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ツキシキ
2023-07-01 22:03:50
117641文字
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★天使のうつわ・おばけと魔法とまとめ
13作品。「空想地球儀」作品の二次創作。
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こわがり子どもは今夜こそ(おばけと魔法と)
シロク×フェルメール。子ども返りするフェルメールさんと優しいシロクさん。
____________
「こわい夢をみませんように」
そう祈るのがフェルメールの寝る前の習慣だった。
記憶も遠く遠くの小さな頃は、誰かの大きな手や優しい声が、怖がりの彼女をそっとなだめて寝かしつけてくれていた────ような気がするのだけれど。今となっては彼女も、ベッドにも独りで入れるような大人になってしまっていて、だから彼女のささやかな不安は撫でて静められることはないのだった。
彼女にとってこわいものはたくさんある。暗がりに潜むよくわからないもの、見えないところで勝手に動く何か。シンプルに一言で表すならユウレイと呼ばれる不定形の恐怖がいつも彼女の心を寒がらせた。
けれどもその日、彼女を一番こわがらせたのはゆうれいでもなければポルターガイストでもなく、とある風景だった。たった一枚の落書きで表せそうほど、単純な。
◇◇◇
びゅぉう、と風が吹く。締め切っている窓硝子が吹かれて軋み、そこに叩きつけられる雨が乱暴な音を立てる。騒がしい夜だった。
「あっ
…………
」
そんな中、フェルメールの零した声は外の喧騒に比べてひどくか細いものだった。目覚めの戸惑いを示す声は、誰にも聞き咎められることなく紛れて消える。
フェルメールは今いる場所を確かめるように瞬きをした。代わり映えのない天井、点けっぱなしにしている薄ぼんやりとした灯り。まだ頭が重く、身体は気だるい。無理やり動かされた喉は妙にひりついている。動きたがらないフェルメールの身体をそのまま夢へと引き戻すように、脳は先ほどまで居た夢を反芻するように再生し始める。
────また、こわい夢。
心が冷える風景。フェルメールは強くシーツを掴む。頭の上まですっぽり隠してしまえば、自分の体温であたためられた、自分だけしかいない安全地帯が出来上がる。しかしその盾はあまりに薄く頼りない。ぬくもりに包まれているはずなのに震えがいつまでも止んでくれず、フェルメールは身体を丸める。こもった空気が息苦しい。けれどそれらの不快感はフェルメールにとって都合のよいものだった。寝苦しければ寝苦しいほど良い。悪夢の続きを見ずに済む。
フェルメールは夢へのゆるやかな誘い手が霧散するまでそうしていた。悪天候が奏でる叫び声が大きくなっていき、意識がクリアになっていく。そうして寝ぼけた頭が冴え出してようやく、フェルメールはもぞもぞと動き出した。見えもしない何かを確かめるようにシーツからひょこりと顔を出せば、酸素不足の口元が自然と大きく息を吸い込んだ。
起きてからどのくらい経ったのかはわからないが、きっと朝はまだまだ先だろう。明日もフェルメールのやることは山積みで、きちんと身体を休めなければ皆に迷惑をかけてしまう
……
そこはわかっているのだけれど。
フェルメールはどうしてもそんな事実をごまかしたくて、身体にまとわりつくシーツを捲った。寝汗もかいたし喉も渇いたし、外は賑やかだからあまりちゃんとは寝つけなさそう。そういう言い訳をしながら、いったん身を起こしてベッドに腰かける。
ベッドサイドには日頃からお弁当箱とセットで愛用している水筒を置いていた。中には作り置きしてあるハーブティが入っている。以前、夜の不安をつい零してしまった際にベルガモットが紹介してくれたものだ。「気持ちを休めてくれる」というおまじないのような言葉と共に。魔法と違って即効性はないけれど、そのくらいの緩く優しい効果のほうがフェルメールにとってはありがたかった。
ゆっくりと時間をかけて、喉を鳴らす。窓は未だに雨風に叩かれて続けている。
様々な音が入り混じる中、昔の記憶が呼び起こされる。
◇◇◇
────こわい夢を見たんです。
今よりフェルメールがずっと小さかった頃。周りの大人に恐縮し、同年代の子どもはおらず、気がなかなか休まらなかった日々。せめて羽を伸ばせればと一人部屋をあてがわれたフェルメールはしかし、その心細さに怯えていた。だから皆が寝静まった夜半、人恋しさに廊下を彷徨うことがしばしばあった。
怯えがちのそろそろとした歩みは、決まって身近な恩人の元へと向かっていた。あの時のドアノブはずいぶんと大きかったし、部屋の扉は夜に見るといっそう影を濃くして重厚に見えた。でも、勇気を出してそっとフェルメールがドアを開ければ、求めていた相手、総帥がそこにいてくれた。猫のもんぺがにゃおと鳴く、少し不満げなあの声が、何故だか今でも鮮明に思い出せる。
どうしました、そう尋ねられてフェルメールはいつも震える声で答えた。そしてフェルメールの子どもじみた不安を、総帥は言葉で慰めてくれたのだった。
────こわい夢をみませんように。
それは昔からフェルメールがよく聞いていた言葉だった。遠い生家との共通点はフェルメールの心を温かくさせて、その魔法の言葉でフェルメールはやっと穏やかに眠りにつくことができた。
◇◇◇
今となってはフェルメールもすっかり大人で、仕事の関係で夜更かしをすることだってあるし、一人で眠るのも当たり前。夜はなんら恐ろしいものではない。そう、たかが夢を見たくらいで何がどう変わるわけでもないのだ。
「
……
あ」
変わるわけでもない、はずなのに。
両手で抱えていたハーブティに、ぽつり、零れた雫が波紋を作った。どうして、と思う間もなく、揺れた水面が妙に心を掻き毟ってしまって、そうなるともう止まらなくて、苦しさも嫌な感じも和らいだはずなのに目頭が熱くって、ぽたぽたと零れ続けるそれを止めなければと、思うと同時に顎をつたう。
たかが夢を見ただけなのに。
自分を叱咤するようにそう考えると、逆に涙の勢いは増してしまった。疲れた体も痛む頭も賑やかな外の音も、なんだか全てがしんどくなってしまって、フェルメールは何よりも自分のこういう弱気なところが辛くって、だからそれを自覚させられるこわい夢が大嫌いなのだ。
ただ手元のハーブティの仄かなぬくもりだけがフェルメールの味方のような気がしてしまって、両手がティーカップへすがるように張り付いてしまうから顔を拭うことすらままならない。
これではだめ、これではだめ。こんなことではいけない。フェルメールは無理やり掌を引き離して、大きく深呼吸をする。早く平気にならなくては。こんなこと日常茶飯事なのだから。
「ひっく」
けれども身体はちっともフェルメールの言うことを聞いてくれなくて、一度しゃくりあげてしまうともう駄目だった。頭のすみっこが締めつけられるような感じがする。大人なのだからとか大丈夫だからとか、そんなちっぽけな慰めが涙を流す度に剥がれ落ちていって、冷めかけたハーブティすら虚しさの象徴でしかないと、思ってしまったら両手は容易に引き離された。顔を覆い、目元を何度も擦り、拭いても拭いても溢れる雫が、フェルメールを子どもに戻していってしまう。
何がそんなに悲しいの。
そうやって自問を重ねて懸命に大人の理性を手繰り寄せようとしても、ちっともうまくいかない。何を甘えたことをと叱咤してやるべきなのに。自分ですら何がここまで溢れ出ているのかわからない。
フェルメールはいやいやをするように首を振り、胸の奥、込み上げる苦しさから逃げ出すように部屋を出た。
◇◇◇
総帥の部屋、ベルガモットの部屋。
フェルメールの足は踏み出しかけては止まりを繰り返し、結局どちらのところにも辿りつかず、迷子のようにふらつきながら階段のほうへと向かう。
階段には誰もおらず、宇宙竜の像だけが黙って睨みをきかせていた。その鋭い目つきにフェルメールは責められているような気分になる。そんなのはもちろん思いこみのはずなのだけれど、弱りきったフェルメールはそれを誤魔化し笑いで流す余裕すらもなくて、ただ逃げ出すように背を向けて階段を駆け降りた。
三階は静かだった。窓を離れたせいか悪天候の喧騒は遠く、客人が少ないせいか人の気配も無い。泣き腫らした姿を見咎められないことだけが救いだった。焦りと共に動かされていたフェルメールの足は、廊下を歩く度ゆっくりと遅くなっていく。そしてとある扉の前で、力を失ったかのように止まってしまった。そこはフェルメールの頭の隅にあった目的地のうちの一つだったけれど、同時に、行ってはいけない場所でもあった。
がらんどうの客室が続く中、唯一埋まっているそこはシロクの部屋である。
小さい頃を思い出せばフェルメールの頭と同じ高さにあったドアノブも、今は少し手を伸ばすだけで動かせる位置にある。もし不躾にドアノブを捻ったとしても、驚かれはするかもしれないけれど、きっとシロクはフェルメールをすんなりと迎え入れてくれることだろう。一人で勝手に疲れ果てて、未だに自力で悪夢から抜けだす術を知らない自分に、シロクはきっとどこまでも優しい。だからこそフェルメールは、その場で立ち往生してしまう。
そう、だから。
こうやってひとりでにドアが開かない限り、フェルメールは立ちすくんだまま朝を迎えていたかもしれなかった。
「
…………
フェルメールさん?」
そこに居たのは今まさに会いたくて会ってはいけない人だった。いぶかしげな声に応えることもできないまま、フェルメールはただぼんやりと目の前を見つめる。あまりにぴったりのタイミングだったから、今この時も夢なんじゃないかと疑いたくなるくらいだった。けれども、見つめているシロクの顔がだんだんと深刻さを増してきたので、自分のこの考えも現実逃避にすぎないと思いなおす。
心配を、かけないうちに。きちんと応えて平気な顔して帰らなければ。大したことない問題だということは誰よりも自分が理解しているのだから。
「こ、」
軽く流すはずの言葉は、初めの一音で途切れてしまった。言葉が鉛のように重たくて喉が詰まって、迷惑とか情けないとかそんな言い訳が全部、表に出せないまま沈みこんでいく。
普通では無いフェルメールの様子を察してか、シロクはこちらを気遣うような瞳でフェルメールを見つめ返す。それでも黙って言葉を待っていてくれるから、そんな優しさがまたフェルメールの精いっぱいの拙い虚勢を崩していってしまう。声が上手く声にならなくて、吐息に合わせてやっとのことで、震える音が乗せられる。
「こわいゆめを、みたんです」
言って、言い切ってしまったとたん、フェルメールの中でずっと息苦しくわだかまっていたそれがますます大きさを増してしまって、最後の壁は壊れてしまう。一度は収まったはずの涙が、堰を切って込み上げる。
こわかった。
きっと人からすればなんてことないことだけれど、何よりもこわいことだった。だからフェルメールはもう、身を縮めて小さな子どもになるしかないのだった。そしてそのためには、安心できる大人が必要だった。誰よりも優しくていつもフェルメールの傍に居てくれる、そんな大人が。
フェルメールの理想の大人はこう言った。
「どんな夢だったんですか?」
怒るでもなく叱るでもなく、不満の一欠片も見せずにそう言うものだから、フェルメールは気負うことなく子どもになれた。鼻をすすって首を何度も横に振って駄々をこねる。とてもとてもこわかった。だからこそ思い出したくないし、話したくない。でも黙っていては耐えられない。ぐずるフェルメールを諭すように、シロクは言葉を続ける。
「
……
フェルメールさん、夢って人に話すと現実にはならないそうですよ。だから、オレに話してみませんか。それで全部、なかったことにしちゃいましょう」
「でも、でもシロクさん。思い出すのもこわいんです」
「それじゃあ、その後いっぱい楽しいことを考えましょうや。大丈夫、フェルメールさんは想像力豊かなほうだと思うんで」
ぐずぐずになったフェルメールに対してシロクはあくまで自然体で、付け加えられた軽口もいつも通りだった。だからフェルメールの気分も少し傾いて、“こわい”で埋め尽くされていた中に、一人分の隙間が生まれてくれた。せっかくシロクが作ってくれたそんな隙間を押し広げるために、フェルメールはぽつぽつと言葉を紡ぎだす。
「
……
たった一人で、いるんです。草原みたいな場所で、ぽかぽかしてて、あたたかくて、なんだかとっても穏やかで。そこに私が────私だけで、いるんです」
「ふんふん。それで?」
「
…………
」
続きを促されて、フェルメールは俯いてしまった。
それで。
そう、それだけなのだ。恐ろしい化物が出てくるでも無い、世界が滅ぶでも無い、ユウレイすらも出て来ずに、場面が変わることも無くただ平穏と共に流れていく夢。
なのに何をこわがっているのか。それがわからないからこそなおさら不安は満ちていく。理由なんてなくとも“こわい”という気持ちだけは本物で、じくじくと息苦しさと共にフェルメールを苛んでいく。
フェルメールが黙りこくったことで答えを悟ったのか、シロクは思案げな表情になった。わけのわからないことを言い出す子どもに返す答えを悩んでいるような、気まずい間。
そんなはずはないと知りつつも、迷惑をかけている自覚もあって、フェルメールに不安の芽が生えてくる。困らせてしまって、支離滅裂なことを言って、呆れられてしまうのでは。
でも、シロクがパンと手を打った瞬間、弱気は逃げて行ってしまった。何せ、シロクの表情が普段通りの、自信ありげで飄々とした、頼れる顔に戻ったからだ。
「よし。じゃあフェルメールさん、こうしましょう」
「こう
……
と言うと
……
?」
「不安な時に一番効くのは、助けを呼ぶことです」
「助け、ですか」
「はい。めちゃくちゃ強くて、頼れて、どんな時でも絶対にフェルメールさんの味方になれる、そういうやつです。例えばオレとか」
フェルメールは促されるように想像する。あの“こわい”夢にシロクがいる風景。それは淹れたての紅茶で氷が瞬時に溶かされるような、とても大きな変化だ。
「なるほど」
「
…………
納得されてしまった。いや嬉しいですけども」
何故かシロクは苦笑しているが、その提案はフェルメールにとってまさに画期的の一言だった。
そもそもこうしてここに居る時点で、いざという時に助けを呼ぶ相手は、シロクだと決まっていたのだから。けれども苦笑するシロクを見て、今度は別のためらいが浮かび上がってくる。
「でも、シロクさん。ご迷惑ではないですか」
その質問は冷静に考えると意味がなくて、夢で呼ばれようが呼ばれまいが、本人は迷惑も何もない。それでも先ほどまで子どもだったフェルメールができた精いっぱいの気遣いがその問いであり、それは彼女が少しだけ大人を取り戻した証拠でもあった。
子どもはいつでもどこでも甘えられるけれども、大人は夜中に人を起こすような真似なんて許されないし、誰かの助けを求める前にまずは一人で踏ん張らなければいけない。フェルメールはいつだって、急に独りになったって大丈夫なよう、大人にならなければいけないのである。
それでもやっぱり、シロクはフェルメールの虚勢を全て見透かしていて、無意味な質問にもこう答えるのだった。
「オレはフェルメールさんの護衛ですから。呼ばれれば必ず飛んで行きますし、困ったら絶対に助けに行きますよ」
シロクのその言葉は絶対に、本当の本当だった。フェルメールは今までの生活でそれを身をもって実感していたのだから。
安堵の息を漏らすフェルメールを見て、シロクは励ましを後押しするように続ける。
「だから大丈夫です。それに今日みたいな時だってすぐオレのこと呼んでくれたら────あー、嬉しいんで、ね」
言葉の最後は何故だか誤魔化すように早口だったが、何より初めの言葉を聞けただけで、フェルメールの心に根を張ってじくじくと苛んでいたこわさは吹き飛んでしまった。
結局のところ安心できる言葉が欲しかっただけなのだから、子どもというには賢しらだ。一方大人というにはあからさますぎる。どちらにせよ中途半端で、だからもうフェルメールは、不安定な立ち位置にいるのをやめて思い切って飛び込んでしまうことにした。
「シロクさんシロクさん」
「なんでしょう?」
「おまじないを、してくれませんか」
「呪いですか? 魔法の類はオレはあんまり
……
」
「いえ、とっても簡単なのです。でも、シロクさんにしかできないと思います」
言いながら、フェルメールには嘘つきの自覚があった。本当は誰にだってできる。ただフェルメールがそうして欲しいからシロクを頼っている。かといってそれをいけないことだとはもう思っていなかった。だってシロクは本当の意味で、フェルメールのこわがりを許してくれる人なのだ。
フェルメールだって子どもではなかったから、本当は知っている。ごっこ遊びに付き合う大人はいつだってほどほどに適当で、子どもの不安もその場の事件もあくまで絵空事で、慰めは気休めと変わらない。
小さな頃、夜中に起こしてしまった総帥が実は心の裏側で不機嫌だったこと。心配をしてくれるベルガモットの裏側に、理由のわからない後ろめたさがあるらしいこと。それらはなんら悪いことではなくて、誰しも事情と気分があって当然のことで、フェルメールだって見ないふりをしていたけれど。それでもそれらに気付ける程度には、大人でいないといけなかった。
きっと一言で言うのなら。あの夢は“こわい”ではなく、“さみしい”だったのだと思う。
「で、オレはどうすればいいんですか?」
「まずは手を繋ぎます」
「おお。はい、どーぞ」
シロクの手は大きくて、大人の男の人らしくちょっと骨ばっていて、温かい。
「それで今から私が言う言葉を、同じように言って欲しいんです」
「はい」
「『こわい夢をみませんように』」
「
…………
」
フェルメールがそう言うと、シロクの目は丸くなった。そして少しの間を置いてから、委細承知したとばかりに微笑むと、フェルメールが想定していた言葉とは違う言葉を口にする。
「フェルメールさんが、楽しい夢をみれますように」
言葉が耳を通って、心の水面に落ちるまで。しばしの間、フェルメールは黙ってシロクを見つめていた。だから言葉が落ち切って、ようやく飲み込めたその時、また、フェルメールの瞳には涙が潤んでいたのだった。溢れ切ったものがそっと零れ出るように。
それは今まで誰にも言ってもらったことが無い、素敵なおまじないだった。
「フェルメールさん!? すみません、勝手に────」
フェルメールが泣きだしたのが悪かったのか、シロクは手順を変えたことを謝ろうとしていた。それを遮って、繋いだままの手をぎゅうと強く握る。
「ありがとうございます」
こわがりのフェルメールには不安なことがいくつもあった。
一つ遠のいたら二つ目が、二つ退けば三つ目が。それらの多くは取り越し苦労と言われたり、杞憂と言い換えられたりすることばかりだったのだけど、思いもよらない方向から湧き出てくる不安の水泡はぶつからなければ消えてくれないので、内向的なフェルメールはいつしか溺れ死んでしまうところだった。
それをこうやって、とても思いつかないようなやり方と、フェルメールにもできる単純さな解法で導いてくれるのが、シロクだった。
おまじないにかかったフェルメールは、自分から手を離す。絶望からではなく、信頼感から。もうこわくはなかった。だって、この言葉はティーカップと違って冷めることは無い。
「大丈夫ですか?」
「はい。今日はこれで、落ち着いて眠れそうです」
フェルメールはそう答えてようやく、にっこり笑顔になれた。シロクもそれ以上は追及せずに、二言三言の雑談をしてから、大人らしい余裕でもってフェルメールを見送ってくれる。
◇◇◇
自室への帰り道、見える外はやはり暗かったし、風はびゅうびゅうと吹いていて、フェルメールの周りは何も変わりはしなかった。けれどもベッドに入ったときの、小さなお祈りだけは一言、以前と大きく変わったことだった。
「『楽しい夢をみれますように』」
フェルメールはシーツを被ると、誰にともなく姿を隠してこっそり秘密を打ち明けるように囁く。言えば自然と頬が和らいだ。わくわくとして眠れなさそうなくらいだと、思った矢先にとろんと瞼が重くなる。
明日はまずシロクにお礼を言って、どんな夢を見たか報告して。夢を見なかったとしてもそこはそれ、久々にきちんと眠れたと言えばシロクは笑ってくれるだろう。そんなことを考えているうちに、明日の予定と眠気とが混濁して、意識はゆるやかに落ちていく。
夜にこわいと泣きだして、夜更かしに心をときめかせて、疲れたらぐっすり眠り込む。
そんな小さな子どもの寝息が、シーツの繭に包まれて溶けた。
<END>
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