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アスナショウコ
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【創作|馬子軸】アンシーリーコート
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外伝[1881-1891] 誰が金糸雀を殺したのか?
あらすじ
1885年、3月。諮問探偵シャーロック・ホームズと、その助手・医学博士ジョン・ワトソンの元にある依頼が届く。依頼の内容は『失踪した娘を探して欲しい』という極めてシンプルなものだった。しかしその依頼の二週間前に起きた、ある歌姫の死とその失踪が繋がっているようで……? 手掛かりは奇妙な手紙「R: WHO KILLED THE CANARY」、そして色濃く残る幻想の気配。その先にあるのは深い森と視界を奪う霧。鳥籠と信仰の密室__。誰が金糸雀を殺したのか? その命題に二人は挑む。
無印べったーの移植版です。一部名前や句点の修正を行いました。
スペシャルサンクス
笋様の作品「赤い純情」、ヘルメス様にご登場いただきました。本当にありがとうございました。素晴らしい作品をインスパイアさせていただき本当に光栄です。
Littorio様 アマネセール家のお名前を出させていただいております(事後報告)。ありがとうございました。
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ホームズが221Bに戻ってきたのは夜中の十一時に差し掛かろうかという頃だった。珍しくその日の夜は澄んだ空気で窓の外を見ると輝く月が微笑んでいる。遠くで梟の鳴き声が聞こえたような気もする静かな夜だった。
その静寂を突き破りシャーロック・ホームズはふらふらとバスルームに入ってきて、私が収まっているバスタブに服を着たままいきなり足を突っ込んだ。
「な、何やってるんだお前!」絶対に風邪を引く。水温は低くしてあるのだ。現に今も私が生み出した氷が放り込まれている。「ホームズ、風邪を引くからやめろ」
「おかしくなりそうだ」
「は?」
「頭を冷やしたい」ホームズはいきなり頭から氷水を被った。
「もう既に頭おかしいだろう
……
」
「ははは、一理あるね」ホームズは死人のような顔で答えた。「だが立ち止まるわけにはいかない」
「だったら早くこの氷水から上がれ。着替えて暖かくして寝ろ」
「ご忠告ありがとう、マイ・ディア。だが心配には及ばないよ。色々と試して気づいた事があるんだ」
ホームズは濡れてしまった髪の毛を掻き上げてタイを外しその辺に放り投げた。暖かい色味の手持ちランプの灯りだけが空間を照らしている。
ホームズは私の尾鰭を抱え込むように足を伸ばす。邪魔だ。だがどう言ったところで無意味なのはわかりきっていた。大人しく黙っていればついに収まりが良くなったのか、両手の指先を突き合わせて推理に集中し始める。
「
……
はぁ
……
何に気付いたというんだ?」私はホームズを追い出すのを諦めた。
「順を追って言わせてくれ。マリアの部屋の窓に靴跡があっただろう。あの靴跡を検証したところ、ジゼット・フォークナーのものとは合致しなかった。それと彼女の筆跡が分かるものを神秘管理局に引っ張り出させたんだが
――
あの手紙の筆跡、そして画廊の取引契約書、いずれの筆跡とも合致しなかった」
「では
……
何者かがジゼットを騙っているということか」
「最初はそう思った。だがねワトソン。魔術世界で双子は同一人物とみなされる。鏡写しで全く同じ能力の場合もあれば、お互いを補完し合って一人とみなされる双子もいる。だから双子には二人で一つの同じ名前が与えられるんだ」
「何故今その話をする? どう関係があるんだ」
「おや、今日は随分ぼんやりだね。決まっているだろう? ジゼット・フォークナーが双子だからその話をするのさ」
ジゼットが双子? 私は驚きを隠せずホームズの方を凝視していた。だがこれまで私たちが会ったジゼット・フォークナーは彼女だけだ。片割れがいるとしてそれは一体どこにいるというのだろうか。ホームズはもう既にこの事件の全てが見えているようだ。灰色の瞳の奥に鋭い光が宿っている。
「双子は家系図にも一名分しか名前が載らない。たとえそれが男女の双子であっても関係ない。前提としてジゼット・フォークナーという人間は二人いた」
「男女の双子、なのか
……
?」私はぽかんと口を開けたまま問う。
ホームズは呆けている私に満足したのか「ああ、そうだ」と嬉しそうに言った。「まず、その男の片割れのジゼットだが。ジゼット=ハゥロー・フォークナーという名だという事がわかった。彼は相当な魔術師らしい。類まれな錬金術の名手であり、界隈で最も脚光を浴びていると言っても過言ではない」
「
……
もしやあの鳥籠を作ったのは、そのハゥロー・フォークナーか?」
「それについてはまだ分からない。だがハゥローは最近神秘編纂部によく出入りしていて、ある幻想に関する事を調べていた」
「
……
ハゥローはマリアが殺されることを察知してマリアを攫った。しかしマリアは亡くなっている
……
フォークナー家内部の犯人によってあの場に連れていかれ、結果幻想に殺害された。ハゥローはその幻想の正体を探っていた、そういうことか」
「その通りだ。マリアに怪しまれず接近して連れ出しあのフラットへ連れていけた人間は一人しかいない。ハゥローでないのなら誰か? 考えるまでもない」
「ロベルト・フォークナー」
ホームズは私が口に出したその名前に顔を曇らせた。メアリーから諸所の情報は聞いているのだろう。ここまで来ればあの日、ウエストミンスターのフォークナー邸で会ったルドルフ・フォークナーと名乗った人物こそ、ロベルト・フォークナーであるという事は推理できる。
ルドルフが果たして本当にヨークにいるのか? という部分を疑えばきりがないが、順当に考えればそうなる。ではあのフラットで死んだ男
――
ヤードの警官以外で一人、鳥籠の外側で祈るように手を組んで死んでいたあの男はまさか、ハゥロー・フォークナーか?
「信じたくないが、そういうことだ」ホームズは天を仰ぐように目を伏せた。「彼は理想を語る一方、その裏でとんでもない犯罪に手を染めていた。あのゴシップは真実だ」
「収賄と離縁した妻との間のトラブル
――
だったか」
「それだけじゃない。表には出ていないがね。
……
マリアの部屋に『小惑星の力学』という本があったのを覚えているかい? 著者はジェームズ・モリアーティ教授。数学の権威にして、マリアが尊敬していただろう人物。学術研究の世界において素晴らしい功績を残し、一方で貧しい子供にタダで読み書きを教えるなど篤志家の一面もあることが知られている」
「そのモリアーティ教授がどうかしたのか? 素晴らしい方じゃないか。私は数学に明るくはないが彼の名は知っている。あらゆる数理理論を明かし、新たな理論を構築してきた素晴らしい頭脳だろう。お前に引けを取らぬ天才だと思うが」
「その頭脳を数学や物理学、学問の発展だけに使ってくれていればよかったんだがね」ホームズはやれやれというように手を振った。「彼は教育者だ。ああ、学問の、ではないよ。
――
犯罪者を育てる教育者であり、このロンドンに巣食う巨大な蜘蛛の巣の中央にいる大蜘蛛だ」
「あらゆる犯罪を追えば、モリアーティ教授に行きつくとでも言いたそうだな。そんな話があると本気で言っているのか?」
「本気だとも。
……
モリアーティ自身は何もしない。だが彼は犯罪者たちに犯罪を起こさせる。しかもモリアーティ家はこの国で有数の魔術大家、神秘編纂部に弩級の遺物が厳重に保管されている。見ただけで気が狂うようなとんでもないものだ。この手の遺物を保管している金庫がもう一つこの世にあることを君は既に知っているはずだ」
「ジゼットの金庫か。待て。双子という事は鍵が二本あるはずだ。モリアーティと双子のどちらかが繋がっていれば、モリアーティはいつでもその中にある物を引き出せる
……
その〝物〟というのが」
「『金糸雀の涙』、という訳さ。ねえワトソン。傷は癒えたかい?」
ホームズは不敵に笑った。私は即座に応える。
「ああ。何時でも構わない」
「よし
――
では行こうか。全ての答え合わせの時間だ」
その声はどこか苦痛に満ちていた。私が見えていない真実をホームズは直視しているのだろう、と思いながら私は尾鰭を脚に変えた。
***
少し時間を遡る。ワトソンがフォークナー邸で暴れている間
――
シャーロック・ホームズはアーキテクトの画廊、そしてゲオティネス・クラブがほど近い高級料理店にて更なる調査を行っていた。
ホームズは約束があるんだ、とウエイターに言って店に入り、一人で座ってコーヒーを楽しんでいた紳士の前に座った。
「ルドルフ・フォークナー卿。いえ、こう言うべきでしょうか? ロベルト・フォークナー卿、と」
そう呼ばれた紳士は一瞬体を強張らせた。何故、という表情になった後ロベルトはホームズの顔を見て安堵したように息を吐き出した。ホームズは眉を寄せて顔を顰めた。
「紅茶とコーヒー、どちらにしますか?」ロベルトはそう問いかけた。
ホームズは「では紅茶を」それだけ短く答える。ウエイターが滑るようにやってきて注文を受けつけ去っていった。「お伺いしたいのですが、どうして兄君の名を名乗っているのでしょう」
「ご存知でしょうが、私は色々と社交界から後ろ指を指される立場です。兄の名を借りている方が何かと楽なのですよ。それに兄とは顔が似ているので、誤魔化しも効きます」
「
……
そうですか。本当にそれだけの理由であれば良かったのですが」
ウエイターが紅茶を運んできた。ホームズの前に白いティーセットが置かれる。レモンスライスが一枚鎮められていた。
「どういう意味でしょう?」
「貴方が一番それをご存じではないですか。こちらを」
「
……
」ロベルトはどこか恨めしそうにその紙を受け取った。「
……
ええ。気が向けば、参ります」
「それと、別に貴方には聞きたい事があります。マリア・アーキテクトという女性をご存じですか?」
「無論知っています。私が貴族院にいた頃、少しばかり援助を。もし彼女が大学に行けていたならば相当な頭脳となった事でしょう。本当に惜しい
……
いいえ、惜しいどころの話ではありません
……
。彼女は、彼女はこの国を変えるほどの頭脳を持っていました。あれ程優秀な女性が殺されるなど、英国の損失です」
「殺されたとご存じでしたか」
「記事が出ていました。あれ程新聞で報道されれば嫌でも目に入ります」
「そうですね」ホームズは淡白に返した。
「その件で調査を?」
「ええ、まあ。ですが彼女の件についてはほとんど解決しています。疑問なのは何故彼女があの場で死んでいたのか、この一点です
……
あの場には彼女以外に二名分の遺体がありました。一人はヤードの警官、もう一人は身元不明の謎の男。さらに不可解なのはマリアが出入り口のない鳥籠の中で死んでいた事です。貴方には全てお分かりでしょうが」
「それと、私と。どのような関係があるとお思いですか? ミスター・ホームズ」
「全て、ですとも」
「全て
……
」
ロベルトは恐れるように呟いた。手を組んで視線を軽く外す。ホームズは前屈みになりながら指先を突き合わせ灰色の鋭い眼光をロベルトへ向けた。
「貴方は深い愛をお持ちだ。誰かのために行動し、誰かを救うために行動し、時として誰かを救うために誰かを犠牲にすることも厭わない」
「何を仰いたいのか分りかねます」
「意なことを。もう終わりにしましょう。貴方はもうこれ以上手を汚すべきではありません。貴方が守りたかった人のためにも、もうこんな事は
……
」
「ミスター・ホームズ」
ロベルトは底冷えするような声を上げた。聞き耳を立てねば聞こえなさそうな静かな声ではあったが、腹の底に響く恐ろしさと怒りを孕んでいる。ホームズは姿勢を正し、緊張を誤魔化すように少し冷めた紅茶を口につけた。
「貴方は私のしている事が何の意味もないことに見えるのでしょう」
「いいえ
……
そのようなわけではなく」
「素直に言ってくださって結構ですよ。これは自己満足です。自己満足でしかありません。何も生まず、誰にも理解されないでしょう。貴方が私のすることに何の意味も見出さなくても、それでも私はやり遂げます」
「駄目だ。貴方はこれ以上罪を重ねてはいけない! 今ならまだ引き返せます。もう十分でしょう」
「優しい人ですね、貴方は」ロベルトはふっと微笑み目尻を落とした。「ありがとうございます。貴方をアンシーリーコート、いいえ、ミスター・ワトソンが選び力を貸す理由がよくわかります。私は貴方とこうして言葉を交わせて嬉しかったですよ」
ロベルトはそう言って席を立った。ホームズが渡した紙をそっと懐にしまいステッキを手に取る。
ホームズの目には黒いフロックコートが墓標に見えた。
「ロベルト・フォークナー! 貴方は
……
!」ホームズは苦しげに言葉を搾り出す。「いや
……
僕は
……
僕に、貴方を止める権利は、ない
……
! 僕だってそうだ。ワトソンが、メアリーが、誰かに殺されたら殺した犯人を地獄の果てまでも追いかけて殺す。きっと貴方と同じ事をする。二人がそれを望まなくてもやる。だから僕は貴方を止められません
……
」
ホームズの言葉には悔しさが滲んでいた。ロベルトは去ろうとする足を止めて振り返った。
「そうでしょう?」
「ええ、そうですとも」
「
……
我々は案外似た者同士かもしれませんね、ミスター」
「ええ」
「ですが貴方はきっと、私とは違ってその淵で踏みとどまり、法の裁きによって復讐を望むのでしょう」
「それは、分かりません」ホームズは振り返らず答えた。
「分かりますよ。きっとそうします。だって貴方はシャーロック・ホームズなのですから」
お代は結構です、と言い残してロベルトは去っていった。
紅茶はすっかり冷めて味もわからなくなっていた。
***
客間にいたのはルドルフ・フォークナーと名乗った男だった。彼がロベルト・フォークナーであることはもう疑いようが無かった。ホームズは「来てくださると思っていましたよ」と悲し気に呟く。
深い海色の瞳。銀色の髪は軽いオールバックにしており、少し髪が顔にかかっていた。ローレンスの面影もあるがやはり顔の特徴はジゼットに近い。当然だ
――
彼はジゼット・フォークナーの父親なのだから。ロベルトはあの日屋敷で見た時と同じように背筋を伸ばして来客用の椅子に座っていた。私はまだ少し痛む脚を引きずりながらいつも通り椅子に腰かけた。ホームズも同様に赤い椅子に座る。背もたれに引っかけていたガウンを肩にかけて、ロベルトの方をじっと見つめた。
「
……
パーカー・アーキテクト氏を殺害したのは貴方ですね?」ホームズは何の前置きもなしにそう言った。私は一瞬思考が追いつかず固まる。私がアーキテクト邸に行き、ローレンスの金庫へ移動させられた後に殺害されたのか。
ロベルトは一度瞼を伏せた。驚くほど落ち着き払っている。「ええ。刺し殺しました」あっさりと
――
余りにあっさりと認めた。「ヤードに通報なさいますか? それでもかまいません。私は私の目的を達成しました。後はどうなろうが、破滅しようがどうでもいいのです。息子が後を引き継げるよう全ての手はずは整えました」
「ジゼット=ハゥロー・フォークナー
……
ですね」私は漸く回り始めた頭で呟いた。ロベルトは穏やかに頷いた。
「ミスター・ホームズ。貴方は全て知っていらっしゃるのでしょう?」
「無論わかっていますとも。ですが
――
なぜ。なぜよりによってモリアーティと取引したのですか。モリアーティの目的は分かっていたでしょう。貴方は聡明だ。必ず『金糸雀の涙』を彼らが欲すると
――
気づいていたはずです」
「ええ。ですが、あれはもうユタリアではない」ロベルトは冷たく言い放った。「ユタリアはこの世にもういません。あの石はユタリアの今の際の残滓を抱えているただの魔力の塊に過ぎない。私はあれを手元に置くよりも、ユタリアを殺した者たちを皆殺しにすることの方が重要でした」
「
……
ならばなぜエミリア・ハーツクライを殺害した。マリア・アーキテクトの死についても、だ。二人は何ら関係ないはず」
私は感情に任せて口にしていた。言うべきではないのかもしれないと頭の隅では感じていたが、どうしても納得がいかない。ロベルトは静かに私の方へ視線を動かした。
「あの子は特別でした。ハーフエルフと言っても、限りなく妖精に近く幻想に愛されていた。即ち回帰者だったのです。
……
回帰者であることは即ち普通の妖精である母のユタリアよりも遥かに強い幻想であることを意味します。その手の魔術を使う者にとってエミリアは垂涎物の材料です」
「貴方はエミリアを殺すしかなかった」ホームズはそう言って天井を見た。「彼女をユタリアと同じように材料にさせないために」
「その通りです。
……
置換魔術は、魔術によって対象を殺すことで初めて発動します。しかも置換魔術を扱える家はアーキテクト家だけではない。いずれ他の魔術師がエミリアの存在に目をつけ、ユタリアにやった事と同じことをするでしょう。私ではエミリアを守れない。ユタリアと同じようにあの子が魔力の塊に変えられるかもしれない。そんなことを許せるでしょうか。耐えられるはずがないでしょう? 私の愛した人が、あんな姿になって。
……
あんな、あんな澱んだ魔力の塊にされて
――
私が、ヨークに戻らなかったばかりに。私がユタリアの傍を離れたばかりに
……
彼女は、たかだか一瞬の魔術師の道楽のために殺された」
ロベルトの言葉は最早絶叫だった。
愛した人が変わり果てた姿になっている悲しみは想像を絶する。
「
…………
失礼しました。取り乱しました」ロベルトは深く息を吸って吐き出した。「
……
マリア・アーキテクト嬢は私がエミリアを殺したことを見抜いていました。以前もそうでしたが、彼女は見えすぎる体質のようで『金糸雀の涙』の正体、我が父ローレンスの正体、それらを察していました。当然ながら自身の父親がしたことの察しもついたでしょう」
「貴方の息子であるハゥローは、そのマリアを保護しようとした
……
違いありませんね?」
「ええ。エミリアの死に際しハゥローは私のしていることに気付いたようでした。だがどうしても息子を巻き込みたくはなかった。マリア嬢を保護するよう命じてヨークへ行かせました」
メアリーの電報に返事をしたのはハゥロー・フォークナーだったのだ。順当に考えればルドルフ・フォークナーは既に
――
。
「あのフラットで死んでいたのは貴方の兄君
……
ルドルフ・フォークナーですね?」ホームズは問いかける。
「そうです。いつお気づきに?」
「遺体を見た後貴方に会った時です」
ロベルトは背もたれに体を預けて「はは
……
恐ろしい慧眼ですね」と脱力したように呟いた。「兄には魔術の才覚がありませんでした。妖精との対話すら上手くいかなかった。勘違いしてほしくないのですが、私は別に魔術の才覚が無いから兄を嫌っている訳ではありません。兄は精神性がとても父に似ていた。変わらない事。不変であること。そして常人に理解できないものに強く惹かれていました。ですから一つ、原生神秘にまつわる幻想を与えるだけで良かった。この場合は下賜された銀の鬣です」
「
……
その鬣に導かれて、ルドルフ・フォークナーはあの鳥籠の中身に辿り着いた。そしてその幻想に殺されたのか」私はロベルトを睨む。彼は涼やかに私の視線を受け流した。
「自業自得です。兄は幻想との距離の取り方すら知らない。如何に魔術の才覚がなくとも、その研鑽を怠るべきではなかった。ですが己が望んだ幻想に殺されたのです
――
ある意味幸せだったのでは?」
「その過程で無関係のマリアが死んだんだぞ
……
!」
「無関係ではありません。マリア・アーキテクトは『金糸雀の涙』を使って合成されたホムンクルスだ!」
「屋根裏部屋の利用目的はもしや、と思っていましたが
――
」
ホームズは確かめるようにパイプを指先で弄びながら言った。
屋根裏部屋はもともとアーキテクト家の魔術工房だった。だがマリア・アーキテクトを生み出したことで不要になり、その機能全てを画廊へ移した。そしてあの部屋は彼女の部屋になったという経緯か。私はもう考えることを止めてしまいたくて顔を覆うように手を当てる。
復讐。生産性のない殺人。愛ゆえの殺人。
人間が時々分からなくなる。
「今まで事件を追ってきてどうしてもわからない事があります。貴方は三年前にスキャンダルを理由に貴族院を追放された。総合して考えればルドルフの奸計である事は誰にでも容易に分かりました。この時点で貴方はルドルフ含め、ユタリア殺害の関係者を殺害し、復讐を達成する事もできたはずです。
しかしそうはしなかった
……
何故わざわざ今なのでしょう? 貴族院追放によって貴方はマリアを支援できなくなっただけでなく、フォークナー家内での立場も危うくなった。貴方は聡明な方です。ルドルフの奸計に気づかないという事があり得ない」
ホームズは一息にそう言った。ロベルトは穏やかな微笑みを浮かべて一言、
「我が父が死ぬのを待っていたのです」
と言った。
「ローレンスが、死ぬのを?」
「ええ。ミスター・ホームズ、貴方がお考えの通り確かに今ではなくても良かった。もっと前に皆殺しにしても良かったのです。ですが絶対に我が父を殺すにはもっと時間が必要でした。
……
相手は三百年も永らえた存在です。一筋縄ではいかない。殺した程度では死なないのですよ」
「
……
殺した程度では死なない
…………
」私はその言葉を反芻した。確かに幻想種に近づけば近づくほどその傾向は強まる。
「今夜にはあの方の霞で逝くでしょう」
「お待ちください。ロベルト卿、貴方はまさか」ホームズは勢いよく立ち上がった。
「では、これで失礼いたします。ミスター・ホームズ
――
どうかお気になさらないでください。貴方は確かに真実に辿りついたのです。たとえその真実が如何ほど受け入れがたいものであっても、あり得ない可能性を消していったらそれは真実なのでしょう?」
彼は懐から黒い鍵を取り出して鍵穴に差し込み逆方向へ回した。
階下へ繋がる扉が閉じられることはない。扉の先は深い霧に覆われた森だった。
深い霧と静謐に満ちた森を歩いていく。草を踏む足音と月光、時折聞こえる妖精の囁き声。私はホームズと共にランタンを片手に森を進む。一本道であることは間違いない
――
まだ221Bの明かりが遠くでぼんやりと見えていた。分け入っていけど深い霧が晴れることはなく、確かに方向感覚がおかしくなってくる。ホームズがしんどそうに私の腕を掴んだ。物凄い幻想密度だ。まるでここだけ人間を拒み、妖精や幻想、そのうちへ戻ろうとするものだけを受け入れるような雰囲気すらあった。
足元に何かが当たる。朽ちた樹木が横たわっている。私はホームズをひょいと抱えあげてそれを超え、更に奥へ進んだ。彼から「今何か大事なものを失った気がする」と謎の抗議を受けたが、それは右から左へ受け流した。
突如視界が開けて草原に出る。ぽつぽつと家屋の点在する美しい田園風景が広がっていた。この位置からでも教会があるのが見える。ただ教会も屋根は無く、外壁には蔦が這い廃墟のような雰囲気があった。満月が丁度その教会の真上に座し、青白い光が異様に目立っていて導かれているようだった。
二人で周囲を警戒しつつ教会を目指して進む。迷い込んだ訳ではないが、この場所は本来普通の人間が辿り着いて良い場所でないことは嫌でもわかる。ロベルトがどのような意図をもって私たちをここへ招き入れたのかは分からないが、私は嫌な気配をずっと感じ取っていた。
強い信仰に根ざす場所であるという事は分かる。どのような形であるにせよ、ここには明確な強い願いと信仰によって発生した幻想が棲んでいる。
「着いたか」
「ああ」
ホームズが私の肩に手を置き、「拳銃は?」
「持ってきている訳があるか。
……
幻想相手に通じると思うか?」
「いや、確かにそうだね。行こうか」
入り口の扉は辛うじて存在していた。強く押して教会の内部へ入ればそこには先程とは異なる霞と香りが充満している。私たちの視線の先にはローレンス・フォークナーがいた。虚ろな表情でこちらを見て右腕を伸ばす。
が、次の瞬間
――
何かがローレンスの頭蓋を砕いた。人間とは思えない力で割られた頭蓋から肉片と鮮血が周囲へぶちまけられた。
<嗚呼>
霧全体から浮き上がるように教会内部で声が反響した。ホームズは気分が悪いのか立っていられず片膝をついた。私はホームズを支えながらその姿を視認しようと目を凝らす。
<肉が腐っている
――
……
酷い臭いだ>
<これならばまだあの牝の方がマシというもの>
「
……
これは
――
」
<可哀想に>
ホームズがその声に顔を上げた。私たちの前には霞色の馬がいた。
だが本質は全く違うものだと即座に分かった。口元についた血液が、彼がしたことを物語っている。漸く理解した。この馬がマリアを殺し、ルドルフとヤードの警官を殺した。
幻想の正体はこれだ、と
――
次の瞬間馬はふっと消えた。そこに立っていたのは男とも女ともつかぬ美しい馬子だった。
ローレンスの姿は、彼を必死で真似たものだったのか。
彼が目指した〝永遠〟は、この幻想か。
<希代の名探偵と、哀れな海竜ですか>
「
……
!」
<好奇心は猫を殺すという言葉をご存じないのですか? 私は警告しましたよ、ウィリアム・スコット・シャーロック・ホームズ>
「悪いがそんな警告を受け取った覚えはない。僕に妙な悪夢を見せてくれてどうもありがとう。
――
おかげで真実に迫れたよ。〝ヘルメスの鳥〟」
<
……
おや、いつ名乗りましたか>
「さあ、いつだったかな?」ホームズは死人のような顔色ではあったが不敵に笑った。「流石に貴方を中央刑事裁判所に引きずり出すのは不可能だが
――
ロベルト・フォークナー卿は連れて帰る。彼にはきちんと裁判を受けてもらう!」
<ロベルト・フォークナー
……
>
ヘルメスの鳥、と呼ばれた馬子は顎に手を当てて考えるそぶりを見せた。左の青い瞳はロベルト、ジゼット両名と同じ色だった。
下賜された銀色の鬣。ローレンスが必死で求めたその永遠。彼らは同じ一族だ。どこかで分かたれて片方が魔術師に、そして片方がこうして幻想の内側へ回帰した。
<嗚呼、あの脚足らずですね。
……
残念ながら倫敦には戻りませんよ。彼は既に還りました>
「還った
――
まさか、お前」
<ええ、ええ! 赦しましたとも。どのような罪も、乞われたならば許します。どのような罰も与えはしません。そして受け入れる
――
信仰に応えるのは当然でしょう? 私に供物を運ぶ金庫番たち。ハゥローは残念ながら反抗的ですが、私はあらゆる苦しみから解放するためにここにいるのです>
貴方だって同じでしょう? とヘルメスは私に囁いた。
「違う、私は」
<同じですよ>
「
……
――
何が、同じだと」私は必死で声を上げる。
<腹を裂けば血が出る。幻想種も、人間も、回帰した我々も同じこと。貴方も役目を担っているのですよ、哀れなる原初の泡>
「役目? お前は一体、何を知っているというんだ」
<おや
……
探偵が瀕死のご様子。助けて差し上げても構いませんよ? それなりに代償は頂きますが>
ヘルメスはそう言って私の頬を撫ぜた。ホームズは霧に含まれる多量の魔力によって苦しそうに喘いでいる。私は彼を床に寝かせた。信用すべきか否かなど
――
。
「
……
信用できない。何を差し出せというんだ? ホームズの命か? それとも私か?」
<ふふ
――
ふふふはははは!!!! 嗚呼
……
この私を、そんな無粋だと思っているなんて! 客人をもてなすぐらいは致しますよ? 無論貴方が何かをくれる、というのであれば有難く貰い受けますが
……
>
「この事件の一切を秘匿する。だからここから221Bに帰せ」
私は全身から魔力を揺らめかせながら言った。そのままそっとホームズを抱えあげる
――
ぐったりとして浅い呼吸を繰り返している。ヘルメスはつまらなさそうに私たちを一瞥して馬の姿に戻った。
<
――
……
いいでしょう。貴方ほどの原生神秘が気に入る脚足らずだ>
<傷物にして、我が領地を海に変えられても困りますからね>
霞色の馬は私の横を通り過ぎて前を歩いていく。私たちはヘルメスの後をついていく。
明るい暖炉の光が向こう側から漏れ出ていた。
<また会いましょう、原初の泡>
霧に包まれながらその声が響いた。独りでに扉が閉まり霧はふわりと霧散した。
ソファにそっとホームズを寝かせてやる。先程よりも幾分か顔色はいいようで、規則正しい寝息が私の耳を叩いていた。
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