kurotera
2024-01-20 10:46:27
78477文字
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惜別にもならない

2022年12月に発行したイノセントブレス世界線のザドギエル(ラビ)×サマエル(リュカ)本です
前半は人死に有りのイノブレ時代のお話、後半は彼らが転生した現代のお話。
若干のゴア表現あります。


 
  

陽炎

 
 拠り所としていたものが偽りまみれで、まったく綺麗なものでなかった事を知った。
 いや、薄々は分かっていたのだ。
『教会』は自らが標榜するほど無垢で、純粋な存在ではないということは。
 それでも世界のために、人々から悪魔を守るために必要だと思い込んできた。
 それも幻想だった。寧ろ、世界の毒だったのだ。

「お向かいさん、行っちゃったぜ」
 夜の闇に紛れて消えたいくつかの影を、窓から見送りつつラジエルが呟く。
 それらが見えなくなればため息と共にカーテンを閉め、四人を見やった。
 皆、黙りこくったまま何も切り出せずにいる。
 命を賭した少女が遺した告発の手紙、そしてとある元神父が証言した事件は瞬く間に民衆に『教会』への疑念を抱かせた。
 おそらくこれを仕組んだレジスタンスも想像しなかっただろう。凪いだ水面に一石を投じるがごとく、国と信仰は揺れ、民衆達を村や街の礼拝堂へと向かわせたのである。
 ――誰かが叫んだ。
 『教会』が自分たちにさせてきた〝魔女狩り〟は悪魔のそそのかしだったのだと。
 無垢な我々を惑わし、罪を背負わせようとした『教会』どもを許すな。
 それが民衆の正義感による声だったのか、それとも好機と見た悪魔の声だったのか、声をあげた者以外は知ることはない。しかしその声に、民衆は応えたのだ。
 彼らの祈りの場であった礼拝堂は焼き払われ、人々の導き手であった筈の神父や修道女が磔にされた。潔白を叫ぶ者達の足下に火は放たれ、その罪状もろとも焼かれていく。
 恐らくほとんどが、民衆と同じく『神』と『教会』、そして『教皇ミカエル』を純粋に信奉してきた罪なき者達なのだろう。
 民衆は、彼らが自分たちと同じであることを許さなかった。
『教会』に属する者は皆、欺瞞に満ち、無辜の民を裏で嗤い、唆してきた悪魔のような者達である。
 我々はその声、その魔手、その眼に抗い、彼らが攫った子ども達を救わねばならない。そういった大義名分を掲げながら、民衆はピッチフォークや猟銃を手に、聖都へと吠えたのである。
 青天の霹靂というべき事態に、『教会』は揺れた。簡潔に言えば、ミカエル派と反ミカエル派に分かれ紛糾した。
 特に上層部は酷いありさまで、尋問は勿論、異端審問官を使った暗殺、出奔、処刑、とおよそ秩序を掲げる組織とは思えない有様を露呈したのだった。
 悪魔を屠る役割を担ってきた筈の使徒も、例に漏れない。むしろその前線にいた事で民衆の怨嗟を一手に引き受けることになったと言っても過言では無かった。
 ――神に選ばれし異能を持つ聖者は、悪魔の力を持つ異端者の烙印を押された。
 任務先で怒れる民衆に囲まれ何の力も持たない彼らを傷つけることも出来ずに、捕らえられ、処刑された者。
 やむを得ず抵抗したことで悪魔と決めつけられ、殺された者。
 逃れたがどこの集落にも寄りつくことも出来ず、彷徨いの末に悪魔に殺された者。 
 絶望と失望の末に身を投げた者。
 行方知れずとなり、生死も分からない者。
 使徒という存在は最早忌むべきものと成り果てたのだった。

『IB』達は、幸いにも揃って聖都にいた。
 ここ数日の神学校の様相はひどいもので、ラジエルが先ほど見たような〝去る者〟は日を追うごとに増えていた。本来ならば神に叛きし離反者、脱走者として懲罰の対象となる行為だが、もはやそれを咎める者達もほとんどいない。
 静謐な空気を保っていた聖域も、過去のものとなっていた。
 改めてラジエルが視線を巡らせる。五人がリビングに集まるのは日常のことだが、妙な違和感があった。そしてその正体に気がついた時、ラジエルは納得すると同時に昏い何かが身のうちに沈む感覚を味わった。
 違和感の元は些細なことだ。しかし、そうなった理由はあまりに重たい。
 いつもは肘掛け椅子にサンダルフォンが、テーブルの席に自分とサマエルが向かい合って、長椅子には隣り合ってハニエルとザドギエルが座っていることが常であるのだが、今は自分が座る椅子には鬱々とした顔のハニエルが座っていて、そしてサマエルとザドギエルはそれを指摘することなく沈黙を守っている。
 ラジエルがザドギエルの隣に腰を下ろせば、サマエルが口を開いた。
「上層部に何か動きは」
 普段の彼ならば、その声色に苛立ちが汲み取れていただろう。しかし、今は疲れと諦めのみが滲み出ている。問いにはサンダルフォンが首を振ることで答えた。
「何も。教皇ミカエルと『不死鳥』は教皇の間に籠もったきりだ。建物の周りを『学会』の屍体達が護衛しているようだ。オレ達以外の使徒も突破しようとしたらしいけど……現状は変わっていない」
 サンダルフォンの表情も暗い。『不死鳥』には彼の幼馴染みがいるのだから、当然だろう。ラジエルが教皇の間を〝視た〟時、そこにいたのは座したミカエルと、傍らに侍る『不死鳥』の三人だった。
 ミカエルはこの状況にも動じず、聴衆のいないまま人間の愚かさと秩序の必要性を説き続けている。もう、導くべき子羊がいないことを理解出来ずに。
 精神が乱される感覚と吐き気にラジエルはすぐに能力の行使をやめて、悪態をついた。 
「あの」
 沈黙に沈む室内で次に声をあげたのはハニエルだった。意外な仲間が声をあげたことで、彼に一斉に視線が集まりハニエルが怯えたそぶりを見せたが、震えた声で切り出す。
「皆さん、は、どうしますか」
 結局の所、本題はそこだった。自分たちはどうするべきなのか、答えが出ないままここにいる。しかし、猶予が無いことも分かっていた。
 戦わず、他の皆のように逃げるということも出来る。
「でもさ」
 ラジエルがぽつりと呟く。言葉を続けるか否かを一瞬迷い、口を開いた。
「もう俺達、どこにも行けないじゃん」
 ラジエルの言葉に、サンダルフォンは息を呑み、サマエルははっとラジエルを見つめた。ハニエルは軽く唇を噛んで、一瞬ザドギエルに視線をやったがすぐに逸らし、ザドギエルは目を伏せ何かを考えているようだった。
 皆、理解しているのだ。
 常人ならざる異能を持って生まれながら、身寄りのなくした子どもの唯一の居場所がここだったという事を。毒を持つ者や、人を魅了する瞳を持つ者、全てを見通してしまう者、常人ならざる力を持つ者が今更――普通の人々に受け入れられるだろうか?
 答えずとも、理解していた。
「だがオレ達は『教会』、いや、ミカエルの考えにはもう従えない。そうだろう、皆」
 サンダルフォンの言葉に四人が頷く。
 自分達の運命、末路はおおよそ決まっている。ただ、それまでに何をするか。
「俺は」
 言葉少なだったサマエルが口を開いた。
「俺は、やらなければならないことがある」
 膝の上に置いた手を握りしめ言い放つサマエルを、サンダルフォンが見つめる。
 恐らく、いつの日かに遭遇した敵――彼の死んだ幼馴染みの、成れの果ての事だろう。あの時のサマエルの様子を思い出しそしてサンダルフォンも、今あの場所にいる親友のことを思い、瞑目した。そしてゆっくりと、目を開く。
「ねえ、我が儘を言ってもいいかな」

 話し合いが済んで、解散する。
 ラジエルは伸びをしてから立ち上がって階段を上がり、ザドギエルものろりと席を立った。そして俯いたままのハニエルをちらりと見てから自室へと戻っていく彼の背中を見送った後、サマエルはハニエルに視線を向けた。
「ハニエ」
「おやすみなさい」
 サマエルの言葉より一歩早くハニエルが立ち上がり、逃げるように階段を上がっていく。引き留めることも出来ないまま、階段へと消える仲間の背中を見送り、サンダルフォンは小さく息を吐いた。
……どうすれば良かったのか、ずっと考えてる」
…………ああ」
「後悔ばかりだ」
「お前が弱音とは――いや、悪い。吐くなというわけじゃないんだ」
 言葉を選びながら励まそうとするサマエルに、サンダルフォンが苦笑いをする。
 いいんだ、と首を振ってそれから、目を伏せた。
……何も、守れなかった」
 サンダルフォンの絞り出すような声が、室内に落ちた。

 
 明後日にはレジスタンス達率いる民衆が聖都になだれ込む算段だという知らせがあった。レジスタンス達の制御からすら外れつつある怒れる民衆が、どういった行動に出るかは想像に難くない。
 今日、明日が聖都に住まう人間が生き延びる為に行動出来る最後の機会だった。
 自分達は生じるであろう混乱に乗じて動くと、レジスタンスのベリアルに鳩を飛ばした。各々が心の内に決めたことを成すだけだ、と。
 ――後は、分からない。
 数日後には新しい世界が、秩序が生まれているだろう。
 若き使徒達がそれを見ることも、昇る太陽の光を浴びることもきっと無い。仲間の誰かが、見てくれればと願ってはいるものの、自分がそれを見たいと思うことは無かった。 
 恐らく皆、死ぬのだろう。
 寄宿舎には朝から誰もいない。限られた最後の自由を思い思いに過ごしているらしい。
 サマエルも、そのつもりだった。

 破滅の時が差し迫っているのにもかかわらず、神学校の敷地は穏やかな春の陽気に包まれている。つい今し方、昼だというのに黒い外套に身を包んだ何人かの人間が馬で駆けていくのを見かけたぐらいだ。もうここに残る者は少数なのだろう。
 それが余計に、静謐な場所を静まりかえらせていた。
 柔らかい日差しの中で歩いていると、鳩舎の扉を開けるハニエルを見かけた。
 つい昨夜まで塞ぎ込んでいた彼が、何かの決心をしたように重たい扉を開ける姿を見て、思わずサマエルの足はそちらに向かった。 
 中に入ると小柄な身体で重たい木の窓を一つずつ開け放つハニエルがいる。
「誰かに手紙を出すのか?」
 自然と出てきた疑問を口にするも、すぐに自分の問いの愚かさに気づいてサマエルは眉を寄せた。
 いったい今更になって、手紙を出さなければいけない宛てが自分達にいるだろうか?
「違うんです」
……そうか、すまない」
「皆を逃がさないとって、気がついたんです」
 答えるハニエルの声はどこか切羽詰まったようなものだった。
 ごとん、とようやく開いた窓から差し込むうららかな陽光が、鳩舎の中を更に明るくさせた。微睡んでいた白鳩達がくるくると鳴いて、首を傾げている。
「明日になったらここに火が降り注ぐって、皆が言っています……だから……
 最後の窓を開けたハニエルがゆっくりと呼吸をする。
「だから……皆に逃げてって言いに来たんです。ここから自由になっても皆……鷹や狐に殺されるかもしれないのは分かっています。でも、もしかしたら……どこか遠くに……飛び去ってくれたら……」 
 独り言のように呟くハニエルの肩に、白鳩がとまる。それぞれに名前をつけて世話をしていたのだから、懐くのも道理なのだろう。
「突然降ってきた火に殺されるよりは、いいんです」
 サマエルに向き直ったハニエルがいつになく強い声色で言い切ったのに、サマエルは紅い目を見開いた。ハニエルのまなざしは何かを決意したような異様な光を孕んでいたがそれがどういった思いなのかを察する為の理由を、サマエルは持っていない。
 ただ、ひどく控えめなこの男がここまでの様子なのであれば、そうなのだろうと納得するに値する雰囲気をハニエルは纏っていた。
 サマエルが黙ったままハニエルを凝視すれば、ふつと張り詰めた空気を緩ませて肩にとまった白鳩を手に辿らせ、ハニエルは窓に歩み寄る。
……いい天気ですね」
「ああ…………飛んでいくにはちょうどいい」
 穏やかな春の空だ。優しく眠たげな青に、柔らかな陽光。それを受けるハニエルのリラ色の髪が、淡い光をともなって揺れた。 
「ほら、行ってください」
 白鳩を窓の外に放つ。青空へと羽ばたいていく仲間を見てか、鳩舎に留まっていた白鳩たちも、一羽、二羽と窓をくぐり、飛び去っていく。
 その拍子に、純白の羽根がひらり、ひらりと落ちてきた。そのひとつが、今まで愛でていた白鳩たちを見送ったまま沈黙を守るハニエルの頭にそっと、寄り添うようにひっついたのを数秒眺め、サマエルは鳩舎を後にしたのだった。
 

 鍵は、もう必要ないようだ。
 
 目の前には強い力で破壊された錠が、扉の前に散らばり落ちている。開架時間以外は厳重に閉めきられていた扉も開け放されたままの状態で放置されていた。
 恐らく中の状態も酷いものだろう。
 小さくため息を吐いて意を決したのち一歩踏み込めば、案の定ひどい荒れようだった。
 規則に沿って並べられていた書物たちは好き好きに引っ張り出され、静かに本を読むためのテーブルに無造作に積み上げられている。
 少しでも揺らせば崩れ落ちる本の塔になったものはまだマシで、床にうち捨てられ踏み荒らされたものもあった。
 今まで許されなかったことが、容易く起こってしまったことに軽い目眩を覚えながら、しかしサマエルは、これをしでかした人々に怒りを向ける気には到底、なれなかった。
 目にとまった本を拾い上げ、埃を落としてテーブルに置く。図書委員として作業をしていたカウンターに歩み寄れば、例外なくそこも荒らされていた。
 貸出票も日誌も無残な姿で散らばっている。
 インク瓶は割れ、黒い液体が紙とテーブル、床を汚しているのが目に入り、鬱々とした気持ちでカウンターから周囲を見渡す。人影はいない。
 恐らく荒らしきって、目的のものが見つかったか否かは分からないが用済みになったのだろう。きっともう、ここを訪れる者は自分以外――居ないはずだ。
 静まりかえった図書室の中を見て回る。
 割れた窓からは柔らかい風が吹き込んで、ところどころ破れた本のページをはらはらと捲っている。誰かの衝動のまま倒された本棚は、そこに行儀良く収まっていた書物達を下敷きにしていた。
 ――不意に、ひとつの小さな本棚が目に入った。
 サマエルにとっては馴染みのあるもので、そしてそれだけは全く荒らされておらず、荒れた空間の中でぽつんと、佇んでいた。
 そこに収められた書物もいっさい触れられていないようで、ぴしりと整列している。理由は明確だった。絵本だけを収めた、本棚だからだ。
 小さな使徒がとりやすいように背を低くしたもので、鮮やかな色合いの背表紙達は小さな手に取られるのを今も、けなげに待っているようだった。
 その光景を見た瞬間、サマエルの内に重い、息苦しいものが落ちた。
 この愛らしくもかしこい、世界を色鮮やかに見せてくれるもの達が読まれる事はもう二度と来ないのだと、理解したからだ。
 本棚の目の前で膝をつき、呆然としながら木製の枠を撫で、絵本の背を指先で触れた。ああ、これも明日燃えるのか。再び悟った瞬間、強い悲しみが襲ってくる。 
 暫く言葉も無いまま、絵本達を眺める。それから、すまない、と小さく口にしてその場を去った。

 更に奥へ。あの禁書を収めた部屋の扉がある間へと向かう。
 自然と足がそこへと向かっていた。
 きっとあの、仲間が気に入っていた場所も荒らされているのだろうと諦めと共に足を踏み入れば、最初に目にしたのは開かずの扉――だったものだ。
 今や開かれたそれの奥、禁書架は暗闇を抱いたまま洞穴のように人を誘う。恐らく誰かが入り口と同じように鍵を壊し、そこに入ったのだろう。
 末端の使徒では目にすることも出来ないような資料や書物は、恐らく既に持ち去られたに違いない。それがたどり着く先は商人か、それともレジスタンスか。
 どちらにせよ、持ち去った者にとって書物の内容自体は目的ではないはずだ。
 それから、ザドギエルがいた。
 いつも通りに、あの長椅子に座り読書をしている。変わったことといえば、周囲は荒らされ、長椅子から臨む窓も割られているぐらいだ。
 あの長椅子とローテーブルは傷つけられているとはいえ、無事であった。
……
 ぱら、と紙を捲る音ひとつ聞きながら、サマエルはザドギエルを凝視した。
 ――出すべき言葉が見つからないまま。
「開いていたから入ったよ」
 ザドギエルの声色は普段と変わらなかった。ぴくりと肩が跳ね、一瞬反応を遅らせてサマエルが別にいいと答えればゆるく肩を揺らし、ザドギエルが笑う。
「今日読み終えとかないとさ」
 もう読めなくなるだろ。その声はもう明日には馬車で遠くに旅立つからといったような、調子の軽いものだった。
 それにどう答えればいいのか、サマエルには分からなかった。分からないまま立ちすくんで、仲間が読書をする様子をじっと、見つめているだけだ。
 すると不意に、読んでいたものから目を離してザドギエルがこちらを向いた。
 暫くサマエルの顔を眺め、口を開く。
 入らないのかって顔をしてるな。そう言われ、曖昧に頷く。 
「まあ少しは興味があるよ。でもそれより」
 こいつを読み終わることが大切だから。
 言い切るザドギエルの指が紙面を撫でる。
 そうか、と納得し、サマエルはようやく仲間の隣に座った。
 ちらりと見た手元、本の残りはもう僅かだ。この本が彼が最期に読むものになる、そういった感傷が不意にサマエルに降りかかった。
 明日になれば、自分達はきっと死ぬ。
 ここも、炎に包まれるか瓦礫に埋もれるのだろう。それを思った瞬間、荒らされたこの場所を見た時に感じた嫌悪や、虚しさとは違った何かがよぎった。
 嫌だ。しかし、どうにもならない。
 ここに住まう数多の書物達に自分がしてやれることは、何も無い。
 無力感。自己嫌悪。絶望よりは軽い、悲観。
 そういったものがサマエルの心の内で波のようにひいては寄せた。
「死にたくない?」
 ザドギエルが目で文字を追いながら、問いかける。
 その声は暢気で、明日の授業に出たくないのかと確かめるようなものだった。質問の内容とは裏腹に、ふわふわと軽い。
 しかしサマエルは咎めずに、暫く割れた窓の外を眺め、そして小さく首を振った。
 死にたくない、なんてこの期に及んで思うはずがない。ただ。
「そうじゃない。ただ、…………惜しいだけだ。今更、妙だな」
 自分の心の揺らぎが分からないと、サマエルが自嘲する。ザドギエルは微かに目を細め、言葉を探しているようだった。
……俺もだよ、サマエル。なんて言えばいいか……そう、少し、寂しい、かな」
 寂しい。
 確かにそれが一番近い感情なのかもしれない。
 死への畏れでも、運命への怨嗟でも、やけになった末の嘲笑でもない。
 ただ、寂しい。ここで過ごす事が、出来なくなる。それがただただ、寂しい。
 寂しい。
 サマエルが確かめるようにひとつ呟くのをザドギエルが肯定する。 
 寂しいもの同士、ちょうど良かったなと冗談を吐けば、サマエルは紅い目をそっと伏せた。その様子にふと、ザドギエルは思いついたように視線を上げた。
「でもお前がここに来るかどうかは、ちょっとだけ……賭けだったな。でもお前は本当に来た。いつも通りの時間にね。……流石に今日は鐘、鳴らなかったな」
 その言葉にぴくりと身体を跳ねさせ、サマエルが恥ずかしげに仄かに頬を染める。
「今日は……当番だったんだ。分かっている、意味がないことぐらい……俺にだって分かる。ここもこんなことになったし、明日になれば…………だが俺は……知っている以上、来なければと思ったんだ。愚かだと笑ってくれても別に、いい」
「そういう、くそ真面目なお前が好きだよ、サマエル。……さいごまでここに来てくれて、俺は嬉しいんだ。お前を愚かだと言う奴がいたら、ぶっ飛ばしてやるさ」
 あはは、とザドギエルが楽しげに笑う。
 青い目が僅かな獰猛さを孕んできゅっと細められる様を見ればサマエルは気恥ずかしそうに視線を彷徨わせ、お前だってと言い返した。
「俺も、お前はいるかもしれないと考えた。お前と同じ賭けを心のどこかでしていたんだ。あまり期待はしていなかったが。……だが、お前はいて……驚いた」
「言っただろ。読み終えとかないとって」
 ザドギエルが言い切り、沈黙が下りる。
 紙が捲られる音と、ザドギエルの小さく息を零す音が聞こえて、目の奥がじわりと熱を帯びた。あと数ページ。あとほんの、数ページ。
 読み終えればこの男は、ここを去るだろう。もう二度とこの長椅子に身を預け、綴られた言葉を追う彼の姿が見られなくなる。
 嫌だ。寂しい。
「ザドギエル」
 仲間が最後のページへと指をかけようとした瞬間、サマエルは思わず声をあげて、その腕を掴んだ。その勢いに驚いたようにザドギエルは目を見開いている。
 人の読書を邪魔するだなんて、図書委員としてあるまじきだと自己嫌悪が過ったが、それすらもサマエルは振り切った。
 もう、猶予は無いのだ。
「少しだけ。もう少しだけでいい、頼む」
 ここで。 
 微かに震えた声で懇願するサマエルを、穏やかで深く青い目が見つめる。
 ここで、ぽつりと呟いたザドギエルは静かに、本をローテーブルに置いた。

 がっしりと骨張った手は、冷たかった。
 ためらいがちに重ねてきた手は、熱かった。
 お互い、それを拒むことなく、二人はそのまま窓を眺めていた。復活祭を迎えるこの時期特有の、眠たげな夜風が割れた窓から吹き込んでいて、窓を覆っていたカーテンも、今は床に落ちてくしゃくしゃになっている。
 風通しの良くなったそこからは、星空がよく見えた。
 幾度となく動乱の歴史を見下ろしてきた星々は、明日起こる滅びの中でも瞬く光ひとつ変えずにいるに違いない。
 そう思うと、心がふっと軽くなった。ああ、あれらはどうなっても変わらないのだ。あそこに一際輝いている星は、明日も、一ヶ月先も、一年先も、百年先だって、今の自分達と同じような誰かの眼差しを受け止めているのだろう。
「あの大聖堂、きっとボロボロになるんだろうな」
 ふと思いついたようにザドギエルが呟く。
 彼が指しているのは聖域の中で一番大きな、大聖堂のことだ。昼も夜も白亜に輝く、『教会』の力と信仰の象徴。
 今となってはその純白も欺瞞を隠すものでしかなかったのだろう。
 故にそれも明日になれば、レジスタンスに率いられた民衆に攻め入られ、泥と煤に塗れることになる。
 陽の光を取り込んで鮮やかに輝く薔薇窓も、秩序よく並んでいる長椅子も、祈りを捧げる人々を見守っていた美しい天使像も、全て瓦礫と化して貶められるのだ。
「せいせいする」
 同じような想像をしたらしいザドギエルが嗤い、しかし暫く口をへの字に曲げてから、でも、と呟いた。
「サンダルフォンは……悲しむだろうね」
…………そうだな」
 あいつはあそこを気に入っていたから。毎朝欠かさず、祈りを捧げていた仲間を思う。
 もしかすると、彼はあそこで一夜を過ごすかもしれないとふと、考えた。 
 そうであるなら彼は何に、誰のために祈りを捧げるのだろうかと考えて、しかし答えを出すことが出来ないままザドギエルは、目を瞑った。
「あそこが無くなってもサンダルフォンは祈るだろうさ」
「それ分かるなぁ。国中の礼拝堂が壊されてもサンダルフォンは祈りを欠かさないだろうね。別に神様とか、祈りとかどうでもいいんだけど……俺はサンダルフォンにはずっと祈って欲しかった。いや、欲しい」
「それは……お前の為にか?」
「〝御身の加護が、皆に等しく吹き渡りますように〟」
 ザドギエルの唇が聖句を唱える。
 神に仕える身であってもめったに口に出さない彼が、それを呟いたのに僅かな驚きと、さいわいを感じてサマエルは軽く肩を揺らした。
 そしてふと、顔を上げる。
「ハニエルが」
 サマエルが口にした仲間の名前に、ザドギエルは微かに身体を跳ねさせた。
 それに気づかないふりをしつつ、話を続ける。
「鳩舎で飼っていた鳩を全て逃がした」
 ここに来るまでに出会った仲間の行動を聞いて、ザドギエルは窓の外をぼんやりと眺めながら、サマエルの語る顛末に耳を傾け、頷いた。
「そう、それは……いいね。きっと善いことだよ」
 僅かな緊張を見せていたザドギエルの表情がふっと和らぐ。
 この男とあの大人しい仲間は任務上でよく組む仲間で、同じような関係のサマエルとラジエルよりもずっと上手くいっていると思っていた。
 しかし今、この状況になってサマエルが感じ取ったのは二人の間には目に見えない、もしかすると本人達ですら真の理解に至っていないような、深く埋めがたい裂け目が横たわっている、ということだった。
 それは明日までに片付くのか? と隣の男に聞いたところで、おそらく苦笑いをして首を横に振るだろう。
 少なくともザドギエルはハニエルをずっと気にかけながら、最後の一歩を踏み出せずにいる。 
「ハニエルが言っていた。鷹や狐に食われるかもしれないが、降ってきた火から逃げることも出来ないまま焼け死ぬよりはマシだと……もしかすると、生き残るかもしれないからと」
…………
 サマエルの言葉にザドギエルがひとつ、瞬きをする。膝の上で組んでいた手に一瞬、力がこもり、それから緩んだ。
「優しいだろ、あいつは」
「ああ」
「生き残ると思う?」
……ハニエルが、か?」
「違う。ハニエルが逃がした鳩。ハニエルが言うとおり、何羽かは死ぬだろうけどね」
 ザドギエルの問いに暫く思案する。ハニエルが開け放った窓から飛び立っていった何羽もの鳩の姿を思い出した。純白の羽根を力強く羽ばたかせ、快晴の空へとまっすぐに飛んでいった彼らは、あの時確かに自由になったのだ。 
「生き延びればいいと思う。どこか無事な都市にたどり着いて、そこで優しい人に餌を貰えればいい」
 ひどく他人任せだが、とサマエルが付け足せばザドギエルは満足そうに、そうだね、と相づちをうった。
「俺もそう思うよ。……どうせなら生き延びて欲しいな」
 ぽつりと呟いた先が誰であるのか曖昧だとサマエルは感じ、もしかするとザドギエルは、白鳩にも、ハニエルにも生き延びて欲しいのではとそんな考えがよぎった。
 そう願うことは悪いことではない。ただ、叶うかどうかはまた別の話だ。
 それを理解しているからこそ、言葉の先を曖昧にしたのだろう。
「ラジエルがどこにいったか、知っているか?」
 ふと自分の相方の姿を朝以来見かけていないことに気がついた。
 寄宿舎を出て行く際に、街にも行けないし、気になってたシスターの子も逃げちゃったからなあと退屈げにぼやいていたのを聞いた限り、いつも通りといった様子だった。
 いや、それも彼なりの強がりなのかもしれない。
 
 ――でもさ、もうオレ達どこにも行けないじゃん。

 昨夜、ラジエルが仲間達に言い放った一言がよぎる。
 それを口にした時の、ラジエルの顔が脳裏にありありと浮かんだ。ともすれば五月蠅いぐらいにころころと表情を変えがちな彼の、すとん、と諦めに染まった顔。怒りや悲しみすら無くした、諦観の顔。
 終わりを悟った、ベイビーブルー。
 普段の自分であれば瞬間、ラジエルの胸ぐらを掴んで拳を見舞っていたのかもしれない。お前がそんな顔をするな、どうすればいいか分からなくなる。
 そう怒鳴って、取っ組み合いの喧嘩になっていただろうか。
 そしてハニエルが怯えて、ザドギエルがため息を吐きながら止めに入って、サンダルフォンが呆れたようにその顛末を見守るのだ。
 そうならなかったのはお互い、あの場にいた五人も殆ど同じ感情を有していたからだ。
……ここに来るまでにすれ違ったよ。散歩をしていたみたいだけど」
 ラジエルが向かっていったのは神学校の敷地にある共同墓地。
 手に持っていたのは寄宿舎にあった五人分の、紅茶を飲むときに使う小さなカトラリーが入った箱だった、という言葉を飲み込みながらザドギエルが答える。
 それを持ち出してどうするかなんて、聞けなかった。
「散歩か。やっていることは普段とたいして変わらないな。目当てが修道女達じゃないこと以外は、だが」
 散歩という言葉に少し安堵したかのようにサマエルが呟く。そうだね、とザドギエルはそのまま、肯定した。それからふとあることを思い出し、ザドギエルは眉尻を下げた。
「シスターには悪いことをしたよ」
 ああ、とサマエルが頷く。
 シスター・ゴーはレジスタンスに保護して貰った。お願いだから生き延びてほしいとサンダルフォン達に告げられた彼女はいつもの〝敬虔で慎ましい〟修道女の顔をかなぐり捨て、拒否を示した。
 使徒五人がかりの説得でも、頑なに頷かなかった彼女をついにはザドギエルが気絶させて、混乱に包まれつつあった聖都の外であの三人――の専属神父だったアラヤシキに預けたのだ。きっと今頃、手荒なまねをした自分に怒り狂っているだろうと苦笑いするザドギエルに、しょうがないさ、とサマエルが慰める。
「彼女を死なせたらオレ達は皆、後悔する」
「うん……でもシスターにその後悔を押しつけてしまったんじゃないかって、少しだけ思うよ」
「それは……もう後で怒られるしかないだろうな。いつになるかは分からないが」
 サマエルにしては珍しく澄ました言い草に、それならいいね、とザドギエルがくすくすと笑った。

 それから、たわいの無い話をいくつか交わした。

 街で一番の美味しさだと五人が口を揃えたパン屋は無事だといい、結局のところ数日前に出された宿題を片付けなくても良さそうだ、春先でこんなにも暖かいのだから、きっと夏は暑くなるだろう、そういった些細で、自分達が知り得ないであろう未来の話を蝋燭の灯りが柔らかく照らす中、ぽつり、ぽつりと語り合った。
 そうしてとうとう、訪れたのは沈黙で。言葉もないまま二人は窓の外を眺め、暫く無為な時間を過ごした。
 先に動いたのはザドギエルだった。あの冷たくもがっしりとした手が、サマエルの手から離れ、置いていた書物を再び取り、最後のページを開く。
 サマエルは今度こそ、止めなかった。再び目を伏せてそれを読み出したザドギエルの隣で、すっかり短くなってしまった蝋燭の、ゆらゆらと揺れる灯を微動だにしないまま眺める。そうやってザドギエルの読書の終わりをじっと、待っていた。

――いい話だった」
 ついに、読み終えたらしい。
 満足げに呟きながらザドギエルがぱたりと本を閉じる。書物の装丁を眺め、それを愛おしげに撫でてからそっと、ローテーブルに置いた。そのまま背もたれに身を預けて、目を瞑る。サマエルは何も言わず、そんなザドギエルの姿を見つめた。
「もう少ししたら、帰ろう」
 ザドギエルの言葉に、サマエルはひとつ、頷いた。

 
 それが、昨晩の話だ。