kaisou
2026-01-28 20:18:12
18353文字
Public 1740年コンクラーヴェ話
 

Etiam clades est modus.  敗北さえも手段である

1740年コンクラーヴェ話別視点・2
倒錯的表現は楽しいなあ

※歴史創作ですのであしからず

▼1740年コンクラーヴェ話本篇まとめ
Aliquid est quod memoria mea non relinquit.
私の記憶を離れないものがある

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全7章/幕間含む
1740年コンクラーヴェ話の本篇その2
視点違いの2つの話のうちの1つ。



 動きは即座に、その日のうちに避けがたい形を取った。
 その手紙は、あまりにも出来が悪かった。読み慣れた者ならすぐに違和感を覚える。文体は粗雑で、言葉遣いは荒い。感情が前に出すぎている。

——あまりに、らしくない。

 アルバーニはそこを問題にしなかった。むしろ、出来が悪いことこそが、武器になると知っていた。慎重に練られた文書は、吟味される。稚拙な悪意は、人の感情を先に動かす。 手紙は、アルドロヴァンディの名で書かれていた。宛先は、アルバーニ自身。内容は単純だった。ランベルティーニに対する、激しい中傷。人格を疑わせ、信仰を貶め、教皇の座に値しないと断じる言葉が並ぶ。あまりにも露骨で下品。

——だからこそ、信じられた。

「こんなものを、あの方が書くはずがない」
 理性的な者は、そう考えただろう。だが理性は、常に最後に姿を現す。手紙は写し取られ、その写しは、あたかも偶然を装うかのように広がっていった。最初にそれを目にした者たちは、怒りより先に、困惑を覚えた。
「本当に、あのアルドロヴァンディが……?」
 その疑問は、瞬時に別の感情に置き換えられる。もしこれが真実なら、今まで我々が見てきた高潔さは何だったのか」という、裏切られた者特有の、激しい攻撃性への転換だ。

——もし、これが真実だったら。

 否定よりも、恐怖のほうが早かった。アルバーニは、表に出ない。否定も、肯定もしない。ただ一言、困惑したように呟くだけだ。
……にわかには、信じがたい」
 その曖昧さが、怒りの矛先を固定する。
「もし事実なら、許されない」
「いや、事実であるはずがない」
「ならば、なぜこんな手紙が?」
 議論は割れた。だが結論だけは一致した。

——このような振る舞いをなす人物に、教皇の座は相応しくない。

 事態が表に出ると同時に、集会は自然発生的に開かれた。そこにあったのは、呼びかけではなく、怒りだった。結果、最も皮肉なことが起こる。憤激した枢機卿たちが一斉にランベルティーニの名を口にし始めたのだ。
「少なくとも、あの方には疑いがない」
「この混乱を終わらせるには、他にいない」
 それは支持ではない。拒絶の結果としての選択だった。アルバーニは、その報告を聞いた。顔色一つ変えない。

——効いた。

 彼は理解していた。この方法は、美しくない。正しくもない。しかし最も速く、最も確実だった。彼は自分を正当化しなかった。必要だと思ったことを、必要なだけやっただけだ。
 また、別の集会では、数人の枢機卿が手段を選ばぬやり方に激しく憤った。声を荒げて言う者もいた。
「こんなやり方は、許されない」と吐き捨てた。
 アルバーニは、それを止めることはなかった。怒りは、燃え尽きるまで放っておくに限る。怒りの熱だけが残り、判断はすでに変わっていた。
 支持は、宣言として現れたわけではなかった。誰かが名を呼び、誰かが応じる、という劇的な瞬間もない。ただ、空気が変わった。
 最も激しい憤りを示したのは、利用された当の二人——アルドロヴァンディと、ランベルティーニだった。彼らは、自分たちが争点ではなく、最初から手段として置かれていたことを、理屈よりも先に悟っていた。
「我々は、誰の都合で名を使われたというのだ」
「この場を、ここまで汚してまで通す理由が、どこにある」
 怒りの矛先は定まらない。噂を流した者でもなく、手紙を運んだ者でもない。彼らが怒っていたのは、自分たちが——拒む権利すら持たない位置に、最初から置かれていた、その事実だった。二人は、異なる立場にありながら、同じ『道具』としての痛みを、石床の冷たさのように共有していた。
 手紙の一件が出たその瞬間から、アルドロヴァンディの名は、扱いづらいものになった。口にする前に、人々は必ず一拍を置く。その沈黙が、何を意味するのかを、アルドロヴァンディは理解していた。疑われているのではない。疑われる位置に、置かれたのだと。アルドロヴァンディはあえて言葉を選ばなかった。選べば選ぶほどそれが弁明として数えられることを知っていたからだ。無念はあった。それ以上に仕掛けの巧妙さが見えてしまった。

 沈黙。視線の交錯。そして、話題の転換。

 その空白を埋めるように、ランベルティーニの名が現れる。それは推薦というより、避難先を指し示す所作に近かった。

「今は、あの方が無難ではないか」
「少なくとも、疑念はない」
「誰も反対しないだろう」

 誰も、熱心に推してはいない。同時に、誰ひとりとして否定もしない。その状態こそが、この場において、最も強い支持だった。アルバーニは、その光景を見渡し、内心でうなずいた。流れは元に戻った。――
 あとは、この『無難な終止符』が、静かに盤上に置かれるのを待つだけだ。危険は、すでに背後へ退いている。彼の中では、計算はとうに終わっていた。
……少々、長引きましたな」
 誰に向けるともなく、そう口にする。それは感想の形を借りた言葉であり、時に結論そのものでもあった。異を唱える声は上がらない。その沈黙を、アルバーニはためらいではなく、静かな承認として受け取った。

——終わった。

 そう信じた瞬間、アルバーニは初めて、この場がすでに自分の手を離れていることを疑わなかった。

——アルドロヴァンディは消えた。
——新しい名も立たない。
——あとは、時間の問題だ。

 しかし彼は、まだ気づいていない。この『時間』が、もはや自分の味方ではないことを。
 コルシーニは、静かにその成り行きを見ていた。声を上げることはない。表情も、ほとんど動かさない。むしろ彼は、わずかな不快を隠さぬ態度を選んだ。
……なぜ、あの男が」
 ぼそりと漏らす。それは独り言のようでいて、周囲に聞こえる程度だった。
 否定する。距離を取る。不満を示す。

——予定通り。

「コルシーニはランベルティーニを嫌っている」そう見えることが、何より重要だった。内心では結果を見ていた。流れは、戻らない。選択肢は、絞られた。あとは、数字が追いつくだけだ。

——必要な配置は、すべて終わった。

 だが、その 葉は胸の内にだけ留めた。勝利は悟られた瞬間に価値を失う。コルシーニの視線は、群れの中で静止しているランベルティーニを、甘く、ねっとりとした熱を持ってなぞった。
 彼が周囲に押し上げられるたび、逃げ場を失っていくその姿。喉元までせり上がった怒りを飲み込み、年長者としての矜持を沈黙という名の檻に押し込める、その『被造物』の美しさに——
 コルシーニの背筋は悦楽で震えた。追い詰められ、磨り潰され、その果てに教皇という巨大な重圧に『配置』される。そのとき、この男はいかなる貌を見せるのか。それを特等席で鑑賞できるのは、世界で自分一人だけだ。
 一方、ランベルティーニ自身は、その名がどのように扱われているかについて、明確な態度を示さなかった。気づいていなかったのか、あるいは、気づかぬふりをしていたのか。それを言葉にして確かめるほど、彼は無作法ではなかった。相変わらず他者の名を否定することも、自分の名を押し出すこともせず、ただ必要な場に現れ、必要な言葉だけを返していた。その態度がさらに支持を呼ぶ。その支持が厚くなるほど、ランベルティーニの喉の奥には、出口のない熱い塊がせり上がっていた。

——あの男なら、大丈夫だ。

 理由を、誰も言葉にすることはできなかった。説明を要しない支持ほど、この場において強固なものはない。コルシーニは、その連鎖がすでに動き始めたことを確信していた。あとは、自分が『敗れる』ための準備を、誰にも気づかれぬように、静かに整えるだけだった。
 アルバーニは、もはや迷っていなかった。疑念は払われ、流れは一本に絞られ、それを確実なものにするだけだった。
 彼は動いた。今度は、慎重さを選ばず、速度を選んだ。誰に声をかけるべきか。誰には、触れてはならないか。その線引きは、長年の経験が、すでに教えている。説得は短く、理由は単純でよい。今さら理念を語る必要はない。

「今は、この名しかない」
「ここで異を唱えれば、混乱が続く」
「時を浪費すべきではない」
 その言葉は、彼自身が思っていた以上に、よく効いた。誰もが疲れていた。長引く停滞に、皆が倦み果てていた。
 ランベルティーニは、抵抗を伴わずに進める、唯一の出口だった。この状況に、アルバーニは満足していた。ランベルティーニという男が何を考えているかなど、もはや些末なことだった。重要なのは、その名が『出口』という記号として機能し始めているという事実だった。
……いささか、時を費やしましたな」
 そう、誰にともなく言った。声は低く、あえて隠そうとする様子もない。この程度の言葉であれば、もはや周囲に届いても問題はない。彼は、そう判断していた。

「ここで、幕を引くべきだ」
「これ以上の停滞は、誰の利益にもならない」
 それは忠告の形を取っていたが、実際には結論だった。

——決まった。

 そう宣言しているのと、ほとんど違いはなかった。アルバーニは、周囲に落ちた沈黙を、ためらいではなく肯定として受け取った。異論が上がらぬことを、同意へと静かに読み替えた。もはや、この場に対抗の意思はない。残っているのは、長引いた停滞に疲れ切った空気と、終幕を待つだけの倦怠である。
 自分の役目はすでに果たされたと、そう判断した。危機を抑え、場を収束させ、余計な名を排した。

——あとは、形式だ。

 彼は、最後に一人だけ確かめる必要があると考えた。形式を整えるための、最も重要な人物。

 コルシーニ。

 彼の区画を訪ねる足取りに、ためらいはなかった。自らの勝利を確信した男の背中には、勝利という名の残酷な光が射していた。その光が、これから踏み込む『脚本家』の暗がりに、どのような影を落とすかも知らずに。