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吾妻
2021-10-31 17:49:07
112283文字
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戦争と平和
はるか昔に運営していたSO3夢サイトの、更にオレ設定を元にした三次創作(未完)。自分で読むためにもってきました。ほぼオリキャラ若手漆黒兵から見た戦争。
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7.そして二度と戻らない/The Edge
鈍い音が響いた。
その動き一つひとつが、フォスにはやけにくっきりと見えた。
連続写真のようだと思った。
「何なんだよ、お前!」
ロイが腹の底から声を絞り出した。
らしくない罵倒の仕方だった。
ロイはいつも、論理的に外堀から埋めて、相手を追い込む。
ちくちくと、じわじわと責め苛む。
けれど今のロイは、冷静さも皮肉めいた部分も残っていなかった。
余裕も保身もない。剥き出しのままだった。
グランツの胸ぐらを掴む手に、力が篭もる。
「『ここにしかいられない』なんて、お前の口から聞きたくない! お前は、選択肢の中からここを"選んだ"んだろ! そうじゃなきゃ、お前がこんなところ
……
!」
「
……
こんなところ、なのか?」
口の端に血を滲ませても、グランツの表情は揺らがなかった。
翡翠色の双眸で、じっとロイを見つめ返す。
「カライスにとって『漆黒』は、『こんなところ』なのか?」
まっすぐに見つめられて、ロイが息を飲んだ。しかしすぐに、きつく睨み返す。
「『こんなところ』だよ! 僕たちは、ドラゴンやルムよりも価値がない! 邪魔になればあっけなく切り捨てられる! 上にのぼりたくても、"持たない"ものは、全部ここで堰き止められる! 正当な権利や評価すら与えてもらえない! 奪われるばっかりだ! お前は本当は、僕たちのことなんて平気で上から踏みつけていられたくせに、他に選択肢がなかったような言い方
……
!」
「
……
そうだな」
グランツの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。自嘲のようにも見えた。
「俺はここに逃げてきたんだ」
「
……
」
「それでも、俺にはもう、ここしか残されていなかった。他の場所へ、風雷へなんか、行けるはずがない。俺は
――
ルムに乗れないんだ」
「
……
な」
グランツの胸ぐらを掴みあげたまま、ロイが息を飲んだ。
乗ることができないんだ、とグランツはもう一度繰り返した。
胸ぐらを掴みあげていたロイの手が、ゆっくりと離れる。体の横に、だらりと落ちた。
「幼い頃、父親に連れられて、遠乗りに出掛けたんだ。家で所有していたルムは、見栄っ張りな父親の性格を反映して、とても猛々しいやつで、俺はまだルムをうまく乗りこなすことなんてできなかった。遠乗りの途中で、急にルムたちが騒ぎ始めた。今思ってみれば、あたりに虫か何かがいたんだろう。大人たちは何とかルムをなだめたけど、俺は自分のルムを制御できずに、飛び降りることもできないまま、暴走するルムにしがみついて、遠くまで連れて行かれてしまった」
(まるで、本か何かを
――
)
読み上げているかのようだと、フォスは思った。
グランツの声は平坦で、静かすぎて、逆に聞いている方が落ち着かない。
「ルムは切り立った崖のあたりまで走って行った。前日に降った季節外れの雪のせいで、地面はぬかるんでいて、ルムはあっけなく崖から落ちた。遥か下に荒々しい川の流れがあって、ぼんやりと、『死ぬかもしれない』と思った。でも、ちょうどせり出した岩棚に落ちて、川には飲まれずに済んだんだ」
グランツと向き合うロイは、顔色を失っていた。
予想外の出来事に、戸惑っている。それは、フォスも同じだ。
どうしたらいいのかわからなかった。
グランツの唇からは、堰を切って言葉が溢れて落ちる。
「同じ岩棚にルムも落ちて、右足が下敷きになった。幸い潰されたりはしなかったけど、身動きはまったく取れなかった。ルムは後ろ脚を折っていて、うまく立ち上がれなくてもがいて、硬い蹄が何度も頭の傍をかすめて、恐ろしかった」
グランツはまったく怖がっているように見えなかった。
けれど、揺らがぬ語り口が、克明に情景を描き出し、フォスは気づいたら右手で左の二の腕をさすっていた。寒かった。
「激しく暴れるルムの傍で、たぶん半日ぐらい身を縮めていたんだと思う。ふと気づいたら、今までずっと聞こえていた荒々しいルムの呼吸が、弱くなっていくのに気づいた。か細くなって、やがて途絶えた。おそらく、岩棚に落ちた時に強く体を打ったんだろう。右足の上に乗っていた体が、だんだん冷たくなっていって、最後には下の方から聞こえる激流の音しか聞こえなくなった。蹴られて死ぬ危険はなくなったけれど、俺は、どこなのかもわからないほど遠くの、自分では登れない崖の下で、本当にたったひとりになったことに気が付いた」
ふと、グランツの顔を横から窺って、フォスはぞっとした。
ロイに殴られて、わずかに切れた口元に、かすかな笑みが見えたのだ。
苦々しい笑みだった。
「それから一昼夜ののち、偶然巡回中の疾風兵に発見された。何とか救出されて、家に戻ることはできたけど、その日から俺は、ルムに乗ることができなくなった。近づくだけで動悸が早まって、眩暈がして吐きそうになった。自分でもだらしなくて、情けないと思ったが、頭でいくら命じても、体は言うことを聞かなかった。
……
それは、今でも変わらない」
(あの時
……
)
悪夢の日を思い出した。
あの日カルサアで、フォスはグランツを遠目に見かけた。
風雷の駐屯地のすぐ傍で、グランツはルムに騎乗した風雷兵と会話をしていた。
その様子が平素と違うようで、何かが引っかかっていた。
今理解した。グランツの表情が、強張っていたのだ。まるで怯えるように。
「両親は始めは同情を示した。怖い思いをしたのだから、仕方がないと慰めてくれた。おそらく、一時的なものだと思っていたんだろうな。でも、いつまでも俺の様子が変わらないと気づいた父親は、次第に焦り始めた。スマラクトは、代々風雷の騎士を輩出してきた家だ。ルムに乗れないなんて、話にならない。いつまでも過ぎたことに怯えていないで、前を向けと逃げずに向き合えと、励ましたり罵倒したりするようになった。
……
俺も、父親と同じ苛立ちを自分に感じていた。焦ってもいた。俺は、自分の前に開かれていた道を、疑ったことも拒もうと思ったこともなかった。でも
――
」
グランツは、持ち上げた自分の右掌を、じっと見下ろした。
何かを掴むようにゆっくりと握って、また開く。
「俺はそこから、転がり落ちてしまった。カライス、君の言うとおり、俺はこの道を選んで逃げた。自分を守るために戦うのをあきらめたんだ。自分の恐怖心と向き合わずに、背を向けた。だから、両親やアンネ
――
妹も、俺が殺したようなものなんだ」
「こ、殺したって
……
グランツは別に何も
……
」
自分なりに、フォローしたつもりだった。
しかしグランツは、フォスを見返って、複雑な笑みを浮かべただけだった。
「家名っていうのは、厄介なものなんだ、フォス。保つために、面子やら勲章やら、どうでもいいものがたくさん必要になる。スマラクトの家にとって、それは武勲だった。風雷にはもちろん、騎兵以外の役職もあるが、スマラクトは元々、騎馬兵として爵位を賜った家だ、後継ぎが騎兵になれないなんて、もってのほかなんだよ」
「でも
……
」
「特に、現国王が即位されてからは、大規模な改革が行われて、貴族主義から軍国主義に変わり始めた。名ばかりの家は、取り潰しに遭って、爵位を返上させられる。父は決して無能な人間ではなかったけど、生真面目で優しかったから、自分の代でスマラクトを終わらせるなんて失態を、許すことなどできなかったんだ。だから次第に、俺と父の間には、溝ができていった」
「
……
」
「父は俺に厳しく当たったが、それがある時、ぴたりと止んだ。母が、身籠ったからだ」
「子ども
……
?」
「そう。両親
――
特に父は、舞い上がっていた。出来損ないの長男の代わりに、天が授けてくれたのだと言っていた。もう一度初めからやり直せると思っていたんだろうな。今度こそ、失敗しないように育てて、風雷に入れて、家を継がせる。そんな両親の期待を一身に受けて、生まれた赤子は
……
女だった」
グランツが困ったように笑う。
何故かロイの方が、苦しげに唇を噛んだ。
「シーハーツでは女性も軍にいるとは言うが、アーリグリフでは後方支援を除けば、そんなことはまずありえない。無論、騎兵にだってなれない。妹
――
アンネローゼは、ただ女に生まれたと言うだけで、有り余るほど注がれていた期待を裏切って、何もしていないのに、両親に失望された。彼らはますます悲嘆に暮れて、俺たち兄妹には、あまり構わなくなっていった。唯一残された可能性は、武芸の名門の家から婿養子をとることで、アンネは物心もつかない頃から、同じ年頃はおろか、一回りも年上の良家の息子と引き合されることになった。俺は、アンネに申し訳なくてたまらなかった。自分が恐怖心を克服できなかったばっかりに、当然与えられたはずの両親の愛情も曖昧になって、俺の代わりに家を存続させるための道具として扱われて。だから俺は
……
アンネのためなら何でもしてやるつもりだった。何が最良なのかは、一番俺がよくわかっていた。ルムに乗ればいい。でも
……
何度試しても、できなかった」
「グランツ
……
」
「俺の代わりに、家を背負わされたアンネを守るために、力が必要だと思った。俺に唯一残されていた可能性が、漆黒だったんだ。せめて軍人として身を立てることができれば、いざとなったときにアンネや家を守れるかもしれないと
……
軍の試験を受けて、一般兵として採用されることになった。配属辞令を受けてカルサアに戻ってみたら
――
家が燃えていた」
「
……
もういい」
うな垂れたロイが、かすれた声を絞り出した。
7年前のあの日のようだと、フォスはぼんやり思った。
「カライスの言うとおり、一番激しく燃えていたのは両親の寝室だった。アンネは、母に抱きかかえられるようにして死んでいた。俺は結局、何一つ守ることができずに、置いて行かれ
――
」
「もういいよ!」
声の限りに叫んで、ロイは身を翻した。
「ロイ!!」
フォスの声は、ロイが閉ざした扉に虚しく跳ね返された。
伸ばした手の行き場が、なくなってしまった。
「追いかけなくていいのか?」
冷静に促したのは、他でもないグランツだった。
フォスは戸惑いながら、声の主を振り返る。
揺らがぬ緑の瞳と、目が合った。
その瞳が驚くほど澄んでいて、フォスは混乱した。
「グランツは
……
」
どう続けていいのか、わからなくなった。
平気? 怒っていない? 悲しくはないか?
浮かんだ問いかけがどれも上手く嵌らない気がして、フォスは口を噤む。
グランツの口元に、苦みを帯びた笑いが浮かんだ。
「俺は平気だ」
「でも
……
」
「嘘じゃない。あの日から、俺は多分壊れているんだ。怒りや悲しみも、他人事のようでうまく感じることができない。俺がこんなふうだから、カライスは気に障るんだろうな。彼には能力があって、何より努力家だから。高みを目指す彼にとっては
――
」
「違うよ
……
」
ぽろりと、零れ落ちてしまった。
「
……
違う?」
「ロイは本当は、歴史学者になりたかったんだ」
ぽつりと、頬に一粒、滴が落ちてきた。
あの日と同じ糸を手繰り寄せるような細い雨が、知らぬ間に体を濡らしていく。
「フォス、大丈夫か」
グランツに肩を掴まれ、フォスはようやく、自分が泣き出していることに気が付いた。
「ごめ
……
俺、ワケわかんなく、なってきた
……
」
色々なものが混ざり合って、自分が怒っているのか悲しんでいるのか、フォスにはわからなくなっていた。
きつく目をつぶると、目のふちに溜まった涙が冷えた頬に伝い落ちる。
幼い頃のロイの、悲愴な決意をたたえた顔。ルーフェンの開いた瞳孔。医務室の床に転がるヨーンの姿。
隠密の少女の、今わの際。グランツの揺らがぬ瞳。
そして、居並ぶ兵士たちを射抜く冷ややかで熱量を持った、深紅の眼差し。
瞼の裏に浮かんでは、消える。
「わかんなく
……
なってんだ、俺
……
」
何のために、何を欲しがって、歩いてきたのか。
掴んでしまった力を、どこへ向ければいいのか。
無邪気に棒を長剣に見立てて振り回していた頃には、もう戻れないのに。
*
「
……
バカだ!」
自分がどこへ向かって走っているのか、ロイにはわからなかった。
訓練所を飛び出して、陰気な修練場の廊下を駆ける。
どこかへ行ってしまいたかった。
――
でもどこへ?
胸の内側で、怒りがふつふつと煮えている。
グランツ・スマラクトへの、この国の目に見えない身分の壁への。
そして何より
――
。
「バカか、僕は
……
!」
グランツ・スマラクトと対峙したときに、ロイは気づいた。
気づいてしまった。
階級格差など馬鹿らしいと、ずっと思っていたくせに。
誰よりもそれに縛られていたのは、自分だった。
7年前からずっと、自分で自分の首を絞め続けてきたのだ。
思い通りに行かない苛立ちを、先日の作戦で受けたショックを、一緒くたにして、分かりやすい相手にぶつけただけ。
これでは、ヴィオと何も変わらない。
分かりやすい敵を見つけて、鬱憤を晴らしたかった。
抑え込まれているのは、自分が位を持たないせいだと思いたかった。
決して、自分の力不足などではなく。
不条理に、閉じ込められているのだと。
(全部言い訳だ
……
!)
自分を、あの人を認めさせたくて、でも。
一番嫌悪しているはずの"生まれの違い"を、隠れ蓑にしてきた。
「父さん
……
、僕は
……
!」
がくん、と。
足元から地面の感覚が消えた。
「な
……
」
我に返ったときには、もう遅かった。
重力に引きずられて、傾いた体は階段を転がり落ちて行った。
*
「キマおじさん
……
ロイの父さんは、漆黒の参謀室にいたんだ」
修練場の屋上に続く通路に、人影はない。
細く落ちる雨を避けて、フォスとグランツはここまで登ってきた。
フォスは無駄に顔が広いので、涙腺が壊れたまま人の多い場所へ行くのは憚られた。
壁にもたれたグランツの足元にしゃがんで、長く続いた沈黙を、フォスが破った。
「すっげー頭がいい人だったみたいだけど、俺や、村の子どもらには変なおじさんで、軍略よりも、変なモンスターとか、昔の歴史に詳しくて。ウソかホントかわからない話ばっかりして、
……
話聞いてるのが楽しかったな」
「軍師というよりも、学者のような人だな」
「うん。本当はおじさんも、学者になりたかったみたいだけど。食ってこうと思って軍に入ったら、こうなったって笑ってた。子どもの頃は、間違えて軍人になるなんて、変な人だなって思ってたけど、今になってみたら、大変なことだったんだな、多分。結構、エラかったみたいだしさ」
「凄い人だったんだな」
「うん。村でも尊敬されてて。でも、一番キマおじさんのこと誇りに思ってたのは、ロイだったんだ。おじさんが任務でいない時も、ずっとおじさんの書斎にこもってて、俺には難しくて読めないような本を読んでて、歴史の話をたくさん教えてくれた。過去に起きた戦争のこととか、まだアーリグリフとシーハーツが別れる前の、シーフォート
……
? 王国? のこととか。そこに攻めてきた、人形兵のこととかさ。面白いんだぜ、語り口調、おじさんにそっくりでさ」
確かに温かい思い出のはずなのに、呼び起こすと胸が痛んだ。
笑いかけた口元が、引きつってしまう。
「歴史学者になるって、言ってたんだ。俺はその頃、漆黒に憧れて、特訓とか言いながら近くの山とかを駆け回ってるだけだったけど、ロイは違った。中央の研究機関とか調べて、学費がいくらかかるのかとか、一番研究が進んでいるのはどこかとか、色々調べてた。シーフォート時代の文献があるのは、シーハーツの方が多いからって、留学したいとかも言ってた。その頃俺は、リュウガクって食えんのかとか、そんなことばっか考えてた」
「フォスらしいな」
「だろ? でも、俺たちが12のとき、おじさんが死んだんだ」
「
……
病気か?」
「ううん、任務で。その時、漆黒は大規模な夜盗団の殲滅作戦をしてて、おじさんたちの部隊は相手の罠にはまって、四方を囲まれて、本隊とも分断されて、もう助からないだろうっていう状況になってさ。でもキマおじさんが、敵の包囲の脆いところを突いて、見事に部隊をその場から脱出させた」
「逃げ切れたのか」
「うん。怪我人はたくさんいたみたいだけど。でもおじさんは、その時受けた矢の毒で、アーリグリフに着く直前の丘で、死んじゃったんだ」
「そうだったのか
……
」
「天才的なヒラメキっていうか、ハイリスクハイリターンっていうか、とにかく常識破りの立案だったみたいだけど、見事に的中して、味方の被害は最小限で、素晴らしい作戦だったって、おじさんを村まで運んできてくれた同じ部隊の人が教えてくれた。それが、俺たちが知ってる方の話で
――
」
「"知ってる方"の?」
「公式の記録では、その作戦を立てたのは、部隊長の貴族のヤツで、おじさんは"恐慌状態になって逃亡しかけたところを矢に撃たれて、何とか連れ帰ったものの死亡"
……
ってことになってる」
「
……
」
「おじさんを運んできてくれた部下の人が、ロイとおばさんに土下座して謝るの、見たよ。『自分を守って生かしてくれた人の命も名誉も、何も守れなかった』
……
って。おじさんは仲間を必死に守ったのに、手柄も横取りされて、戦場から逃亡したって汚名も着せられて、ロイとおばさんのところに戻ってきたのは、亡骸だけだったんだ。その部隊長は今、疾風にいるんだって。笑っちまうよな」
「それで、カライスは
……
」
「おじさんが死んだ少しあとで、おばさんが風邪をこじらせてさ。元々体が弱い人だったし、おじさんが死んだショックもあって、そのまま
……
。おばさんの葬儀が終わった数日後、ロイ、大事にしてた歴史書とか全部捨てちゃって、軍に入るって言い出したんだ。あんなにいっぱい勉強して、勉強しすぎて体力なんて全然なかったくせに、試験に受かるために体を鍛えるとか言い出して、俺
……
」
涙腺が壊れている。せっかく止まった涙が、またじわりと滲んだ。
手の甲で、目頭を押さえた。
「昔から理屈っぽかったけど、あんなふうになったのはおじさんが死んでからなんだ。軍で出世なんて、本当はあいつだって望んでない。ロイはおじさんを認めようとしなかった奴らを、見返してやりたいだけなんだ」
「
……
そうか」
「だから本当はロイだって、別にグランツのことが憎いわけじゃないんだ。
……
たぶん。だからさ、こんなこと頼むの変かもしれないけど、あいつのこと嫌わないでやってよ」
「フォス
……
」
「確かに! 確かにロイは性格悪いし意地悪だし、人のことよく馬鹿にするけど! だけど
……
」
「フォスは優しいな」
穏やかに、グランツが笑った。
フォスはぽかんと、しゃがんだままグランツを見上げた。
「君だって、今、平気なわけじゃないだろう。色んなことがあって、混乱しているはずなのに、カライスのことや、俺のことまで気に掛ける。だからカライスは、フォスに一番気を許しているんだろうな」
「別に、俺は
……
」
「それが君の素だから凄いんだ。大丈夫だ、俺がカライスを嫌う理由がない。彼の抱く苛立ちや不満は正当だ。どうしようもないのは俺の方だよ」
「グランツだって!」
地を蹴るように、フォスは立ち上がっていた。
少し高いところにあるグランツの目を、まっすぐに見る。
「グランツだって、何も間違ってない! 俺、あんま頭よくねーし、貴族のこととか全然わかんないけど、何も悪いことなんてしてないと
……
思うよ
……
」
わずかに、グランツが目を瞠った。
突発的に言葉にしてから、フォスは後悔した。
自分の愚かさを露呈した気がした。
理屈や感情ではどうしようもないしがらみがあって、グランツはそれらに絡め取られて苦しんでいるというのに。
無責任なことを言った。
「
……
そうか」
グランツは怒りも嘆きもしなかった。
ただ、少しだけむず痒そうに微笑んだだけだった。
*
温かくてやわらかい掌が、頬を撫でる。
寝乱れた髪を梳いて、整える。
瞼を閉じていても、すぐ傍に誰かがいるのがわかった。
(母
……
さん
……
?)
体が弱くて、季節の変わり目にはよく寝込む人だった。
父が軍人を志したのも、母に負担のかからない生活を保つためだったと聞いている。
優しくて、儚くて、でも芯の強い人だった。休暇中の父は、母にまったく頭が上がらなかった。
あの頃。
上へ上へと願いながら、心はいつも、あの家に戻りたがった。
積み上げられた本が支配するあの部屋。決して立派とは言えない書斎机に座って、頭を掻きながらページをめくる、お世辞にも軍人には見えないあの人の姿。
二度と、戻らない日々の記憶。
――
俺は結局、何一つ守ることができずに、置いて行かれ
……
グランツ・スマラクトの言葉にはっとした。
(そうだ、僕も、置いていかれたって思ってた
……
)
父は、母を連れて行ってしまった。
ひとり、置いていかれてしまった。
完成されていた、あの家。父と母と、書斎のある家。
何もかも奪われて、空っぽの家だけ残されて。憎まなければ、前にも進めなかった。
夢も甘えも捨てて、自分を追い込まなければ、立ってもいられなかった。
父の汚名を雪ぎたいのは、もちろん本心だけれど。
(僕は
――
……
)
「
……
い」
(声
……
女の、ひとの
……
)
「よかった。どこも折ってないみたいだし、打撲は数日痛むかもしれないけれど。もう大丈夫そうですね」
「階段の一番上から転げ落ちて、打撲で済むたぁ、運のいいヤツだな」
「軽傷で済むならいいことです!」
「睨むな睨むな。ったく、お前はどんどんあのジジイに似てきやがって」
「
……
先生の葬儀には、いらしてくださいね」
「どうするかなぁ
……
」
「
……
」
「睨むなって! 行くよ!
……
お前、まさかわざわざそれを言いに修練場まで来たのか?」
「
……
そういうわけじゃ、ないんですけど。しばらくカルサアにいたものですから」
「人恋しくなったか?」
「私、先生の病気に、何となく気づいていたんです。でも
……
」
「あの頑固ジジイは、隠すと決めたら死ぬ気で隠す。お前が悪いわけじゃねぇよ。俺は安心してるよ、どうせ誰にも見られねぇように、こっそりひとりで逝っちまうんだろうと思ってたからな。
……
お前が看取ってくれてよかった」
「
……
はい」
「むしろ、これから大変なのはお前の方だろう。何だ、俺ぐらいにしか弱音吐くとこねぇのか。年頃の娘が哀れなもんだねぇ
……
」
「
……
先輩は意地悪です」
「お前も早く、遠慮せずに甘えられるところを作れよ。せっかくの美人がもったいねぇからな」
「誰
……
か
……
」
いるのか。
声を聞いているうちに、意識がはっきりしてきた。
片方は不良中年医師だ。ということは、ここは医務室。
階段から転がり落ちて、運び込まれたらしい。
(もうひとりは
……
誰だ?)
うっすらと目を開くと、修練場特有の石の天井が飛び込んできた。
「目が覚めました?」
ベッドの横合いから、覗き込む人影があった。
大きな瞳が、気遣わしげに見下ろしている。
軍務用の黒いコート姿だった。長い髪は後ろでまとめられていて、化粧っ気もない。
けれど、美しい人だった。
誰だろう? 修練場に、こんな人は
……
。
「どこか痛むところはありますか」
「
……
」
「大丈夫? 具合でも悪い?」
呆気にとられて言葉を失っていると、その人が表情を曇らせる。
「あーもういい、お前は退けって。健全な青少年が固まってるじゃねぇか。目に毒だ」
後ろから現れた不良医師が、女性を押しのけた。
人を有害物質みたいに、と押しのけられた女性が不服そうに漏らす。
「どうしたカライス、お前らしくもねぇな。覚えてるか? 西階段から見事に転がり落ちてきたんだぜ」
「
……
はい」
「まだぼうっとしてるな? 別に熱はないようだが」
リゲルの言うとおり、まだ意識はもうろうとしていた。
それが階段を転がり落ちたせいなのか、懐かしい夢をみたせいなのか、グランツ・スマラクトに怒りをぶつけたせいなのか、わからなかった。
「
……
僕は、多分
……
失敗して」
「ん?」
「あんなこと、言うつもりじゃ、なかったのに
……
間違えて」
目じりがじわりと熱くなった。そのことに自分が一番驚いた。
涙なんて。
ここ数年、流したことなんてなかった。
自分の口からこぼれる言葉も、まったく論理的ではない。ダメだ、どうかしている。
「んー
……
。間違えたり転がったりすりゃ、痛ぇもんだが」
リゲルが顎の無精髭を親指で撫でた。
「世界が終わったみたいな面するのは、ちっと早いぞ、たぶん」
「
……
でも」
「お前はまだ生きてんだし、どうとでもなる。とりあえず自棄っぱちにならずに、眠いなら寝とけ。戦場から戻ってきた奴はな、皆どっかおかしくなってんだ。"おかしくなるのが普通なんだ"。急に色んなことがわかんなくなったり、抱えてきたモンが重くなったり、我慢できてたモンができなくなったりする。そういうもんだ、お前が正常だ」
「
……
」
嫌いな人種のはずだ。
この人は、本当は恐ろしく勘も鋭くて有能だ。
それなのに、昼行燈のふりをする。
できることをしない。
そういう人間を、ロイは嫌悪してきたはずだった。
自分には、前に進むことしかできなかったから。
なのに、彼の言葉に安堵している自分が、いた。
軋む腕を持ち上げて、目の上に乗せた。
皮膚に、涙が溶けた。
こらえきれずに喉が鳴る。嗚咽を噛み殺せなかった。
両親が死んで、寄る辺もなくなって、軍に入って、戦場に立って。
あれほど揺らがないと思っていたフォスの混乱と、竦んで動かなかった自分の体が、恐ろしくて。
ずっと、怖くてたまらなかったことに、今気づいた。
【つづく】
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