「
…」
ラートは自室の部屋から窓の外を眺めていた。
木々の隙間から濃紺色だった夜を押し上げるように、地平線から昇ってくる朝日が明るい空色に変えていく様子が見える。日が昇る瞬間、気温は一段と下がる。夜から朝に変わるその瞬間の空気は冴え冴えとしているのだ。
「そろそろ朝日が昇るな。」
彼は独り言ちると、新しくなった木製の車輪を手に部屋を出た。
そして、自分が部屋から出るのと同じタイミングで隣の部屋の扉が開く。
「おはよう!ラート!!」
自分と同じように日の出前に起きる隣人。目覚めてからここまでが彼の朝のルーティンになっていた。
…
今日もその声が聞こえたような気がした。
視線を向けてもそこには閉じたままの扉があるだけ。しん、と静まり返った空間に、テラスから差し込む生まれたばかりのまだ弱い光が、ぼんやりとラートの影を作っている。
「静かな朝になったな。」
グラディエーターとシアノが消えて一週間。
あの日は押しつぶされそうなほどの重い空気が館に漂い、各々自室へと戻り一日が終わった。あれから一週間も経過していたにも関わらず、館はどことなく暗鬱とした雰囲気を纏っている。
(まだカラベラフィルムとルフレと会話をしていないな
…)
ふとそんなことを考えながら裏庭へと向かう。
定位置に座り地上に顔を出した朝日を眺める。もう夜の気配はどこにも残っていなかった。車輪の手入れを始めれば、小鳥の囀りや木々のざわめきが聞こえてきた。
剣がぶつかりあう音や、かけ声とはかけ離れたのどかな朝。
ここに来てから毎朝のように行われていた鍛錬や手合わせ。
ラートが朝日を見ている頃にグラディエーターがストレッチを始め、しばらくすればシアノを引きずって白浪がやってくる。大抵グラディエーターと白浪が走り込みに行っている間にシアノは館に戻り、時々それと入れ替わるようにルフレや樊凌が手合わせの誘いに来ていた。手合わせの模擬戦の鑑賞で盛り上がることもあった。
そのうちに、視野の端に池に向かうカラベラフィルムが映る。
二階の談話スペースの窓を見上げれば、こちらを見ながら朝食を食べているフィリップが見える。
フィリップの様子に気づいたグラディエーターや樊凌は、二階まで駆け上がって、半ば強引に彼を誘いに行くこともあった。
そうこうしているうちに、いつのまにか全員集まっている。なんだかんだと文句を言いながらも、広いはずの裏庭は、あっという間にガタイのいい械たちに埋めつくされた。
しかし、今朝はラートが車輪の手入れを終えたのに、裏庭は一向に静かなまま。
「鍛錬場を作ろうと言ったのは貴殿達だろう
…」
狭いように感じていた裏庭にポツンと一人。どこか孤独感すらも感じる。賑やかな掛け声も、鍔迫り合いする金属音も、時折上がる笑い声や喧嘩の声もない。小鳥の囀りさえ、どこかいつもより控えめに聞こえる。
早々に手入れを終わらせたラートは、その孤独感を置き去りにして館に戻った。
館に帰るとフィリップが本を片手に階段を降りてきていた。
「ラートさん、今日は帰ってくるのが早いですね?」
「あぁ、車輪も新しくなったばかりだしな。貴殿こそいつもはまだ部屋にいる頃じゃないのか?」
フィリップはいつもと違う行動に理由をつけるように持っていた本を見せる。
「魔女のことを調べようと思って。いろいろ変わったようですし、もしかしたら魔女の歴史にも変化があるかもしれない。」
その表紙にはかわいらしい猫と犬の絵が描かれていた。
明らかに魔女についての情報が得られるとは思えない子供向けの絵本。
「
…まぁ、これといった情報は全然見つからないんですけど
…」
「この時代では俺たちがいた時代ほど記録や歴史が重要視されていないようだからな。」
というのも、過去を忘れるという過程で歴史に関わる多くの本が処分されたからだ。平和な世界を得るために行われた悪しき過去の抹殺。徹底的な排除。それに反発した者も少なからずいたはずだが、過去を記した書物は出版の規制が厳しくなり、厳罰を処された歴史家や作家は再教育という名目で投獄された。そして長い年月をかけて徐々にその記録を残そうとするものはいなくなっていった。
最終的に幼児向けの絵本や図鑑などは残ったものの、政治、歴史、思想に関するものは消えてしまう。そして現在の「記録」さえ一部の人しか行わなくなってしまった。
そのためここの資料室に残された書物も、絵本や図鑑ばかり。何冊か械やナーデルが情報共有のために自ら書き残したものがある程度。いまではただの物置だ。
フィリップは情報収集に難航しているようで、特大のため息をついた。
「ナーデルさんがはやく説明してくれたらいいのに
…」
ここのところナーデルは情報収集のため館を留守にしている。何度か館に戻ってきているのを見たが、案の定、何を尋ねても「また後日説明します」の一点張りだ。
「ほかの情報収集の方法を試してみるのも手ではないか?」
「
…聞き込みってことですか?
…わざわざ町に行くのはめんどくさいですよ
…」
フィリップは心底嫌そうな顔をする。
ただただ面倒臭いだけでなく、町に出ても有力な情報が得られるとはにわかに信じ難い。町に出た時に感じた「悪意の不在」が蔓延する世界で、魔女裁判の話は愚か、魔女の存在自体を正しく認識しているとは思えないのだ。フィリップの嫌そうな顔にラートはため息をつく。当のフィリップは冴えない顔のまま絵本を手に「部屋に戻ります」と言いおいて自室へと引き上げて行ってしまった。残されたラートは新しい車輪を手にしたまま2階へとむかった。
フィリップはラートと別れ、自室へと向かって歩いていると、ふいにルフレの部屋の扉が開いた。
(
…?
…いや、いつも通りか)
ふと見ると、フィリップはいつもは完璧に整えられている彼の髪がかすかに乱れているような気がした。
だが、その小さな違和感もすぐに意識の奥へと霞んでいく。
ルフレはいつも決まって挨拶をしてきて、世間話を持ちかけてくる。こちらがどれだけ素っ気なく返しても、毎回欠かさずに。 だから今日も、どうせ話しかけてくるのだろうと、フィリップは思いながらドアノブに手をかけ、ゆっくりと自室の扉を開けた。
だが予想に反して、ルフレは軽く会釈をしただけで、そのまま何も言わず通り過ぎていった。
別に何か話したかったわけでも、話しかけてほしかったわけでもない。 それなのに思いがけない反応に、フィリップはあれ、
と目を丸くした。
(
……)
期待していたみたいじゃないか
…
そんな自分に気づいて、フィリップはむっとして眉間にしわを寄せる。 そして少し乱暴に扉を閉め、自室へと入っていった。
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