mishiadd
2025-12-22 21:41:32
35101文字
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BROTHERHOOD:ブロマンスにもまだ遠い

【本編軸】「セイバーだけは自分のこと絶対にそういう目で見ない」というまったく根拠のない死ぬ程間違った信頼を抱いている伊織さんと可愛い可愛い弟だと信じて疑わない伊織さんの無邪気な期待を裏切るまいと本当はずっと兄だなんて思ってませんでした(さすがにそれは嘘だけど兄に抱くとまずい感情は抱いてました)って事実を座まで持ち帰るつもりだったセイバーさんのしんどい攻防戦【剣伊】


三、

兄のように慕っていた。――それは、本当だった。誓って真実で、そこに嘘偽りはない。

彼を慕っていて、なにくれとなく世話を焼いてくれる妹のいる伊織にとって、それはもっとも慣れ親しんだ他者から受ける『好意』の種類で、安心できて、傍にいてもっとも居心地の良い感情である筈だった。
きっとその柔らかく揺蕩うような、気を許し合った身内の中だけに流れるゆったりとした空気の中でなら、常にこの時代の異物として排斥されるような息苦しさを感じ続けている彼にでも、ほんの少しだけ呼吸が楽になれるのかもしれなかった。

カヤと、セイバーと、紅玉と、伊織と。

あの長屋の中でなら、伊織はほんの少しだけ呼吸がしやすい。



兄のように慕っていた。それは嘘ではない。――ただ、それだけではすまなくなってしまった、というだけの話だった。



あの夜、目を開けると、青みがかったような眩く澄んだ月光の中で、純白に照らされた伊織の顔が視界に入った。
タケルの顔を覗き込んで硬い表情をしていた顔が、ふっと柔らかく緩む。口許にうっすらと笑みのようなものを浮かべながら、透き通った月夜に満天の星屑を散りばめたような瞳がきゅっと細められる。うん、うん、と何度も頷く整った顔の、その額にかかった長い癖毛の前髪が揺れる。

「きみにはセイバーと呼んでほしい」と伊織に告げた。それは、ヤマトタケルという血と殺戮に塗れた孤独の象徴のようだった彼の真名とは別に伊織に与えてもらった、彼の隣に並び立って彼と共に善を為せる、己を誇りに思える者の名だった。

――と同時に、こうも思った。



彼にこの穢れた真名を呼んでもらえたら、どんなにいいだろう。



でもそれは憚られた。呼ばせることで、伊織すら穢してしまうのではないかと危惧した。――でも、そうしたらどんなにいいだろう。それも、「ヤマトタケル」、などという、格式張って祝詞めいた呼び方でなく。――まるで親しい誰かのように、「タケル」、なんて。
自分のこの穢れた名の――誰にも呼んでもらえなかった名が、伊織の唇に乗る。あの柔らかく包み込むような、どこか甘い、温かく優しい声が、自分のこの名を紡ぐ。……愛しげに呼んでくれたらなおいい。まるで特別みたいじゃないか、と。――自分は彼の特別になりたいのかと、ふと思う。

――あのとき、一瞬伊織に口付けられるのではないかと思ったのだ。

だがセイバーは逃げなかった。口付けられるかもしれなかったのに、身じろぎひとつしなかった。――結局、そんなのはセイバーの一方的で完璧な取り越し苦労で、伊織ときたら自分も痛い目に遭ってまで頭突きなどをしてきた。……伊織がセイバーのせいで大変な目に遭ったのに、その意趣返しに自分まで痛い目に遭っていたのではおあいこも何もないのだが。

口付けられると思ったのに、セイバーは逃げなかった。……口付けられてもいいと思った。――口付けてくれたらいいと思った



兄のように慕っていた。――ただ、きっとあの夜。



何かが、セイバータケルの中で変わってしまった。







その店の前を通ってしまったのは、偏に伊織の制止を聞かなかったセイバーの責任だった。

「イオリ、あちらの店から嗅いだことのない香ばしい匂いが」
「セ――セイバー」

ひどく強張った伊織の声の変化に気付かず、もはや周囲の様子などろくに目に入っていなかったセイバーがその青菜売りの露店の前を通り過ぎる。途端、背後で聞こえていた筈の、自分を追いかけてくる伊織の草履の音が止む。あれ、と思い、振り向く。――商人風の若い女が、ひどく戸惑ったように立ち竦んでいる伊織に詰め寄っているのを見る。

「伊織さん」と女が金切り声を上げているのが見えた。

「あの――あのは一体誰なんだい? ……アタシは、アンタにあんなに貢いだろう!?」

穏やかでない女の言い分に、もとより野次馬根性の発達している江戸の町人たちが「なんだなんだ」とあっという間に伊織らを取り囲んでいる。伊織が何かを言える前に、女が言い募る。

アタシの一日の五分の一の売り上げだよ! この間だって、アタシはアンタにたんまり貢いで――そのくせ、最近じゃあめっきりうちに来てくれすりゃしないじゃないか! 薄情者、薄情者と思っていたらこのざまだよ――アタシの目を盗んでオンナなんか作りやがって!」
「は、はあ!?」

「オンナ」の言葉と共に女に指さされ、セイバーが素っ頓狂な声を上げる。伊織はと言えば、反論もせずにただ黙って蒼褪めている。――弁の立つ伊織らしくない姿に、「……イオリ?」とセイバーが眉を顰める。

「なんだなんだ、痴話喧嘩かあ」
「大層な色男だがいかにも金のなさそうな浪人さんだよ、どうせあの青菜売りの女を騙して金目のものだけ貢がせてたんだろうさ」
「はー、見た目は随分いいのにタチが悪いねえ。そういうもんなのかねえ」

ひそひそと言うには丸聞こえの無責任な言葉が周囲を飛び交う。女の怒りはおさまらず、今にも伊織の胸倉に掴みかからんばかりの勢いだった。

「さてはアンタ、そうやってそこら中の女に色目遣ってるんだろう!? アンタがアタシにしたみたいに――思わせぶりな態度をとって、勘違いさせて皆に貢がせてんだ。あのオンナもそういう一人かい!?」
「ま、待て、私はそもそもイオリの『オンナ』、では――

セイバーが誤解を解こうと手を伸ばす。それから、ここまで好き勝手に言われていまだに黙りこくっている伊織に目配せしようとする。……先程見たときよりも更に蒼褪めて、伊織が口許を押さえているのを見る。――ぐ、と苦しげに眉根を寄せるのを見る。

――気持ち悪い」、と呟いた伊織の横顔を思い出す。……「あ、」とセイバーが思い至る。

一足飛びに距離を詰め、女と伊織の間に身体を捻じ込むようにして割って入る。伊織を庇うように両腕を広げながら、殊更にわざとらしいしなをつくって言った。

「うむ、きみが察する通り私こそがイオリの本命のオンナだ、ウッフン。というわけで、イオリは私のオトコなので、ここらで私が回収していく。……えー、イオリには今後その気もないのに他所の媛にちょっかいを出さぬよう、本命のオンナの責任として、よくよく申し付けておく。すまなかったな、私のオトコがきみを勘違いさせて」
「アン――――馬鹿にしてんのかい!?」
「そうだ、きみの店の青菜は美味かったぞ。ご馳走さま」

「ふざけんじゃないよ!」と背後で罵声が響くのを聞きながら、伊織の手を取ってセイバーが走り出す。いつもの速度の半分も出ていない伊織を引っ張りながら、なんとか女と野次馬を撒いて路地へ入り、空き家の裏に隠れる。けほけほと咳き込む伊織の手をようやく離し、「……大丈夫かイオリ」と気遣わしげに声を掛ける。

けほけほと咳き込み続けている伊織が、口許を押さえたまま手のひらをかざしてセイバーを自分から遠ざけようとする。察したセイバーが一歩二歩退く。空き家の角を曲がってセイバーから姿を隠した伊織が、物陰でげほげほと更に激しく咳き込んでいる。――やがて、ぐ、と苦しげな声と、びしゃ、と濡れた音がした。嘔吐してしまっているようだった。

やがてけほけほと乾いた咳が聞こえ、ようやく伊織が戻ってくる。憂鬱げな表情にひどく蒼褪めた顔色をして、ひどく儚いように見えた。

「イオリ」
「すまん。……酔った

懐紙を口に当てた伊織が、ふるふると頭を左右に振る。顔色が徐々に戻ってきていた。セイバーを見て、申し訳なさそうにわずかに眉尻を下げて言った。

「悪い、迷惑を掛けた。……おまえがあんなふうに機転を利かせてくれるとは思わなかった」
「きみが――具合が悪そうだったからな。……それに、我らがあの店の前を通ってしまったのは私のせいだ」
「いや、俺がもっと早く言っておけばよかったよ。すまない」

らしくもなく互いに謝罪の言葉を述べ合いながら、やがて互いに言葉に詰まる。ぽつり、とセイバーが言った。

……きみ、思わせぶりなことをあの媛に言ったのか?」
「俺には言った覚えはない。いつだってそうだ。――だがもう、わからないよ。俺にはわからない。言ったのかもしれない」
「悪かったよ、酷なことを訊いた」

思わせぶりとも思えることを――伊織はするし、言う。それは、セイバー自身も経験上よくわかっていることだ。彼自身、何度伊織の言動に肩透かしを喰らったかわからない。
だがきっと、そういう自身の言動に伊織が無自覚であることは変わらないし、きっと今後も変えられない。知覚できない脅威には警戒しようがないのと同じように、伊織自身にその感情が理解できない以上、彼にそれを避けることはできない。

憔悴しきった今の彼を、そのことで責めるのは違うのだろうと思う。

ぱんぱんと両手を叩きながら、「さて」とセイバーが言った。

「私があれだけ言ったのだ、いい加減あの媛はきみに愛想を尽かしてくれたと思うぞ。……まあ、行きつけの青菜屋はひとつ減ってしまったが」
「うん。――ありがとう、助かった。セイバー」

ふ、と伊織が微笑む。――ほんの少しやつれたような、儚さの滲む切れ長の眦が、柔らかく細められる。……あ、とセイバーの心臓が跳ねる。
すっかり調子が戻ってけろりとした様子の伊織が言った。

「帰ろう。今夜の夕餉で、貰った青菜を最後まで食べてしまおう」
「きみ、繊細なのかなんなのかよくわからないよな……

とぼとぼと歩き出す。――知られてはならない。



伊織に、知られてはならないと、思う。