吾妻
2021-10-31 17:49:07
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戦争と平和

はるか昔に運営していたSO3夢サイトの、更にオレ設定を元にした三次創作(未完)。自分で読むためにもってきました。ほぼオリキャラ若手漆黒兵から見た戦争。


5.正体/Mortals

「しっかし、いつにも増して辛気臭ぇな、人がいなくなると」
 ダスクが隣で嘆息した。
 フォスたちは数人の班に分けられ、カルサア市街の見回りを任されていた。
 担当区域の哨戒。それがフォスたちの任務だった。

 カルサアの住民には、昨晩から避難勧告が出されており、街に留まらざるを得ない人々も、固く戸口や窓を閉ざして息を殺している。
 鉱山がさびれてからと言うもの、以前の活気が失われ、元から色彩に乏しい町は、更に味気なさを増した。
 往来に人がいなければ、尚のこと。
 乾いた風が砂塵を巻き上げて、足元を通り抜けてゆく。
「でも、今朝になってから隠密が動いてるかもって通達するなんて、急すぎるよな。どうして知らせなかったんだ? だいぶ混乱したってのに」
「きっと、部隊長以上の人間には伝えられていたんじゃないかな。そのうえで、兵士の配分を考えた気がする」
「どうしてそう思う?」
 ダスクはロイと議論するのが好きだ。始まってしまうと、フォスの出る幕などなくなってしまう。
 黙って拝聴することにした。

「さっき、団長が現況を伝えたとき、確かに混乱が生じたけど、隊長格や古参の人たちは、比較的落ち着いて見えた。戸惑ってたのは、僕たちみたいに、比較的若い兵士ばかりだった。そのときに、情報伝達に段階が踏まれてると思った。差異があるって」
 論理立てて流れるように説明をするロイの横顔を眺め、フォスは舌を巻く。
 よくもそれほど周囲を見ているものだ。フォスはといえば、突然現れたアルベルに動揺し、更に彼の告げた内容に動転もし、周りを窺う余裕などまったくなかったのだ。
「でも、今回は前線への配属希望も受け付けてただろ。大体の奴らはカルサアに残るなんて臆病者か怠け者だって思ってた。そんなんで、うまく配分なんてできたのか?」
「前線へ配備されたのは、副団長とその派閥、それか特に功名心が強いか、言ってしまえば力押しな者たちが多い印象だった。つまり、”団長とは馬が合わない”人たちだ。特に最近は、”前線で団長が手柄を取りすぎて”不満が高まっているっていう噂も聞いた。今回の配備は風雷団長の発案らしい。ウォルター老は老獪なお方だと聞くし、今まで老が発案した策を考えれば、不満を持つ人間を前線に引っ張ることで欲を満たし、同時にカルサアに団長を残して実を取ることぐらいはするだろう。なにより、民家が近い場所で、トップを声高に罵る者たちがいれば、不安が広がる。――逆に聞くけど、だったらどうしてダスクは前線へ希望を出さなかった?」
「それは……、半分近くも残すなんて、妙だなって思ったし……それに俺たちぐらいになると、結局は上の指示になっちまうだろ」
「そういうことだよ」
……?」
「結局は、よほど声の大きな人間でもない限り、上の指示に従う」
……ああ、なるほど。上の意識を統一しておけば、結局はどうとでもなるってわけか」
 何となく理解できたような気がするが、実際は呑み込めていないのだろう。
 フォスにわかったのは、国の中身が決して一枚岩などではなく、敵国以外にも、折り合いをつけたり、戦わねばならない相手がいるのだ、ということだった。
 建前を駆使し、本音を大義にすり替えて、折衝しなければならない。
 物事は単純ではなく、見えない場所で蠢いている。
 同じ国のなかでさえ。
「そんで、俺たちは見回りで、あとの半分は小さな坑道の出口を潰すってか。今更潰すぐらいなら、使わねぇってわかった時に塞いでおけばよかったのに」
 現在、カルサア駐留組はふたつに分けられている。
 片方はフォスたちのように、市街の哨戒・防衛任務。もう片方は、廃坑道の警戒を行い、同時に小さな出口を塞ぎにかかっていた。
「使える可能性があったから、潰さなかったんだよ」
「使うって、何に?」
「地下に巡っている坑道は、ベクレルの方まで伸びている。トロッコモンスターなんかが配備されている大規模なものは、国営事業として作られたから、大体の見取り図はあるけど、それ以外はピンキリで、たぶん誰も正確に把握していないと思う。確かにそれを使って攻め込まれたら、懐に踏み込まれるわけだから危険なんだけど、逆にこちらがベクレルまで出られれば、アリアスの側面を突くこともできる」
……あー、なるほど。でも、待てよ――
 反論しかけたダスクの言葉を、ロイは片手で制した。
「わかってる。現実的じゃない。僕たちは坑道のような狭かったり低かったりする場所を行軍するのはほぼ不可能だ。それでも潰さずにとっておいたのは、”万が一何かのために使えるかも”っていうもったいない精神かな。もちろん、潰すのにも予算がかかるし、その問題もあるんだろうけど」
「もったいない精神ねぇ……。でも、それを逆手に取られて攻められてちゃ、世話ねぇよな……
「本当はきっと、もっと短期で終わらせるつもりだったんだ。勢いで押し切ってしまいたかったんだと思う。長期戦を持ちこたえるだけの”体力”は、正直、今のアーリグリフにはない。冬がくれば、更に不利になる。だけど……
「思った以上に長引いてる、ってことか」
「シーハーツが立て直すのが、思ったよりも早かったってことだろうな。アぺリスの聖女が治める慈悲深い宗教国家とは言っても、軍部はしっかりしているし、特にクリムゾンブレイド旗下の隠密部隊は相当の腕みたいだ」
「クリムゾンブレイドって、女王の懐刀……だよな?」
 おずおずと、フォスが横合いから口をはさんだ。
 ロイとダスクは思わず足を止め、先程まで黙り込んでいたフォスを振り返る。
「な、何だよ……
 ふたりが瞠目して見つめてくるので、フォスは居心地が悪くなった。
「いやぁ、その……何つーかさ」
「お前が”懐刀”なんていう言葉を知っていたのは意外だったな」
 どちらも本格的に感心しているようなので、フォスは不機嫌になった。
……お前らなぁ。俺だってそのぐらい……!」
「まぁまぁ。フォスくんはアレだろ。隠密部隊に興味があるんだろ? どれくらい強いのか、とかさ!」
……う」
「図星を指されると黙る癖、どうにかしたほうがいいと思うよ」
「ロイはうるさい……
「子どもみたいに拗ねて睨まれても怖くも何ともないな」
「やめとけやめとけ、バケモノの集まりだぞ、隠密機動部隊なんて」
 ロイでもダスクでもない、軽妙な声が滑り込んできた。
 大通りの向こう側から歩み寄ってくる人影が、ふたつ。
 兜をすっぽりとかぶっているので、顔は見えない。が、声音と体格でおおよそ身元は知れた。
 軽妙な声を飛ばしてきた方は、比較的標準体型のフォスよりも、頭半分ほど小柄だった。
「お、ヨーン先輩だ。お疲れ様であります~」
 相手が兜を脱ぐ前から、ダスクが形ばかりの敬礼をする。
「ダスクてめぇ、背で誰か判断すんじゃねぇよ! ぶっ飛ばすぞコラ!」
 言葉が終わるよりも早く、小柄なヨーンはダスクの腿あたりを蹴る。
「ったく、最近のガキは礼儀がなってねぇっつーか!」
 兜を脱ぎ、ヨーンは柄も悪く吐き捨てた。しかし、兜の下から現れたその顔は、チンピラのような態度とは裏腹に、秀麗なものだった。
 金の髪に碧眼。更に童顔という、お貴族様も真っ青な容姿を持つヨーンは、薄く整った唇から――
「特にダスク、おめぇは! そんなにヘラヘラしてるくせに! 可愛い彼女がいると来てやがる!」
 罵詈雑言を後輩に浴びせつつ、向う脛を蹴る。
 がしゃがしゃと鎧がうるさく鳴った。
「イテ! け、蹴らないでくださいってば! 痛い! だってそのサイズのフォルムは、ヨーン先輩しか……!」
……ぶっ殺す! 跪いて詫びろ! もしくは誰か紹介しろ!」
「ヨーン先輩、ダスクがうらやましいだけじゃ……
 途中まで言って、フォスはすぐに後悔した。
 光の速さで、ヨーンの殺気じみた眼差しが、自分を標的としてとらえたからである。
「ンだと、フォス……。テメェ、簀巻きにして修練場の屋上から吊るすぞ!」
……後輩に本気で絡みに行くなよ、お前はまったく」
 ヨーンの隣に立っていたもうひとりの漆黒兵が、嘆息しながら兜を脱ぐ。
「あ、センパイ!」
 共に物資配達に赴いた男だった。兜の下から現れた、普段通りの穏やかな表情に、自然と肩の力が抜けた。
「ルーフェン、お前が甘やかすから、ガキどもが増長してしょうがねぇだろうが! フォス! テメェも、俺が散々稽古つけてやったの忘れやがって!」
「忘れてないってば! ヨーン先輩、どうしてそんなに機嫌悪いんだよ」
「入れ込んでいた酒場の女の子に振られたんだ」
「ルーフェン、ヘラヘラ他人のプライベート話してんじゃねぇよ! 第一それは、アイツがだな! ……いや、それはもういい、過去の話だ。俺は女神に出会った……!」
 ヨーンは、やけに芝居がかった仕草で、大通りの向かい側を仰いだ。
……女神?」
 フォスも促されるように、向かいに建つ建物を見上げる。
 堅牢な門構えの、重厚な屋敷。任務や休暇などでカルサアを訪れることは多いが、ぴしりと閉じられたその門が開かれているのを、フォスは見たことがない。
 常に背筋の伸びた門番が、屋敷へ続く道のりを守っている。
 カルサア領主にして、騎馬兵団風雷の団長を務めるウォルター伯爵の屋敷だ。
 風雷の駐屯地が併設されており、本作戦の本営が設営されている。
 しかし、本作戦の責任者であるヴォックス公爵と、屋敷の主であるウォルター伯爵は、共にカルサア丘陵へ出向いているはずで、カルサアに留まっているアルベルも、陣営で大人しくしているような人物ではない。
 今、あそこにいるのは――
「本営は今、実質的に医療チームの本部みたいになっているんじゃないんですか? 統括のウリエル先生も今回は出向いているみたいですし」
「そうだよ、カライス! そうなんだ!」
「ウリエル先生って、リゲル先生の師匠?」
「そうだ。神の手と呼ばれるほどの名医だ。だが、今は名医も不良医師もどうでもいい」
 ヨーンの眼差しは真剣だった。ある意味、恐ろしいほど。
「さっき東門のあたりを巡回してたらな、本営への伝令を頼まれたんだ。そこで俺は……!」
「あっ、ヨーン先輩、まさか!」
 過敏に反応したのは、ダスクだった。
「まさか噂の白衣の天使に! さすがヨーン先輩、可愛い子のチェックだけは抜かりないっすね!」
「おおダスク、さすがこういう話ばっかりは耳が早いな!」
 お互い褒めているのか貶しているのかわからないやり取りをしながらも、ふたりは意気投合してしまった。
 どうやら、衛生部の医療チーム統括ウリエル・マースチェルの部下に、若く美しい女性がいるらしい。
「ズルイっすよ、ヨーン先輩ばっかり! 俺だって会いたかった!」
「うるせぇ、お前にはディナちゃんがいるんだろうが! カノジョ持ちは欲張らずに大人しくしてろ!」
「確かに俺にはディナがいますけど! 美しいものを見ると心が豊かになったりするんですよ! ゲイジュツ的見地からの興味です!」
「何真面目な顔してふざけたこと言ってんだ、ディナちゃんに告げ口するぞ!」
 まったく、ダスクとヨーンは仲が良いのか悪いのかわからない。話がどんどん本筋から逸れてゆく。
 色恋沙汰はよくわからない。興味がないわけではないが、周囲の話を聞いていると、自分にはいまいち難しすぎる気がする。
 ただ想い想われるばかりでなく、多種多様なイベントをこなし、時には贈り物を用いて相手の気持ちを籠絡する。高度な情報・心理戦。ある意味、政治的駆け引きよりも難度が高い。
「噂通り、ハニーブラウンの髪に大きな目でな……。もう、何つーか、とにかく、とにかくもう……
「説明になってないですって! もっとうまく状況説明をですね!」
 白熱した議論は続いている。
 フォスはもう一度、ウォルターの屋敷を眺めた。
(神の手、か……
 名前は何度も聞いたことがある。しかし、通りを一本隔てた屋敷の中にいるなんて、実感が湧かなかった。
 今朝壇上で見たヴォックス公爵もそうだ。あんなに間近ですれ違ったアルベルでさえ。
 何度も噂も聞いたし、話題にも上ったのに、誰もが雲の上の人物で、実在の人物だとは思えなかった。
(俺、びっくりしてるのかな)
 半ば想像上の人物だった人々と、実際に出会う段階になってから。
 もちろん親しく会話を交わすわけではないけれど。
(憧れ、とかさ)
 口から口へ、伝えられてきた噂を膨らませて、憧憬を育てた。
 口さがない噂もあったし、おそらく必要以上に美化された話もあっただろう。
 しかし、実際己の目で見た中枢の人々は――特に、漆黒団長アルベル・ノックスは、フォスが育てた偶像とは、うまく重ならなかった。
 生きて、そこに立っていた。
 当然のことなのに、フォスは何故か落ち着かなかった。
 憧れて、一目会いたいと思っていたのに。
 圧倒的な威圧感と存在感は、常人のそれではなかったけれど、視線で人も殺さないし、山のような大男でもない。
(相手のこと、全然知らないのに、知った気になってたんだ)
 いつの間にか、憧憬がふくれあがって、先走っていた。
 想像上の生き物であって欲しかったんだろうか。伝説の、幻の獣のような。
……恥ずかしいな、俺)
 ひとつため息をつくと、肩の力が抜けた。
「あ」
 そういえば、ウォルター老とアルベルは親しくしていたのだったか。
 あの団長が誰かと親しくするだなんて想像もできないけれど、だとすればこの屋敷にも出入りをしているのか。
 ふと、そんなことを考えて、もう一度伯爵の屋敷を見つめ、視界の端に見覚えのある人影を発見した。
 通りを隔てた向こう側、風雷の駐屯地の入口に、ルムを伴った風雷兵がひとり。
 その傍らに――
……グランツ?」
 威風堂々としたルムに跨る風雷兵を見上げて言葉を交わしているのは、間違いなくグランツ・スマラクトだった。
 一体、何をしているのだろう? そして、心なしかその横顔が……
「フォス」
 間近から呼びかけられて、フォスは声の方へ顔を向けた。
「センパイ……
 共に輸送任務を務めたルーフェンが立っていた。
 その向こう側では、ダスクとヨーンがまだ真剣に討論を続けている。
……まだやってんの」
「ヨーンの女好きは筋金入りだからな、しょうがない」
 肩をすくめ、ルーフェンが苦笑する。つられて、フォスも笑った。
「でも、よかった」
「え?」
「少しは元気が出たみたいだな。――初任務のあとから」
……あ」
 ルーフェンの眼差しに労わりを感じて、フォスは思わず目を伏せた。
 前線に近い村での出来事を思い出した。
「あのときは……みっともないトコ見せたっていうか……
「いや、お前らみたいな反応が普通だよ。お前もカライスも、まともな神経してんだ。だから、心配してた。少しだけな」
「あの輸送任務にさ、意味があったのかって、ちょっと思ってたんだ」
「意味?」
「えっと、何ていうかさ。俺みたいなのに、現状を突き付けるためー……とかさ。ツウカギレイとか、いうやつ? ……でも、そんなこと、ない……んだよね?」
 ルーフェンは、フォスの言葉にわずかばかり笑って、すぐに小さく肩をすくめた。
「残念ながら、そんな至れり尽くせりな心遣いはないな。ただのありふれた輸送任務で、あの村みたいな場所も、残念ながらありふれてる。そんなもんなんだ」
「そっか……だよな」
 特別に、選ばれて、見せられたものであったなら、まだ少しは気楽だった。
 あの村が特別に疲弊していて、国の困窮の縮図であったなら。新米兵の甘えを拭い去って、戦いへの覚悟を試すためのわかりやすい、見本であったのならば。そんなことを、少しだけ考えていた。
 けれど、どこかでわかってもいた。
 そんな生易しいものではないことも。
 楽になりたかっただけだ。現実から、目を背けたかった。
「そんなに辛気臭い面すんなよ。こんな戦争、とっとと終わらせてやろうぜ。それで皆で美味い酒でも――……

 ひやりと、冷たい風が吹いた、気がした。
 背を逆さに撫で上げ、肌を粟立たせる、不穏な気配だった。
 目の前でルーフェンの笑顔が静止する。
 次の瞬間、パッと、赤い色が散った。ルーフェンの首からだった。
 飛沫がフォスの頬にかかった。生暖かいそれが、顎に伝って落ちてゆく。
 鉄錆の臭いがした。
「セン……パイ……?」
「フォス、下がれ!」
 後ろから強く腕を引かれた。脚が棒のようだった。もつれる。
 引かれるまま、尻もちをついた。
 ルーフェンが目を開いたまま、地面に崩れ落ちるのを、ぼんやりと見た。
 まばたきも、できなかった。
 崩れ落ちるルーフェンの体の向こう側に、黒い影。小動物めいた機敏さで、後方に跳んで、間合いを取る。
(仮面…………
 黒い影は、仮面をつけていた。白い無機質なそれが、顔を半ば覆っている。
 わずかに反り返った二刀の短剣からは、赤黒いものが滴っている。
 何の色だろう。あの滴りは、一体何の――……
「バカ野郎! とっとと立つんだよ!」
 怒声に、びくんと体が震えた。
 目の前に、大剣を構えた人影が割って入った。小柄な。
「ヨーン、先、輩……
 身を低く構えるヨーンの足の間から、倒れ伏したルーフェンが見える。
 じわじわと、地面に赤い池が広がり、ルーフェンをひたす。頬や口元が汚れても、彼は身じろぎひとつしなかった。
 それは、どういうこと、だ? 早く、助け起こさなければ。
「"お前も死にてぇのか"、フォス! 敵襲だ!」
 黒い影が、跳んだ。バネのように跳躍して、短剣をヨーンに振り下ろす。
 ヨーンは大剣を横に構え、一撃を受け止めた。そのまま剣を横に払う。
「フォス! いいから立て!」
「あ、うん……あれ……?」
 引きつったロイの声が、どこからか聞こえる。
 返事はしたものの、うまく体が動かなかった。
 周囲が急に慌ただしくなる。足音が入り乱れ、悲鳴が上がり、鎧と剣の音が聞こえる。
 それもどこか、遠くの出来事のようだった。
(立たないと。どうするんだっけ?)
 どうしよう、体の動かし方を忘れてしまった?
「フォス」
 名を呼ばれ、腕を掴まれ、強い力で引き上げられた。
 両の足で立つと眩暈がした。揺れているのは地面なのか自分なのか、わからなかった。
 次の瞬間、頬に鈍い痛みを感じた。じんわりと皮膚が熱くなる。
 痛みが徐々に沁みて、初めて頬を張られたことに気づいた。
「しっかりするんだ」
「グランツ……?」
 グランツが立っていた。
 いつも通り、落ち着き払って、そこにいた。
「隠密の敵襲だ。しっかりしろ」
「うわあああああ!」
 すぐ傍で悲鳴があがり、フォスの足元に何かが転がってきた。
 質量を持ったそれが、鎧の音を響かせて、どさりとフォスのすぐ傍に横たわる。
 漆黒兵の見開かれた瞳孔と、目が合った。
……う」
 咽喉が、勝手に動いた。
 掠れた声を絞り出した。
 "何か"が、腹の底からせりあがってくる。
 苛烈で、熱く、抗いがたい――
「うおあァああァ――!」
 吼えた。咆哮していた。
 足元に転がった兵士が落とした剣を、フォスは気づいたら握っていた。
 振り返り様、間近に迫った仮面の隠密に、勢い任せの一閃をぶつける。
 剣が軽い。重みを感じない。
 世界のすべてに、膜がかかっている。
 隠密はフォスの一撃を身を低くしてかわし、一瞬でフォスの懐へ潜り込んできた。
 仮面の奥の瞳と、目が合った。
 硝子のようだった。
 そこには、何の感情も浮かんでいなかった。
 憎しみも、高揚も、狂気も、愉楽も。
 ただ、静かで純然たる殺意に満ち満ちていた。
(俺は今、何と――

 何と戦っているんだ?

「こンの、バケモノがァ……っ!」
 フォスに迫る隠密を、横からヨーンが跳ね飛ばす。
 ヨーンはその勢いのまま、前のめりに地面に倒れた。
「クソッ……!」
 端正な童顔が、赤い色に濡れていた。
 気づけばあたりは阿鼻叫喚だった。
 通りを挟んだ向こう側からも悲鳴や怒号が聞こえる。
 攻められているのは、ここだけではないのだろうか?
 しかし、今フォスたちの目の前にいるのは、たった一人の敵だ。
 小柄な隠密一人に、あっけなくここまで崩されて。
(バケモノ)
 ああそうだ、あの村のばあさんも言っていた。
 シーハーツの奴らはバケモノなのだと。邪教をあおいで、人ならぬ業を使う。
 ルーフェンが殺されて、ヨーンも他の仲間たちも手酷い傷を負わされて。

――だから俺たちは、一刻も早く、この戦争を終わらせて――……

「センパイ……
 隠密が再び、低く構える。フォスは扱い慣れた大剣の柄を強く握った。
 その瞬間、すべての音が遠くなった。
 剣も鎧も、自分の体の重みさえも、消えてなくなった。
(何だ、これ)
 再び双剣を構える隠密に向かって、フォスは地面を蹴って駆け出している。
 けれど、地面を踏む感覚はなかった。
 本当に、自分の体なのか? 切り離されて、制御ができない。
 誰かの咆哮を聞いた。もしかしたら、自分の声だったのかもしれない。

 ――ドッ、と鈍い衝撃が全身に伝わった。
 何が起こったのか、フォスにはわからなかった。
(体が、重い……
 感覚が戻ってきた。
 安堵するよりも先に、違和感を覚えた。
 手が、頬が、あたたかかった。ぬるま湯に浸したように。
 液体が頬をや手を伝って、落ちてゆくのがわかる。
 フォスは恐る恐る、自分の手を見下ろした。
 訓練でも散々握った大剣を、しっかりと握ったままだった。
 そしてその剣の刃は、何かを刺し貫いている。
 "何か"から滴った滴が、刃を伝ってフォスの手を濡らしている。
 濡れ羽色の手甲から滴り落ちる色は、鮮やかな朱色だった。
……さ、」
 掠れた声が間近で聞こえ、フォスはとうとう剣を取り落した。
 腹を貫かれた隠密の体が、そのまま地面に転がった。
 じわじわと、ルーフェンを浸したものと同じ赤い池が、小柄な体の下に広がった。
 その顔から、仮面が外れて落ちた。
……ッ」
 隠密の首が傾いて、光を失った瞳がフォスをとらえる。
「う……うわぁあああァあァ――ッ!」

 年端も行かぬ"少女"の顔を見て、とうとうフォスは絶叫した。


【つづく】