ロンド
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Public 奈落の大穴
 

極星ノスタルジア【再録】

「まなざしのいろ」「きんぎんすなご」


きんぎんすなご


Side.N


 朝夕の市が狙い目なのだと、年長のスリの少女は教えてくれた。
 姉が奈落に還って以来、ナットはますます困窮した。もとは姉と二人でくず拾いをしていたのだが、ナットの一日の稼ぎではとうてい一食にも満たない。姉がナットのために余分に稼いでくれていたのだといまさらになって知った。
 岸壁街でもっとも稼げる仕事は、外国に遺物を売りさばく闇商人か、秘密裏に遺物を掘り出す探窟家だ。本当はナットは探窟家になってアビスに旅立つ人の中に混じりたかったが、探窟の仕事は大人が独占していて手を出しようがなく、諦めるしかなかった。幼い子供が大金を稼ぐいちばん手っ取り早い手段は、今も昔もオースの観光客を狙ったスリだ。
 当然子供たちの間でもナワバリが決まっていて、もの知らずの新参者に目を光らせているのだが、子供が寄り集まった互助組織の中には人手を欲しているものもある。ナットを受け入れてくれたのはそういった組織のひとつだった。
「そっちの道はだめ。『藍鼠』のナワバリだから」
 少女が反対方向に引っ張る。うん、と返事をしてナットは懸命に少女についていく。昨日から、溜めた雨露を飲んでいるほかはなにも食べていないせいで猛烈に腹が減っていて、気を抜くと周りがかすんで見えた。この初めてのスリが成功すれば正式に組織に入れてもらえるのだと奮い立たせる。
 少女はいくらか小走りに歩いていたが急に立ち止まった。ナットはぶつかりそうにつんのめる。しーっと指を立てる少女は、へろへろに息をしているナットを置いて、路地から大通りを覗き込んでいる。
 路地側は観光客向けの土産物屋や料理店が建ち並ぶ。反対側はアビスに面していて、今は物売りの露店や天幕を引いた軽食の店が威勢よく客を呼び込んでいた。日が昇りきったころから数時間だけ現れる朝市は行き来もままならないほど人でごった返している。
 少女は頭を引っ込めてしゃがみ込むと、小声でナットにささやいた。
「観光客の、オースで見ない服の人を探すの。分厚いお財布を出してるとか、宝石を身に着けてるとか、できるだけお金持ちそうな人。笛を持ってる探窟家は絶対だめだよ」
「なんで?」
「探窟家に捕まるとまずいから。昔、『狼の巣』が笛付きの探窟家のお金を盗って、報復で壊滅寸前まで痛めつけられたって」
 ナットは少なからず驚いた。探窟家といえば笛を持っている者とそうでない者かかわらず、岸壁街の子供たちの憧れの的だ。しかし考えてみれば、自警団に所属する笛持ちもいるので、これから窃盗を行う心積もりのナットは気をつけなければならないのだった。
……うん、わかった」
「じゃあ作戦ね。わたしが合図したら、ナットはあっちの右側の店の、ヘグイの実のパイを一個盗って。私はその隙に通りがかった観光客のお財布をスるから」
「おれもおんなじように観光客からスらなくていいの?」
「君初めてなんでしょ。まずは練習で動かないものから狙っていかなきゃ。それに二方向から攪乱した方がうまく行くんだよ」
 ナットは首を伸ばしてパイの屋台を出している店を確認する。ふっくら太った店員が朝一の焼きたてだと声を張り上げていた。パイは紙で包み、オース通貨が支払われるとすぐさま流れるように店員が客に手渡せるようになっている。ほとんど並ばずに買えるので飛ぶように売れているように見えた。ナットは仲間の少女に視線を戻して軽く了承を返した。本当はなにか、新人としてやる気にみなぎった威勢のいい返事をしたかったのだが、緊張で喉が詰まったように途切れてしまって云えなかった。
 ほんの数分ほどがずいぶん長い時間に感じられた。今よ、と少女が云うが早いか、素早く人混みに飛び出す。
 ナットも少女と反対方向に駆け出した。一度、二度、歩いてくる人にぶつかりそうになりながらもがむしゃらにパイの屋台を目指す。
 あと一メートル。ナットは気がはやって手を広げる。香辛料の匂いを嗅ぎ取った。
「待て」
 伸ばした右腕が叩き落とされ、ナットの視界がぐるんと半回転した。ふらついて通行人に激突したのだと気づいたのもつかの間、強引に手首をひねり上げられる。痛い、と吐いたつぶやきはざわめきに拾われず、なかったことにされた。どんどん屋台が離れていく。声を出すことも忘れて、ナットは見知らぬ青年に引きずられていた。
 ナットを掴んだまま先導する灰色の髪の青年の制服には見覚えがある。ナットは眼を見開いたが、悲鳴のひとつも上げられないでいた。
 いくらもしないうちに青年は方向転換し、人が一列にしか歩けないの裏路地に入り込んだ。店の裏口に面する通路のようで三階建ての屋根の建物に囲まれて陰っていたが、裏手の角を曲がり階段を上がると朝の太陽の光が差し込む物干し場があり、清潔な洗濯物がはためいていた。そこでようやく、ナットの腕を捕らえた青年が振り返った。
「屋台のものを盗もうとしていたな。あれは店主の大事な稼ぎだ。タダで掠めとる真似はやめておけ」
 声変わりをやっと迎えたばかりのような掠れた声だった。青年は大人と呼ぶにはまだ若く、ナットよりいくらか年嵩なだけの少年のようにも思えた。探窟組合所属の探窟家に多い制服通りの服装で、首にはかれらが月笛と呼ぶ、紫色の真新しそうな笛がかかっている。
……おい、聞いているのか?」
 氷水のような冷え冷えとした双眼が上方からナットを睨めつける。ひっ、とナットは棒立ちで震えた。答えた方がいいに決まっているのに、なにも答えられない。しばらく青年とナットは凍りついたように見つめ合っていたが先に青年が視線を逸らした。腕はまだ掴まれたままだ。
 青年がため息をつく。ナットと同じくらいの高さにかがみこみ、握りしめていた腕を開放して、今度はそっとてのひらを取る。
「お前、連れはいるのか」
 先ほどの威圧的な云いつけよりも和らいだ声だった。ナットは真っ白な頭で必死に適切な答えを探す。別れた年長の少女はどうなっただろうか。ナットを置いてうまく逃げられただろうか。それとも別の探窟家に捕まって尋問を受けているのだろうか。正解がわからないでナットは思い出したことを口にした。
「ね、姉ちゃんが」
「姉がいるのか」
……死んじゃった」
 違う、とナットは思った。青年の質問とまるで異なっていたし、同情引きたさに訴えたかったわけでもなかった。あとからあとから涙があふれ出てきてまなじりに水が溜まり頬を落ちて行く。鼻水が出そうなのをこらえてすすった。ナットが唐突にわんわん泣きだしても青年は、おもむろに膝をついたままポケットを探り、きれいな白いハンカチをナットに握らせて拭うように示した。
 ハンカチがぐっしょり濡れた後、ナットは青年に返そうとした。
「いや、持ち帰ってもらって構わない」
 ナットはどうにかこくこく頷く。泣きすぎて喉が痛かった。
 声の代わりのように、きゅる、とかすかな虫音がする。断末魔のような腹の音を青年は聞きとがめた。
「腹が減っているのか?」
……うん」
……了解した。少しの間、ここで待機……待っていろ。なにか食い物を持って来てやる」
 青年が立ち上がってあっさりとナットの手を離し、階段を降りていく。
 逃げるのならば今なのだと感じたが、ナットはハンカチを握りしめたままぼんやりと洗濯物が風に吹かれているのを見ていた。忘れようと努めて我慢していた空腹をいったん思い出してしまうと動ける気がしなかった。
 案内をしてくれた少女が逃げ切れたかどうかをまた考える。少女はナットが突然いなくなっても困らないだろう。昨日岸壁街のアジトで顔を合わせたばかりで、ナットはまだ正式に組織に所属してはいなかった。岸壁街では子供がいつの間にか消えることがよくある。人攫いに遭ったのかもしれなければ、悪臭の毒で死んだのかもしれないし、足を踏み外してアビスに落ちてしまったのかもしれない。子供ひとり減ったところで顧みられやしないものだ。
 堂々巡りの思考にぐるぐるとふけっていたせいでナットは青年が戻って来たことにすぐには気づけなかった。あたたかな香草の匂いにまばたきをする。
 青年に物干し台らしい木箱に座らされる。青年は湯気を立てるうつわを脇に置き、まず水筒の蓋を開けてナットに差し出した。
「水だ。飲め。慌てるなよ」
 手渡された水筒にナットはよく疑う間もなく口をつけた。ぬるい清涼な水が乾ききった喉を通っていく。ごくごくと一息に潤してナットはむせた。青年はだいじょうぶか、と云いながらナットの薄い背中を叩いた。
「水は飲めるな。スープは熱いから、さじで一口ずつ飲むんだ。具材はできるだけゆっくり、三十回を目安に噛め」
 木製のさじを手に取らせ、青年が説明する。ナットは青年が持ったうつわのスープに釘付けになっていた。透明なスープに香草の葉と生成り色のかたまりが浮いている。青年は腰に差していた短いナイフを引き抜き、かたまりを食べやすいように細かく切って潰した。肉の脂の香りがぱっと広がる。生成りのかたまりは肉の餡を皮で包んだ具材らしかった。
 食べたことがないスープにナットはそろそろとさじを入れる。先に云われたようにスープの上澄みだけをすくって口に運ぶ。脂の匂いを吸い込んで、ナットはひと思いに飲んだ。
 温かくて、味がする。
 ナットは無言でさじを動かす。急に湧き出てきた食欲に食べることを止められなかった。具材をするりと飲み込んでしまいそうになると青年が「噛め」と注意してくる。すぐになくなってしまうのはもったいないように思ってナットはおとなしく従った。
 スープが空になって、腹が膨らんだばかりでなく、姉が死んでしまってから初めてナットは腹が落ち着くような感覚を覚えていた。うつわには一滴のスープも残されていない。さじについていた水滴も舐めとっていた。
「その、……ありがとう」
 ナットは云って、空のうつわとさじを青年に渡す。正面から見直してみれば、青年は月笛を持つ探窟家にしてはやけに若いような気がした。ナットが見かけたことがある月笛といえば髭の生えそろった大人ばかりだった。
「お前、どこに住んでいるんだ」
……岸壁街……
「身寄りは。姉以外にいるのか」
……いない。もう、おれひとりぼっちなんだ」
「そうか」
 噓偽りなく答えてしまうとほっとした。最初のスリに失敗してしまったので、ナットは岸壁街に帰ってもくず拾いの仕事に戻るほか道がない。
 青年はふいに哀しみが入り混じったような表情を浮かべた。それも一瞬のことで、もとの眉をいかめしく上げたしかめっ面に変わる。
「探窟家になりたいか」
「えっ」
 探窟家になる。知っている言葉のはずなのに意味を完全には理解できない。
「もし、帰るところがないのなら、俺と一緒に来るか」
 青年が言葉を変えてもう一度云った。今度は理解できた。青年は親切に食事を与えてくれただけでなく、ナットに家を与えようと云うのだ。信じられない思いでナットは訊き返す。
「おれ、探窟家になれるの?」
「無論、なれる」
 青年は端的に答えた。
 太陽の光が眼に染みて痛かった。岸壁街の子供ならば探窟家を一度は夢見る。たいていの子供は大人になるまえに毒にやられて死んでいく。成長できた大半は一日中働き尽くしても満たされずぼろぼろになって死ぬ。ごくまれに本当にアビスに足を踏み入れることのできる幸運の持ち主もいるが、一度目の夢で二度と帰ってこなくなり、さらにわずかに生き残った者は二度目、三度目を繰り返すうちに減っていって誰も残らない。
 探窟家になりたいならば、笛を提げた探窟家になることだと誰しもが知っている。しかし岸壁街の子供が探窟組合の門戸を叩くことは、徒党を組んでアビスに潜るよりも遥かに困難を極め、実際に探窟家になったと伝える者はいないというのに。
 期待が湧いてしまう。岸壁街のくず拾いのナットが夢を見てもいいのだと。
 泣くまいと眼をこすり鼻をすすって、ナットはすがるように青年の膝に手を置く。
……うん。行きたい。探窟家になりたい」
「了解した」
 青年が表情を変えないままに即答する。月笛の青年がどのようにして便宜を図ってくれるのかナットは想像もつかなかったが、嘘ではないと信じた。青年に手を引かれてナットはふたたび路地へと歩き出す。
「お前、名前は?」
「ナット」
「ナットだな。俺はベルチェロ孤児院のジルオだ。俺のことはリーダーと呼ぶように」
「うん」
「返事は『はい』だ」
「はい。リーダー」
 はてどうするんだったか、と独り言をつぶやくジルオをナットは意味もわからず見上げ、そしてアビスを振り返った。岸壁街が遠景に、アビスの全景が眺められるほどに近い。ナットが憧れてきた奈落門がある方角へとジルオが向かっていくので心臓がばくばくと鳴っている。どこへ行くのかも教えられないで、ナットは親を見つけた小鳥のようについていく。
 黒々と開く奈落の大穴にナットは眼を凝らす。大穴こそに光があるのだとナットは信じている。