外伝[1881-1891] 誰が金糸雀を殺したのか?

あらすじ
1885年、3月。諮問探偵シャーロック・ホームズと、その助手・医学博士ジョン・ワトソンの元にある依頼が届く。依頼の内容は『失踪した娘を探して欲しい』という極めてシンプルなものだった。しかしその依頼の二週間前に起きた、ある歌姫の死とその失踪が繋がっているようで……? 手掛かりは奇妙な手紙「R: WHO KILLED THE CANARY」、そして色濃く残る幻想の気配。その先にあるのは深い森と視界を奪う霧。鳥籠と信仰の密室__。誰が金糸雀を殺したのか? その命題に二人は挑む。


無印べったーの移植版です。一部名前や句点の修正を行いました。

スペシャルサンクス
笋様の作品「赤い純情」、ヘルメス様にご登場いただきました。本当にありがとうございました。素晴らしい作品をインスパイアさせていただき本当に光栄です。
Littorio様 アマネセール家のお名前を出させていただいております(事後報告)。ありがとうございました。





――…………

水の音が鼓膜を揺すっている。
私はゆっくりと瞼を開いた。
足は尾鰭に変わり、短かった髪は尾鰭の中腹ほどまでの長い髪鰭に変わっていた。
息を吐きだすと泡が水の中にゆらゆらと揺れる。
意識の接合は問題ない。私は頭蓋を何らかの魔術で撃ち抜かれた。だが不死殺しや幻想殺しの類ではなかったから再生できたということだろう。
浮いている水槽の中に閉じ込められているということは分かる。

(趣味の悪い空間だな……

鳥籠や檻がある。その中には幻想種が窮屈そうに座っていたり、将又檻を破ろうと暴れていたりした。水棲の幻想種はどうやら私だけらしい。考えなくてももうわかった。ここはローレンス・フォークナーの金庫だ。
周囲を見回していれば銀色の鳥籠が一つ視界に入った。それは中に入っている幻想種が身体を大きくすればそれに合わせて大きく変化している。マリア・アーキテクトが死亡していた現場に置かれていた鳥籠と同じ材質であることは流れる魔力で感知できた。ここから脱出するすべがなさそうなことも問題である。そこそこ大きな球状の水槽だが、その上部には脱出できないように金網が取り付けられている。またガラスかと思われた水槽の壁は私が押すとぐにゃりと変形した。魔術で水をそのまま檻にしているらしい。しかもご丁寧に手錠までされている。魔術封じの手錠ではどうしようもない。

(ガードナーが無事だといいが)

そんなことを思いながら金庫の出入り口を見た。出入り口の傍に細身の女性が倒れている。明らかに暴行を受けたのが分かる――肩から血が流れ、顔にはくっきりとぶたれた痣がある。ジゼット・フォークナーがそこにいた。
ガチャリと錠が開く音がする。ローレンス・フォークナーが入ってきた。この男――私はローレンスを睨みつけた。

「ああ、原初の泡よ! どうかお許しください! お連れしろ、とは申しましたが、あのような、あのような仕打ち! 決して私は許しておりません」ローレンスはそう言って仰々しく膝をついて首を垂れた。
「ガードナーはどうした? それに彼女――ジゼットに何をしたんだ」私は必死に叫ぶ。届いていないのか、果たしてローレンスに聞く気があるのか私には分からない。「――ローレンス!」
「あ……嗚呼……まさか、まさか……原初の泡よ」ローレンスはがばりと顔を上げて私の方へ近づいた。「貴方に、我が名を。呼んでいただけるとは」
「そんなことはどうでもいい。ここから出せ。私と一緒にいた馬子はどうした? ユージン・ガードナーは無事なのか? ジゼット・フォークナーに何をした。答えろ」
「あの脚足らずの事は気にしないでください……ああ、ユージン・ガードナーでしたか。彼は無事ですよ。ですが貴方をここから出すことはできません。貴方にはここにいていただかなくては」
「お前は一体何を考えている。アーキテクト氏は――」私はローレンスに向かって叫ぶ。「彼は一体何者だ? 彼は何を知っている」
「恐れながら、原初の泡よ。それについて貴方は既にご存じのはずでは? それに……それに、妖精と対話を望まず、幻想の内に秘されたものを明かし、そして貴方を友人などと気安く呼ぶ、貴方の価値が分からぬ脚足らずの元に置いておくのは――あまりにも貴方が不憫だ」

何度も吐き出される「脚足らず」という呼び方に引っ掛かりを覚える。確かそれは馬子の純血貴族が人間を侮蔑する際に用いる言葉だった。

「不憫だと? 私がホームズと共にあるのは自ら望んでの事だ。誰かに強要されたわけではない」
「何てことだ! 無垢なる神秘が、ああ、そんな、嘘だ! 我々のような対話ができるものと共にあることを望まない? 冗談を覚えるのもほどほどにしていただきたい」

私を囲っていた水球が割れ、私は冷たい大理石の床に叩き落された。鈍痛が尾鰭に走る。瞬時に息苦しさを感じる――まだ呼吸ができないことはないが、これももう数十秒で耐え難い息苦しさに襲われ、数十分で体表が乾燥してひび割れる。人間の姿に一部分だけでも――臓器だけでも擬態できないか試したが、やはりこの手錠で魔力の操作そのものを封じられていてはどうしようもなかった。

「か、ぁ、っ……ふ」蓋をされたような息苦しさが襲ってくる。喉に何かが痞えて塞がれ、酸素が全く届いていないのがわかる。「お、お前……何を、か、考えている……?」声を絞り出す。真意が届いているとは思えない。
「決まっているでしょう! 私は金庫番ですが、金庫そのものを作るのが得意です……お分かりでは? 錬金術の神髄! 永遠を恣にする禁忌の秘術! どうしてこんな初歩的な事に気付かなかったのでしょう? 最初から終わりを持たぬものを材料にしておけば、悪戯に己の肉体を弄る必要もなかった」ローレンスはそう言って私の顔を掴んだ。「ああ、そうだ――美しさとは不変だ。アンシーリーコートは不変にして不滅、原初の泡! この先二度と出会えることなどない生きたアンシーリーコート!!」

ローレンスの背後から黒い馬に跨った首のない騎士が出現し鎌を構えた。契約妖精を直接呼び出すのは相当な技術と魔力がいる。今の私ではひとたまりもない。何もできないまま一方的に切り刻まれるのは目に見えていた。息ができない。体を支えきれず私は床に倒れ込んだ。

「うッ……!」思い切り首を締め上げられる。首無しの騎士は私がここで息ができないことを知っているらしかった――鎌を片手で構え私の尾鰭を深々と切った。床に散らばった緋色に周囲の幻想種が興奮し、私を喰おうと檻を破りそうな勢いで騒ぎ始める。
ヒレを一部削ぎ落とされた激痛と酸素を取り込めない苦しさで一思いに殺された方がマシだと思うほどの苦痛だった。霞む視界で鎌が槍に形を変えた。かえしがついた銛のようなそれがわたしの尾鰭を突き刺す。

「が、ぁッ――」記憶が混ざる。あの日。マスグレイヴの屋敷でされたこと。切り刻まれてバラバラにされて全て再生したと思えば鉤針で吊るされて血を抜かれて――ああ、痛みでおかしくなる。ここはどこだ? ホームズはどこにいる? 落ち着け、この手錠さえなければどうにでもなるはずだと己に言い聞かせる。これごと腕を自分で切って即座に再生して――

……だめ……!」ジゼットが恐怖に濡れた視線で私を見た。「――お願い、応えて」ジゼットが床に転がっていたナイフを拾い上げる。
やめろ。声が出ない。彼女は自分を代償に契約妖精を呼び出す気だ。私を助ける気でいる。見捨てて逃げろ。私は大丈夫だ。何とかなるはずだから。そう叫びたかったが酸欠でもう意識が飛びそうだった。


「《At the price of my life, make a wish》 ――どうか、お願い、サンダーバード」


視界の端でジゼットが頸動脈を自分で掻き切ったのが見えた。
雷が私の手錠と体に刺さった槍を正確に狙撃して破壊する。瞬時に私は人間の姿に戻り、優しい鳥から羽を一本引き抜いて槍を錬成しその首無し騎士――デュラハンに向かってぶん投げた。槍は鎧を容易く貫通する。ローレンスは驚愕したまま固まっていた。
サンダーバード。嵐を呼ぶ鳥。妖精と幻獣の中間地点にいる最も気高いものが私を守るようにして立っている。美しい金色の羽に、孔雀のように伸びた尾羽。青い瞳は晴天のようで、僅かに体は帯電している。

「なぜです? どうして……どうしてなのですか。どうして私のものになってくださらないのですか。貴方まで私を見捨てるのですか?」

ローレンスは私に問いかけた。空虚にも思えるその問いかけの答えは一つしかない。


「お前が私のことを〝ワトソン〟と呼ばないことが、その問いの答えだ」


私は愕然としているローレンスの横を通って、血だまりで黙しているジゼット・フォークナーを抱えあげた。金庫の扉は開いている。面倒だったので蹴り飛ばして開けて外へ出ればそこはフォークナー家の内部だった。絢爛な内装は以前通されたサロンとは違う。だがこの部屋がローレンスのものであることは容易に想像がつく。幻想種の死体がホルマリン漬けにされて棚に収められていた。
状況把握は後だ。適当な部屋へ入って彼女をベッドに寝かせる。ジゼットはまだ息をしている。助けられるかもしれないと一縷の望みに縋り彼女の首を押さえて止血を試みた。私の手は真っ赤に染まっていく。埒が明かないとネクタイを外して部屋にあった、使われていないハンカチを拝借してネクタイで縛る。多少ではあるが血の流出は遅くなった。今から管理局へ担ぎ込めば間に合うか?
いや――
間に合わない。

私の瞳には、彼女の魂が泡になって消える瞬間が映っている。それがもうすぐ訪れることが否応なしにわかってしまった。


「レディ・ジゼット」
「ゎ、と、ソ、さん」ジゼットは薄っすらと瞼を開き、聞こえないようなか細い声で返事をした。「どうか……聞いて、ください」
「しかし……!」
「や、さしい、ひと」ジゼットは微笑んでいた。「わ、たし、……心配、し、てくれて……うれし、かった……か、わりは、いる、から……
――代わり?」
「私が、消えても、ジゼットは……ごほ、がはっ」口から鮮血があふれ出る。「お、おじい、様は……こわい……お、とう、様、ぇ、みり、あ……
「ジゼット!」彼女はもう私を『ジョン・ワトソン』とは認識できなくなっていた。父親だと思っているらしい――記憶の混濁――、彼女は私の腕を掴んで縋っている。私は父親ではないが、そんなことを言える場合でもなかった。「……ジゼット」
「おと、う、様……お、かあ、様……、わ、たし……お母様の、歌。すき、です」ジゼットは瞼をうつらうつらとさせながら、焦点の合わない瞳で私を見た。ゆっくりと震える手を私の方へ伸ばしてくる。私はその手を握った。「お母様は、わたくしの、お母様では……ない、けれど。だい、すき……


ジゼットは死んだ。
私は彼女の瞼を下ろしてやる。
腹の底から燃えるような怒りと悲しみが沸き上がる。
魔力の震えで部屋の窓ガラスが音を立てて割れた。



「ワトソン!」
「ホームズ……

ジゼットを抱えてフォークナー邸を出ると、ヤードの馬車から転がるようにホームズが私の元へ駆け寄った。ジゼットの遺体を見て状況を察したようで顔を顰める。

「話は後にしよう。……そうか、彼女も――……ヤードに遺体を引き渡す。神秘管理局も捜査に加わることになった」
「そうか」私は感情の行き場をなくしたまま答えた。異様に落ち着いているように見えている事だろう。「何かほかに分かったのか? ガードナーは無事か?」
「ああ。無事だよ――血相変えてヤードに飛び込んできたそうだからね。重大な進歩もあった。エミリアの母親に関して色々分かったことがある」警官にジゼットを預ける。私とホームズは後からやって来た馬車に乗り込む。「母親の名前はユタリア・ハーツクライ。エミリア同様にオルドヴィッチ劇場にある劇団の団員だった」
「アーキテクト氏から少し聞いたのだが、エミリアの父であるロベルト卿は……」私が話し終わる前にホームズは「そう、その件について重要なことがある」と私の唇に人差し指を当てて黙らせ話を続けた。
「僕たちは重大な間違いをしていたんだ。ルドルフ・フォークナー卿はこう言った。『ロベルト・フォークナーとユタリア・ハーツクライの間の子供がエミリア』と。だが実際は違った。エミリアの父親はロベルト卿ではない。ロベルト卿はお腹に子供がいると分かって劇団を放り出されたユタリアを助け、ヨークにある別荘に住まわせていたことが分かった」

ホームズは一旦息をついて話を続けた。馬車は先程よりもスピードを上げていた。全ての始まりであるオルドヴィッチ劇場に向かっているのは窓の景色から窺い知れる。ストランド方面へと進んでいた。

「そしてマリアと同じ現場で死んでいたあの男の身元だが、フォークナー家の人間である可能性が高い」
「待ってくれ。ならなおさら何故マリアが死ななければならない? 彼女は無関係のはずだ」
「そうでもないさ。『金糸雀の涙』が何なのか。そしてローレンス・フォークナーと自身の父親が何をしたのか。――それが答えだよ。
パーカー・アーキテクト氏は娘の無事を心配するがゆえに僕らに捜索を依頼した。そこに間違いはない。だが彼は娘を深く愛する一方でユタリアを置換魔術で殺した。たとえどんな事情があろうと許される事ではない」

ホームズはそう吐き捨てた。同感ではある。しかしそれであってもあの死に方は不可解が過ぎる。そんなことを考えていれば、

「彼女の死についてあと一つ解き明かす必要がある。だがそれは最後だ。準備がいる」
「どういうことだ」
「エミリアの件を追えばマリアの死の真相に近づける。今は君の経験したことを聞きたい。情報が必要だ」
「それはそうかもしれないが……」私は納得できていなかった。ローレンスの事も、ジゼットの死も何もかも。「ローレンスは……。彼は元々幻想種を収集していた。あの日私たちが共に行ったから、私が彼にアンシーリーコートと知られたから」考えが上手くまとまらない。混乱しているのが自分でもわかる。
「違う。それだけの理由ならどうしてレディ・ジゼットが命を賭して君を助ける? ローレンスはこの事件にとても深く関係している。ジゼットはそれを良く知っていた。だから君を助けたんだ。僕らならこの事件を必ず終わらせ、裁きを下せると――そう彼女は信じていた! 君は既に重要な手掛かりを得ているだろう?」

私は必死で記憶を巡らせる。ジゼットの死が錆のように張り付いて離れない。私が殺したようなものだ。自分でどうにかできるほど強い幻想種であれば彼女を死なせずに済んだ。そんな後悔ばかりが溢れてくる。


「そんなことを言われても私にはまだ何一つ見えていない!」
「真実はもう目の前だ! 君は答えを得ている! ワトソン、よく思い出せ。君は既に――
「シャーロック、駄目よ」メアリーがホームズの肩を掴んで制した。「気持ちは分かるわ。でも今は駄目」

馬車は制止した。目の前には封鎖されれたままのオルドヴィッチ劇場がある。メアリーは諭すように「オルドヴィッチ劇場を先に調べて。ジョンの事を少しは考えなさい」とホームズに言った。ホームズは渋々という風ではあったが、すまない、とだけ言って劇場へ入っていった。

……ありがとう、メアリー」
「気にしないで。……別離は悲しいことだわ。たとえそれが僅かな時間しか言葉を交わしていなくても」メアリーは私の頬に触れる。温かい指先が数度目尻に触れた。「慣れようだなんて思わなくていい。慣れる必要なんてどこにもないの」
「そう、だな」
「ええ。……ベイカー・ストリートへ戻りましょう。貴方、酷い顔だわ」

メアリーが私の頬を撫でた。その指先が優しくて思わず涙が零れ、真珠になって馬車の床に落ちる。
彼女に抱きしめられて妙に安心したのか――私の意識は真っ逆さまに深海へ落ちていった。