kaisou
2026-01-28 20:18:12
18353文字
Public 1740年コンクラーヴェ話
 

Etiam clades est modus.  敗北さえも手段である

1740年コンクラーヴェ話別視点・2
倒錯的表現は楽しいなあ

※歴史創作ですのであしからず

▼1740年コンクラーヴェ話本篇まとめ
Aliquid est quod memoria mea non relinquit.
私の記憶を離れないものがある

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全7章/幕間含む
1740年コンクラーヴェ話の本篇その2
視点違いの2つの話のうちの1つ。

 ネリ・マリア・コルシーニ枢機卿は、賭け事を好まなかった。

 勝敗の行方が読めぬ勝負ほど、彼にとって無意味なものはない。賭けとは、判断を偶然に委ねる行為だ。そして偶然に委ねる者は、責任を神に押し付ける。それを彼は嫌悪していた。
 だから彼は、最初から結論を定めていた。誰が教皇となるべきか、ではない。誰を排除すれば、残りが自ずと収束するか——ただ、それだけである。
 前回のConclave(コンクラーヴェ/教皇選挙)で、彼は痛切に思い知った。力で押せば必ず疑念を招く。正面から勝てば敵を残す。そして何より勝利を公然とした者は、長くその座には留まれない。ならば勝利は、拒まれた末に訪れなければならない。自分の望みとは無関係に、あたかも周囲の圧力に屈した結果として、だ。
 そのためには、念密かつ周到な準備が必要だった。死を待ってからでは遅い。政治は嘆きより先に動くものだ。叔父である前教皇の死は始まりではない。すでに進んでいた流れが表に出る合図に過ぎなかった。
 コルシーニは、その前から手を打っていた。各方面へ密かに書簡を送り、諸国と話をつけ、妥協点を削り出していく。その緻密な算段の中に、個人の信条や情に流される隙などは、一分(いちぶ)たりとも存在しなかった。

 彼には理想があった。

 自らの庇護のもとに育て上げた——いわば我が手による『被造物』の中から、教皇を擁立すること。

 それが不可能であることも理解していた。ある者は、あまりに若かった。またある者は、時代を先取りしすぎていた。そして、いずれも敵が多すぎた。
 新しい教皇は、年長で尊敬を集める者でなければならなかった。しかし同時に、時代の歩みに背を向ける人物であってもならない。若い者たちに支持され、老いた者たちに拒まれない——その相反する条件を、ただ一身において和解させうる人物。 

 理屈の上では、あり得ないはずだった。

 その名を聞いた瞬間、反論の余地は消え失せた。机上の空論でしかなかったはずの条件が、血肉を通った一人の人間として、目の前に顕現してしまったのだ。

プロスペロ・ロレンツォ・ランベルティーニ枢機卿。ボローニャの大司教

 コルシーニは、その名を脳裏に描くたび、暗い部屋で、秘蔵の宝石を眺めるような、倒錯した熱に侵されるのを禁じ得なかった。
 これだ。この男だ。若さも野心もすでに削ぎ落とされ、傷さえも様式に変わったこの完成度。これほどまでに欠点がなく、これほどまでに扱いやすく、これほどまでに教皇という名の空洞を、静かにしかも完全に埋めうる素材が、他にいるだろうか。
 彼はこの存在を、自ら関与することなく完成へ至った被造物として、抑えきれぬ愉悦とともに見つめていた。指先で輪郭をなぞるような想像の中で、その老成した均衡を確かめる。 自らが手をかけた若い小童たちなど、この男が放つ『無害』という名の凄みに比べれば、いまだ焼きが足りない習作に過ぎない。これほどまでに摩耗し、それでもなお自壊しない。その事実がすでに異常だ。完成にはほど遠い。まだ絶望の重さを知らない。逃げ場のない責任が、どの角度で骨を砕くかを知らない。
 教皇という配置は、救済ではない。至高へと導く最後の炉だ。その火加減を想像するだけで、彼の内側に昏い歓喜が満ちていく。最高傑作は、これからだ。

——あとは、逃げ場のない位置に、玉座を据えるだけでいい。

 コルシーニは、その名を胸の内に秘めた。それを口にした瞬間、計画は崩れ去る。わずかな表情の揺らぎでさえ、すべてを台無しにしかねなかった。だから彼は、最初から決めていた。この選挙では、自分は『負け役』を演じるのだと。選ばせるのは、他人だ。そのために必要なのは、優れた『指し手』という名の、自分に操られる『道具』だった。しかも、喜んで汚れ役を引き受ける、それ。
 そこで、アンニーバレ・アルバーニ枢機卿の顔が浮かんだ。コルシーニは、アルバーニを恐れてはいなかったが、甘くも見ていない。
 四度のコンクラーヴェを生き抜いた経験。生来の狡猾さ。そして何より、手段を選ばないという確信。あの男は、勝つためなら躊躇しない。それを恥じることも、疑うこともなく、正しさを自らの足元に据えることで、すべてを通してきた。コルシーニは、その性質こそが有用であると見抜いていた。それは敬意ではなく、共感でもない。冷静な計算の上に置かれた、評価にすぎなかった。あの男も条件を満たしていた。
 アルバーニは、自らを常に『使う者』の列に置いていた。使われる者の側に回る可能性など、思考の外にあった。その確信が、彼の唯一にして致命的な欠落だった。嫌悪がなかったとは言えない。それは、個人的な憎悪ではなかった。同じ世界に身を置きながら、異なる流儀を選び取った人間に対する、一種の隔たりに近い感覚だった。

 アルバーニは、自ら手を下す。
 コルシーニは、他者に手を下させる。

 どちらが卑怯かを論じる話ではない。ただ、後者のほうが長く場に留まる。そしてこの選挙において、アルバーニほど好都合な人物は存在しなかった。自ら手を汚すことでしか、存在を証明できないあの男を、利用しない手はなかった。

 敵であり、同時に——この戦いにおいて、唯一、確実に汚れ役を引き受ける男。

 コルシーニは、静かに決断した。彼を用いる。そして最後まで、そのことに気づかせない。