柚鈴
2025-11-01 12:04:40
59567文字
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でぃあぷろSeason3 第0話①/第1話「レフュージア」

pushing up daisies:「死んで埋葬されている」
レフュージア:氷河期など、広範囲にわたって生物種が絶滅する環境下で、局所的に種が生き残った場所。待避地。

🫧の状態についてはライムライト回(下記リンクp4)で描写しています
https://privatter.me/page/65deb01c17c1e?p=4


第1話「レフュージア」⑨


◇シノ・オーリム

 微かな木々のざわめきが、揺り起こすように耳朶を叩いた。
 目の前が暗い。ホワイトノイズにも似た耳鳴りに混じって、小鳥のさえずりが聞こえる。草木も眠るような、夜の静寂が終わっていく。
 誰かに手のひらを握られた気がした。遮断された曖昧な知覚が、その感触に呼び覚まされていく。大切なものを失った空隙が、触れた温もりで埋まっていく。
 夢か現実か分からなくて、確かめなければならないと思った。もしも夢なら、醒めたくないけれど、それでも抜け出さなくちゃいけなかった。永遠に夢に浸ってはいられない。嘘もまやかしも、いつかは解けてしまう。だからちゃんと、さよならを告げなくちゃ。

 重い瞼を押し上げて、シノは双眸に光を取り込んだ。霞んだ視界は徐々に焦点を結んで、目に映る景色の輪郭を際立たせていく。
 まず飛び込んできたのは、空を覆うような深緑の天井。仄かな土の匂いが香って、森の中にいるのだと理解した。目覚めを待つお姫様のように、地面に寝かされていたらしい。硬直しきった回らない頭で、泥のような身体を持ち上げる。半身を起こすことさえ、ひどく億劫に感じられた。
「シノ……?」
 心細げな声が鼓膜を揺らして、月明かりによく似た黄金色が覗く。彷徨いかけた視線を、その眼差しに固定した。目を合わせた。一瞬たりとも目を離したくないのに、無意識のうちに瞬きが落ちる。確かめたがっているみたいだと思った。愛おしいその色が、ふとした拍子に消えてしまわないこと。陽炎のような錯覚でも、朧げな幻影でもないこと。
 永遠のような数秒が流れて、先に動いたのは向こうだった。泣き出しそうに潤んだ瞳が、限界まで見開かれる。睫毛のふちに溜まった涙が、雨粒みたいに転がり落ちて──その瞬間を捉えると同時に、強く全身を引き寄せられた。シノの背中に回された腕に、ありったけの力が込められる。息が苦しいくらいの抱擁。雪のような長髪が、肩を滑り落ちていく。

 ユウハだ。ユウハがいる。
 ユウハがそばにいて、シノを抱きしめている。

 いまだに混乱する頭が、それだけの事実でいっぱいになる。
 たしかに目を覚ましたはずだった。それでもなお、都合のいい夢を見ているみたいだ。
「ユウハ」
 眼前の光景が信じられなくて、シノはそっと彼女の袖を引いた。祈るような仕草で、震える声を絞りだす。
「ほっぺた、つねってみて」
 涙に濡れた顔のまま、ユウハは静かに頷いた。シノを抱きしめる片手が離れて、それがちょっぴり寂しくなって、なんて我儘なんだろうと自分でも呆れてしまう。
 そんなシノの身勝手までも慈しむみたいに、細い指先が頬をなぞる。それから少しの逡巡のあと、皮膚を軽く摘まれた。控えめに込められた力に、痛み未満の圧された感触が頬を包む。
 ちゃんと、触れられている。都合のいい夢でも、消えてしまう幻でもない。ここは現実で、なのに、だけど、ユウハがいる。昔みたいに、シノの隣にいてくれる。
 瞳の奥がぎゅっと熱を帯びて、唇の端が痙攣するように歪んだ。縮こまった肺が震えて、途切れた吐息が零れ落ちる。シノの頬から指を離したユウハが、幼い子供をあやすみたいに、再びこちらに手を伸ばす。抱き寄せられた温もりに、懐かしい香りに、張り詰めていた身体が緩んだ。

「ユウハ、だ……
 呆然と掠れた声が喉を伝い、落ちた。それだけで胸がいっぱいになった。誰にも見せずに閉じ込めていた涙が、独りきりで抱え込んだ寂しさが、堰を切ったように決壊して溢れだす。自分の身体をちゃんと支えていられなくなって、ユウハの肩に頭を預ける形になった。シノを安心させるみたいに、彼女がそっと背中を撫でる。ここにいるよ、と伝える体温に、視界が際限なく滲んでいく。
「会いたかった……。ずっと、会いたかった……!」
 伝えたいことならたくさんあったはずなのに、どれも言葉にはならなくて、シノはただただ声を上げて泣いた。はぐれた子供が母親にしがみつくみたいに、ひたすらユウハを抱きしめて泣いた。
「ごめんね、シノ。……ごめんね」
 泣きじゃくるシノを受け止めながら、痛みを堪えるみたいな声音で、ユウハが告げる。繰り返される謝罪の言葉に、シノは緩やかに首を振った。
 謝らなくたっていい。だからもう、どこにも行かないで。
 涙と一緒に募った言葉は、上手く声に変えられないまま、涙だけがぼろぼろと頬を伝っていく。自分の意思では止められない嗚咽がもどかしくなって、割り込むみたいに無理やり口を開いた。喉の奥がまだ震えている。それでも言いたかった。他でもないユウハに、聞いてほしかった。
「約束……ずっと、一緒にいる、って」
 不恰好に鼻を啜って、乾いた涙が張りついた頬のまま、口角だけを上げた。目一杯に抱きしめ合ってくっついているから、お互いの顔は見えなくて、腕の中の体温だけがすべてで。だけど今の二人には、それだけで十分な気がしていた。ユウハが何度も力強く頷いて、約束、と口にする。解けたリボンを結び直すように、決して離れないように。

 ユウハの肩口に埋めた顔を、ほんの少しだけ上げた。
 頭上に広がる木々の隙間から、寄り添うみたいな光の粒が降り注いでいる。その景色にようやく、夜が明けたのだと気付いた。
 魔法のようにきらきらと舞い散る、仄かな朝焼けの欠片。毎日のように待ち焦がれた、東雲色の気配。
 シノはずっと、朝を待っていた。悪夢の終わりを待っていた。ユウハの幻が迎えに来るのを待っていた。そうすることでしか救われないと知っていて、反転した夢と現実の狭間で、白昼夢に浸っていた。
 だけど今、目の前にユウハがいる。夢でも幻でもないユウハが、輪郭を確かめるみたいに、シノを抱きしめている。脆い心を支えていた夢が、淡い暁光に薄れていく。
 生きているのだ。シノも、ユウハも。これから先も、二人で生きていけるのだ。
 

「シノさん、ユウハさん……! うう、よかったぁ……!」
 駆け寄ってくる足音と同時に、新たな温もりが背に触れた。ぎゅう、と横から力が加えられて、ユウハとの距離がくすぐったいほどに縮まる。
 驚いて咄嗟に顔を上げれば、飛び込んできたのは見慣れた明るい桃色。くしゃくしゃの泣き笑いを浮かべたミアが、シノとユウハをまとめて抱きしめていた。
「ミアさん、今くらいは空気読みましょうよ……
 しばらくシノたちを見守っていたのだろう、ハレリが呆れた声を零しながら、こちらに向かって歩み寄ってくる。
「だって、だって……! みんなが無事で、ほんとに嬉しくて……!」
 感極まったようにミアの声が潤んで、ミアさんらしい、とハレリの口元が緩んだ。少し離れた場所に佇むレイラとフウカも、安堵の表情でシノたちを見ている。精霊と契約を結んだあと、意識を失ってからの記憶はほとんどないけれど──シノとユウハを助けてくれたのは、きっと彼女たちなのだろう。
「どうして……
 柔らかな眼差しに耐えかねて、思わずそんな言葉が漏れた。説明を求められたと思ったのか、ゆっくりと息を吐き出したレイラが唇を開く。
「シノさんが、満開したとき……。ユウハさんを守りたい、と願ったことは覚えていますか? 精霊によれば、アイドルの満開状態は、その願いが叶えば解けるらしくて。だから、私たちがユウハさんとの交戦状態を解いたことで、満開は終わったんです」
 満開状態。レイラの告げた言葉に、朧げな記憶の糸を手繰る。特例警報が発令されて、大量のサクリファイスと対峙したとき。精霊に願いを捧げたマヤは、「満開状態」と呼ばれていた。
 世界のすべてが他人事のようだった当時のシノは、なんでも願いが叶うのなら、ユウハともまた会えるのかな、なんてことを考えていた気がする。重い水底に沈んだような心地で、まともに頭も回っていなかったから。
「だけど、シノさんは、魔法の過剰使用で昏睡状態にありました。それで、同じく満開の解けたユウハさんと一緒に、ここで介抱していて……。そもそもユウハさんが失踪した理由については、まだ何も。精霊が絡んでいることは、おそらく間違いないんですが」
 シノが意識を取り戻すまで、ずっと考え続けていたのだろう。レイラはいつも通りの口調で、理路整然と状況を説明した。それ自体は、シノにも納得のいくものだった。
 レイラたちにはこれまで伝えずにいたけれど、シノの固有魔法には重大な欠点がある。魔法使用の代償として、一時的に正気を削らなくてはならないのだ。現実を正しく認識する能力が狂って、幻覚が絶え間なく脳を苛み続ける。世界との接続が失われて、夢との区別がつかなくなる。回復にかかる時間は、その時点での精神状態に左右されるから、シノ自身にも予測がつかない。
 アイドルになった当初、恐ろしくてたまらなかったこの魔法は、皮肉にもシノの心を救うことになった。魔法の濫用を繰り返すことで、ユウハがいなくなった世界を、正気のまま受け止めずに済んだのだ。回復に必要な精神の余力などあるはずもなかったから、ユウハが消えたあとのシノは、下り坂を転げ落ちるように、緩やかに狂っていった。ユウハの幻が見える朝方以外を悪夢と定義し、ユウハの真似をして振る舞うことで、かろうじて自我を保っていた。
 だけどそれは同時に、摩耗し続ける心が癒えれば、シノは正気を取り戻せるということでもある。ユウハと再会できたから、手を握ってくれたから、抱きしめてくれたから。自壊しかけたシノの心は、時間の経過によって元の形を取り戻したのだろう。過剰な幻覚に溺れかけた脳が、逃げるように昏睡状態を選んだあとでも、奇跡的に回復を遂げられたのだろう。

 だけど、分からなかった。シノが本当に聞きたかったのは、そういう説明ではなかった。
 教えてくれてありがとう、でも。そんな言葉を振り絞ってから、ほんの僅かに逡巡して、吐息のような声を零す。
「どうして、私を助けてくれたの……?」
 精霊と契約する直前、シノはハレリに危害を加えた。正気を失っていたとはいえ、あのときのシノは彼女を殺すつもりだった。満開してからの記憶はほとんどないけれど、レイラたちを傷付けようとしたことは間違いない。
 彼女たちにとって、シノは気の狂った敵以外の何者でもなかったはずだ。なのに、どうして。どうしてシノに、手を差し伸べてくれたのか。考えても答えが出ないから、訊ねてみるしかなかった。
「どうして、って……。シノさんは、私たちの仲間ですから」
 暗い部屋で明かりをつける理由を訊ねられたみたいな、困惑の眼差しを浮かべてレイラが答える。至極当たり前のことを説明するような、淡々とした声音。その言葉に続くように、シノとユウハに抱きついたままのミアも、そうですよ!と声を上げた。
「私たち、シノさんが大好きですから! あ、えっと……ユウハさんの次に!」
 空気を読むようハレリに言われたことを思い出したのか、慌てたように言葉が付け足される。その露骨な忖度に、ユウハは小さく声を上げて笑った。不思議な気分だった。シノとユウハが、彼女たちに受け入れられていること。シノが、彼女たちの仲間であること。
 五人でグループとして活動している間、シノは現実を正しく認識できていなかった。長い明晰夢を見ているような心地で、曖昧な意識に囚われていた。
 だけどミアたちにとって、シノと過ごした時間は紛れもない現実だった。一緒に過ごした時間は、築き上げた繋がりは、ひとつも嘘ではなかった。だから彼女たちは、シノを助けるために奔走してくれた。ユウハのことまで救ってくれた。奇跡みたいなハッピーエンドを見つけ出してくれた。

「うんうん! やっぱり物語は、ハッピーエンドが一番だよね!」

 ひらりと宙を切り裂くような、薄明かりの森に不似合いな声が鼓膜を揺らす。
 その場にいた全員の視線が、反射的に声の出処を探した。生い茂る樹木に紛れて、長い銀髪が揺れる。
 眩しい朝の光を浴びながら、宙に浮かんだ声の主──精霊は、舞台役者に拍手を送るみたいに、大袈裟な身振りで手を叩いてみせた。長い観劇を終えた直後のように、その顔には晴れ晴れとした笑みが浮かんでいる。
「仲間を信じて、知恵を振り絞って、無事に難局を乗り切った! 大昔のアイドルは、だーれも乗り越えられなかったのに! だからねっ、精霊さんは今、とーっても感動してるんだよ!」
「話を聞かせてください」
 熱っぽく歓喜に満ちた精霊のはしゃぎ声を、冷淡なレイラの言葉が断ち切った。上空を鋭く睨めつけて、背負った役目を全うするように、彼女の唇が開かれる。
「『神様の依代を用意するため』。ユウハさんを閉じ込めていた理由について、そう言いましたよね。『神様』とは、どういう存在なんですか。私たちアイドルを利用して、何がしたいんですか」
 焦燥の滲んだ彼女の声に、ついさっき告げられた言葉が脳裏を過った。
 ──ユウハが失踪した理由には、精霊が関わっている。アイドルの手助けをして、アイドルの願いを叶える、精霊の存在が。
「うーん、精霊さん的には、みんなにも教えてあげたいんだけど……。余計なことは喋るなって、また怒られちゃうからなあ〜」
 お説教を恐れる子供みたいな無垢さで、精霊は分かりやすく顔を顰めた。怒られる。ぼやくような口調で放たれた単語に、僅かな引っ掛かりを覚えた。誰に、だろう。神様の使徒を叱責できる存在なんて、そう多くないに決まっている。
「怒られる……。つまり、情報を共有している相手がいるんですね?」
 同じ違和感を覚えたのか、追撃のようにレイラが畳み掛ける。余計なことを喋るな、というのがお説教の内容なのだとしたら、そう告げる相手はたしかに同じ情報を持っていることになる。すると、精霊の恐れる相手はやはり神様なのだろうか。それとも──。

「もうっ、質問タイムは終わり! とにかく、みんなが無事でよかったよ〜! めでたしめでたし、これにて大団円だね〜!」
 一刻も早く不都合な話題を打ち切りたいのだろう、誤魔化すように手を打ち鳴らした精霊は、強引にレイラの追及を遮って──放たれた言葉の端を攫うように、びゅう、と突風が吹きつけた。凍えるような冷気が皮膚を刺し、反射的に背筋が竦む。
 ただの自然現象ではない。誰に教わらずとも、本能がそう訴えていた。直に背骨を触られるような不快感が、否応なく全身を巡るような感覚。剥き出しの命を握られているみたいな、悪寒にも似た薄気味悪さ。
 一人では到底耐えられそうになくて、あれこれ思考を巡らせるより先に、ユウハのそばに身を寄せようとして──虚空を見上げた彼女が、がたがたと震えていることに気付いた。
……せ、せいれ、せいれい、さま」
 見えない何かに怯えるように、ユウハの身体が小刻みに痙攣する。その顔には一切の血の気がなく、今にも失神しそうに見えた。
「ユウハ!」
 咄嗟に両腕を伸ばして、崩れ落ちそうな彼女を抱き寄せる。まるで溺れかけているかのように、ユウハは必死にシノの身体にしがみついた。迫りくるものから逃げようと、隠れようとしているようにも見えた。
 その切なる恐怖の宛先が分からなくて、しばらく視線を彷徨わせ──不意に、眼前を燃えるような怒りが過った。研ぎ澄まされた感情そのものが、空中に投げ込まれたかのようだった。
 吹き抜けた寒風が実体を纏っていくように、結われた長い銀糸が揺れる。シノの腕のなかで身を縮める、ユウハの動揺が強くなる。

……どこが、大団円ですか?」

 森林の樹木に残らず霜が降りそうな、凍てついた怒りに満ちた声が響く。
 おそるおそる視線を上げれば、ちょうど鏡合わせの位置に、精霊と瓜二つの女性が浮揚していた。