外伝[1881-1891] 誰が金糸雀を殺したのか?

あらすじ
1885年、3月。諮問探偵シャーロック・ホームズと、その助手・医学博士ジョン・ワトソンの元にある依頼が届く。依頼の内容は『失踪した娘を探して欲しい』という極めてシンプルなものだった。しかしその依頼の二週間前に起きた、ある歌姫の死とその失踪が繋がっているようで……? 手掛かりは奇妙な手紙「R: WHO KILLED THE CANARY」、そして色濃く残る幻想の気配。その先にあるのは深い森と視界を奪う霧。鳥籠と信仰の密室__。誰が金糸雀を殺したのか? その命題に二人は挑む。


無印べったーの移植版です。一部名前や句点の修正を行いました。

スペシャルサンクス
笋様の作品「赤い純情」、ヘルメス様にご登場いただきました。本当にありがとうございました。素晴らしい作品をインスパイアさせていただき本当に光栄です。
Littorio様 アマネセール家のお名前を出させていただいております(事後報告)。ありがとうございました。



第一幕 誰が金糸雀を殺したのか?


「なあワトソン、どうしてこの寒いのに君はシャツの袖を半分も捲って平気なんだい」

これから語るこの事件は、記憶が正しければ1885年の3月に起きたはずだ。
あの日、ホームズは暖炉の傍でガウンに包まり紫煙を燻らせながらそんなことを言った。至って単純な話だ、といつも彼が言うような枕詞を置いてみる。ホームズは「ほう」と面白そうに声をあげた。

「私たちの生息域は極圏の海だ。寒さには強い」
「確かにそんなことをメアリーが言っていた気がする」もぞもぞと器用に動いて暖炉に当たりながらホームズはそう言った。「オークニー諸島周辺より北、アイスランドやグリーンランド、それより更に北の北極圏か……それならば確かに君が寒いのに強いのはよくわかる。しかし常々疑問なんだがね、なぜそんな君がドーバー海峡で釣られるような愚行を犯したのか僕には全くもって理解できないんだよ」
「そんなこと言われたって私が聞きたいぐらいだ。……痛いんだぞ。鉤針」

大型魚を吊り下げるような鉤針で尾鰭を刺されたことを思い出し、妙に尾鰭がズキズキ痛む気がした。実際は痛んでなどいないのだが、こういうものを幻肢痛というのだろうか? 今は二本の脚になっている私の尾鰭は焦茶色の革靴に彩られている。
三月になったというのにロンドンの夜は良く冷えた。私は平気だがホームズやメアリーはやはり寒いようでしょっちゅう暖炉の前で丸くなっている。猫のようだ、と思ったがそれは口に出さず、私は手元の本へ視線を落とした。最近勧められた哲学の本である。
人間の言葉を理解できるようになるたびに強く感じるのは、人の心ほど難解なものはない、という事だ。肉体や論理的な思考は言葉に置き換えられても心は簡単に言葉にはできないことを陸に上がって私は知った。
一見突発的に引き起こされた犯罪の背景に悲しい過去や心の動きがあったり、将又そのようなものはなく単一の人間の感情だけで起きる事件もあったり――。私はホームズと行動を共にすることで人間への理解を深めたつもりでいたが、どうもそういう訳ではないらしい。
ヒトは皆、何かに縋って生きている。それが信仰か知識か、幻想かは個人によって違うだろうが。

「話していなかったが、依頼の手紙が来てね。今日の内にお伺いしますとの事だったんだが、……どうやらこれから面白くなりそうだよ」楽しそうな声音でホームズが言った。
「そうか」私は短く返事する。「紅茶を淹れよう」
「頼むよ。時にワトソン、君は吃驚するぐらい紅茶を淹れるのが上手いけど一体どこで勉強したんだい」
「皮肉を言われたのは考えずともわかったぞ」
「褒めたのに!」ホームズはわかりやすく拗ねた。暖炉に薪を放り込みながら何か文句を言っているが無視しておく。
戸を叩く音で意識が引き戻される。依頼人がやって来た。

十時を少し過ぎてからやってきた依頼人のパーカー・アーキテクト氏は、品の良い紳士というイメージをそのまま現実にしたような風貌だった。既に五十代は超えているだろうが、背筋はぴんと伸びており背が高いのがよくわかる。
後ろに撫でつけたロマンスグレーの髪の毛、しわ一つない黒のフロックコート、磨き上げられた革靴。どこを切り取っても正しく紳士という言葉が似つかわしく、私は彼に紅茶を出したものの急に彼の舌に合うかどうかが心配になってきた。
身なりからして裕福な暮らしをしていることは容易に想像がついたこともあるが、私はしょっちゅうホームズに「君の淹れる紅茶は独特な味がする」と皮肉られていた――どうにも彼の誉め言葉を素直に受け取れないのはそれが原因でもある。ハドソン夫人に頼まなかった事を後悔しつつ、私はいつも通りホームズの座る椅子の横に置かれた椅子へ腰かけた。

「お時間を作ってくださりありがとうございます、ミスター・ホームズ、そしてドクター・ワトソン。貴方がたのような高名な探偵にお会いできて光栄です」
「こちらこそ。貴方がお送りくださった依頼文ですが、興味深く拝読しましたよ」ホームズはそう言って煙草に火を付けた。「宜しければ貴方の口でもう一度、説明をして頂いても? 僕は常に思うのですが、文章と話し言葉では得られる情報が違います。ですから実際にアーキテクトさん、貴方の声で語って頂くことがとても大切なのです。お手間でしょうが、良ければ」
「ええ、ええ、勿論です。それが貴方の推理にお役に立つのであれば幾らでも」アーキテクト氏はそう言って一度丸いメガネを外し、クロスで拭いて掛けなおした。「先ずは依頼文でも書いた、例の妙な手紙の原本をお持ちしましたのでご覧ください」

アーキテクト氏はそう言って懐から白い紙を一枚取り出した。ホームズはそれを受け取って細かく観察し始める。上質な紙で、紺色のインクで『R: WHO KILLED THE CANARY』と書かれていた。

「ふむ……少し厚めの紙のようだ。ワトソン紙やフルース紙とも少し違う。何か別の紙を土台に貼り合わせている。なぜこんな手の込んだ事を?」
「全て大文字だ」私は横から言った。
「筆跡を誤魔化す為だろう。だがこの人物は……全ての文字が右肩上がりになっている。紙を斜めにした状態で書いたのかもしれない」
「ミスター・アーキテクト。ホームズはこの通りですが、しっかり聞いていますのでお話しください」

ホームズは私の声で一度紙を観察するのを止めた。アーキテクト氏は少し不安げな表情を浮かべて一度頷き話を始める。

「かしこまりました。……私の依頼は、率直に申し上げて難解な事件等ではありません。ホームズさん程の方からしてみれば、取るに足らない、つまらない事件とは思われるでしょう。ですが他に頼れる方は思いつかず依頼に至った次第です。依頼はきわめてシンプルです。失踪した娘を探してほしい、ただこの一点のみなのです。
先にこの奇妙な手紙についてお話しさせてください。二週間ほど前にこの妙な手紙が届きました。悪戯だろうと無視していたのですが、娘のマリアがこれを見て真っ青な顔になってしまい――私としては気にする必要はない、悪戯だろうから、と何度も言ったのですがマリアはずっと気にしていました。それから一週間後でした。起きてきてリビングへ来ても一向にマリアが降りてこない。私はメイドに様子を見に行かせました。部屋はもぬけの殻で、マリアは何処にもいませんでした。
……あの子は家族思いでどこか出かける際には必ず私や妻など家にいる者に言ってくれます。何も言わず出て行くとは、あの手紙が関わっているだろうと、これは悪戯などではないのだと確信しました。新聞広告にも娘の事を出そうかと考えましたが、もしあの手紙の送り主が見ていたら――と考えるとどうしても踏ん切りがつかず……
「アーキテクトさん。ご職業についてお聞かせください」ホームズは煙をもくもくとさせながら唐突にそう言った。アーキテクト氏は虚を突かれたように一瞬固まり、「あ、ああ、職業ですね、ええ」と早口で言った。
「美術商としてウエストミンスターの方で画廊を経営する傍ら、建築士もやらせていただいております。自宅も自分で図面を書いて建てました。美術商の方は古くからの生業でして、家業と言うほうが正しいでしょう。国内の画家からフランスやイタリアなど、幅広い国の絵画を扱っております。勿論絵画以外にも美術品であれば基本的にはなんでも扱いますね」
「成程。そうであれば顧客の方には貴族もいることでしょう」
「勿論です。……あの、この話が娘の失踪とどうつながるのでしょうか」
「今は分かりません。しかし情報を得ていて意味がないという事はありませんから、どのような些細な事であっても知っておきたいのですよ」

ホームズはそう言って朗らかに笑った。私は二人の対照的な様子を見ながら考える。
『R:』という部分の意味。そしてその先の部分、『WHO KILLED THE CANARY』――「誰が金糸雀を殺したのか」という言葉の意味。全て一緒に考えるべきなのか、分けて考えるべきなのか、何一つまだ私は分からなかった。ホームズは既にこの事件の結末を読んでいるのだろうか? 否、今は情報を集める段階だろう。

「貴方から見て娘さんが失踪する理由――手紙以外で思い当たる節があればお教えいただきたいのですが」私はもう少し情報を引き出そうと問いかけた。
「そうですね……娘は数年前までヨークにあるカレッジに通っておりました。そこでは常に成績一位で大学への進学を希望しておりました……志望先は数学科で……。どうも上手くいかず入試に何度も落ちていました。しかし最後の入試を受けたのはもう三年前の話です」
「カレッジでの生活や交友関係などは伺っていないのでしょうか」
「いいえ。これと言ったいざこざもなかったはずです。今思えばもしかしたら、何も言わず気丈に振舞っていただけなのかもしれませんが……娘の口から何か、特段これと言ったことは聞いておりません。ああ、いえ、一つだけありました」

アーキテクト氏はそう言って悲し気に眉を下げた。ホームズの瞳に鋭利な光が宿る。それを待っていた、と言わんばかりに身を乗り出して指を突き合わせた。

「その事柄についてお教えいただきましょう」
「エミリア・ハーツクライという女性をご存じでしょうか。二週間ほど前でしたか、不幸にもオルトヴィッチ劇場のシャンデリアの下敷きになって亡くなった歌手なのですが」
「ええ、新聞で見ましたよ。ワトソン、新聞を取ってくれないか」ホームズはひらひら手を動かした。私はラックから二週前の新聞を引き抜いて手渡す。「ありがとう――これですね。『歌姫 エミリア・ハーツクライが死亡 突如落下したシャンデリアの下敷きに』」
「ええ、まさにそのニュースです……マリアの話によると、このエミリア・ハーツクライ嬢はカレッジで同級生だったのです。娘が通っていたカレッジは寄宿制だったのですが、相部屋でもあったと帰省した際に話していました。これもまた縁でしょうか」
……この妙な手紙が届いたのも二週前。エミリアが死亡したのも二週前。偶然とするには妙な附合だ」私は独り言った。ホームズはこちらをちらりと見て軽く頷く。
「アーキテクトさん、この件は存外に一筋縄ではいかない事件かもしれません。しかし貴方は良い選択をしたと断言できます。僕らの元にこの件を持ち込んだのは大正解です。必ず娘さんを探し出し貴方の元へ帰すとお約束いたします」

ホームズは力強くそう言った。そこには先程椅子に丸まっていた情けない探偵はおらず、その謎を解かんとする黒曜石のような輝きがあった。