外伝[1881-1891] 誰が金糸雀を殺したのか?

あらすじ
1885年、3月。諮問探偵シャーロック・ホームズと、その助手・医学博士ジョン・ワトソンの元にある依頼が届く。依頼の内容は『失踪した娘を探して欲しい』という極めてシンプルなものだった。しかしその依頼の二週間前に起きた、ある歌姫の死とその失踪が繋がっているようで……? 手掛かりは奇妙な手紙「R: WHO KILLED THE CANARY」、そして色濃く残る幻想の気配。その先にあるのは深い森と視界を奪う霧。鳥籠と信仰の密室__。誰が金糸雀を殺したのか? その命題に二人は挑む。


無印べったーの移植版です。一部名前や句点の修正を行いました。

スペシャルサンクス
笋様の作品「赤い純情」、ヘルメス様にご登場いただきました。本当にありがとうございました。素晴らしい作品をインスパイアさせていただき本当に光栄です。
Littorio様 アマネセール家のお名前を出させていただいております(事後報告)。ありがとうございました。



第二幕 鳥籠と信仰の密室


……恐れながら原初の泡、アンシーリーコートよ。一つ忠告しておきます。
あまり人間に肩入れなさらない方が良い。貴方は滅びを知らぬ者です。悠久の時を生きている不滅の存在です。どれほど貴方が人を愛そうと、人は貴方に寄り添う事はありません。
貴方は常に残される。ですからどうか、差し出がましいでしょうが、このことは頭の片隅に置いていただければと思います』

ローレンス・フォークナーの言葉が妙に耳の奥で反響している。ふと目を開くとバスルームは太陽光で明るく照らされ、置かれた観葉植物がその光を存分に堪能していた。
きゅうきゅうと鳴き声がするので水の中から体を出して白いタイルの床を見れば、白くて丸いプランターから手足が生えたような幻想種が鳴いていた。エッグプラントである。どうも寝ぼけている私を起こしに来てくれたらしい。

「おはよう。……先に行っていてくれ。すぐに行くから」
「きゅ」

指先で頭をつつくと嬉しそうにエッグプラントは背中にぽんと一輪だけ花を咲かせた。白いアネモネに似た花が揺れている。私は短い脚でぽてぽてと歩いていくエッグプラントを見送りながら尾鰭が脚に変わったのを見計らいバスタブから出た。
今日は少し暖かい日になりそうだ。バスルームの小さな窓から外を見ると珍しくロンドンは快晴だった。
手早く着替えて共有部へ行けばソファの上で溶けているホームズが目に入った。ホームズは薄らと瞳を開いてソファの半分をぼすぼす叩いて私を呼んだ。

「なぁ……マイ・ディア」私がソファに腰かけるとホームズは私の膝に頭を乗せた。
「おい、私を枕にするな」
……この事件、本当に真実を暴いていいんだろうか」
「らしくもないことを言う。急にどうした?」意気消沈した様子のホームズは瞳を瞑ったまま黙っている。「謎を解くのが探偵の本懐だと自分で言っていただろう」
「深い、森の夢を見た。古びた教会と、濃霧。白い何か、獣? いや、あれは……何だろう、もう思い出せないが動物がいた。……恐ろしかった。飲み込まれそうで怖かった。僕は教会から引き返して森へ入ったが、霧が濃すぎて方向感覚がなくなった。そうしたら目が覚めたんだ――
「私が鳥籠の内側に見た景色に似ている」
「なあワトソン。魔術師ではなく、これを幻想だと断定できるか?」ホームズは気分が悪そうだった。活力を吸われて萎びた植物のように酷い顔をしている。
「ああ。風景を見せられるのは幻想だけ。精神干渉の魔術は声で作用する。私には幻想だという確信がある。お前がコカインをやっていないのなら」
「やってない……冤罪だ……

私はホームズの頬に両手を添えた。冷たい、と嫌がっている。とりあえず落ち着かせようと必死だった。これ以外で他にいい方法が思いつかない。


「え~~っと……ごめん、俺、出直した方がいい?」
「えっ」

思わず大きい声が出てしまう。遠慮がちにこちらを見ているのはアーキテクト邸の庭師であるユージン・ガードナーだった。あの大きな帽子は被っておらず馬の耳がぴょこんと飛び出ている。そしてアーキテクト邸で見た時とは異なり、腰から明るい茶色の尻尾が揺れていた。

「いや、問題ないよ。よく来たねガードナー」ホームズはのっそり起き上がって髪の毛を軽く後ろへとかき上げた。「足音が聞こえていたよ」
「あ、そう……まあ、そっちがいいなら別にいいけどさ……」恐らく彼は私とホームズの関係性を邪推しているのだろうな、と思った。「っていうかホームズさん、俺協力するって言ってんのに何にも言いに来てくれないじゃん!」
「君は子供だろう。あの場では一応雇われている以上大人として扱ったが、どう見ても君は十二、三の子供だ。そして相手は危険な殺人犯。君を巻きこめない」
「失礼だなぁ、俺は成人済みだよ。ポニーの馬子はデカくならないんだよ。……っていうかそんなこと言ったってお嬢様が殺されたせいで奥様はおかしくなって臥せってる! 何とかしたいんだよ! ジジイは情緒不安定だし……
「ジジイ?」私はガードナーに問いかけた。
「そうだよ。パーカー・アーキテクト。あのジジイ。魔術師ってやっぱりみんな頭おかしいんだね。それでつっかかったら解雇された」
「解雇」ホームズは信じられないものを見るような目でガードナーを見た。
「うん」
「解雇……まさか君……
「ねえ。いたいけなポニーが路上で死ぬとか名探偵は見逃せないんじゃない? お願い、ここで雇ってよ。ホームズさん」
「最悪だ」ホームズは死んだ魚のような目でガードナーを見つめていた。「狙ってやっただろう!」
「チッ。ばれたか。まあいいよ。ハドソンさんは味方にしたし」
「この……

よろしくね? と器用にガードナーはウインクをした。ハドソン夫人が下からお茶と菓子を持って上がってくる。あらあらまあまあ、と楽しそうに笑う彼女を見てホームズの完全敗北が決定した。

……しかしガードナー。その……アーキテクト氏はそんなにおかしい様子なのか?」
「元からだけどね、あのジジイは。だって何かよくわかんない研究していたしさぁ。幻想種についてもそう。マリアお嬢様と奥様は兎も角さぁ」
「それは君の主観だろう。確かに彼は魔術師で、妖精を物質化する魔術……置換魔術の名手だった。これは事実だ」ホームズはガードナーの悪口を一刀両断にした。「君が単純にアーキテクト氏に対して不信感を抱いているだけだろう」
「ちぇ、なんだ。知ってたんだ。そうそうそんなやつ。……あっでもこれは知らないでしょ。あの家には開かずの扉があるんだ。三階の右側、奥の塔。常にカーテンが閉められている部屋なんだけど――そこは旦那様の部屋でね、絶っ対なんかやばいことやってるよ!」
「神秘を秘匿するための設備と、魔術工房があるのは邸宅ではなくて画廊だ。カーテンが閉め切ってあるのは紫外線による油彩画の劣化、美術関連の古書の色褪せを防ぐためだよ」
「嘘だろ!? じゃあ俺が仕事の合間に得た情報って、全部ホームズさんたちは知ってたってことかよ! はぁ~~最悪。無駄足じゃん。ん……? 俺、お嬢様と一緒に行った事あるけど別に隠し部屋とか無いよね。そりゃあ絵の保管庫はあるだろうけど、どこに隠すスペースがあるんだよ」
……建物全体にそういう効果があるんだ。実際あの画廊の窓は邸宅に繋がっていた」

私は注釈を加えた。ホームズは煙草を吸いたそうにパイプへ視線を一瞬だけ投げたが我慢しているようだ。見た目の年齢があまりにも少年なので、実年齢が如何に成人でも煙草をふかすことに抵抗感があるらしい。

「マジかよ……
「わかったらさっさと茶菓子を食べてハドソンさんの手伝いでもして大人しくしていろ」
「ちぇー。つまんねえの……

ガードナーはスコーンを手に取って思い切り噛みついた。そこまで主張は強くないものの犬歯が覗いている。

「待てガードナー!」
「ふぁ!?」驚いたガードナーは慌ててスコーンを半分割り皿へ置いた。「な、何!? ワトソン先生」
「口を開けろ」
「え?」

驚いて訳が分からないといった様子のガードナーは、私の必死さに負けてぱかりと大きく口を開けた。綺麗な歯並びである。
だが人間にはない特徴的な歯が上顎に生えている。かなり鋭い犬歯だ。馬子の男性――即ち牡馬は犬歯を持つ。これは原種の馬にも見られる特徴だった。そしてあの現場に残されていた三人の遺体、いずれの歯形もこの馬子の歯に近い。私は確信した。

……ホームズ」
「何だい?」先程までの面倒くさいといった表情は消えている。今すぐにでも飛び出して調査に行きたいという顔だった。
「マリアを殺した犯人は馬子だ」
「は?」
「成人した男性の馬子。回帰者。そして人食い。これだけあれば調べられる――メアリーに知らせねば。ホームズ……ホームズ?」

私は不安そうな顔のガードナーを一度見た。何が何なのか、という表情で私とホームズを見比べている。
ホームズは虚ろな顔で遠くを見ている。まるでその瞳に光が全て吸い込まれて光が喪われたような顔をしていた。
私は嫌なものを感じ取る。ホームズは夢で霧の深い森にいたという。
まさか幻想に呼ばれた? シャーロック・ホームズは幻想を信じず科学の目にてものを見て秤にかける。その性質の人間が幻想に呼ばれることがありえるのか?
まるで救われたいと願う者のように、許しを請うようにホームズは私を見つめている。だが私のことは見ていない。私を通して別の何かを認識している。

「ホームズ!」
……ッ、今、霧が」ホームズは少し恐れに彩られた表情で溢した。「大丈夫だ。ここはロンドン、あの森ではない」
「ホームズさんマジで大丈夫? 休んだら? 俺、調査手伝うよ」
「駄目だ。君はここで留守番をしていろ」
「何でよケチ!」ガードナーは諦めていなかった。「だってホームズさん顔色やばいし、俺は馬子で頑丈だから大丈夫だよ! ワトソン先生が一緒にきてくれるよね? ねっ?」
「いや、私は……

有無を言わさないガードナーは私の腕を掴んだ。ポニーの馬子といえど馬子は馬子。かなり力が強い。私は「痛いぞ」と主張してその手を解かせた。
相変わらずホームズは何か言いたげな表情を浮かべていたが結局ガードナーに折れてしまった様子で手をひらひら振った。

「ああもう好きにしたまえ。ワトソン、すまないが彼を頼む。まあ馬子相手に滅多な事が起こるとは思わないが相手は魔術師だ……
 
そう言って煙草に火をつけてパイプを口にあてがう。細くたなびく紫煙が霧のようにふわりと空間へ解けた。


ガードナーはホームズを気にする私をぐいぐい引っ張って馬車に乗せアーキテクト邸に連れて行った。出迎えたメイドは怪訝そうな顔で私を見ていたが、シャーロック・ホームズの名を出すとあっさり中へ通してくれた。
ガードナーと共に以前訪れた際に通されたサロンで待っていれば、そこへげっそりと窶れて目の下に隈を作ったアーキテクト氏が現れた。以前の紳士という風貌はどこへ行ってしまったのかという代わりように私は鈍い痛みを覚えた。愛娘をあのような形で失えばこうなるのは当然だ。離別の痛みを未だ知らない私は彼に何を言えばいいのか全く分からなかった。
しかしアーキテクト氏はその様子とは裏腹に落ち着いた様子で私に話しかけた。軽い世間話からこちらへ話を振ってくる。ガードナーはその様子に不信感を抱いているようであからさまに機嫌が悪かった。

……ドクター・ワトソン、マリアの事を貴方が背負い込まないでほしいのです」アーキテクト氏は突然そう言った。
私はどうにも言葉の真意を計りかねていた。「どういう意味ですか?」
「そのままの意味です。確かに私はホームズさんにマリアを探して欲しいと依頼をしました。ですがスコットランドヤードの刑事さんの話では、死後三日以上は経過しているとの判断が監察医から降りたと聞いております。つまり私が依頼をした時、マリアは既に……既に……死んでいたという事でしょう」
「それは……

確かにその通りではある。だがそうだからといって割り切って良い話でもない。人は死ぬのだ。呆気なく。
ホームズは彼に『娘さんを家に無事に帰す』と約束した。その約束が守られる事が最初から無かったとしても、私はそれを無意味だとは思いたくはなかった。

……気になっている事があります。なぜマリア嬢は一週間が経ってから失踪したのでしょうか」私は項垂れるアーキテクト氏に言った。「ホームズの推理では……マリア嬢の失踪は誘拐だと」
「ゆ、誘拐!? 失踪ではなく誘拐だと言うのですか」
……いえ、確証がある訳ではないのです。ホームズが言うにはまだ仮説に過ぎないから語るべきではないとの事でした」私は出された紅茶を一服して続けた。「何か彼女の周囲で起きた出来事、父親の貴方から見て不審な点……どんな些細な事であっても構わないので教えていただけませんか」

正直これ以上追加で情報を得られることは期待していなかった。氏含めアーキテクト邸に存在する魔術的な仕掛け、そして妖精の物質化という高等魔術である『置換魔術』を扱える事はわかっている。
だがこのアーキテクト氏からは妖精の気配を微塵も感じない。魔術師は彼ではないとすれば誰が魔術師なのか、この代に魔術師がいるのかそれすらよくわからない。つついて話してくれるだろうか? ガードナーは何かこの家について他に詳しい事があるのか、もっと221Bで聞いておくんだったと後悔したが遅い。

「三年前の話なのですが……」アーキテクト氏はそう言って思い出すように顎髭に触れた。「ロベルト・フォークナー卿という方をご存知でしょうか」
「確か……貴族院議員の」
「ええ。マリアの大学進学に際し支援をしてくださっていました。それにフォークナー家の皆様はうちの画廊のお客様で、以前から懇意にさせていただいていたのです」
「彼とマリア嬢に何かあったのですか?」
「三年前に数学科のある大学を受験した際、その時にこれから先は支援できないと切り出されまして、その後すぐに彼が貴族院から追放されたという報道が流れたのです」
……貴族院追放?」

よっぽどとんでもない犯罪をやらかしたのか、社交界のいざこざに巻き込まれたのか。少なくともよっぽどの事がない限りそんな事にはなり得ないはずだ。私は重要なことを引き出したような気がして少し前屈みに足を組み直した。

「ええ。確か離縁なさった奥様との間で何かあった、とかそういう内容でした。それ以外でも収賄があったとか、私は正直なところ信じておりません。ロベルト卿は本当に素晴らしい方です。己の理想のため尽力し、愛国心溢れる方で……福祉や教育に力を入れていて、特に女性の地位向上を叫ばれていたのです」
「失脚させられたんじゃないの。誰かの身代わりにされたんだよ。絶対そう」今まで黙っていたガードナーが横から言った。私もそれには同感だった。
誇り高い理想を掲げ実際にそれを実行したのならば、一定の層からは理不尽な憎悪を向けられる事もあったはず。
「絶対とは言い切れないが、その可能性はあるな」
「でしょ! でもフォークナー家ってあんまり聞かないよな。本当に貴族家かよ」
……失礼な事を。れっきとした貴族家だったぞ。それ以外で何か気になる事はおありですか」
「そうですね……ヤードに聞いたところによると、あの子が死んだ状況は随分不可解だったとか。……あの子はやはり――幻想に攫われたということでしょうか」
……私見ですが、そう思います。尋常な死に方ではありませんでしたし、残滓が見えましたので」
「そうですか」

アーキテクト氏は先程とは打って変わって淡白に呟いた。

「やはり貴方は、アンシーリーコートなのですね」
「え」

「《■■■■》」


そう、怯えたような掠れた声で彼は何かに命じた。パン、と音を立てて緋色がサロンの床にぶちまけられた。
ぼやける視界で確認する。床に流れる血は間違いなく私のものだ。遠くでガードナーの叫び声が聞こえる。
ああ、やってしまった。どうしてこんな初歩的な事に気づかなかったのだろう。