吾妻
2021-10-31 17:49:07
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戦争と平和

はるか昔に運営していたSO3夢サイトの、更にオレ設定を元にした三次創作(未完)。自分で読むためにもってきました。ほぼオリキャラ若手漆黒兵から見た戦争。


6.その重み/Life's Worth


 生ぬるい世界が、不意に途切れた。
 切り離され、投げ出された。急に四肢に感覚が行き届いて、ずしりと体が重くなった。
 闇のなか、せわしない呼吸が聞こえた。今の今まで水に潜っていたかのように、全身が空気を欲していた。
 自分の呼吸だった。

 深夜の大部屋は、ひっそりと静まり返っているもの。
 一度寝たら目が覚めない性質のフォスだから、勝手にそう思い込んでいた。
 確かに昼間の喧騒はない。
 けれど、静まり返っているわけではなかった。
 其処此処に息づく、気配があった。
 規則正しい寝息もあれば、鼾(いびき)も聞こえる。
 落ち着かず、寝返りをうつ気配や、呻き声も。
 これがいつも通りのことなのか、それとも特別なことなのか、平素を知らぬフォスには判断ができない。
 ただ――
 自分は、おかしい。普通ではない。
(夢……見てた気がする)
 後味の悪い、不条理でおかしな夢を。内容は、もう思い出せなかった。
 暗い色だった、おそらくは。黒や、赤。
(まだ、夜中、だよな)
 闇は深い。薄まる気配はない。まだ、夜明けまでには時間がある。
 仰向けに転がったまま、フォスは右手を持ち上げ、掌を眼前にかざした。
 何の変哲もない、見慣れた掌だった。
 訓練で大剣を握ったせいで、すっかり節くれだって、子どものものではなくなった、それ。
 かすかに震えていた。
……参ったな」
 夜が明ければ、また一日が始まる。
 訓練もしなければならないし、割り当てられた役割だってある。
 特に新人は、仕事が多いのだ。年功序列の厳しい場所だから。
 先輩の分まで、あれこれやらねばならないことがある。
(先輩の――
 フォスは考えるのをやめて、きつく目をつぶった。
 右の掌をきつく握って、左胸に押し当てる。
 まだ震えていた。
 変だ、おかしい。
 あれから、三日経っているのに。


            *


 結局、よく眠れなかった。
 雑用を終えて、ぼんやりと廊下を歩いていると、前方の扉が開いた。
「おー、フォスか」
 顔を出したのはダスクだった。
「ひでぇ面だな、お前」
 そう言って笑うダスクの方こそ、疲れた顔をしていた。
 瞼は重そうだし、目の下にはうっすらと隈もある。
 寝不足なのか、顔は青白かった。
「ここ、医務室じゃんか。ダスク、具合悪いのか?」
 ダスクが出てきた部屋は、修練場の医務室だった。
 不良医師であるリゲルの城で、普段は本来の目的よりも、賭場として活用されることの方が多く、騒がしい。
 しかし今日は、ひっそりと静まり返っていた。
「あー、何つーか、俺じゃねぇんだよな。落ち着かねぇ怪我人がいるから――さ」
 ダスクはちらりと、開いたままの扉の奥を顎の先で示す。
「怪我人?」
「そ。俺は見張り。リゲル先生、腕っぷしじゃ現役漆黒兵には敵わねぇからな」
 小さく肩をすくめ、ダスクは声を落とす。
「黙って寝てりゃ、ちゃんと治る怪我だって、先生も言うんだけどさ。当のご本人様がすぐベッド出ようと暴れるんだよ。んで、直属の後輩であるところの俺が見張り番。――ヨーン先輩がな」
……
「あの人、ルーフェン先輩と、仲良かったからな……
……そっか」
 "仲が良かった"。
 そうだ、過去の話だ。
 もういない。
「ッ、るせぇ! 離、せっ……!」
 扉の奥から、くぐもった声が飛び出してきた。
 続いて、何か質量を持ったやわらかいものが、床へ落ちる音。
「おい、何度目だ! いい加減後遺症残るぞ!」
「こんな、とこで俺だけ……! どうして……!」
 小さく吐息を漏らし、ダスクが医務室の内側を振り返る。
 わずかな隙間から、室内が見えた。
 渋い顔をして、苛立たしげに髪を引っ掻き回す不良医師が見える。
 そしてその足元に、這い蹲っている小柄な男が、ひとり。
「くそっ……何で、動かねぇんだ、よ……!」
 腕を支えにして立ち上がろうとして、失敗している。
 床に倒れ伏し、握った拳を冷えた床に叩きつけた。
 ごりっ、と音がした。
 やわらかい人の肉が、石に勝てるわけもない。それでもヨーンは、もう一度握り拳を振り下ろした。
「畜、生……
……ベッドに押し込んでくるわ。もう今日四度目」
 寂しげな笑みを浮かべて、ダスクが医務室に引き返す。
「正直、あんなヨーン先輩の姿、見たくもねぇけど。庇ってもらったしな。正直、ヨーン先輩がいなかったら、まともに動けないまま全滅してたぜ、俺たち」
……そう、だな」
 地獄の記憶を思い出す。
 確かにあのときフォスたちは、急襲に動転して、まともに動くこともできなかった。
 ヨーンの一喝がなければ、剣も抜けなかったかもしれない。
 死んでいたかもしれない。
 ルーフェンや、――隠密の少女のように。
……っ」
 うつろに見開かれた少女の瞳を思い出すと、小刻みに指先が震える。
(俺が――
 震える指先を握りこむ。抑え込もうとする。
「フォス」
 うつむくフォスに、ダスクが静かに声を掛けた。
 フォスは顔を上げて、疲弊した同期を見つめた。
「あんま、考え込むなよ。……柄でもねぇし」
 ぼんやりと立つフォスの肩を軽く小突き、ダスクは踵を返した。
「もう先輩いい加減にしてくださいよ、俺仮眠にも行けねぇんですけどォ」
 わざと明るい声で呼びかけながら、ダスクはヨーンに歩み寄る。
 フォスの目の前で、ぱたりと医務室の扉が閉まった。
「どうしたら、いいんだよ……
 するりと、閉ざされる扉の隙間から、かすれた涙声が漏れてきた。

――こ、のッ……
 あのとき。
 ぼんやりと血の池の傍に座り込んでいたフォスは、尖った声で我に返った。
 気づけばすぐ隣にヨーンが立っていた。
 フォスが取り落した、血に濡れた大剣を拾い上げ、既に絶命している少女の亡骸めがけて振り上げる。
 止めようと思ったのに体が動かなかった。声すら出せなかった。
 ヨーンの瞳に宿る憎悪があまりにも激しくて、気圧されてしまったのだ。
 大剣を振り上げ、少女の亡骸を睨みつけるその横顔を、ぼんやりと見つめることしかできなかった。
 ブン、と風を切る音がした。
 ざっくりと、切っ先が刺さった。――地面に。
――畜生……
 結局、ヨーンは少女の亡骸を傷つけることはできなかった。
 地面に突き立てた大剣にもたれ、そのままずるずると滑り落ちる。
 畜生。もう一度吐き出して、大地に額を擦りつけた。
――何やってんだ、俺……


            *


 何も知らなかったんだ。
 分かっているつもりで、本当のことなんて何ひとつ。
 武器を握り、戦場に立つということの意味。
――俺だって、遊びのつもりじゃないさ。あとはもう実戦に赴いて、ばったばったと敵をなぎ倒すだけなんだ!
 食堂で思い出話を語ったあの日は、そんなに遠い昔ではない。
 けれど今、無邪気に同じ台詞は言えないだろう。
 実戦で敵を倒すということがどういうことなのか、もうフォスの手は知っていた。
 戦う相手が自分と同じ血を流すということを、知っていたのに、理解できていなかった。

「あれ……?」
 気づいたら、フォスは見覚えのある扉の前に立っていた。
 中庭に続く扉だった。向こう側には、訓練所が広がっている。
 毎日のように通った道程を、体は律儀に覚えていた。
 今はとても、剣を握る気にもなれないというのに。
「フォス?」
 扉の前に立ち尽くしていると、背中に声がかかった。
 耳慣れた声音だ。
……ロイ」
 振り返ると、予想に違わず幼馴染が立っていた。
「どうしたんだ? 訓練に来たのか?」
……フラフラしてたら、ここに来てた」
 正直に答えると、ロイはわずかに痛みを覚えた顔をして、小さくため息を落とした。
……相変わらず、ボサッとしてるんだな」
 幼馴染を貶すロイの声にも、いつもの勢いはない。
 続いて何かを言いかけて、結局言葉を探しあぐねたようすで口をつぐむ。
「お前、大丈夫なのか?」
 ふいと顔を背けて、ロイが言った。
「何が?」
「何がってその、色々だよ。……眠れてないんだろ」
 ロイの眼差しが床のおもてを舐めて、下から窺うようにフォスを見た。
 いつも端的に核心を突いてくるロイらしくもない、持って回った言い回しだった。
 顔色を窺ったロイの視線が、腕を伝い、自分の利き手を見た気がして、フォスは指先を丸めて拳の形に握り締める。
 考えすぎだ。わかっている。
 この手を庇うのは、他でもない、自分のなかに後ろめたさがあるからだ。
 ひとつの命を絶ち切ったということの重さを、持て余している。
「俺が、やったんだよな」
「やらなきゃこっちが殺されてた」
 自嘲気味につぶやくフォスの台詞を、待ち構えていたかのようにロイが遮った。
「わかってる、けど……
 握りしめた拳をゆっくりと持ち上げ、見下ろした。
 戦争とはそういうものだ。やらなければやられるだけで、感傷に浸っていても前には進めない。
 わかっては、いるけれど。
 理屈を唱える理性とは別のところで、何かが子どもじみた叫び声をあげている。
 大義名分や綺麗な言葉で飾ったところで、命を奪い合うだけだ。
 殺らなければ、殺られる。
「俺、全然わかってなかったんだ……
 3日前の出来事を思い出すたびに震える拳を見つめて、絞り出す。
「戦争がどんなものなのか、頭でわかってたはずなのに、この手で実感したら、途端に怖くなって……。強くなりたいって、皆を守りたいって、ずっと思ってたけど、同じなんだ……
「同じ?」
「ヨーン先輩が、あの隠密の死体に剣を振り下ろした音――。子どもの頃、俺が助けられたときに聞いた音と、一緒だった。漆黒兵が、大剣を振るったときの、風を切る音。力にいいも悪いもない。振るう先で変わるだけなんだ。守るために戦うってことは、守るために殺すって、ことだ……
 言葉が、あとからあとからこぼれてくる。
 理性の検閲が失われて、思いついた端から溢れ出す。
 数日、喚き散らしもせずに、平気なふりをしてきたけれど、もしかしたら実感していなかっただけなのかもしれない。
 わかりたくもなかったのか。
「戦ってる相手、バケモノでも何でもなかった。普通の人間で、俺たちと同じように、血流して……
 事切れる瞬間、あの少女は掠れた声で「かあさん」と呼んだ。
 風にすら掻き消されるぐらいの小さな声が、フォスの耳には届いてしまった。
「お前が剣を振るわなければ、もっと死んでた」
……?」
「あのとき、確かにお前は我を忘れて剣を振るったのかもしれない。でも僕は、あんなに毎日、散々偉そうなことを言っておきながら、まともに動くこともできなかった。確かにお前は、人を殺したのかもしれない。でも、仲間を守りもした」
 フォスの震える拳に、ロイが上から触れて、強く握ってきた。
 他人の体温が触れて初めて、フォスは自分の手が冷え切っていることに気づいた。
……うん」
「お前がひとりで全部背負う必要なんてない。僕の言葉なんて、今はただの気休めにしか聞こえないだろうけど、――忘れるなよ」
 フォスは、もう一度小さくうなずいた。
 すべてが楽になったわけではないが、後ろめたさは少しだけ、和らいだ気がした。
 けれど、すぐには割り切れない。己を鍛えることがあれほど楽しかったはずなのに。
 向かう先を、思い知った今では。
「みんなは、どうなんだろ。先輩たちとか、もっと偉い人たちとか、それから――
 アルベル、は。
 今、その名を舌に乗せることを、フォスは何故かためらった。
(団長みたいに、って……
 憧れていたはずだった。
 単騎で敵陣に飛び込み、あっという間に複数の敵兵を斬り伏せる。
 勇猛果敢で、無敵で。
――アリアスでも、片っ端から敵をやっつけたらしいぜ!
 この間までは、気楽に盛り上がっていられたのに。
――あいつはな、ただ腕っぷしが強えとか、そういう問題じゃねぇ。あいつは、ちょっとどうかしてるんだ。何も怖がってねぇんだよ。
 リゲルは、アルベルのことをそう評した。
 あのとき、自分はどう答えたのだったか。
――怖くないのって、ダメなことなのか?
 あっけらかんと、無邪気に、訊いた。不良医師は苦笑した。
 わからないなら、それでいい。
 あの苦い笑みのわけが、今なら少しだけ、わかる気がした。
(本当に、怖くないのかな。慣れれば、感じなくなるもんなのかな)
 今回の戦闘でも、アルベルは頭からつま先まで血まみれだったと言う。
 フォスは実際にその戦いぶりを見たわけではないが、現場に居合わせたという先輩兵の口ぶりは、どこか怯えを感じさせた。
 作法も手段も選ばない、多勢に囲まれても僅かな怯みすら見せない。
――どれだけ綺麗な言葉で飾ろうと、俺たちがこれからやるのは、
 武神とも悪魔とも評される男はあの日、目の前で言ったのだ。
「『ただの殺し合いだ』って……


「いい加減にしろよテメェ!」
 怒鳴り声が聞こえてきた。
 ふたりの前にある、訓練所に続く扉の向こう側からだった。
 耳を澄ませば、諍いをするくぐもった声が聞こえてくる。
 先程の怒声とは違い、話の内容までは聞き取れない。
 動いたのはロイの方だった。
「修練場内での私闘は禁止だ」
 自分に言い聞かせるように早口に言って、ロイは扉を開いた。


 訓練所には、三つの影があった。
 背筋を伸ばして立っているひとり、その胸ぐらを掴み、殴りかかろうとしているひとり。
 そしてそれを、後ろから羽交い絞めにして留めているひとり。
 どれも、見知った顔だった。
「お前、こんなときまで……!」
「やめろよ、ヴィオ!」
 ひとりはいきり立ち、ひとりは慌てていた。
 しかし、掴み掛られたほうの男は、場違いなほど静かに、相手を見つめ返していた。
「あっ、フォス、ロイ! 止めてくれよ!」
 同僚を後ろから抑え込んだ気の弱そうな青年が、フォスたちに気づいて声を上げる。
「レビ……、ヴィオ……
 同期のふたりを確かめ、フォスは残りのひとりを見た。
「グランツ……?」
 激昂したヴィオに胸ぐらを掴まれているのは、他でもない、グランツ・スマラクトだった。
 グランツは、怒りを露わにするヴィオを、じっと見つめていた。
 顔色ひとつ、変わっていない。
 怒声を浴びせられ、胸ぐらを掴まれ、今にも殴られようとしているのに、慌てたり怯えたり、憤る素振りもない。まるで――
(他人事のような、顔……
 そう、傍観者の顔だった。
 無感動で無機質な、諦観の眼差し。
――僕は、気味が悪いんだ。
 不意に、ロイの言葉を思い出した。
 グランツ・スマラクトは、何を考えているのかわからない。
 感情を揺らしたところを見たことがない、と。
 フォスは今の今まで、その意見には否定的だった。
 ロイの考えすぎだ。色眼鏡で見ているのだろう、と。
 けれど今、静かにヴィオを見返すグランツの眼差しを目の当たりにして、背筋が冷たくなるのを感じた。感じてしまった。
「何とか……っ、言えよ!」
 ヴィオがより一層グランツの胸ぐらを引き寄せ、声を荒らげた。
 その声には、怒りよりも戸惑いと怯えが多く混じっているように聞こえた。
「やめろって!」
「うるせぇ、離せ!」
 制止しようとするレビを、ヴィオは身をよじって引きはがした。
 払いのけられたレビは、訓練所の床に無様に尻もちをつく。
「何があった」
 腰をしたたかに地面に打ち付け、苦悶するレビに、ロイが駆け寄った。
……悪いのはヴィオなんだ」
 痛む腰をさすりながら、レビは口を開いた。
「スマラクトは、ここで訓練してただけ。僕とヴィオはただ、ここに居合わせただけなんだ。この間の戦いから、ヴィオも僕もあんまり眠れてなくて、ヴィオなんか、ずっとイライラしてて……。同期も、先輩も、民間人も死んでて、僕たちは、とてもじゃないけど武器を握れる気持ちじゃなくて、でもスマラクトは……
 顔色ひとつ変えずに黙々と鍛錬に励んでいた。
 それが、先の一戦のショックで動揺していたヴィオの神経を、見事に逆撫でしたということなのか。
「ヴィオは前からスマラクトのこと……
 レビの言葉は、途中でしぼんで消えた。
(あの噂……
 以前、ヴィオが囁いてきた噂を思い出した。
 ちょうど、この場所だった。
――あいつ、カルサアの貴族で、火事で家族亡くしてるって。
 人目をはばかる素振りで、こっそりと、耳打ちをしてきた言葉を。
「お前、何なんだよ……。いつもいつも、涼しい顔して! あんなふうに簡単に人が死んで……俺たちだってそうなってたかもしれない。なのに顔色ひとつ変えずに、何かの仕掛けみたいに剣振って……!」
「ヴィオ……
 そんなの、ただの八つ当たりだ。
 初めて肌で感じたいくさ場の恐ろしさや、同胞を亡くした悲しみを、わかりやすい敵を見つけて、発散しようとしているだけだ。
 けれど、もてあます気持ちも、今のフォスにはわかってしまった。
 胸の内側で、行き場をなくしたまま膨張する不安があり、今まで確固たるものだと信じていた足場さえ、崩れかけている。
(俺たちは本当は……
 希望の星を見上げたまま、とんでもない場所へ足を踏み入れていたんじゃないのか。
 グランツは静かに、言い募るヴィオを見つめ返す。
 その揺らがぬ瞳が、鏡のようにヴィオの憤りを跳ね返している。
……そ、そうか、そうだよな」
 ヴィオの口元が引きつった。笑おうとして、失敗している。
「今更、ひとりやふたり死んでも、お前には何にも変わらないってことなんだろ」
 ヴィオの声が、グランツの胸ぐらを掴む指先が、かすかに震えている。
 歪んだ笑みを浮かべる口元とは裏腹に、見開かれた双眸には、怯えの色があった。
「ヴィオ、やめろよ」
 嫌な予感がして、フォスは声をはさんだ。
 "それ"は、だめだ。
「もうお前、怖いものなんて何もないんだろ?」
「ヴィオ!」
「家族皆殺しにして! 平気な顔していられるんだからな!」
 時が、凍った。
 一気に吐き出したヴィオの表情が、一番青ざめて見えた。
 グランツは――
 何も言わず、身じろぎもせずに、立っている。
……何とか、言えよ」
 ヴィオの声はかすれていた。ひどく暴れたわけでもないのに、消耗しきっていた。
「お前、名家の生まれで、何が気に食わなかったんだよ。俺たちと違って、全部用意されてて、恵まれてて、なのに。全部ぶち壊して、何がしたいんだよ! 全部蚊帳の外って顔、して……。ちいさい妹まで、お前が殺したんだろ!?」
「ヴィオ、いい加減に……!」
「フォス」
 場違いなほどに落ち着いた声が、フォスを制止した。
 フォスは驚いて、声の主を見る。
 鏡面にも似た双眸が、フォスを見ていた。
「いいんだ、フォス」
「グランツ……。だって、さ」
 理不尽な八つ当たりじゃないか。
 不条理な中傷ではないのか?
 ヴィオはただ、楽になりたかっただけだ。
 不安や不満をぶちまけて、胸の内側を軽くしたかっただけだ。
 そのために、"使われた"。なのに。
 愕然とするフォスに、グランツはちいさく首を横に振った。
「全部俺のせいだ。弁解できることなんてない」
 グランツの声音は、淡々として波立たない。
 まるでフォスのほうが窘められ、慰められている気分だった。
「く、そっ……!」
「あっ、ヴィオ!」
 グランツの胸元から、強張る指をほどいて、ヴィオは踵を返した。
 振り返らずに、訓練所を飛び出していく。
 呆然と事の成り行きを見守っていたレビが、慌ててその背を追いかけた。
 荒々しく扉が閉められ、訓練所は再び、しじまに包まれた。
……本当なのか?」
 身を切るような、冷え冷えとした沈黙を破ったのは、ロイだった。
「本当に君が、家に火を放ったのか?」
 ほんのわずか、グランツの瞳が揺れた。
 その戸惑いを見逃さず、ロイはグランツの正面に立つ。
「あまり褒められたことじゃないけど、2年前の君の家の事件を少し調べた。事件当日は、僕たちの配属任命式があった日で、君も夕方まで王都にいたはずだ。王都から、君の家があるカルサアまでは、どんな手段を使っても数刻はかかる。出火したのは日暮れあたり。君が家に火をつけることなんて、到底無理だ」
……
「別に僕は、特別な手段を使って調べたわけじゃない。少し情報を集めるだけで、君が犯人じゃないことぐらい、すぐにわかる。釈明するのは決して困難じゃないはずだ。それなのに、どうして弁解しないんだ?」
 ロイの声が、じわりじわりと熱を帯びる。
 まっすぐ、グランツを射抜く眼差しにも、熱量があった。
 目を逸らすことを許さない、断罪する強さ。
「謂れのない中傷を受けて、貶められて、罵られて、どうして甘んじていられるんだ? どうして汚名を雪ごうとしないんだ!? やろうと思えばできるはずなのに、耐えることがさも当然みたいな顔をして! あんたは!」
 ロイの左手が、ひどく乱雑な手つきでグランツの胸元を掴む。
「あんたはどうして、"こんなところ"にいるんだ?」
 血を吐くように、ロイは言葉を絞り出した。
 掴んだ襟元を引き寄せ、呪うように、縋るように、グランツを見据えた。
……俺にはもう、何もない。ここでしか、生きてゆくことはできない」
 グランツの言葉は、凪のごとく平坦だった。
 感情の起伏も、焦りも憤りも悲しみも、何もなかった。
 一瞬、ロイの双眸が呆けたように見開かれる。次の瞬間、その瞳に苛烈な怒りが宿った。
「ふざけるな!」
 鈍い音が響き渡った。
 ロイは強く握った拳で、グランツの頬を殴り飛ばした。


【つづく】