯人は消え去ったのだろう――幻想種にはよくある話である。個体によってはそのように一瞬で姿を眩ませることができるものが少なからず存在しているからだ。
ホームズは手持ちランプに火を入れて上へ進む。血が乾いて黒ずんでいるところを見るに、事件が起きて既に二日ほどは経過していると思われた。つまり、アーキテクト氏が依頼をしに来た時点で既にマリアは殺害されていた可能性がある。
私はあまりにも酷い話だと振り払おうとしたが、二階に到達して既に死体の検分を始めたホームズがぼそりと「死後二日は経過している」という無情な言葉で諦めて事実を受け入れた。二階の部屋は物が何もなかった。ただ部屋には巨大な鳥籠が一つ置かれており、その中で若い女性が死んでいた。
マリア・アーキテクトである。左腕が肩から捥がれ、首には獰猛な動物が噛みついて食いちぎったのだろう、歯形がくっきりと残っている。恐怖と恍惚が綯い交ぜになった表情でこと切れたのか、どうしてこんな事になったのか――私は思考が纏まらず頭がおかしくなりそうだった。
鳥籠の外には二人の遺体がある。一人目の男は首から上が無い。しかしまるで祈りを捧げるように手を組んで膝をついており、ヤードの警官も同様に、まるで祈りを捧げるようにして死んでいた。

「鳥籠と、信仰……?」
「ある種の密室だな」ホームズはそう言って、マリアの傍から立ち上がった。「この鳥籠、出入り口が無い。全て繋がっている」
……錬金術の類だろう。しかもかなり強い金属だ。魔術的な強度の話だぞ」私はそう言って鳥籠に触れて軽く魔力を流してみた――やはり変形しない。
「わかっている。だとするとこの中身はどうやって脱出したんだ? 中華の奇術師は罠抜けを披露するとき、関節を自由自在に外せるという。そんな風にして外へ出たのか……
「霧か、もしくは霞になった」
「中身は吸血鬼か? 霧になれると聞いたが」
「もっと……違う。ここにいたのはもっと別のもの。獣に近い」ぼんやりとだが魔力の残滓が輪郭を帯びる。その姿を捉えようと私は目を凝らしたが、ふっとそれの姿は見えなくなった。「恐らく純然な幻想種ではないな。幻想特異体……幻想を願い、その内側へ帰りたいと望んだ者。回帰者か」
「回帰者? 貪食者は分かる。幻想種を喰う者だろう」ホームズは不思議そうにその単語を口にした。「幻想種への回帰……本来幻想種ではなくなった存在がそんな風になることがあるのか?」
「大いにある。特に馬子はその傾向が顕著だ。元々幻想種だったから、回帰者も発生しやすい。……だが姿を捉えられない。こんなことは初めてだ、捉えたと思ったら霞のようにふわりと像が消える。ピントの合わない顕微鏡を覗き込んでいるような……度の合わない眼鏡で物を見ているような感じで、どうも……だめだ。もう何も視えない」

私は瞼を下ろしてその幻想の影を振り払った。一瞬だけ見えた――霧に満ちた深い森と、廃墟のようになった教会。生い茂る蔦が壁を侵食し、ステンドグラスはすっかり割れて天井も殆どが空の元に晒されていた。
私はあの景色を知っている。あれは北の果ての国。全ての始まりの国。あれは――

……オークニー」
「オークニー諸島がどうかしたのか、マイ・ディア」
「いや、一瞬風景が視えただけだ。事件に直接関係はないだろう。この鳥籠の中にいた幻想の帰りたかった場所……心象風景のような、残滓。目下問題は別にある、そうだろう、ホームズ」
「やはりフォークナー家に行く必要がある」ホームズはそう言って顎に手を当てて考え込んだ。「謎が謎を呼ぶとはこれの事だな」
……エミリアへ養子になることを打診したのはローレンス・フォークナー卿だったか」
「ああ。だが慎重にならなければ痛い目を見るのはこちらだろう。相手は魔術師たちの秘密を手の内に全て納めているような連中だ。……仕方ない、癪だが兄を頼るとしよう」

ゲオティネス・クラブという変わり者の集まるクラブは、やはりルールも変わっている。以前ここに訪れた際にはうっかり広間で声を出してホームズと二人で摘まみだされた。お察しの通り変わったルールとは「公共のスペースで声を出してはいけない」というものである。他の人との関りを嫌い、孤独を愛する者たちの集まる場所。そこにシャーロック・ホームズの兄――マイクロフト・ホームズが出入りしている。
マイクロフトは政府の会計士という役職についているが、実際は彼無しに政府を運営することができないというほどの重鎮だ。私は221Bに居候するようになってから数度彼と顔を合わせていたが、未だに彼がホームズの実兄とは信じ難い。何せ性格が違いすぎるのだ。彼は社交嫌いのクラブにいる割には社交を愛し、謎にホイホイ首を突っ込む弟を心配しつつ英国のために暗躍し、その合間にこっそりと貴族の麗しいレディを誑かしていた。根っからのスパイ気質なのだ。
マイクロフトが利用している個人の部屋にホームズと立ち入れば、いつものように「弟よ~~! よぉく来たなぁ、お兄ちゃんは嬉しいぞ♡」と喧しいことこの上ないスキンシップをホームズへかました。そのホームズは真顔のまま硬直してされるがままにしている。顔は瓜二つであるのにどうしてこうも違いが出るのか私には理解できない。
私がマイクロフトを物語に登場させる際は、彼の要望通り〝太った社交嫌いの変わり者〟として描写している。実際はこのように喧しくちょっとイラっとする側面を持ち合わせた楽しい紳士だった。

「兄さん。用件は分かっているんだろう?」
「あぁ勿論。フォークナー卿に会いたいんだろ? な~んか妙な事件に首突っ込んでるみたいじゃん。お兄ちゃん心配だぞ」
…………兎も角。ローレンス・フォークナー卿に会いたいんだ」ホームズは露骨に嫌そうな顔で言った。「取り次いでくれないか」
「ん~~……」マイクロフトは少し困ったように眉を下げ、ホームズのように指先を突き合わせて脚を組み、斜め上の方を見つつ「ど~しよっかなぁ~。お兄ちゃんって呼んでくれたら考えなくもない」
「訳の分からない事を言っていないで取り次いでくれ。大至急なんだ。お兄ちゃん」
「呼ぶのか……」若干私は引いていた。マイクロフトはカッと目を見開き、
「しゃ、シャーロック!! おまえ~~ッ!! んも~~~~可愛いな~~~~♡ お兄ちゃん頑張っちゃお~~~~っと」と再びホームズに抱き着いてすごい勢いで頬擦りをした。

なお即座にフォークナー卿に取り次いでくれたのでそこは流石というほかない。二時間待ってくれ、とマイクロフトは颯爽と部屋を出て戻ってきたときにはフォークナー邸の住所やら紹介状やらを持ってきてくれた。
ずっと死んだ魚のような目をしていたホームズは何とも哀愁漂っていたが、やはり政府に近い相手を探すにはマイクロフトを頼るのが一番いい、と思っているらしい。それを彼に言う事は全くないのだが。

「そうだ、ジョン」
……何でしょう、マイクロフト」
「フォークナー卿と会うなら気をつけなよ。彼は金庫番の中でも金庫そのものを作製することに長けた魔術師でね。しかも収集癖があるんだわ」マイクロフトはそう言って煙草に火をつけた。私は「幻想種の、ですか」と答えの分かりきった問いかけをする。
「気を付けなよ。ローレンス・フォークナーにとって『アンシーリーコート』なんて垂涎物の幻想種。どんな実力ある魔術師でもめったにお目にかかれない原初の神秘がジョン、君な訳だろう? そんなもんが目の前にいたら、たとえ今まで幻想種に興味が無かったとしても魔術師ってのは欲しくなる生き物なんだってさ。まあ知り合いからの受け売りだけど」
……肝に銘じます」
「そうしなそうしな~。君は人間にとって特別な存在。シャーロックの事、メアリーの事もだが、これからも頼んだよ」

マイクロフトは優しく目尻を落として微笑んだ。こういう笑顔で沢山の女性を誑かしてきたんだな、と思いながら居室を出る。
示された住所はそう遠い場所ではなかった。テンプル教会のほぼ真横にある大きな館がフォークナー邸の場所だった――寧ろなぜ今までこんな目立つ場所にある館を見落としていたのか、疑問を強く覚えるような気がした。魔術によって目立たないように細工が施されているのは明白である――この場所に行きたいと強く思わなければ辿り着けないようになっているのだろう。
特に今は夜だ。魔術師にとっては夜の方が活動に適しているのは何となく察せられる。秘匿しなければならないことが進行するのは、いつだって人々が寝静まった夜だ。

「諮問探偵のシャーロック・ホームズと、その助手のジョン・ワトソンという者です。ローレンス・フォークナー卿にお取次ぎ願いたい」

館の門番は異形だった。今ではかなり珍しくなった人狼である――獰猛な光が宿る瞳でこちらを一瞥し、彼は私たちを敷地の中へ招き入れた。
館の広間、その正面には絵画が飾られている。ターナーの大きな絵画だ。アーキテクト氏の経営する画廊で購入したのだろう。
階段からゆったりとした動作で下りてくる男性が見えた。ピンクゴールドに近い色合いの金髪を伸ばしている。威厳と柔和が共存する美しい顔立ちの男だった。だがその一方で彼の背後に渦巻く何かが異常に恐ろしく思えて、私は無意識に一歩後ずさった。