翌朝。
いつもの日課を終えたラートは早々に館に帰ってきた。いつもと違う日常に、彼もまた同じく未だに慣れない。館の扉をくぐると、大広間の前に立つナーデルの姿が目に入った。
「ラート様、お帰りなさい。」
彼女がここにいるということは必要な情報が集まったのだろう。となれば
…
「大広間に集合、か?」
「お察しの通り。みなさまもうお集まりですよ」
ナーデルが微かに微笑むと、かつて初めて皆で集まったときと同じように大広間の扉が開かれた。
あの日は明るい日差しが広間を照らし、賑やかな声があちこちから上がっていた。
しかし、一番大きな声で話す彼も、誰よりも真面目に姿勢を正す彼も、机に顔をうずめて眠っていた彼の姿も
…なかった。
卓の半分が空席となった広間。ラートは自分の席である椅子に腰を下ろす。それに続いてナーデルも定位置に座った。
ラートだけでなく、他の械達も突きつけられた現実にそれぞれ思うところがあるのか、誰も口を開こうとしなかった。
「さて
…この世界について詳しく説明いたします。」
その重苦しい空気を裂くように、ナーデルが声を上げる。彼女がここ数日集めた情報を淡々と話し始めた。
「推測通り、この世界の平和は完成しきっていません。以前と違い、”悪意は抱いてはいけない”という意思があるようです。」
「
…悪意という概念はあるということですか
…?」
ナーデルの言葉にルフレが問いかける。
「その通りです。彼らは“悪意”という感情を理解してはいない。ですが、そういった行いが存在することだけは知っている。たとえば
…昨年のように子供を勢いよく撫でてみたら、警戒されてしまいました。」
「デルちゃんまたやったん
…」
樊凌はここに集められ、初めて町に出た時のことを思い出した。子供を『撫でる』と称して引っぱたいた、ナーデル平手打ち事件だ。
昨年まではナーデルの行動の意図が一切理解できていなかった人間達だが、今回は「ナーデルが悪意をもって暴力を振った」と推測したのだという。
「そして、もう一つ。政府が以前より大きな力を持っているようです。」
その言葉に、場の空気が変わる。“政府”という聞き慣れぬ存在に、械たちが顔を見合わせる。
「この世界は、深刻な資源不足に直面しています。そのため、鉱物資源・森林資源・食料資源のほとんどを政府が徹底的に管理しています。また、人間の人口や活動範囲も、厳しく制限されているようです。」
「なんだか飼い慣らされているみたいですね。」
ルフレがちいさくつぶやく。
徹底した思考の管理は、人間から欲を奪った。博愛主義が病的なまでに広がれば、財産はみんなのもの、独り占めして利益を得ようとする『欲』の意識が人間に失われれば、完全な社会主義になるのは目に見えている。
国が管理し、分け隔てなく与えられる世界は、居心地がいいだろう。不作に悩むことも、金策に失敗することもない。しかし、その代償はあまりにも大きいことを、今の人間たちには分からない。自由に見える不自由も。そして、その安定した平和の均衡は脆く崩れやすいものだということも。
カラベラフィルムはナーデルの言葉を静かに咀嚼した。そして、彼女の意図が朧げながら見えてきた。
「ならば、その政府が無くなれば人々は混乱に陥る、ということだろうか。」
カラベラフィルムの推測に、ナーデルは冷ややかな微笑を浮かべながらゆっくりと頷いた。
「その通り。政府というまとめ役がいなくなれば、人間たちは立ち行かなくなる。支配する力が失われたとき、群れは形を保てなくなる。それこそが、私たちの狙いです。」
守られ、管理されることに慣れきった人々。たとえ心のどこかに“悪意”というものがあったとしても、それを行動に移すだけの動機も力も持たない彼らを、混乱の渦に引きずり込む。
械達は意気揚々と口を開き始めた。
管理者たる政府が崩れ落ちれば、人間たちの中に眠っていた本能
…欲、恐れ、怒り
…それらが再び目を覚まし、『悪意』が芽吹く。戦って、奪って、守ってきた“本来の生”を、もう一度この世界に呼び戻すことができる。
「それやったら、早ぅ、行動に移さな」
樊凌はまるで遠足に出向く子供のように上機嫌な顔で言った。その無邪気な声が合図となり、皆が一斉に席を立つ。気持ちは一つ、全員が大広間から出てゆく。ナーデルも立ち上がり、彼らの先頭に立つ。
全員が満場一致で大広間を出ようとした時、不意にルフレがフィリップに声をかけた。
「フィリップさん、お話があるんです」
「
…?」
フィリップは歩を止めてルフレの方を振り向いた。
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