riririnf
2025-07-05 10:01:12
52804文字
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恋、薔薇薔薇

ヌヴィフリ花吐き病書いてみた・前編
【一章】花吐き人はかく語りき P1~【二章】罪人は睡蓮の夢を見るか? P4~【三章】恋、薔薇薔薇 P10~
※モブが結構喋ります。捏造・ネタバレ過多。



 曇天を背景に、ヌヴィレットは夜のフォンテーヌ廷を歩く。ここにフリーナがいたならば、キミのせいで星空が見えないよ! 一体どうしたんだい? ほらほら、はやく機嫌を直して! と騒がれもしたのだろうか。
 それに対してヌヴィレットは、何度も言うがこの国の天候と私の精神状態は関係がないものだ、と溜息混じりに反論を零しただろうか。
 答えを求めて彼女の影を動かそうとして、その目論見は見事に失敗した。今の彼女と二人夜道を歩く姿を、まるで思い浮かべることが出来なかったのだ。
 彼女がかつて水神を務めていた頃は、そんな機会はいくらでもあった。それは主に審判や彼女が主演を演じた舞台の後などで、要するにエピクレシス歌劇場からパレ・メルモニアへの帰り道が殆どだ。あの頃はそれが日常だった。
 けれど今はもう、ヌヴィレットの日常にフリーナはいない。意識して動かなければ、一目見ることすら叶わない。
 そう考えた時、ヌヴィレットの胸に疑問が過ぎる。──このままでよいのだろうか、と。
 ヌヴィレットにはつい先程、己を鑑みる出来事があった。
 パレ・メルモニアを出た後、アポイントも無しに訪ねることに、ふと後ろめたさを覚え、せめて手土産にと、今手に持つ白箱──つまり、ケーキを買い求めた時のことだ。
 普段よりは余程早く仕事を切り上げたヌヴィレットだったが、フリーナの大のお気に入り、十六個限定販売のドゥボールケーキはとっくに売り切れてしまっていた。
 その他のデコレーション豊かなスイーツ群は総じて同じに見えて、ヌヴィレットは途方に暮れた。様子に気づいた店員が声を掛けてくれていなければ、今もまだ陳列台の前に立ち尽くしていたかもしれない。
 フリーナ・ドゥ・フォンテーヌはケーキが好き。とりわけドゥボールケーキがお気に入り。──では、それ以外は?
 ヌヴィレットはその答えを知らない。長い付き合いに驕り高ぶり、知ったつもりでいただけだった。
 急に足下が不確かになり、見ていた景色が根本から覆されるような感覚。これを味わうのは二度目になる。
 一度目は半年前の、運命の審判の日。
 水神フリーナはかつて、ジャムの瓶蓋が開かないなんて瑣末事から、ファデュイの外交官との面会への同席という大事まで、あらゆる場面でヌヴィレットを頼ってきた。だからヌヴィレットは当時、彼女は困ったことがあれば必ず己を頼るのだと、そう自負していた。
 けれど、全ては自惚れだった。彼女は本当に大切なことは何一つ教えてくれなかった。
 たった独りで抱え込み、耐え抜いて、そして、成し遂げた。
 ヌヴィレットは何も知らなかった。自ら有罪判決を下し、彼女の半身から真相を明かされるその瞬間まで、彼女の孤独も、苦痛も、悲嘆も、何も。
 ……やはり、このままではいけない。
 もう二度と、あの日の絶望と悲嘆に沈む昏い瞳を見たくない。
 自分はもっと、フリーナのことを知る努力をするべきだ。
 今の彼女は人間として暮らしていて、市井に生きる人々の一員となっている。不便なく過ごせているか心配は絶えなかったが、過干渉になってもいけないとも己を戒め、基本的にヌヴィレットから進んで連絡を取ることはしてこなかった。
 だが、その結果はどうだ。フリーナは明らかに青年への対処に困っている風であったのに、頼ってくれなかったではないか。
 ……護衛の話と共に、今後は定期的な面会を提案してみよう。
 ヌヴィレットは決意する。上司と部下という関係性が無くなった今、これからの関係にどんな名前をつけていきたいのかは、まだ分からない。ただ彼女のことを、もっとよく知りたいと思う。
 もう同じ過ちを繰り返さない為に。
…………
 思案をしているうちに、フリーナの自宅に着いてしまった。
 直前に決心をしたからだろうか。この国ではよくある意匠と色彩の玄関扉が、どうにも重苦しく感じる。
 対面に構えるボーモント工房は既に店じまいしており、ご自慢のオートスミスによる鍛造音は聞こえない。街灯以外に光源もなく、人の気配の乏しさに知らず息が詰まる。──待て、明かりがない?
 確かに労働には向かない時間だが、就寝にはまだ早い。だというのにフリーナの家の窓や扉から本来漏れ出るべき光がない。まだ帰宅していないのか、それとも。
……っ」
 平時は時計仕掛けの如くに規則的なリズムを刻む心の臓が、その調子を大きく崩したことを自覚する。
 思考の歯車が高速で回り出す。事態の把握と自身が取るべき行動、その道筋。それらをただ数瞬で整理したヌヴィレットは、まずは兎も角、目の前の扉を開けることが第一だと導き出した。
 そうと決めればヌヴィレットの行動は早い。躊躇わずにノックする。……返事はない。
 だが常人を遥かに超えた龍の聴覚は、扉を隔てた反応を拾った。僅かな身動ぎと、息遣い。──いる。
 とはいえ安堵するにはまだ早い。ヌヴィレットは思うより溜まっていた空気を肺から追い出すと、もう一度扉をノックした。次は声掛けと共に。
「フリーナ殿。在宅であることは分かっている。何かあったのだろうか」
…………
 返事はない。だが気配の揺らぎを知覚する。こちらの声は聞こえているらしい。ヌヴィレットは少しだけ間を空けてから、更に言葉を重ねた。
……反応できない状態にあるということだろうか? だとすれば非常事態ゆえ、申し訳ないがこちらで解錠させてもらう」
 ヌヴィレットは身寄りのないフリーナの後見人という立場から、部屋の合鍵を所有している。扉越しに伝わる動揺に構うことなく、量産型の簡素な鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。
 するとヌヴィレットが指を捻る動きをする前に、鍵がひとりでに回転した。フリーナが鍵を開けたのだ。
 ゆっくりと扉が開かれる。ヌヴィレットはその動きに手を添えて、一気に引き開けてしまいたい衝動に必死に耐えた。
 結局扉は中途半端な位置に止まり、僅かな隙間から待ち侘びた姿が現れる。けれど扉の影に殆ど隠れ、半身すら窺えない。
……なんだい? 藪から棒に」
 迷惑と面倒と、とにかく歓迎されていないことがよく伝わってくる胡乱な声と表情で、フリーナは訊ねてきた。
「まだ就寝には早い時間にも関わらず、部屋の明かりがついていなかった為、安全確認をさせてもらった。中で倒れているのではないかとね」
 ヌヴィレットは慎重に言葉を選ぶ。何か一言でも間違えれば、彼女は容易くこの僅かな隙間を閉ざすだろう。そう思わせた。
……ああ。帰ってすぐ、ソファでうたた寝をしていたんだ。心配をかけてすまなかったね」
「いや……。何事もなかったのなら、いいのだが」
 言いながら、自らの言が信じきれない。何事もないのなら何故、こんなにも濃く花が香ってくるのだろう。花束程度では有り得ない、まるで香水の原液を直接被りでもしたかのような濃厚さで、ヌヴィレットに異常を訴えてくる。
「──もういいかい? 言った通り、帰ってすぐに寝入ってしまったから、食事もお風呂もなんにも済ませていないんだ。これ以上遅くならないようにしたいんだけれど」
 よくはない。けれど、穏便な引き留め方が思い浮かばない。
「そう、か。時間を取らせてしまい、すまなかった。ケーキを持ってきたので、よければ受け取ってほしい」
「うん? ああ……キミも律儀だね。ありがとう」
 ヌヴィレットがケーキを持っていた理由を、フリーナは詮索してこなかった。差し出した白箱に気怠げに手が伸ばされるのを、ヌヴィレットはじっと見つめる。
 このままたった幾つかの言葉と数ピースのケーキだけを受け渡して、済ませてしまっていいのだろうか。根拠のない不安が波立つ。
 手の中の僅かな重みが消える。受け渡しは終わった。あとは扉が閉まるを見届けるのみ。
 じゃあね、と素っ気ない別れの合図には、何処か安堵が滲んでいた。閉まる扉に押し出されて、室内の空気が溢れ出す。濃密な花香を引き連れて。
 ──これを無視して、いいわけがない。
 がしりとヌヴィレットは扉を掴んだ。
 ひっ!? とフリーナが悲鳴をあげる。もう少し閉める力が強ければ、指を挟んでしまっていたかもしれない。
 勿論それくらいでは龍の肉体は痛くも痒くもないが、善良なたちの彼女は己の行動が成した結果を気に病むだろうから、そうなる前でよかったのだろう。
……ヌヴィレット……?」
 怯えと戸惑いを多分に含んだ声。けれどもう、ヌヴィレットは揺らがなかった。ここで一歩踏み出さなければ、取り返しのつかないことになるような、確信めいた警告が頭の中で鳴り響いている。
「フリーナ殿」
 びくりと扉の影から震える気配がする。それでもヌヴィレットは遠慮なく言葉を続けた。
「家の中を見せてもらいたい」
「え……? な、なんで……そんな……
 揺らぐ声音。明らかな動揺、そして恐怖。奇しくも劇評家の青年が見せた感情とよく似ている。
「私は後見人として、君が恙無く過ごせているかどうか、生活態度を確認する義務がある」
 フリーナが息を呑む音が届く。
 彼女の後見人になってから、こうも堂々と自己の義務と権利を主張したことはない。大きすぎる権利は使い方を間違えれば、容易く彼女のプライベートを侵害してしまう。
 それは本来ヌヴィレットの忌避するところだが、もうそんなことを言ってはいられない。
「だとしても、こんな時間にレディの家に踏み入ろうだなんて、マナー違反だ。そもそも越権行為だよ。一度パレ・メルモニアに帰って、後見人に関する規約を確認してくるといい」
 かつてのあらゆる民と法律の女王は、震える声で、それでも正しく法を用いる。
「その間に僕はキミを迎え入れる準備をしておこう。なにも、はなっから断ろうというつもりじゃないんだ。要するに時間と日程、そして事前通知の必要性の問題だ。分かるだろう?」
 言い聞かせるような口調にヌヴィレットも噛み付く。
「時間と日程と言うならば、今が適切だと判断する。また事前通知が無いことはマナーとしては詫びるが、抜き打ち監査としては正当だ。フリーナ殿」
 この機を逸してはならない。相手が頑なであればある程、その確信が強まっていく。
 指先で扉が軋み声をあげる。少し力を込めすぎたか。
 そんな程度の脆壁をフリーナが盾と出来ているのは、ヌヴィレットの中に微かに残った良識に守られているに過ぎない。
 フリーナもそれが分かっているのだろう。ドアノブを握る彼女の手の震えが、扉越しに伝わってくる。
 それでも彼女は気丈に言葉を絞り出す。
「こ、このままここで騒がしくしてみろ。人が集まってきて、キミはレディの家に無理矢理押し入ろうとしている無法者だ、なんて記事になってしまうぞ」
「甘んじて受け入れよう。得られる成果を考えれば安いものだ」
「な……っ」
 がたりと扉が音を立て、大きく揺れる。今度はヌヴィレットの仕業ではない。
……ッ、いい加減にしてくれ……っ! 迷惑だと言っているのが、分からないのかい……!?」
 殆ど閉じた扉越しに響く声は、怒号と呼ぶにはあまりに弱々しい。彼女が心折れかけている現実は都合がいい筈なのに、達成感とは真逆の心地が胸を刺す。
 躊躇に揺れる隙間を突いて、フリーナは言い募る。
「お願いだから、もう……ッ、ぅ、ぐ……っ」
……フリーナ殿?」
 しかしその懇願は苦しげな呻きに掻き消された。
 次いで響く空咳。ふっと扉の重みが──フリーナがドアノブから手を離したのだろう──元々無きに等しい抵抗が完全に消え去って、床に落ち崩れる痛々しい音。
「──フリーナ!!」
 それらの意味を咀嚼するより早く、ヌヴィレットは扉を開けた。
 最初に刺激されたのは嗅覚だった。噎せ返る花の香り。長く押し込められて、煮詰められ、遂に栓が壊れて決壊してしまったかのような奔流が溢れかえっていた。
 次に視覚。床に散らばる瑞々しく彩り豊かな花々は、季節も、品種も、育成環境すらも無視して咲き誇る。
 その中心に、フリーナはいた。
 床に膝をついた薄い身体は震え、肩が大きく上下する。喉奥から絞り出されるような咳と、引攣れた嗚咽が漏れるたび、口元を覆った白指の隙間から、またひとつ花が零れ落ちた。
「これは……
 目の前の光景が呑み込めない。知らず息を殺したヌヴィレットの目の前で、フリーナが一際激しく咳き込んだ。
「げほッ、ぅ……っ」
「フリーナ……っ」
 ヌヴィレットは片膝をつき、今にも折れてしまいそうな華奢な背中に手を伸ばす。
「触らないでッ!!」
「!」
 しかし力の限りを振り絞った切に迫った訴えに、ヌヴィレットは手を止めた。
「触れ、たら……うつる、から……
 それは花か、フリーナ自身に対してか。
 後者ならば、なんら構いはしないのに。今この瞬間、彼女の苦しみを少しでも取り除けるのなら。
 けれど、前者なら。それは彼女の心に土足で踏み入り、無遠慮に花畑を踏み荒らすに等しい行いなのかもしれない。結局ヌヴィレットは彼女の望み通りに手を引いた。
 代わりにその場に跪いたまま、室内を検分する。元々そう広くない家だ。明かりの灯らぬ空間でも、龍の視覚は問題なく部屋の全景を拾う。
 うたた寝をしていたというソファの上、ローテーブルの脚下、そこかしこに花の痕跡が見て取れる。
……フリーナ殿。これは只事ではない。君の身に何が起こっている?」
 ヌヴィレットは蹲る少女に視線を戻し、出来る限りゆっくりと、平静を装って問いかける。
 返事は無い。ただ密やかな喘鳴だけが耳に届く。
 その表情はたおやかな流線を描く前髪に隠され窺えない。けれどいつも艶やかな銀色が、今は室内の暗闇を差し引いてもなお、くすんで見える。
「先程、君は『伝染る』と言ったな。ならばこれは何かしらの病ということだろうか」
…………
 やはり答えはない。だが時に沈黙こそが雄弁に真実を物語り、ヌヴィレットに確信を与えてくれる。
 フリーナは病に侵されている。それも花を吐くなどという、見たことも聞いたこともないやり方で彼女を蝕む、酷くたちの悪いものだ。
 次の言葉を探して視線を彷徨わせ、自身の足元に転がる白箱にやっと気がついた。中身はもう、一工程ずつに丹誠を込めたコックに顔向け出来ない姿に変質しているだろう。
 もうヌヴィレットに出来ることはない。それがとても……嫌だった。
「フリーナ殿。君が沈黙を選ぼうとも、私はこの事態において口を噤むことは出来ない。伝染病ということならば、フォンテーヌ感染症法に基づき、詳細が判明するまで君を隔離・軟禁しなければならない」
……っ」
 無情に言いきれば、フリーナの吐息が揺れた。望まぬ形で矛先を見つけてしまったヌヴィレットは、ずくずくと痛む臓腑には気付かない振りをした。
「それは君の望むところではないだろう。だから、君の知っていることを話してほしい。……君の力になれればと思っている」
 力になれる、と確約を口に出せなかった己は卑怯者だろうか。
 だが、何も分からぬ内から適当なことを述べるほど、無責任なことはない。事と次第によっては脅しではなく、本当にフリーナにとっての残酷な手段を実行しなくてはならないかもしれないのだ。
……どうして、いつも……、上手くいかないのかな……
…………
 ヌヴィレットでなければ拾えなかったかもしれない程の掠れきった呟きは、本来誰に聞かせるつもりもなかったのだろう。そこに乗るのは諦念のみで、恨みも怒りも存在しない。だからヌヴィレットは何も言えなかった。
 フリーナがゆっくりと顔を上げ、隠されていた双眸が明らかになる。陽の届かぬ水底のように暗い硝子玉。
 それはあの断罪の日と同じ──ヌヴィレットを最も引き裂く色をしていた。