柚鈴
2025-11-01 12:04:40
59567文字
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でぃあぷろSeason3 第0話①/第1話「レフュージア」

pushing up daisies:「死んで埋葬されている」
レフュージア:氷河期など、広範囲にわたって生物種が絶滅する環境下で、局所的に種が生き残った場所。待避地。

🫧の状態についてはライムライト回(下記リンクp4)で描写しています
https://privatter.me/page/65deb01c17c1e?p=4


第1話「レフュージア」③


◇シノ・オーリム

 悪夢の真ん中で、心臓だけが鳴っていた。
 思考も身体もすべてが透明で、剥き出しの心臓だけが宙に浮いていた。
 鼓動の音がしない、隔たれている、なにもかも。
 微かに異物の動く感触、内側から響くような蠕動、それだけがシノのすべてを規定して、凪いだ水面に石を投げ込んだ。
 薄く剥離していく世界の切片、そのひとつにしがみついているような気がする。離れられずにいる、終わってしまった夢から。

 瞳に映る世界を、遠くの場所から見ているような気がした。
 手のひらに触れているはずの、煉瓦の感触がひどく遠い。皮膚の奥の奥の奥が痺れて、シノの知覚を曖昧にしている。
 それでも、濁った頭が裁定を下した。身体を操るように、腫れた声が止まない。泣き喚く幼子のような、シノ自身の声が。
 ──殺さなくちゃ。守らなくちゃ。だって、だって、ユウハを失いたくないから。
 ハレリはいい子だった。大切なものを守るため、いつでもひたむきに戦っていた。彼女の勇敢さに憧れていたし、頼れる仲間だと思っていた。
 だから本当は、殺したくなんてなかった。それでも、仕方のないことだった。だって彼女は、ユウハに刃を向けようとした。ユウハを傷付けようとした。ユウハを守るためには、殺さなければいけなかった。
 どうしてだろう、と言葉にならない問いが胸を打つ。シノは、仲間だと思っていたのに。どうして、ユウハを殺そうとするんだろう。
 ひどい。ひどいよ。世界はいつだって、シノに優しくない。大切なものは、守りたかったものは、どれも手のひらをすり抜けていく。

 泣き出しそうな気持ちが空回りして、逃げるみたいに視界を靄が覆った。
 すべてが、夢だったならよかった。風に吹かれたしゃぼん玉のように、ぱちんと弾けて消えてしまう、脆い幻想だったならよかった。眩暈のように視界が揺らぐ。違う、と否定の声が鳴る。
 ううん、きっと夢に決まってる。だってこんなの、嘘じゃないとおかしい。シノは幸せだった、家族のことも友人のことも好きだった。この世界をたしかに愛していた、だから夢に決まってる。醒めない明晰夢が、シノの脳裏を埋めている。
 それなら早く朝が来てほしい、と祈った。夜が明ければ、ユウハに会えるから。いつものベランダで、悪夢から帰還した証みたいに、ユウハが微笑んでいるはずだから。

 暗闇に包まれた部屋の中、月色の瞳がこちらを見ている。握りしめた煉瓦が床に落ちる。
 さらさらと靡く長い白髪、微かな石鹸の香り。悪夢の中に、ユウハが立っている。どうして? これも、最低な幻?
 ぐるぐるぐるぐる、螺旋状の思考が巡り続ける。行き着く果てには何もないから、無意味な上昇と下降を繰り返している。導き出される暫定解は、いつも妥協のような思考放棄。
 ──なんでもいいよね。どうでもいいよね。
 目に映る景色が夢でも現実でも、抜け出せないことに変わりはない。
 それでも、ここにはユウハがいる。二度と手を離さないと誓った、大好きなひとがいる。ほらね、死んでなんていなかった。シノが信じていたとおり、ユウハはちゃんと生きていた。

「捜索の打ち切りが決定しました」
「ユウハちゃんはね、亡くなったのよ」
「サクリファイスに殺されて、灰も戻ってこなかったって……

 渦巻く思考の波に攫われて、微かな耳鳴りがする。
 三年前に告げられた言葉が、今もなお、閃光のように鼓膜を突き刺す。あれは夢だった? それとも現実?
 受け止めきれない悪夢が溢れて、記憶の断片と混ざり合う。夢で見た内容は、覚えていると不幸になるらしい。だからシノは、こんなに苦しいのだろうか。すべて忘れてしまえば、なにもかもを手放してしまえば、楽になれるのだろうか。

 どこか遠くで、誰かが何かを言っている。冷たい水底へ沈んでいくように、あらゆる音が遮断されている。
 世界のすべてが信頼できないことが恐ろしかった。何も見たくなくて、何も聞きたくなくて、縋るようにユウハだけを見つめた。
 わからない。シノは、狂っているのだろうか。誰のことも傷付けたくないのに、この世界を好きでいたいのに、それが叶わない。間違いだらけに見える世界は正しくて、シノの存在だけが間違っているのかもしれない。
 ずっと、助けてほしかった。ユウハが死んだと告げられた日から、シノの意識は壊れてしまった。目に映るすべてが、終わらない悪夢のように思えた。覚束ない現実の輪郭に、溺れそうになっていた。
 誰か、助けて。その言葉が喉に閊えたのは、怖くて堪らなかったからだ。シノの声が届く宛は、ユウハだけだと知っていたから。

 物心ついた頃から、両親の視線は病弱な弟だけに注がれていた。二年前に彼が死ぬまで、それは変わらなかった。
 だからシノは、平気なふりをするのが癖になった。こっちを見て、話を聞いて。病気で苦しむ弟を差し置いて、そんな我儘を願えるはずがなかったから。
 そうやって飲み込んできたシノの言葉を、唯一受け止めてくれたのがユウハだった。嬉しかったこと、悲しかったこと。両親には言えない、寂しさや不安。幼い子供が甘えるみたいに、シノはなんでもユウハに打ち明けた。夕暮れ時の帰り道、ぎゅっと固く手を繋いで、二人だけの秘密基地を築くみたいに。
 シノの小さな世界にとって、ユウハの存在は居場所そのものだったのだ。
 だから、ユウハがいなくなったら、シノは永遠にひとりぼっちになってしまう。誰も、シノに気付いてくれない。手を伸ばしてくれない。助けを求めたところで、その声はどこにも届かない。
 そんな諦めと怯えが心を支配して、おかしくなった世界の中で、気付けば一歩も動けなくなっていた。

「──助けてあげようか?」

 世界を隔てる分厚い膜を破るように、無邪気な声が降り注いだ。
 曇天を劈く稲妻のように、暗く澱んだ水底まで、明瞭に澄んだ声が届く。
 反射的に視線を上げれば、目が合ったのは夜の果て。深淵を象るような瞳を湛えて、精霊がこちらを見下ろしていた。
「────」
 誰かが声を上げて、何かを訊ねている。周波数の合わないラジオのように、ひどいノイズの混じったその声は、何を言っているのか判然としなかった。
 それでも精霊の耳には届いたらしく、彼女は朗らかに声を発した。精霊の放つ言葉だけが、シノを世界に繋ぎ止めているようだった。
「薬……? ううん、そんなのいらないよ! みんなはもう、精霊さんと契約してるんだもん! ただ願うだけで、いつだってアイドルになれるんだから!」
 歌うように声音を弾ませ、楽しげに精霊が告げる。それとほとんど同時に、淡い光が瞼を焼いた。流れ星が落ちるみたいに、ほんの一瞬、朽ちた教会が白い光に包まれる。
 すぐに消えた閃光の先で、四輪の花が咲いていた。眩い白を基調とした、アイドルのための衣装。見慣れた固有武器を手にして、変身した少女たちが、宙に浮かんだユウハに向き直る。
 それらの出来事すべてが、シノから切り離された場所で起こっていた。
 まるで、客席から舞台を眺めるような感覚。歪んだレンズ越しに映る光景が、陰鬱な影を纏って揺れている。
 ユウハが大鎌を振り下ろし、その隙をつくようにハレリが斬りかかる。蝋のように固まっていた身体が、戦慄くようにびくりと震えた。
 ──シノが、ちゃんと殺せなかったから。
 そんな感情が、咄嗟に胸を衝いた。足元に転がった煉瓦が、砕けた床にめり込んでいる。煤の移った手のひらが、小刻みに痙攣する。ハレリを殺せていたら、ユウハを守れた? 異常な思考回路が火花を散らして、激しく発熱を繰り返す。
 そんなのは間違っていると、頭の片隅では理解している。おかしいのは、狂っているのは、きっとシノの方だ。
 だけどこれは、シノの夢だ。終わらない悪夢だ。それならユウハと一緒にいたい、歪な正当化が胸を刺す。脳裏に染みついた声が止まない。シノは、ユウハを守らなくちゃいけない。たった一人の親友を。

「あれ? シノ・オーリムは戦わないの? みんな変身しちゃったよ?」
 大袈裟な疑問符を浮かべるみたいに、精霊がシノに問いかける。
 シノたちは、いつも五人で戦ってきた。そういう悪夢だと思っていた。だってそこには、ユウハがいなかったから。だけど今、目の前にユウハがいる。武器を構えて、ハレリたちに相対している。
 それなら、シノはどうするべき? 何を選ぶのが本当に正しい? 無意味な自問が脳裏を回遊する。夢と現実の境界が溶けた世界で、正解も真実も分かるはずがなかった。
「変身したくない? なにか、別の願いがあるのかな?」
 蝙蝠のように逆さに身を投げて、シノの顔を覗き込んだ精霊が、悪戯っぽく双眸を細める。黒洞々たる暗闇が、シノだけに視線を向けている。
「わた、し、は…………
 枯れた喉を世界の端に繋げるように、掠れた声を絞り出す。
 別の願い。精霊の告げた無邪気な言葉が、心臓の輪郭を抉るようになぞった。鼓動が焼けるような痛みを訴える。別の願い。シノの叶えたいこと。絡まった糸が解けるように、思考が明晰になっていく感覚がした。
 こちらをまっすぐ見つめる精霊が、屈託のない笑みを浮かべる。シノに向かって、手を差し伸べている。
……シノさん! ダメ!」
 知らない誰かの声が、遠くに響いていた。何を言っているかは分からなかったし、どうでもいいと思った。
 だって、関係ない。ここが夢でも現実でも、その区別に意味なんてない。滑稽な一人芝居でも構わない。
 シノはただ、大切な人を守りたいだけだ。
 この不確かな世界の中で、ユウハとの記憶だけが、嘘じゃなかったから。

「願いなよ、シノ・オーリム。精霊さんが、ちゃーんと叶えてあげるから」
 囁くような精霊の声が、あの日の温もりに重なった。
 二人きりの帰り道、寄り添うように手を繋いだこと。家に着くのが惜しくて、ほんのちょっとだけだよって、陽が沈むまで回り道をしたこと。
 ユウハの隣にいるだけで、シノは幸せだった。それ以上を望んだことなんてなかった。ユウハのいない世界は透明で、ひとつの意味もない場所だった。
 
 だからシノは、ずっと待っていたのだ。
 この地獄から連れ出してくれる、神様のような存在を。

「わたし、は……。ユウハを、ユウハを、守り、たい……!」

 喉に詰まった「助けて」の言葉が、ようやく形を帯びる。
 切なる願いを吐き出すと同時に、シノは差し伸べられた精霊の手を取った。
 もしも願いが叶うのならば、すべてを投げ打ったっていいと思えた。

 発した声が宙に溶けて、瞼の裏で眩しい光が弾けて散る。冷たい水底に沈んだ心が、精霊の手で掬い上げられる。視界を埋めた白い靄が霧散して、眼前の景色が鮮やかに彩られていく。
 翼が生えたみたいに身体が軽い。四肢を縛っていた鎖が千切れて、どこまでも自由に飛んでいけそうな感覚。
 宙に浮かんだユウハを見上げて、彼女に手を伸ばした途端、目の奥がぎゅっと熱くなった。
 気付いたからだ。この場所が、夢なんかではないこと。紛れもない現実であること。世界の色が塗り替わったみたいに、新たな自分に生まれ直したみたいに、シノは確信していた。ユウハを守ると決めた、手を伸ばすことを選んだ、この世界だけが唯一の現実だった。
 小さく息を呑んだユウハが、空洞だった眼差しを歓喜に染める。温い液体が次々に頬を伝って落ちていく。溢れたシノの涙を拭うように、ユウハが手を伸ばした。
「ユウハ……!」
 滲んだ声と同時に、ふわりと爪先が床を離れる。
 ずっと会いたかった。怖かった、苦しかった、寂しかった。ひとりぼっちで溜め込んだ想いごと、ユウハに抱きしめてほしかった。ずっと隣にいるよって、約束を交わしたかった。

 永遠のような悪夢が終わる。最低な夜が去っていく。
 ユウハ、ユウハ。大好きだよ。もう離れないで。
 伸ばした指先が触れ合う直前、焦がれた体温を確かめかけた刹那。

 ──私は、ユウハを守りたい。
 唱えた願いが脳裏に響いて、シノの意識は闇に沈んだ。