kaisou
2026-01-28 20:18:12
18353文字
Public 1740年コンクラーヴェ話
 

Etiam clades est modus.  敗北さえも手段である

1740年コンクラーヴェ話別視点・2
倒錯的表現は楽しいなあ

※歴史創作ですのであしからず

▼1740年コンクラーヴェ話本篇まとめ
Aliquid est quod memoria mea non relinquit.
私の記憶を離れないものがある

https://privatter.me/user/kaisou_ja?category=110867

全7章/幕間含む
1740年コンクラーヴェ話の本篇その2
視点違いの2つの話のうちの1つ。



 コンクラーヴェ後。

 廊下はすでに静まり返り、見張りの足音も遠のいていた。二人が顔を合わせたのは、約束によるものでも、偶然でもない。そのどちらでもある必要のない場所だった。
「時間を要するかと思っていたが、案外、早かった」
 アルバーニが言った。皮肉ではない。感想でもない。事実を事実として量っただけの声だった。コルシーニは肩をすくめることもなく、視線を外したまま、淡々と答える。
「時を費やしていれば、別の御名が、いつしか場を占めていたでしょう」
……それは、ご意向とは、やや異なる流れだった、かな」
 アルバーニは、そこで初めて口元をわずかに緩めた。笑いと呼ぶには短く、乾いたものだった。
「私が拒んだ、その瞬間に、すでに趨勢は定まっていた、ということになる」
「いいえ」
 コルシーニは、即座には続けなかった。否定は早すぎる。肯定はまだ口にすべきでない。
「拒まれた時ではございません。拒む理由を、お語りにならなかった――その折です」
 その言葉は説明ではない。すでに起きたことに、逃げ場のない名称を与えるためのものだった。
……それは、あなたにとって、必ずしも心安い成り行きではなかった、という理解でよろしいかな」
 コルシーニは、首を振らない。同時にうなずきもしなかった。
「不都合というより――先行きが、読めなかったのです」
 コルシーニは影の中で、アルバーニの満足げな横顔を粘り気を帯びた視線視線で見つめた。自分の手のひらで踊り、無様に勝利を拾い上げた男の滑稽さ。それを『経験豊かな盟友』として立ててやる作業は、極上の蜜を舐めるような甘い背徳感に満ちていた。
 アルバーニが最初に覚えた違和感は、自らの判断を踏み台にされたという怒りが、思いのほか早く鎮まってしまったことだった。あの夜に交わされた言葉が執拗に思考の底へ沈み込み、離れようとしない。

 欺かれた。利用された。

 その事実を、否定する余地はなかった。しかし同時に、結末そのものもまた否定しがたい重みをもっていた。怒りは消えたのではない。教皇という巨大な重石の下で、二度と取り出せないほど深く、暗く、完全に押し潰されただけなのだ。

 あの男が選ばれた。最悪ではない。むしろ――現実としては最善に近い。

 アルバーニは、ふと自らの手元に視線を落とした。自分が操ったはずの糸。気づけば絡め取られていたのは、こちらの方だった。兆しは確かにあった。退けた名。代わりに据えた名。それが、最終的に誰の利益に適うものであったのか。
 思い返せば、この男は一度も自分を説得しようとしなかった。譲歩も、懇願も、取引もない。材料の提示と、沈黙だけだ。その事実が遅れて効いてくる。説得されなかったということは、選択肢を与えられていなかったということだ。

 分かっていたはずだった。
 それでも、止めなかった。
 止められなかったのではない。万全に整えた舞台が、自分を含めてどこまで飲み込むのかを、見誤るほど愚かではなかった。幕を下ろす役を選ばなかっただけだ。

——ああ。

 理解した瞬間、言葉にならない感覚が喉の奥に引っかかる。これは勝負ではなかった。拒否した名。押し出した名。そのすべてが、最初から『彼の手を汚さないための工程』だった。
 アルバーニは視線を逸らした。どこかで気づきながらそれを選ばなかったことに苦い思いを抱いた。
……あの人物に対して、格別の親近を覚えているわけではない」
「いいえ」
コルシーニは、わずかに間を置いた。
「拒まれた時ではございません。拒む理由をお語りにならなかった――まさに、その瞬間です」
 アルバーニは黙って聞いていた。敗北の姿勢ではない。言葉を失った者のそれでもない。理解してしまった者だけが静かに選ぶ態勢だった。
「彼は……良き教皇となるだろう」
「ええ」
「それゆえに、なおさら心が穏やかではない」
 コルシーニは、そこで初めてアルバーニに視線を向けた。探るでもなく、責めるでもない。事実の所在を確かめるためだけの、静かな眼差しだった。
「あなたが据えられた御名です」
「違う」
 即答だった。ためらいも、飾りもない。
「私が差し出したのは、選択を促すための名ではない。ただ――事の進行を食い止めるために、場に置いたにすぎない」
 コルシーニは反論しない。代わりに声を落として静かに言う。
「事を止めるために据えられた御名が、かえって最後まで場に残ることも――世にはございます」
 アルバーニは目を閉じた。その一瞬、祈りにも似た沈黙が降りる。
……どうやら私は、あなたという人物を、正確に量りきれてはいなかったようだ。いや――むしろ、過分な期待を託していた、と言うべきか」
 アルバーニは、目の前に座る年下の男の穏やかな貌の奥に、年齢とも経験とも釣り合わない、異様な完成度を見た気がした。老獪さではない。若さゆえの拙さもない。そのどちらにも属さない冷静さが、かえって不気味だった。
 敵も味方も区別せず、いずれはすべてを養分として取り込み、静かに咲き誇る巨大な毒の花――その蕾だけが、そこにあった。その理解が、遅れて胸に落ちる。

——次は。

 自分が、止めるために立てられる名に可能性。あるいは、重さを預けるための場所になる。その未来があまりにも自然に続いていることが、何より恐ろしかった。
 アルバーニは、それを悟られぬようわずかに自嘲を含んだ息を吐いた。それは諦念ではない。順番が回ってきたことを受け入れるための、最小限の呼吸だった。

 もう、どうでもよかった。
 
 この会話にもはや勝敗という概念は残っていない。アルバーニは立ち上がる。外套を整え、振り返らずに言った。
「心に留めておくがいい。再び同じ図が描かれるとき、あなたは――今度は、盤上に置かれる側になる」
 言葉が、不吉な呪詛ではなく、極上の賛辞のようにコルシーニの耳に響いた。盤上に置かれるのも悪くない。
 別の『誰か』が自分という駒を使って、いかなる醜悪で美しい図を描くのか。それを見るのもまた一興であった。あえて答えず否定もしなかった。

 扉が閉じ、足音が、ゆっくりと遠ざかる。
 コルシーニは、アルバーニが残していった空気に混じる、焦燥の残香を愉しむように目を閉じた。自らが描いた脚本が一文字の狂いもなく完遂されたことへの、昏い充足感。
 彼は指先を、石床に落ちる薄明かりの輪になぞらせた。自分が表に立つ役ではないという確信。それゆえに得た絶対的な支配の感触。教皇という名の至高の虚像を、自らの指先一つで歴史に刻みつけた。その傲慢な悦楽こそが、今の彼を支える唯一の体温だった。
 コルシーニは暗がりの中で、自らの指を愛おしげに見つめた。そこにはランベルティーニを玉座へと押し上げた時のねっとりとした宿命の重みが、まだ生々しくこびりついている。

 新しい歴史が動き出す。彼が描いた脚本通りに。