riririnf
2025-07-05 10:01:12
52804文字
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恋、薔薇薔薇

ヌヴィフリ花吐き病書いてみた・前編
【一章】花吐き人はかく語りき P1~【二章】罪人は睡蓮の夢を見るか? P4~【三章】恋、薔薇薔薇 P10~
※モブが結構喋ります。捏造・ネタバレ過多。



 フリーナの体調を鑑みて、日を改めることも提案したが、彼女は首を縦には振らなかった。かつての住居スイートルームへの宿泊が引き換え条件であったので、それも仕方のないことか。水神の座を降りてから、彼女は分不相応との言葉をよく使う。
 ならばベッドに身を委ねてはどうか、とも述べたのだが「そんなことでは、いよいよ病人になったような心地がする」と固辞された。
 正しく君は病人だろう、と指摘することは、この期に及んで良識を振りかざしたいとの浅ましさが認めなかった。
 最終的にソファに落ち着くこととなったフリーナは、しかし食事も喉を通らぬ有様だったので、せめてと水を手渡した。
 ソファにはもう一人分くらいの余裕はあったが、そこに居座るのも何となく気が引けて、ヌヴィレットは家主の許可を得た上で、椅子を一脚そばに引き寄せ腰掛けた。
 ぽつぽつと語り始めたフリーナが、脆い足場を一歩一歩確かめるかような慎重さで言葉を紡ぐのは、花吐きのトリガーを引かぬためだと気づくまで、そう時間はかからなかった。
 辛抱強くフリーナの説明を聞き終えたヌヴィレットは、百年に渡り彼女を苛む病の名を反芻する。
「花吐き病……
 聞いたことのない病名だ。記憶を手繰るヌヴィレットの耳に、ふふ、と場違いな音が届く。
……フリーナ殿?」
「いや、すまない。僕も病の名前を知ったその当時、おんなじように呟いたものだと思い出してね」
 存外に柔らかな笑みと声音に強がりは見つけられない。けれども明かりの助けを借りて改めて見つめてみれば、随分と疲れきった顔色に気がついて、ヌヴィレットは僅かに緩みかけた気を引き締めた。
 フリーナの性格ならば、不調を隠そうとするものなのに。そうした努力を果たしきれない程に消耗しているのだろう。
……いくつか質問をさせてほしいのだが」
 今までの説明に嘘があるようには思えなかったが、それとは別に語られていないことがあるともヌヴィレットは確信していた。意図的か、無意識か。どちらにせよ、聞き出さなければならない。
……お手柔らかに頼むよ」
 フリーナもこの展開を予期していたようで、特段に慌てることもなく、ただ露骨な溜息をつきつつ頷いた。
「この病は罹患者が吐いた花に触れることにより伝染する。飛沫、接触、空気経路による伝染はこれまで確認されていない。間違いないだろうか」
「ああ、そうとも。伝染経路が限定的だからこそ、症例が少ないのだろうね」
 まずは簡単な確認から。フリーナも即座に頷いた。
 ならば君に触れても問題なかったではないか、とは口に出さない。個人的すぎる恨み言だ。
 そも水龍が人の病にかかることなどない。自身の生態すら忘却していたあたり、随分冷静さを欠いていたらしい。情けないことである。
「伝染経路に心当たりは?」
「さあね。花は贈り物の鉄板だから。その中のどれかではあったんだろうけど」
 今朝の食事を伝えるかのような軽さでフリーナは言う。だが、これは決してそのような軽い話ではない。
「つまり罹患者自身、もしくは何らかの経路で吐き出された花を入手した第三者が、君に渡した可能性があると? もし故意に病を媒介したのだとすれば、傷害罪に値する」
……そうなるだろうね」
 フリーナはそっと目を伏せた。
「犯人を突き止めようとはしなかったのか?」
 水神を演じていたフリーナが当時病を公に出来なかった経緯は察するが、それでも秘密裏に捜査を進めることは出来た筈だ。
 しかしフリーナはゆるゆると首を横に振った。
「花が原因だと分かった時には、既に発症から時間が経ってた。過去のどの花が〝当たり〟かも分からないんだから、追いようがないよ」
……動機に心当たりは?」
「残念ながら、ありすぎるくらいさ。反水神派が毒の代わりに仕込んだか……、逆に熱烈なファンっていう可能性もあるね」
 何ひとつとして捨て置けない言動を重ねていくのは、もしやわざとだろうか。ヌヴィレットのペースを乱すために。だとしたら、その企みは成功している。
 そうと疑いたくなる程、フリーナは淡々としていた。探る視線を向けられた彼女は困ったように眉尻を下げる。
「もしかして二次被害を心配しているのかい? その点は問題ないよ。当時、僕の他に花に触れる可能性があった職員で、著しく体調を崩した者や、命を落とした者はいなかった。パレ・メルモニアにも、歌劇場にもね」
 水神への贈り物の仕方は手渡しだけではない。むしろ、そちらの方が珍しいだろう。大半はパレ・メルモニアに預けられ、フリーナが出演する舞台がある時には、エピクレシス歌劇場にも一時的な専用窓口が設けられていた。
 もし件の花が贈り物に偽装されていたのなら、担当職員も触れてしまった可能性が高い。にも関わらず、フリーナは二次被害の心配はないと言い切った。
「貴重な品も多いから、扱う職員は汚さないように基本手袋をしていたみたいだね。……安心したかい?」
 種明かしと共に微笑みを向けられ、ぎしりと胸が軋んだ。
 何故そうも穏やかに笑うのだ。二次被害を避けられていたとしても、彼女が苦しみ続けた日々が相殺されるわけではないのに。
 ヌヴィレットは唇を引き結んだ。今口を開けば、望まず彼女を責め立ててしまいそうだった。
 しかしその沈黙にフリーナは表情を曇らせた。何かを悟った風で、気まずげに目を逸らす。
……キミが憤るのも分かるよ。僕が今語ったのは結果論に過ぎない。うっかり手袋を外すことも、弾みで素肌に触れてしまう可能性だってあったのに、僕は当時、我が身可愛さに注意喚起すらしなかったんだから」
 花に直接触れないようにと注意を促せば理由を問われて、そこから病が発覚する危険性もある。だから当時、フリーナは何も出来なかった。
 それはフリーナが背負っていた使命を思えば責められたことではないのだが、彼女はそこに罪を見つけてしまったらしい。そんな思考に至らせたのは、明確にヌヴィレットの失態だった。
「君の事情を思えば、それも仕方のないことだろう」
 結局思考をそのまま繰り出す自分は、きっとあらゆる分野において、とんだ三流だ。なにも気の利いた慰め文句が出てきてくれない。
 案の定、フリーナの表情は晴れないままだった。
「別に、気を遣ってくれなくてもいいよ……っけほ」
「大丈夫か?」
 軽く咳き込んだフリーナは立ち上がりかけたヌヴィレットを片手で制し、手元の水を口に運んだ。たっぷりと時間をかけて、やっと一口含んだかどうか、との動きを経て、ふぅ……と重苦しく吐息を零す。
「少し休憩を挟もう」
「平気。喋り通しで、ちょっと喉がつかえただけだから」
 少しだけ掠れた声で、フリーナは喉をなぞった。
 信じてもよいものか。広い歌劇場を伸びやかな高音のみで支配する大スターが声を枯らす場面など、見たことがない。
「ほら、続けよう。そもそも今何時だと思っているんだい? まさか日が昇るまで居座るつもりじゃないだろうね?」
 フリーナの視線を追いかけ、小さなルエトワールをワンポイントにした壁掛け時計に目をやると、時針は頂点を指そうとしていた。龍の己はともかく、人間の……さらに病身の彼女に優しい時間ではない。
 ヌヴィレットは息を吐き、壁掛け時計の下、一箇所にまとめて水球に閉じ込められた花々に視線を移す。
 水に包む処置を施したのはヌヴィレットで、花に触れてほしくないフリーナと、片付けという労力を負わせたくないヌヴィレットとの折衷案だった。それは壁掛け時計よりも一回り程も大きく、彼女の薄い身体から生み出されていい質量をゆうに越えているように思う。
「いつもあの量を吐いているのか?」
 配慮の無さを自覚しつつも、そう訊ねずにはいられなかった。
「まさか。今日は特別。こんなの初めてだよ」
 フリーナは肩を竦めた。
「ならば何故、今日は〝特別〟なのか、心当たりは?」
 フリーナの顔が強ばる。それは先までの軽やかさと比べて、どちらがましなのだろう。ヌヴィレットには判断がつかない。ただこの問いを投げるのに、ヌヴィレットの方も格段の覚悟を必要としたことは確かだ。
 尋問の時も佳境に差し掛かり、徐々に核心に近づいている。それが酷く息苦しい。
「色々と立て込んでいたからね。疲れが出たんじゃないかな」
「ならば今日一日のスケジュールを教えてほしい。それを元に、今後の君の仕事量や生活リズムを調整しよう」
「何を言っているの?」
 フリーナは愕然とした顔をした。ヌヴィレットの言わんとするところを正しく理解したらしい。
「今後は私が窓口に立ち、君のスケジュールを管理する。君に任せていては、今後も不養生を重ねてしまうだろうからな」
 十分に現実的な、だが同時に情のない提案だと自分でも思う。それは彼女の五百年の舞台における唯一にして不可侵の報酬──自由を奪う行為だ。
「そんなことは望んでいない!」
 果然、フリーナは声を張り上げた。
「落ち着いてくれ。身体に障る」
……っ」
 フリーナは悔しそうに唇を噛んだ。これ以上、ヌヴィレットの前で花を晒したくはないのだろう。その点において二人の意見は一致している。
「君の後見人として、また伝染病の対策として、これは正当な処置だと考える。それを拒むのなら、残る道は隔離しかない」
 追い討ちの一言に、フリーナははっきりとヌヴィレットを睨みつけた。
「分かった。キミに手間をかけるくらいなら、隔離を選ぶよ」
 こういうのを売り言葉に買い言葉と言うのだろうか。どこか投げやりにフリーナは語る。
「どちらにせよ、今の生活を続けるのは難しいと思っていたところだ。どこか郊外の、なるべく人が来ないところに移り住むさ」
「それは許可出来ない。隔離先はスイートルームに限らせていただく」
 大きく目を見開くフリーナが反論を紡ぐ前に、ヌヴィレットは理由を押し付ける。
「人が常駐する場所でなければ、突然の病状悪化が起こった際に対応出来ない。また警備の面からも郊外への居住は認められない。言っただろう。君は準公人に値するのだと」
 フォンテーヌ国民にとって、フリーナ・ドゥ・フォンテーヌという存在は特別だ。それは彼女が神の座を降りてからも変わらない。  
 過去には命を危険を冒して、パレ・メルモニアの天辺からスイートルームに忍び込もうとした輩までいたのだ。人気のない場所で何が起こるかなど、火を見るよりも明らかだろう。
 元水神が住まうには些か庶民的なきらいがある現住居すら、安全面に関しては十二分に配慮されていて、人の往来や警備マシナリーの巡回経路、いざという時には──エレベーターや歩行といった通常ルートを無視すれば──ヌヴィレットがパレ・メルモニアから駆けつけることも容易な立地なのである。
……そんなことを、言われたって……
 頑なだった声音が揺れる。色をなくした唇が惑うように動いた。
「警備や病状悪化なんて、長い目で見ればどうでもいいことだろう……?」
 躊躇いがちに紡がれる言葉の続きを、ヌヴィレットは予感した。それでも今度は阻まぬように細心の注意を払う。この先の展開を考えれば、それは必要な行程であると言い聞かせる。
 フリーナはそっと自身の胸に手を当て、この病の核心を──ヌヴィレットが一番目を背けたい現実を突きつける。
……だって、この病は治らない。……僕は死ぬんだ」
 予想通りの内容で、けれど予想よりもずっと静かな声だった。
 それが何よりフリーナの病への向き合い方を表していて、何よりヌヴィレットにとって受け入れ難い。
 だが、動揺している暇はない。ここから全ての状況を覆さなければならないのだから。
 逆転の目はまだある。そうと己に信じ込ませて、ヌヴィレットは告げる。
「断言するにはまだ早い。君はまだやれることをやっていないのだから」
「え……?」
 花吐き病の発症条件は片想いを拗らせること。そして完治条件はその恋が叶うこと。……ならば。
「君の想い人を教えてほしい。そして、その者と心通わせられるよう全力を尽くしてほしい。それが約束出来るのならば、先程述べた処置は一部緩和しよう」
 フリーナはぽかん、と口を開けた。しばし視線を右に左に彷徨わせ、やがて何かに思い至ったかのように、ゆるりと口の端を上げる。
……つまり管理だ、隔離だって言うのは、全部この展開に持っていく為の前準備だったわけだ。キミにしては随分と回りくどいやり方をする」
「率直に訊ねたところで、君が素直に口を割るとも思えなかったのでね」
 冗長なやり取りは面倒だ。何事も本題から。話は早ければ早いほどよい。けれど今この時において、そのやり方が適切でないのも分かる。
 フリーナはヌヴィレットに何も相談してくれない。『死』の危機に瀕してすら。
 存続を第一とする龍には理解が及ばぬことだが、人間には時に命よりも大切な想いがあって、両を天秤にかけた時、想いの側に皿を傾けてしまえる。少女連続失踪事件──カーレスやヴァシェの生き様を見て、ヌヴィレットはそれを知ってしまった。
 間違いなくフリーナもその類の人間で、そうでなければフォンテーヌのために五百年も己を犠牲にし続けることなど出来はしない。かの審判において、孤立無援に陥り一縷の望みさえ消えてなお、秘密を守り抜いた誇り高くも痛々しい姿を、ヌヴィレットは今もありありと思い出せる。
 だからこそ。あの日を繰り返すようなことだけは、絶対に阻止しなければならない。
 その為ならば、どのような手段でも取ってみせよう。迂遠でも、狡猾でも。後に遺恨を残すことになろうとも。
「───ハ、」
 吐息混じりにフリーナは笑った。
「そんな簡単な話じゃないから〝拗らせている〟んだって、分からない?」
 まるで出来の悪い生徒に諭すような口調だ。
……並ならぬ事情があるのだろうとは、察している」
 彼女の言う通り、〝拗らせる〟には相応の事情があるのだろう。自身がデリカシーのない要求をしていることも分かっている。だが他に術がない以上、突き通すしかない。
「私も協力する。だからどうか、諦めないでほしい」
「協力って? 『僕を好きになってやって』と頭を下げでもするのかい?」
「必要ならば」
 呆れた様子のフリーナには気づかぬ振りで、ヌヴィレットは頷いた。
「それに限らず、私に出来る全てを尽くそう。君は見目もいいし、歌や演技の素晴らしさは言うまでもない。感情表現豊かな様は見ていて飽きないし、その実思慮深く、慎み深い点も美徳だろう。手に職もあり、仕事に誇りと責任を持って取り組む姿勢は好感が持てる」
 思い浮かぶ限りの長所を並び立てる。水神という居丈高な仮面が外され初めて知ったことだが、彼女の自己評価は驚くほど低い。
 それは長く正体を偽り、道半ばで犠牲者を出してしまったとの罪悪感に根ざすものとは理解しているが、ヌヴィレットにはそれがもどかしかった。こんなにも魅力的な女性だというのに。
「だからそう悲観するものではない。君に想いを寄せられて心動かぬ者はいないだろう。自信を持ってほしい」
 ヌヴィレットは懇願する。どうか諦めないでほしい。想いを通じ合わせることを──生きることを。
「ヌヴィレット……
 色違いの青い瞳が揺れ動く。フリーナはじっとヌヴィレットを見つめ、
「──キミって時々、とんでもなく残酷なことを言うよね」
 ただ、冷笑を寄越した。
 フリーナは立ち上がり、花を吐いた直後の弱々しさが幻だったかのようなしなやかさで、するりとヌヴィレットの膝と膝の間に入り込んだ。暗い光を湛えた色違いの青い瞳が、目と鼻の先に現れる。
「出来る全てを尽くすだって? なら僕のことを好きになってよ、ねえ? 出来ないだろう? キミが言っているのはそういうことだよ?」
「フリーナ殿? なにを……
 矢継ぎ早な語りに理解がついていかない。フリーナは憐れな者を見るかのように嗤った。

「僕が好きなのはキミだよ。ヌヴィレット」

 とん、と胸元に杯が押し付けられる。大した力でもないその感触が、妙に重く胸に響いた。
 フリーナが想いを寄せる相手は。だが、それは。
 ……私は……
 鼻腔をくすぐる花の香りが落ち着かない。何種もが混ざり合うそれは、フリーナ本来の清らかな純水の気配を覆い隠している。
……ぷっ……ハハハ……!」
 惑うヌヴィレットをじっと見つめていたフリーナは、突如として破顔した。
「キミもそんな顔をすることがあるんだね。なんだかすごく新鮮だよ」
……どのような顔だろうか」
 ヌヴィレットは反射的に聞き返した。
「のんびりラッコが、突然貝を取られちゃったみたいな顔」
 食料を奪われるとは、生命活動の危機である。死活問題だ。つまりはヌヴィレットもそんな有様だったのだろうか。
「安心しなよ。さっきのは冗談さ。でも、これで分かっただろう? 人の恋路を軽々に問い詰めるなんて、誰も幸せにならないよ」
 先の言葉は虚偽であり、演技であり、警告であるのだと、フリーナは微笑む。まるでそれが救いであるかのように。……救いなのか? 本当に?
 フリーナが一歩後ろに距離を取る。離れていく。
 弾みで杯の水がちゃぷりと揺れるのを知覚する。
 その動きが、ヌヴィレットの答えを導いた。
「──嘘だ」
「えっ?」
 遠ざかる細腕を掴んだのは、殆ど無意識だった。
「君の言葉は冗談などではないのだろう。君の想い人は、私だ」
 大きな瞳が零れんばかりに見開かれる。けれども稀代の名女優はそのまま震えるなどの分かりやすい真似は見せない。ただ、へらりとした笑みを貼り付ける。
「ええ? キミってばジョークを真に受けちゃったの? ちょっと場を和ませようとしただけさ。ごめんよ、怒らないでおくれ」
 フリーナは謝りながら、やんわりと掴まれた腕を引く。ヌヴィレットは傷つけないよう注意深く、けれど決して逃がさないよう、握る手に力を込めた。
「君はたちの悪い冗談を吐き、相手の気持ちを弄ぶような愚か者ではない」
 後付けに飛び出した理屈だが、それはヌヴィレットの直感を補強し、確信へと変えていく。──そうだ、フリーナは道化の中にこそ真実を潜ませる。
「過分な評価をありがとう。──で? 仮にそうだったとしたら、どうするの? キミも僕のことが好きだとか、そんなハッピーエンドを与えてくれるの?」
 そうなる可能性を欠片も信じていない様子で、フリーナはなおも笑う。
「キミは以前、恋愛感情なんて龍には不要なものだと言っていたじゃないか」
……その通りだ。この期に及んで、私には恋情というものが理解出来ない」
 恋情とは生殖に根付くもの。だから龍である己には不要なもの。非常に残念ながら、かつてに導き出した結論は未だ変わっていない。
「ゆえに、私達は恋人関係を築くべきだと考える」
「うん?」
 フリーナの笑みが崩れる。女優の仮面に小さくも確かにヒビが入った瞬間。
 ヌヴィレットはそこに勝機を見た。
「まるで文脈が繋がっていないんだけれど?」
「私がフォンテーヌ廷に招かれた当時、まずは形からだと私の見なりを整えたのは君だ」
「う、うん……?」
 最高審判官として隙なく重厚な衣服を纏うヌヴィレットだが、生まれた時からそうだったわけではない。大海に揺蕩っていた頃は、それこそ着の身着のままに過ごしていた。
 衣服を用意したのも、髪を結うなどの身嗜みの概念を教えてくれたのもフリーナで、『自堕落な格好をすれば自堕落に堕ちていき、立派な格好をすれば立派な人物になろうと胸を張るようになる。不思議なことだけれど真理だよ。形から入るっていうのも、馬鹿に出来たものではないのさ』と、訝しく思うのを隠しもしなかったヌヴィレットに諭したのもフリーナだ。
「それと同じことだ。まず恋人という形に私達の関係を落とし込めば、そこから芽生える感情もあるのではないかと思う」
 こじつけだろうか。だが取れる手段は何だってしておきたい。自然発生をただ座して待ってはいられない。
……確かに、お試し期間っていうのもあるけれど……
 ううん、とフリーナは唸る。知らない単語だが、それはフリーナを納得させる言であるようなので、好都合だ。
「それに今、私の中で恋情は不要なものではなくなった。君を救う為、必須のものであるとの認識と変化している。ならばこの先、私が恋情を獲得する可能性は充分にある」
 これはフリーナだけでなく、ヌヴィレット自身にも向けた説得だ。
 ヌヴィレットの原型であるヴィシャップは環境適応に長けた種族である。そして適応確率を少しでも上げる為に、〝形から入る〟ことは、きっと理にかなっている筈だと。
「何も私は軽々に君の想いを暴こうとしたのではない。私に出来る全てを尽くすと述べたのも、耳障りのよい戯れ言ではない。君を救う為ならば、私はなんだってしよう」
 今度こそ、掴む細腕が震え出した。腕だけではなく冠を象ったような長い睫毛も、瞳の中の雫も、その全てが揺れている。そこに含まれた感情は複雑で、ヌヴィレットには掴み切れない。
 だが──果たして彼女は、こんなにも細かっただろうか?
 龍として見ただけでなく、人間の女性としても華奢な分類だとは知っていた。それでも掴んだ腕はヌヴィレットの指が容易く回ってしまうほどだった。
……でも……
 主に逆説に用いられる言葉出しだけをして、フリーナは黙り込んだ。彼女自身、どう返すかを決めきれないのだろう。
 けれど声音に滲む諦念が、ヌヴィレットの胸をざわめかせる。
 なにを諦めなければならないことがある。五百年の孤独を耐え抜いて、今やっと自由を手にしたというのに。未来も、願いも、その全てを諦めようとしている。
 そしてその感情を与える者が己だということが、どうしようもなく耐えがたかった。
 フリーナの持つ杯の中、水がゆらゆらと揺れている。……それすらも。
 ヌヴィレットはフリーナの手を掴んでいる方とは反対の手を伸ばす。そうして彼女の持つ杯を引き取った。フリーナは戸惑った顔でヌヴィレットを見ている。
 ヌヴィレットはそのまま、手に持った杯に口をつけた。
「えっ、ちょっと?」
 驚きと制止の半々といったところの声は無視して、水を飲み干す。時間が経って少し温くなっていたが、十分に美味だ。
 茫然と見つめるフリーナに杯を返すと同時、細腕を解放する。不可思議な達成感に僅かに高揚する己を自覚しつつ、ヌヴィレットは宣言した。
「今から私達は恋人同士だ。フリーナ殿」
 フリーナはもう何も言わなかった。ただ、その頬だけが微かに赤く染まっていた。