ロンド
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Public 奈落の大穴
 

極星ノスタルジア【再録】

「まなざしのいろ」「きんぎんすなご」


終章 Side.J


 殲滅卿を遥かなる絶界に送り出す祭りの翌日、殲滅卿の花であるトコシエコウの花びらがまだ至るところに落ちている街中は、昨日の喧噪に比較して行き交う人通りも少なく、いっそもの寂しいほどに閑散としていた。
 夕日の光を呑み込む真黒い大穴に、時おりトコシエコウの花びらが舞い込んでいる様子をジルオは高台からぼうっと眺めていた。遠いような昔、アジトから遠目に眺望していた奈落門は、今や見張り番の顔が見えるほどにずっと近い。
「なんだ、見たことあると思ったら、ジルオじゃあないか」
「お久しぶりです、不動卿」
 特徴的な足音が耳に入っていたので、ジルオは驚かなかった。石壁の手すりを掴んだまま振り返って挨拶を交わす。
 数年越しに会ったオーゼンは、ジルオがすっかり背が伸びて蒼笛に届きそうな年齢に達したのに対し、なにひとつ変わっていなかった。白笛とは時を止めるものなのだろうか、とジルオは薄っすらと思う。
 初めて出逢ったときには気づかなかったが、オーゼンの素肌を隠すような衣服も、妙に重たく歪つな足音も、硬く撫でつけた奈落髪も、呪い渦巻くアビスに幾度も挑んだ白笛の証であることを探窟家のジルオは知っている。
 オーゼンはジルオの横に立ち、なんとはなしにアビスに視線を向ける。
「ライザは今ごろ、逆さ森に到達してるよ。最後だからってのんびり観光なんてしてやしないだろうからねェ」
……そうですか」
「君がライザに弟子入りしていたなんて聞いていなかったのだけど」
「お会いしてませんから。むしろ、師匠が貴女にお教えしてなかったのですか?」
……師匠、ねェ……
 オーゼンが眼を瞑る。反射でジルオは身構えたが、蹴りは飛んでこなかった。代わりのように違う話題を振られる。
「ライザは君を、例の子供とまとめて隠すことに決めたようだ」
……ええ。承知しています」
「ならわかってるだろうね。今後一切、君はライザを師匠と呼んではいけないよ。子供と自分、もろとも無惨に殺されたくなけりゃね」
 オーゼンの深淵を映したような瞳はいつもと同じに濁って見えるというのに、冷たいようでいて心底案じるような声色が乗っていた。ジルオは息を詰めていた肩の力を抜く。
 いよいよ日は落ちようとしていた。組合本部へ諸々の相談に行った帰りのジルオは、遠出だからとベルチェロに門限を過ぎる許可を取っていたが、夕餉の時間に間に合わなければ容赦なく飯抜きにされるだろう。夜が遅くなってどうせ締め出されるなら、といつでも笑って夕食をご馳走してくれる師匠は、もう二度とオースに帰ってこない。
「ジルオ」
 オーゼンの静謐な声が落とされる。
「ジルオ、私のところへ来るかい。あの娘も一緒に」
 ざぁーっと風に飛ばされたトコシエコウの花びらが舞い散る。白い吹雪は鳥のように集まってくるくると回り、やがてアビスに吸い込まれていった。
 問いかけたオーゼンの表情はアビスを一心に見つめているがゆえにわからなかった。ジルオは一息ぶんオーゼンの言葉を咀嚼して、あらかじめ用意していた答えを告げる。
「魅力的なお誘いですが、お断りします。オレには過ぎた評価です」
「なにを謙遜してるんだか。この私から財布を盗っておいてさ」
「あのころの自分は怖いもの知らずの無謀な子供だったと、今では思いますよ」
「今でも生意気なだけのガキだろ。赤笛の身でなにを守れるって云うのかい」
「白笛の直弟子の権限で、蒼笛に上がります。そうしたら、いずれは月笛になって、黒笛にだってなります。不足とは思いません」
 腰を曲げてオーゼンが顔を近づけてくる。奈落の闇そのもののような瞳がジルオを瞬きもなくじっと覗き込む。冷や汗が背中に落ちるのを感じながら、ジルオは唇を噛んでオーゼンの眼を見つめ返した。
……そうかい。君は私の誘いを二度も断るんだね」
 ポキリと骨が擦れる音を立ててオーゼンが背中を伸ばす。再びジルオからは表情が見えなくなった。
「それに、ライザさんに頼まれたんです。リコを守ってやってほしいと」
「遺物で蘇った子供だよ」
「知ってます」
「いつ死ぬともわからない子供に、探窟家の名誉も経験も全部投げ捨てて、一生尽くすつもりかい?」
「ライザさんの望みですから。それに、頼まれたのはリコが自分の道を選べるようになるまでです」
……
 オーゼンがふと黙り込む。ずいぶん細くなった赤光に眩しそうに手を掲げて、わざとらしいため息を吐いた。
「まったく、感謝して平伏してほしいくらいだよ。あんなゴミ溜めから救ってやったことをさ」
「ええ、感謝しています。貴女を命の恩人と思っているくらいには。不動卿に拾われなかったら、今のオレはありませんでした。なによりもあの人を師匠と仰ぐことができたのは、引き合わせてくれた貴女のおかげです」
 本心から、ジルオはきっぱりと云い切った。オーゼンがおかしそうにくつくつと笑う。
……ンフフ……云ってくれる。やっぱり欲しいなァ……ジルオ……
 日が弱くなり夜に反転する時間帯の肌寒い風でなしに、ぞわりと悪寒が駆け巡った。作りもののような黒い手袋の手がジルオの腕を絡め取ろうとするのをジルオは無遠慮に突き放す。阻まれて行き場のなくなった手は空中をさまよい、やがて下ろされた。
「強情だね。そういうところも気に入っているけれど」
「オレの師匠はひとりだけです、不動卿」
「ンフフ……。放り出したくなったらいつでもおいで。まずはライザの子を五体満足で無事に育てられるのか、見物だねェ」
「望むところです。リコはオレが必ず護り抜きます。……アビスに誓って」
 最後の赤光がオースに差し込み、夜の闇が降り立った。街は夕餉のあたたかな匂いが漂い、ぽつぽつと明かりが灯り、夜空には星がまたたいている。
 真っ暗闇に覆われた大穴にはもはや輝かしい金色の光を見つけることができなくなった。