kaisou
2026-01-28 20:18:12
18353文字
Public 1740年コンクラーヴェ話
 

Etiam clades est modus.  敗北さえも手段である

1740年コンクラーヴェ話別視点・2
倒錯的表現は楽しいなあ

※歴史創作ですのであしからず

▼1740年コンクラーヴェ話本篇まとめ
Aliquid est quod memoria mea non relinquit.
私の記憶を離れないものがある

https://privatter.me/user/kaisou_ja?category=110867

全7章/幕間含む
1740年コンクラーヴェ話の本篇その2
視点違いの2つの話のうちの1つ。



 コンクラーヴェは、すでに日常となっていた。
 そして、八月十六日。名を置かれ続けていたポンペオ・アルドロヴァンディ枢機卿が、ついに自ら動いた。
 その判断は、きわめて慎重だった。遅すぎず、早すぎず。三十三票を得た直後ではない。だが同時に、様子を見る余地を残すほどの猶予も与えない。拒否が、もはや間に合わなくなる。その一点を、彼は正確に選び取った。彼は、コルシーニに会った。要求は一つだけだった。
「これ以上、新たな名を立てられることは、控えていただきたい」
 理由は、はっきりしている。ヴィンチェンツォ・ルドヴィーコ・ゴッティ枢機卿の名が、すでに準備されていることを、彼は知っていた。
 新たな名は、流れを断つ。それが意図によるものであれ、善意から出たものであれ、この局面においては、違いはなかった。
 コルシーニは、言葉を選んだ。拒まない。即答もしない。その沈黙が、事の重さを示していた。彼はそのまま、別の場所へ向かった。その足取りに、躊躇はない。アルドロヴァンディが自ら動いたことで、脚本の最後のピースが吸い寄せられるようにあるべき場所へと嵌まったからだ。
 コルシーニは、アルバーニに接触した。それは会談と呼べるほどのものではなかった。人目につかない回廊の途中で、ほんの数歩だけ歩調を合わせただけだ。向き合うこともなく、足を止める理由もない。同じ方向を向いたまま、声が落とされた。
 彼は、アルドロヴァンディの希望を示した。忠告ではない。評価でもない。すでに動いている事実として、そこに置いただけだった。
 名は言わない。数字も口にしない。判断を促す言葉も添えない。その沈黙の中で、アルバーニは理解した。理解してしまった、と言うほうが正確だった。その瞬間、彼は初めて数の位置を知った。一拍、思考が遅れる。次の瞬間、視線が止まる。頭の中で、線が引かれる。拒否が間に合わなくなる境目が、はっきりと見えた。
 コルシーニは、それ以上何も言わなかった。歩調を戻し、話題を変え、その場を離れる。彼が残したのは、命令でも依頼でもない。順序だった。アルバーニは、その順序を頭の中でなぞりながら、立ち尽くしていた。残ったのは、数字だけだった。

 三十三。あと、四票。

 それは希望ではない。危険だった。拒否が、「手遅れ」へと姿を変える――その目前の数字である。
 コルシーニが示した、その事実の置き方があまりに無造作であったからこそ、アルバーニの警戒心は、飢えた獣のような渇望へと変貌した。今、自分が動かなければ、すべてを奪われる。アルバーニは、ほとんど独り言のように、胸の内を短く吐いた。
「私は、彼を好ましく思ってはいない」
 しかし、この場に感情は不要だった。アルバーニは、長くコンクラーヴェという場に身を置いてきた。流れがやがて『形』を得る、その瞬間を、幾度も見ている。ひとたび形を得た流れの前では、理屈も、忠告も、もはや意味を持たない。必要なのは、岩をも砕く暴力的なまでの『別の流れ』を作ることだけだ。

——動かなければならない。しかも、今すぐに。

 アルバーニは立ち上がった。ここから先は、慎重さの問題ではなかった。速度の問題だ。そしてアルバーニは、己の判断で動き始めた。

——拒否は、もはや間に合わなくなる。

 その感覚は、アルバーニの皮膚に貼りつき、離れようとしなかった。アルドロヴァンディは、用心深く歩を進めている。そしてその慎重さこそが、彼にとって最も厄介な徴候だった。性急な人間は、制することができるが、慎重な人間は自ら止まる理由を持たない。アルバーニは思考を巡らせた。この局面において、新たな名が立つことの意味を。
 新しい名は、流れを断つ。しかし断たれた流れは、やがて再び編み直される。そこに生まれるのは、時である。そして時とは、常に経験者の側につくものだった。

——それを、アルドロヴァンディが理解しているとしたら。

 アルバーニは、初めてはっきりとした危機を感じた。これは対立ではない。競争でもない。

——問題は、誰が場を導くかにあった。

 彼は部屋を行き来した。壁から壁へ、また折り返し、足取りは規則を失っていく。歩みは思考に追いつかれ、思考はさらに先へと走った。立ち止まるたび、すぐに向きを変える。まるで振り子が、行き場を失ったかのように。今、問うべきは正しさではない。必要なのは、効くかどうか――それだけだった。

 何が効くか――神の意志を問う時間は、もう残っていない。

 彼はその手で、歴史の喉元を掴み、力ずくでねじ曲げるための『劇薬』を探し始めていた。それだけだった。彼は、過去に思いを戻した。疑念が一度でも名を得たとき、人がいかに脆くなるかを。否定は常に遅れ、説明は耳に届かない。それに比して噂は、風よりも速く、染みのように深く広がってゆく。事実である必要はない。重要なのは、もっともらしさだった。
 アルドロヴァンディは、敬意を集める人物だった。それゆえに失望もまた深くなる。高潔さとは疑われた瞬間、美徳であることをやめもっとも重い負担へと変わるものだ。

——方法は、ある。

 その考えに至ったとき、アルバーニは一瞬だけ目を閉じた。躊躇がまったくなかったわけではない。しかしそれは、道徳に対するためらいではなかった。

——この一手で、すべてが決まる。

 そう理解したとき、迷いは消えた。彼は命じなかった。みずから手を下すこともなかった。それは必要ない。彼がしたのは「ありうる話」を、その場に置いたこと。それが、自然に形を得るのを何ひとつ妨げずに見過ごした――それだけだった。