吾妻
2021-10-31 17:49:07
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戦争と平和

はるか昔に運営していたSO3夢サイトの、更にオレ設定を元にした三次創作(未完)。自分で読むためにもってきました。ほぼオリキャラ若手漆黒兵から見た戦争。


12.生き残る価値/Awake


 剣を振る。
 まっすぐ振り上げると同時に右足を引き、左足に体重を乗せて、一気に振り下ろす。
 ブン、と厚い刀身が風を切る。
 長大な剣の先が、地面に触れぬよう、両腕に力を込める。
 そしてもう一度、繰り返す。
 剣を振るうと、頭の芯がすっきりする。うだうだと自室で寝転がっているよりも、よほど健康的だ。
 余計な悩みを、暗い方へと向かう思考を、引きずり戻したかった。

 ベクレルで、歪のアルベルと対峙してから、今日で二日。
 昨日はベッドから一歩も出ることができなかった。全身をひたす脱力感に抗うこともできず、指の先を動かすことすら億劫で、ただ、転がっていた。
 悲しいのでもなければ、怒りに震えていたわけでもない。無――だった。
 このまま、起きあがれなくなったらどうしようかと、恐ろしくなるほどの。
 落ち込むことがあっても、一晩眠ればけろりと忘れる。それが、特技だったはずだ。単細胞だと揶揄されることもあるが、自分では便利な特性だと思っていた。
 だから自分は、心を病むことなどないだろうと、奇妙な自信を持っていたのに。昨日ばかりは、わからなくなった。抗いがたい虚無が、自分の心にも憑りつくことを、初めて知った。
 今朝は無理矢理に、ベッドから体を引きはがした。ここで起き上がれなかったら、このまま根を張ってしまう、そんな気がした。
 とはいえ、修練場は先の一戦から慌ただしく、最低限の警備・哨戒以外は待機を命じられ、おちおちと出歩くこともできない。ただ座っていても気持ちが滅入るばかりなので、フォスは剣を握って、訓練所に来た。
 準備運動をしてから、基本の型を繰り返す。構え、振るい、また構える。
 額にうっすらと汗が滲み、呼吸が浅くなる。
 規則正しい呼吸を心掛けながら、それでもフォスは、必死に考えていた。
 何故、剣を振るうのか。この重みを振り上げるのは、なんのためなのか。

 正義のためか? ――正義は、立場によってかたちを変える。
 英雄になるためなのか? ――虐殺者の異名なら、欲しいとは思わない。
 仲間のため? ――今まで自分が救えた命など、あっただろうか?
 誰かを守れたことなど。

――個人の理想や大義なんてもんは、ここじゃ価値も持ちゃしねぇ。

 アルベルの言葉を、何度も何度も反芻する。
 彼の言うことが正しいのだろうか? しかし、今まで己を生かしてきた価値観とかけ離れすぎて、厳しすぎて、うまく飲み下せない。
 この手に、剣の重みを抱えて生きるためには、鬼神となる覚悟が要るのだろうか。優しさは甘えで、仲間意識は余計な荷物で――

(俺に……できんのかな)
 振り下ろすこの切っ先に、純粋な殺意だけを宿すことが。
 あの、戦鬼のように。
(俺は、なんのために、戦いたいんだ……?)
 高く掲げた刃が空を切る音は、幼い頃聞いたものと同じだ。
 あのとき、どうして自分は、この猛々しさに魅入られたのだろう?

 幼い自分を救い出してくれた兵士の顔を、フォスはもう思い出せない。
 けれど、逆光のなか、見上げた男の口元に浮かんだ、頼もしい笑み。子どもの頭をわしわしと撫でてくる、力強い武骨なてのひら。

――よし、ボウズ。生きて帰ろうぜ。

(あ、そうか。……そう……だったんだ)


            *


――なんの意味も、価値もない!

 昼下がりの陽射しが差しこむ窓の下に椅子を置いて座り、じっと目を閉じると、ひたひたと忍び寄ってくる声。今となってはもう懐かしい、父の。
『このままでは家はおしまいだ……。先祖代々続いてきたスマラクト家の権威も、最早地に落ちてしまった!』
『あなた……
 母はいつも、酒を飲んでは管を巻く父を必死になだめようとした。
 しかしそれは、父の苦痛を取り除こうとしているよりも、周りの耳ばかり気にしているように見えた。たとえばそう、隣の部屋で眠っている、子どもたちの耳を。
 だが、母が必死になだめすかそうとすればするほど、父は激昂した。グラスが割れる音、怒号、母の悲鳴。
『周りのやつらがどんな目で俺を見ているのか知っているのか! お前は家に閉じこもっていればそれで済むからいい! だが、俺は違う!』
 父は、決して母に怒鳴り散らしたかったわけではない。彼女にはきっと、体面を気にするよりも、一緒に泣いて欲しかったのではないだろうか。
 彼が怒鳴りつけ、投げ飛ばし、呪詛を吐きたかったのは、他の誰でもない。
(本当は俺を、罵りたかったのでしょう、父さん)
 しかし、彼は決して冷酷無比な人でなしなどではなく、己の不幸を呪うだけの、ただの人だった。生まれ持った貴族の矜持や体面が邪魔をして、息子に手をあげることなどできなかった。
 あの頃、取り繕ってばかりいた。父も、母も、自分自身も。
 とっくの昔に壊れていたものを、継ぎ接ぎして誤魔化そうと必死になって、その挙句が――
『ルムに乗れぬなら、生きている価値などない!』


『兄さま、アーリグリフへゆくのでしょう?』
 一般兵への配属辞令を受け取るためにカルサアを出る前夜、こっそりとアンネローゼが部屋を訪ねてきた。
 こっそりと抜け出してきたに違いない。しきりに周囲を気にし、顔を近づけ、声を潜めた。しかし、叱責を恐れながらも、心のどこかで隠密行動を楽しんでいるのが、こちらにも伝わってきた。
『これ、アンネのたからものなの。きっと兄さまを守ってくれると思うわ』
 首に掛けた金の鎖をつかみ、少女には大きめなロケットを、服の内側から引っ張り出した。アンネローゼが生まれた際に、誕生を祝い、健康を願って贈られたものだ。ロケットの中には、生まれたばかりの娘を抱いた母の写真がおさめられている。
 あのとき、差し出された小さな手を包み、そのままそっと押し戻した方がよかったのか。そんな、くだらないことを時折考える。
 まじないや護符の効力など、信じていない。それでも今、この金の鎖ばかり、自分の手に遺されるのならば、アンネの手にあったほうが、よかったのではないか。
 終わったことばかり、掘り返して、後悔をする。

 家族が、家が崩壊したのは、様々な理由がある。
 己の不甲斐なさ、不幸な事故。原因も責も、あちこちに散らばっている。一番に咎められるべきは、自分なのだとしても。
 しかし彼女には。己の宝物を誇らしげに掲げて笑っていた、小さなアンネローゼには、なにひとつ、罪などなかった。
 炎に巻かれ、どれほど苦しかったことだろう。

 どうして、彼女が喪われて、自分は――


「なんで、生きてんだ、……俺」
 声が聞こえて、グランツは目蓋をひらく。
 決して眠っていたわけではないのに、夢から覚めた心地だった。
 すぐ傍にある、ぱりっと清潔な寝具で整えられたベッドの中で、今まで寝息を立てていた男が、ゆっくりと左腕を持ち上げ、顔と天井の間にかざした。
「具合は。何か飲みますか」
 椅子を立ち、ベッドに歩み寄った。
 緩慢な動きで、首を傾け、怪我人はグランツを見た。
「どこだ、ここ……
 今さっきまで眠っていたというのに、グランツを見る男の目はひどく落ち窪んで充血している。比較的小柄な体に、無駄なほど満ち満ちていた生命力が、ここ数日でごっそりと抜け落ちてしまっていた。
「あぁ……医務室、か。道理で、見覚えあると思った……
 ヨーンの口元が引きつる。笑おうとして、うまく形にならずに、青白い顔から表情が消えた。
「どうした、スマラクト。おまえ、見張りか? 見張ってなくたって、しばらく、動けねぇっつの……。くっそ、あのヤブ医者、好き放題ぐるぐる巻きにしやがって、これじゃマスもかけねぇ、だろうが……
 布団の外に出された右腕を見下ろして、ヨーンはダラダラと悪態をついた。声に普段の張りがなく、呂律もうまく回っていない。痛めた右腕は、これ以上ヨーンが無理をしないように、添え木と包帯とでしっかりと固定されていた。
(こんなふうになるなんて)
 思ってもみなかった。
 カルサアでの一戦で、彼は右腕を痛めた。しかし、それは致命的なダメージではなく、自然治癒に任せても元に戻ると、素行に難はあるが、腕は確かな医師は言う。
 彼が参っているのは、そんな理由ではない。
 その戦いで彼は、友を失った。
 もちろん、大切なものを奪われたのは、彼ばかりではない。この戦で流れた血は、決して少なくはないのだ。漆黒の鎧と大剣を持ち、戦場に立つものは皆、少なからず仲間を失っている。昨日まで笑い合い、ふざけ合っていた者たちの、物言わぬ恐怖と苦痛に歪んだ死に顔を、いくつも見てきた。
 精神的に追い込まれている者は多い。むしろ、平静でいるほうがどうかしているのだろう。
 それを踏まえた上でも、グランツは意外だったのだ。ヨーンがこれほどまでに、追い詰められるということが。
 自由気ままで、傲岸不遜。精神的にもタフで、戦時にあっても、簡単には折れぬ頼もしさがあった。
 我を忘れ、自暴自棄になるようには、とても――
「お前みたいなひとでなしが、なに一丁前に凹んでんだって、思ってんだろ……
 固定された右腕をさすり、ヨーンは掠れた声を絞り出した。
「そんなことは」
「俺さァ、もともと、出来損ないなんだよ。色々、欠けてんだ。我慢も足りねぇし、他人の気持ちとか、センサイな機微とか? わかんねぇし。一度キレたら、理性とかぶっ飛ぶし……なんつーか、ケモノと一緒、なんだよな。人間のなかで、折り合いつけて生きてくの、得意じゃねぇから。たぶん、色んなやつに、嫌な思いさせてる……んじゃねぇのかな」
 グランツは、黙って聞いていた。相槌を求められているわけでも、聞いてほしいわけでもなさそうだった。吐き出したいだけのように思えた。
「ずっと……誰にも理解されずに、誰かを理解することもできずに、ふらっと生きて、くだらねぇ死に方するんだろうなって、思ってたんだ。やりたいことも……なりたいモンもなくて、ただ毎日ダラダラ生きて、流れ着いた場所で、野垂れ死にするんだろうな、って……。だから俺さ、頭がよくて、自分の人生とか、周りのこととか、考えてる奴が好きだった。俺には、逆立ちしても真似できなくて、自分から、苦労のなかに飛び込んでって、アホじゃねぇかな、って……思ったりもしたけど、そういう奴ら見てんのは、楽しかったんだ。なのに」
 うまく動かない右手の包帯のうえに、ヨーンは左手の爪を立てる。肌を破り、血を流すほど、強く。
「なのに……! そんな奴らばっかり、先に、死ぬじゃねぇか……! どうなってんだ! こんな欠陥品ばっかり、生き残って、おかしいだろ……! なんの価値があるんだよ! 何で生きてんだ! 俺は……っ、あいつの弟に……、なんて、言えば……

――ルムに乗れなければ、生きている価値もない。

 父の声の、残響。
 確かにそうだ。価値ある命ばかり、先に消える。
 両親や妹の骸を踏み越えてまで、何故、自分は生きているのだろうか?
 何故――

「グランツ、飯の時間だから、俺が代わるよ」
 堂々巡りをする思考を妨げるタイミングで、前触れもなしに扉が開いた。
「フォス」
 水でも浴びてきたのか、いつも勢いよく跳ねている髪はしっとりと濡れている。その様子に少しだけグランツが目を瞠ると、フォスはかすかに苦笑した。
……
 あきらかな変化を、グランツは感じ取った。何かが、違う。
 ここ数日、彼は混迷の渦の只中にいた。
 彼は優しすぎるのだ。そういう奴から先に折れる、と常勤医は言う。確かにそうだろうと、グランツも思う。いのちのやり取りをする場所に、人情に篤い人間を放り込むのは、酷な話に違いない。
 自軍の正義と、敵軍の悪とを盲信できる人間、はたまた、戦い自体に意味を見いだせる人間以外には、過酷な場所なのだろう。
 自らの手で敵兵を屠ってから、フォスは塞ぎこむことが多くなった。
 快活で若い犬のような勢いは、なりを潜めた。が、うつむきがちになったのは、何もフォスに限った話でもなかった。
 カルサアでの一戦、新配属の兵士が大量に投入されたその戦いは、決して少なくない犠牲を産んだ。友や上官を失い、自らの手を血で汚した若者たちが、混乱し傷つくのも無理からぬこと。

――このままあいつが、変わってしまったら。

 憂う彼の幼馴染を、慰めることもできなかった。
 今まで自分を育て、支えてきた価値観が折れたら、簡単に元に戻れるわけではない。それを、グランツは誰よりも、よく知っていたからだ。
 けれど――

「フォス……?」
 ベッドのなかから、うめきが漏れた。
 左腕を目の上に乗せたままだった怪我人が、ぎこちなく、体を起こす。
「あ、ヨーン先輩。目、覚めたんだ。具合は――
……てめぇっ……!」
 人懐こくベッドの横に歩み寄ったフォスの胸ぐらを、ヨーンが掴みあげた。
「フォス、てめぇ、よくも……!」
「なっ……!?」
 掴みかかるヨーンの勢いを殺せずに、フォスはそのまま仰向けに、並ぶ寝台の間の床に、背中から倒れ込んだ。
 そのままベッドから転がり落ち、後輩に馬乗りになったヨーンが、自由の効く左手で、フォスの胸ぐらを揺さぶった。
「よくも邪魔しやがったな……
 腹の底から絞り出す、憎しみを煮詰めた声。
 ふたりの傍に回り込んだグランツは、呆然と先輩兵を見上げるフォスと、可愛がっていた後輩に、殺意のこもった敵意を向けるヨーンの姿を見た。
「てめぇが止めなければ俺は……っ!」
「斬られてただろ!?」
 引き倒され、襟首を掴まれたフォスが、語調を強め、ヨーンの言葉を遮った。
「あのままだったら、団長に殺されてただろ!?」
 詳しい事情はわからない。
 けれど、先の一戦で、ヨーンは上官に――己の所属する部隊の軍団長であるアルベル・ノックスに、剣を向けたのだという。
 本来ならば、厳罰はまぬかれない。フォスの言うとおり、その場で手討ちにされたとしても、仕方のないことだ。
 しかしアルベルは、右手を痛め、最早まともに剣を握れなくなっていたヨーンに、興味を示さなかったのだという。
 ヨーンはそれでも、執拗にアルベルに斬りかかろうとした。フォスの言うとおり、そのまま突っかかり続ければ、いくら他者に興味を示さぬ団長とはいえ、降りかかる火の粉を払おうとしただろう。
 フォスが止めなければ、今頃ヨーンは、物言わぬ骸になっていたはずだ。
「"だから"?」
 薄く、ヨーンが口の端を引いて笑った。
「え」
 まばたきを忘れた、充血した双眸に見下ろされて、フォスが戸惑いに顔をゆがめる。
「それで、いいじゃねぇか。あの野郎に一発でも食らわせてやれたら! 元々俺に、価値なんてもんはねぇんだ! どうなったってよかった! 死んだって……!」
 自分なんて、どうなろうと構わなかった。
 おのれを賭けてでも、守りたいものがあった。
 それが喪われたとき、全身を預けていた杖を奪われて、無様に転んで、立ち上がれなくなる。
 ヨーンの歪みが、グランツにはよくわかる。
 おのれの全身を浸す闇と、その歪みは、とても良く似ている。
 彼は自暴自棄になった。自分は、世界と向き合うことをやめた。
 そうでもしなければ、とてもやり過ごせなかった。だらだらと自分を生かし続けるのが、なんのためなのか。それだけの価値があることなのか。
(俺の人生は、アンネのためにあった)
 ならば、彼女がいなくなった時点で、いつ終わりを迎えても構わないのではないか?

「俺はいやだよ」
 きっ、と。両目に力を込めて、フォスはヨーンを睨みあげた。
「俺は、嫌だったから止めたんだ。これ以上、目の前で誰かが死ぬの嫌だったんだよ! 価値があるとかないとか、俺にはわかんねぇよ……。誰がエラくて、誰がそうじゃないかとか、誰が優先で、誰を切り捨てていいかとか、頭悪いから、俺にはわかんねぇし! だから、したいことをしたんだ。死んでほしくなかったから!」
 全身の力を振り絞るように吐き出された声が、医務室の空気をびりびりと震わせた。
 気圧されて、ヨーンがわずかに身を引く。
……先輩に恨まれても、殴られても、後悔なんてしない。また先輩が同じことしたら、俺は止める。何度だって、止めるよ」
「俺には、もうなんの意味も――!」
「先輩にはそうでも! 俺には違う……。俺、カルサアの戦いがあってから、ずっと考えてた。ここにいて、なにをしたらいいのか、なにがしたいのか、意味があるのかないのか。皆が色んな事言ってて! ……どれが一番正しくて、誰が間違ってんのか、ずっと考えてたんだよ」
 床に大の字に転がり、先輩兵に襟首を押さえつけられて、なお、フォスの瞳は冴え冴えとした力を湛えていた。
 完全にマウントポジションを取ったはずのヨーンの横顔のほうが、冷静さを欠いて、青ざめているように、グランツには見えた。
「でも、誰の答えを聞いたって、よくわかんなかった。話の規模がデカすぎて、全然納得できなかった。団長があのとき言ってたことも、考えたけど……そんなふうにバッサリ割り切れないよ。……俺は、なんでも守れる英雄になりたかったけど、この戦争を終わらせるだけの力なんて、悔しいけど、俺にはないから……
……だったらお前、どうするんだよ?」
 もはや、フォスの胸ぐらを掴むヨーンの手に、力はなかった。声は震え、気勢は削がれ、ひび割れたくちびるが、引きつれたような笑みを作る。
「信じてたモンが折れて、それでお前は、なにをするつもりなんだ……?」
 落ち窪んだ眼窩が、ヨーンの疲労を如実に物語っていた。彼は疲れ切っていた。今の今まで、憎悪が彼を奮い立たせ、動かしていただけだったのだ。
「偉ッそうに能書き垂れて! それで、どうするつもりなんだって聞いてるんだよ!」
「俺は生き延びたいんだよ! 俺の、手がこうして、届くところの人たちと!」
 フォスに胸ぐらを掴み返され、ヨーンは息を飲んだ。
「俺はガキの頃、漆黒兵に助けられて、『生きて帰ろう』って言われて、嬉しかった。あんなふうに、誰かを勇気づけられる力が欲しかった。世界とか、国のためとかじゃなくて……家族とか、仲間とか……身近なひとたちと、生き残りたいんだ。これから先は、そのために戦うって、さっき決めた」
「さっきって、お前……アホか。ガキじゃあるまいし……
 ヨーンの体から、無駄に張り詰めていた力が抜けるのを、グランツは見た。呆れと泣き笑いがない交ぜになった表情で、フォスの胸ぐらから手を離す。そのまま、仰向けに床にぱたりと倒れた。
「俺……あんだけ近くにいて、ルーフェン先輩を助けられなくて、悔しいよ……
 ヨーンは答えなかった。しばらく、しじまが医務室を支配し、そして。
……手ぇ貸せよ、立てねぇ」
 仰向けに転がったまま、ヨーンは至極偉そうに言った。
 打ち付けた後頭部をさすりながら立ち上がったフォスが、苦笑しながら、満身創痍の先輩兵を助け起こす。

 ヨーンを助け起こすフォスを眺め、グランツは――気づけば己の胸元に触れていた。服の内側で、アンネローゼの形見が、確かな硬さを伝えてくる。
 もはや自分の命に、価値を見出すことなどできない。
 生きたいと望む命ばかりが奪われてゆく争いのなかで、だらだらと生き延びることに、息苦しさすら感じていた。
(もう、自分のために生きることはできない)
 おこがましくて、申し訳なくて、己を生かすことに、赦しを乞いたくなる。
(けれど、誰かを生かすために生きるのならば)
 この手の届く場所を、そこに生きる人々を、守る。
 そのためならば。

 誰かの糧になれるのならば、この命にもまだ、価値はあるのかもしれない。


【つづく】