井見
2024-11-08 20:49:26
81646文字
Public 真Ⅲ二次
 

【再録】レトロスペクト・フラクタル

真3マニクロ道中にあってほしい二人のやりとり短編集の再録です。
サイトにあげていた短編10本の改稿+新規書き下ろし3本が入っています。
出会いから別れまで。

*超力兵団の話や場所、人物がちょろっと出ます


レトロスペクト・フラクタル


 カグツチを殺した。世界は死んだ。
 残るのは一切の闇。
 そこから現れたのは、僕をこんな体にした奴、ライドウをこんなところに連れてきた奴。応戦したけど敵うはずもなかった。存在の規模が違う。相手が満足したところで切り上げられて、僕らは放免された。
 闇の中で悪魔が騒めく。僕‪‪‪‪──いや、混沌王とやらを待ち望んでいたという悪魔たちが蠢き、僕を迎え入れようとする。‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬
 ライドウはどうするの、と聞く。当然、「帰る」と答えた。
 ボルテクス界ですらないこの闇の世界から、彼のいるべき世界へ帰る。どうやってだろう。ライドウは懐から金色の延べ棒のようなものを出して、聞き慣れない難しい言葉をつらつらと告げた。呪文。詔。悪魔を使役する以外の術は初めて見た。
 地面……地面も壁も無い闇だが、僕らは立っている。その立っているところから、闇とは別の種類の黒い手がのびる。影の世界で見たものと似ている。手はライドウの両足を絡め取り、彼を別の世界へ引きずりこもうとしていた。
「では」
 彼が僕に残そうとするのは、たったの二文字。
 心の準備はできていなかった。
 だから僕は、飲み込まれる彼の腕を、掴んでいた。

 *
 
 そしてライドウは、たぶん怒っていた。めずらしいことだ。彼は認めそうにもないが、どう見たって腹を立てている。何かに。わからなかった。僕が付いてきたことに、だろうか? いいじゃないか、別に。どうせあそこに残っていても仕方がない。同じ悪魔はたくさんいるけど、きみはここにしかいないのだから。
 それか、僕に寝顔を見られたのがそんなに嫌だったのか? ライドウに無理やりついてきたからか、僕らは不時着するようにこのよくわからない場所に落っこちた。なんとか抱えて、ライドウを地面に直撃させることは防げたけれども、衝撃はゼロにはならない。そのせいかライドウは気絶した。あるいは余計な一人分を連れてくるのは、魔力的に辛かったのかもしれない。それは申し訳ない。
 ようやく起きたライドウは、僕をじろりと見咎めると、勝手知ったるという具合ですたすたと歩き始めた。
「そんな顔するなよ」
「していない」
「してるって」
 不機嫌の答えは出ない。怒声の代わりか、マントが嫌にはためている。ライドウはいつもより大股に歩いていた。ずんずんと先へ進むが、どちらに行けばいいかわかっているのだろうか。僕は右も左もわからないので、大人しく追いかけるしかなかった。
……ここってどういうところなんだ?」
 怒っている、いないの話は埒があかないので、現状の確認に切り替えた。
 気絶したライドウが起きるまで、よくわからないここを眺めていた。深い青色のような、何もない闇とはちょっと違う、まるで宇宙めいた空間に、輝く透明な床が浮かんでいる。それは僕たちが理解できるよう便宜上存在しているという風で、なんの材質でできているとかそういう次元の話ではないみたいだった。言うなれば、人智を超越した世界。 
『アカラナ回廊。時空の狭間だ。
 あらゆる世界、時間、それを繋げる一つの概念。アマラ深界にも似た場所だろうな。あれは悪魔がための空間だったが』
 むくれているようなライドウの代わりに答えるのは、やはり付きっきりの黒猫、ゴウトだ。ライドウの歩調に合わせて慣れたように駆けながら、僕へ簡単な説明をしてくれた。
 どうやらライドウたちはここを通って僕の世界までやってきたらしい。時間も空間も越えて。だからここから帰るのだとか。あのアマラ深界が世界という概念の地底にあるとしたら、ここは空の上にある。そんな気がした。
 光の床にはご丁寧に階段が据えられていて、この空間は無限に上へ、そして下へ続いていた。ライドウは迷わず階段を下りていく。
「この階段は、時代を表しているのか?」
『上れば未来へ、下れば過去へ。今の場所からであれば、あと五十年ほど下らねばな』
 つまり今は、一九八〇年くらいにいるらしい。階段をある程度下りると、また床が現れる。未来か過去なら一直線でもいいのに、床は迷路みたいにいろんな道を作っている。浮かぶ思念体が僕らをじろじろと見ているが、ライドウは気にするそぶりも見せない。
 彼は分岐のうちの一番右側を選び、歩き出す。しかし一歩踏み出しただけで、ぴたりと歩くのをやめた。僕は勢いのあまり追い抜いてしまう。
 彼を振り返ればいつもの通りの無表情、だが普段より鋭い眼差しには嫌でも気づいた。
……いつまで付いてくるつもりだ」
 凍るような声色。負けちゃいけない。
……二人を見送るまで?」
 はあ、とため息をしたのが聞こえた。
「戻れ。
 この回廊を開く術は、僕が元いた場所へ引き合うためのもの。
 今に戻る道を失うぞ」
……戻るところなんてない。強いていうなら、闇とかか。でも闇なんてどこにでもある」
「戻る場所はなくとも、ここがお前のいるべき場所でもない。
 充てもなく時空を彷徨う放浪者にでもなるつもりか」
「もう似たようなものだよ。どうせなんだし、付いていったってっていいだろ」
 じ、と彼は僕を睨みつけている。わからなかった。睨みたいのは僕の方だ。
 『では』だけで終わりなんて。
「あんな別れ方、ないじゃないか……
 彼は答えない。しばし睨み合っていた。ライドウが進まなければ僕も動けない。道はライドウしか知らない‪─ゴウトも知っているだろうが、彼はライドウを妨げない‪─から、ライドウが歩き出すのを待つしかなかった。‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬
 ようやく彼は動いた。
 が、歩くわけじゃない。衣擦れの音。右手が刀の柄を掴む。
 実力行使か、と僕は身構えた。僕を気絶させて、その間にさっさと帰るつもりなのか。そこまでするか。なら、僕も同じようにさせてもらうしかない。
 腹の下に力を込めて、片足を引き、腰を落とす。いつでも駆け出せるし、いつでも受け止められる。あとは開始の合図だけが必要だ。ライドウは張り詰めた空気の中で動かなかった。己のタイミングを狙っている……
 
 ‪‪‪‪──違う、何かが来る!‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬

 相手は僕じゃない、ライドウはこれに気づいていたんだ。何かが物凄い勢いで近づいてきている。時空が溶け合ったこの場所では、気配を捉えるのは難しい。だが間違いなく僕らめがけて距離を詰めてきている。
 悪魔か? いや、これは悪魔じゃない。当然思念体でもない。
 これは‪─人間だ。‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬
 ライドウは何故か構えを解いた。だが〝何か〟は止まらない。どこまでも続く上階からひらりと黒い何かが現れ、攻撃が始まる。狙っているのは僕じゃなくライドウだ。二人のうち片方は明らかな悪魔なのだから、人間の方を狙うのが定石というやつだろう。
 ライドウめがけて発せられる攻撃の間に、僕が割り込む。全弾が僕に命中するが、特に問題はない。それになんだこれは。魔力の塊とかではない、もっと物理的な……銃弾?
 僕の体で変形した弾丸。それは見たことがあるものだった。
 そして僕の目の前に現れた男も、見たことがあるものだった。
「ふ、ふふ。擦り傷一つつけられぬとは!
 中々に見事」
 満足げな豪快な声。
 それを発する男を見てから、僕はライドウを見た。そしてもう一度、眼前の男を見た。
 古風な学生服に大きな黒マント。重たげな睫毛に彩られた藍色っぽい瞳、真っ白い顔をすらりと通る鼻筋が引き締めている。
 他人の空似どころではない。ライドウと全くの瓜二つ。だが大きな十字傷が右目に覆い被さっており、浮かぶ微笑が猛々しく見えた。
「随分と物騒な挨拶だな、僕よ」
「なに、感じたこともない妖気が立ち込めていたのでな。
 来てみればお前と此奴が膠着している。では、と塩を送ってやったのだ」
 二人は知り合いらしかった。驚く様子もなく、和気あいあいと挨拶を交わし始める。
「ま……待って、こいつは……
 ずいと体を割り込ませる。二人の間に。こいつはライドウを狙って撃ってきた奴だ、僕は思わず身構えていた。
「そう荒ぶるな」男は無傷の左目を細めた。「主人を狙って悪かったな、許せ」
「そこじゃない、おまえは、」
 ライドウが僕を手で制した。
「その男は、十四代目葛葉雷堂ライドウ
 異なる世界の僕自身だ」
「異なる……
 一歩下がって、双子みたいにそっくりな二人を交互に見つめる。そっくりという言葉でも足りない。ほとんどが〝同じ〟だった。
『無限に連なる平行世界の、同一人物だ。
 そちらの業斗ゴウトはいないようだな』
「修行ばかりかと呆れられてしまってな。直ぐに戻るつもりだったが、その前に貴様たちを見つけてしまった」
 ゴウトもいるのか。
 姿だけでなく在り方も同じ。目が回りそうになったが、一つが一番気にかかった。
……どの世界でも、ライドウはライドウになってるのか?」
 変えられない運命は、世界を超えてうずくまっているのか?
「どの世界でもかは知らぬが。少なくとも我らは雷堂《ライドウ》である」
 彼は凛と告げるし、ライドウは深々と一度頷いた。
 十四代目を継ぐという覚悟を、どちらも済ませているんだ。その頷き一つでわかった。
 雷堂は腕を組みながら、こちらのライドウにずいと顔を近づけた。
「して、そちらは貴様の仲魔でよいのか、我よ?」
 ライドウと雷堂。理解してから見ると、同じだけど少し違った。
 聞きたくてたまらないみたいに表情を露わにする雷堂は、ライドウに比べるとちょっとわかりやすい。
「僕の仲魔だ。手出しは無用」
「ならよい。敵とあらば手助けするつもりだったが」
……僕が敵だったら、僕はライドウ二人相手にするところだったのか?」
「それもまた惜しくはあるがな」
 ぼそりと呟いたのは、雷堂ではなくライドウだった。恐ろしいことを考えないでほしかった。
「でもライドウ同士知ってたのに、なぜおまえはこっちのライドウを狙ったんだ」
「先も言ったが、状況が飲めなかったのでな。
 我の攻撃に乗じて貴様が襲いかからんとするのであれば敵、そこな我に加勢する。
 我の攻撃を防ごうとするのであれば味方。刀は収めねばなるまい。
 至極簡単な判別だろう」
 無茶苦茶だと思ったけれど、ライドウもそれくらいしそうだと思った。
 しかし雷堂はもうそんな話どうでもいいらしかった。僕を穴が空きそうなほど見つめてくる。ふむ、となど言いながらぎらつかせる眼をどうにかしてほしい。遠慮なしに目を覗き込んでくるせいで、いやでも目線が合ってしまう。めずらしい悪魔だと思っているんだろうが、僕にも視線を嫌がる権利くらいあった。
 散々僕を瞬き一つしないで眺めてから、雷堂は言った。
「貴様、人間か?」
……人間に見える?」
 光る刺青が全身にまわっている人間がいるのなら見てみたい。
「見目の話ではない。
 悪魔はサマナーのマグネタイトを持って姿形を得るもの。
 だが貴様は違う。マグネタイトの供給が無いな」
 それは確かにそうだった。もしライドウが死んだとしても、僕には何も影響がない。変わらず僕はここに存在し続けるだろう。
……僕は、特別製なんだ」
「とくべつせい?」雷堂はぎゅっと眉根を寄せた。「……人から変じたか」
 ライドウが僕の代わりに頷いた。そのまま雷堂が彼に向き直る。
……原理は知らぬが、それはよい。
 マグネタイトの供給が無いということは、サマナーとの繋がりも無いということ。
 我よ、まさか……封じずに連れているのか」
……
 口を閉ざすライドウ。
 確かに僕らの関係はただの口約束でしかなかった。僕はライドウの命令に従う義務はないし、ライドウがいないと生きていけないなんてこともない。もし仮に僕がライドウを殺しにかかっても、ライドウは僕を管に戻すなんてことはできない。ただの悪魔をそばに置いておくなんて、サマナーとしては信じられない状況だろう。
 僕だって気づかなかったわけじゃない。だけど、指摘したことはなかった。指摘しちゃいけないことのような気がしていた。
 ライドウは僕を管には封じないまま当然のように僕についてきたし、基本的には僕の指示に従ってくれる。むしろライドウが僕の仲魔みたいなものだったけれど、それもまた、曖昧な関係に過ぎなかった。でも僕にとっての仲魔というものは、ずっとそういう感じのものだった。付いてくる気があるなら付いてくる。マグネタイトみたいに何かをあげることもない。だから僕の方からライドウを縛りつけることはできない。
 しかし逆は、やろうと思えばできるはずだ。その小さい管に僕を封じ込めて、必要な時にだけ呼び出せばいい。そのほうがずっと簡単だ。
 なのにライドウはそうしない。
 僕は、足元のゴウトをちらりと見た。尻尾をゆらゆらと揺らしながら、僕を見上げて、少し笑ったように見えた。
『案ずるな、こちらのライドウもまたライドウ。無知ではない。
 単にいやだとごねるのだ。仕方あるまい』
「ただの、契約関係というのか……
 その管は飾りか?」
 雷堂は好戦的なのかもしれない。物怖じせずにライドウを煽って、ついにライドウが口を開いた。
……飾りではない。
 封じずとも、彼は僕の仲魔だ」
「正気か」
「正気だ」
 ライドウは断言していた。
「僕も見ただろう。彼は僕を庇って、君の攻撃を受けた。
 これが仲魔でなくてなんになる」
 ふ、と雷堂が鼻で笑ったのが聞こえた。
「誰か向こう見ずが、此奴を封じようとするかもしれんぞ?」
「できるのであれば、そうすればいい。
 彼が受け入れるかは知らぬが」
 どうなんだ、とライドウは僕を見た。受け入れるわけがない。誰か知らない奴に使われるつもりはなかった。首を振って答えれば、ライドウは頷いた。
「了解した。我のことだ、敢えての振る舞いと察することにしよう」
 雷堂はばさりとマントを翻した。ライドウと全く同じ装備が現れる。管、銃、刀。獣よりも恐ろしい敵と相対するための武器。
 そして彼は、おもむろに刀を引き抜く。よく手入れされた大振りの刀は、ライドウの持つそれと同じくきっと切れ味がいいのだろう。
 何をするつもりか聞く前に、雷堂は片頬を吊り上げた。
「であれば、我よ。
 我の修行のためと思って、仲魔の彼に我へ一太刀振る舞ってはもらえぬか。
 その力、拝見せずには帰れぬ」
 剥き身の荒々しさは、ライドウなら秘するものだが、彼はそうしない。
 彼は僕に敵わないだろう。見て取れる所作はライドウよりもほんの少し未熟だ。一対一の勝負であれば、なんとかできる自信があった。それを雷堂もわかっているはずだ。だからこそ、なのかもしれない。彼は僕に心を踊らせていた。
……だ、そうだが。
 付き合ってやってはくれないか」
 その物言いがまるで雷堂の兄貴みたいで、僕はちょっと笑った。
「一撃分は耐え切れる、案ずるな」
「案じてはないけど。じゃあ、やるよ」
 せっかくの期待だし、どうせ僕にはこれぐらいしかないのだから。
 僕は数歩下がって、大きく息を吸い込んだ。目を閉じながら、ゆっくりと息を吐く。
 全身に魔力を行き渡らせる。回路みたいな刺青が少し熱くなるのを感じる。
 雷堂の様子を見た。右目は傷のせいであまり開かないようだが、代わりに左目が爛々と輝いている。うっかりと浮かんでいる微笑は、いつかライドウがしていた表情とそっくりで、ああやっぱり別人だけど同じなんだな、と思った。
 しっかり構えているのを確認してから、僕はもう一度息を吸い込む。
 気合を入れた肉体は、それだけですぐに発火する。胸の内からこみ上げる力、衝動。体の中でそれを一つにまとめる。
 迫り上がるそれの勢いに任せて、僕はその魔弾を解き放った。
……
 魔弾は雷堂に命中した。真正面から刀だけで受け止めるのだから、大したものだと思う。
 雷堂は一歩半後ろに下がり、少し間を置いてから、がくりと膝をついた。
「ふ、ははは! 出鱈目だな!」
 笑い声と共に、雷堂の口から血が一筋流れ出した。
 僕は駆け寄った。
 口が熱い。焼け焦げたような匂いがする。この技を使うと毎回そうだった。舌が焼け付いて、喋るのが難しい。体が魔力で焼けてしまっているみたいだ。強力な技ほど体の反動は無視できなかった。
 僕は雷堂の腕を掴んで引き上げながら、治癒の魔法を唱えた。僕から雷堂を巻き込んで、お互いの傷が治った。
「回復までできるのか。貴様を敵に回す奴が気の毒なほどだ」
 僕は首を振った。体力にも魔力にも限界はある。今はたまたま元気なだけだ。魔法で口の火傷は治っても、まだひりひりと痛んだ。あんまり連発はしたくないものだ。
「満足したか」
 一部始終を大人しく見守っていたライドウとゴウトが近寄ってきた。
「彼奴を仲魔として繋ぎ止めておける、お前の技量にも感服するよ」
「技量なのか?」
 咳払いをしながら割り込んだ。声が出せるようになった。
「さあ」
 首を傾げるライドウに、雷堂が苦笑いを返した。刀を鞘に戻して、マントを再び羽織る。ゴウトが口を挟んだ。
『まだ修行を続けるつもりだろう。それもよいが、程々にしておけよ』
「なんと。わかってしまうか。流石はゴウト」
 まだ戦うつもりなのか。それほどまでに力を渇望するのは、やっぱり帝都守護とやらのためなんだろう。顔の大傷も、そのせいでついたのかもしれない。
 雷堂は、生きた左目を僕に向けた。
「縁あればまた。その時は封じさせてくれ」
……お断りするよ」
「ふふ、我も許さなかろうな。残念だ」
 雷堂は有無を言わさない。
 では、この先も気をつけよ。それだけ言って、ひらりと駆け出していく。元いた場所に戻るのだろうか、光る階段をみるみる上って、すぐに姿は見えなくなった。
 
 *
 
 ライドウは階段を一段ずつ下りていく。すぐ隣にはゴウトがしなやかに下る。僕は一歩後ろから、ライドウの後についていった。
 雷堂がいないと、とても静かになったように思った。でも僕らは元々こんな感じだった。
 ライドウは最初の話題を蒸し返すつもりはないみたいで、僕は安心した。付いてくるな、と再び言われたら今度こそ喧嘩か。また雷堂が嬉々として戻ってくるかもしれない。
 こつこつとライドウの革靴が光る階段を踏んでいく。僕のスニーカーなんだか体の一部なんだかわからない靴よりも、彼の靴音の方がよく響く。それは道を空けろの合図だった。その証拠に、この回廊にも悪魔はいるらしいが、一匹も見当たらなかった。
「あとどれくらいだ」
 沈黙を破ってみた。道案内はどこにもないから気になった。
 たまに立っている大きな柱に、西暦くらい書いておいてほしい。何本目かのそれを通り過ぎたところで、ライドウは答えた。
「それには触れるな。
 あと三十年ほどだ」
 柱に手を伸ばしたところで止められた。近くにいる思念体がうわ言のように何かを呟き続けている。聞き耳を立てようとして、置いていくと急かされた。ライドウはこの柱を目印に今いる時代を推測しているらしい。それに注意するということは、柱に触ったことがあるんだろう。
 一九六〇年くらいの世界を通り過ぎて、一九五〇年くらいの世界へ。といっても、見た目は何も変わらない。無機質に輝く空間を、ライドウはひたすらに下りていく。自分の生まれた世界めがけて。
 さらに十年ほど下った。
 あと少しだった。
「大正二十年って、西暦だと何年?」
「一九三一年だ」
「結構最近だ」
 ライドウはああとも言わない。代わりに二回瞬きをした。一回目の瞬きで、一瞬目を伏せたのがわかった。
 それきりライドウはずっと前を見ている。行くべき場所、行くべき道を知っている。僕には目もくれない。振り返ったらいけないみたいな神話を僕は思い出した。あのラストは、結局振り返ってしまったんだっけ。それくらいライドウは、絶対に僕の方を見ないぞ、と覚悟しているみたいだった。その証拠に、いっそ不気味なくらいに浮き立っている白い顔、その中でぽんと目立つ赤い唇は、ただでさえ開きにくいのに、もうすっかり縫い付けられたみたいに開かなくなっていた。
 足音が響く。マントがさらさらと擦れる。ライドウの息遣いすらも聞こえてくる気がする。
 くるりと左に曲がってから、さらに階段を下りる。すると床でも階段でもない、終点みたいな大穴が見えた。ライドウは迷わず進んだ。
 一段ずつ近づいてくる。
 光り輝く大穴は、ライドウを待ち侘びている。あれが大正二十年の世界なんだ、僕は直感した。ライドウの開いた回廊は、ライドウを起点に構成されているのだろう。あの大穴からライドウは帰る。そうに違いなかった。大穴まではもう回り道も抜け道もなかった。
「ライドウ」
「なんだ」
 ライドウの足は止まらない。
 だから再び、僕はライドウの腕を引いた。
「ほんとうに、帰るのか?」
 ライドウは僕の腕を振り払わなかったが、僕を振り返りもしなかった。
「帰るとも。帰るまでが依頼だ」
「どうせおまえの依頼は失敗だ。僕を討伐できてない」
「ならば失敗の報告をせねばならない」
「報告して何になる? 僕は一体どうなる」
「好きにすればいい。
 君は僕の仲魔。だが何ら強制権はない。ここでお別れだ」
……じゃあ、好きにする」
 僕は回り込んで、ライドウの前に出た。ライドウがこっちを見ないのだから仕方なかった。ライドウはようやく僕を見た。階段下から見上げるおかげで、顔がよく見えた。
「言うつもりはなかったけど、やっぱり言うよ」
 僕は唾を飲み込んだ。言いたくなかった。言っても言わなくても後悔するとわかっていた。
 でも僕は決めた。
 言っちゃいけないことを言うんだ。
「おまえも見ただろ。世界なんてあっけなく死ぬんだ。
 帝都だとか世界だとか……そんなもののために戦うのは、やめろよ」
 僕の世界は死んだ。どうしてだろうって思っていた。
 世界は無限にあるのなら、なぜよりによって僕の世界が死ななきゃいけなかったんだろう。何かが間違っていたのか? 何も間違っていなかったのか。死ぬべきだったから死んだ。そうなのか。でも僕にとっては、まだ続くべき世界だった。
 だけどもう何もわからない。世界は思ったより簡単に死ぬ、それだけの事実。人間だって胸を貫かれたら死ぬんだ、世界も実は同じだったんだろう。
 そして今度は僕が、世界を殺した。 
 新しい世界が生まれたとしても、もう僕は喜べない。死んだ世界が生き返ることはない。もし僕の世界そっくりそのままの世界が生まれても、それは似たような別物だ。だから僕は世界を殺した。
 やっぱり守るより殺す方がずっと簡単だった。何かを守るために戦えたことはなかった。
 守ろうとしたってどうせ失われてしまうんだ。でも失いたくない。わかるよ。僕だってそう思うから。世界を守りたい人はいたかもしれない。でも誰も守れなかったから、僕の世界は死んだんだ。
 だから僕は言うしかなかった。言いたいわけじゃなかった。言っちゃいけなかった。わかっていたけど、言わなきゃ何も変わらない。
「きっとおまえも、死ぬだろ。いつも命がけで、人間なのに悪魔なんかと戦って。今に限界がくる。雷堂だってそうだ。あんな大きい傷なんか作って……生きてるのがたまたまって感じじゃないか。
 嫌だよ。いやだ。おまえが死んだら……いやだって思う。もう嫌だ。みんな死んだんだ。きみまで死んだら、もう全部……
 言葉を切った。一気に何かを言うのは慣れていなかった。余計な思考が流れ込んで怖かった。
 声が少し震えていたかもしれなかったから、僕はもう一度唾を飲んだ。
 
……ライドウなんてやめろ。
 帰らないでよ……
 僕はもう、駄々をこねるこどもみたいに、繰り返すしかなかった。
 
……人は死ぬ。お前も死ぬさ。
 それが少しばかり遅いか早いかの違いでしかない」
 諭すように彼は言う。
 わかっている。彼はそんな迷いとかもう全部終えているから、きっと今ライドウをやっているんだ。僕の言っていることなんて、今更気づくようなことじゃない。
 でも今まで何も言えなかったから、全部取りこぼしてきた。最後ぐらいは言いたい。
……本当の大正時代は二十年も続かない。思念体が言ってたよ、聞いたんだ、十五年までだろうって……。知ってるんだろ? こんな回廊に慣れているんだ。
 おまえは西暦だってわかってる。その時に何が起こったかだって、聞きたくなくても耳に入ってくる……僕の知っている歴史も、知らない歴史も。おまえの未来が」
 最初に僕たちが着地した時間は、二〇〇〇年くらいのところだった。でも近くの思念体が喋っている話は、全然知らないことばかりだった。ライドウたちは気を失っていたから、情報収集のために話しかけたけど、会話にはならなかった。ただひたすらに同じような内容をわめき続けていた。僕の知らない言葉、知らない歴史。東京が死んだのは二〇〇〇年より後のはずなのに。明らかに僕の世界の歴史と異なっていた。
……僕の世界は間違ったから殺されたのなら、おまえの世界だって、いつか殺される。僕の世界みたいに。あっけなく、夢みたいにさ。
 でも世界が死ぬのは、もうどうでもいい。きみの世界だって、死ぬ時は死ぬだろう。
 誰かが守らなきゃ死ぬような世界、勝手に死んだらいい」
 もし世界が死ななくても、その後に続く歴史はもう決まってる。彼はきっと死ぬ。その死に方は、ぜったい安らかなんてものじゃない。
「きみが死ぬのは……いやだ。嫌なんだよ」
 結局はこれだ。これだけだった。なんで嫌なのかなんて理由がいるだろうか。
 彼は階段を一段下りた。光る大穴との距離が縮まってしまった。嫌だった。僕はまだ彼の腕を引っ張ったままだったけど、彼もまだ振り払いはしなかった。
 彼は僕を改めて見た。目線の高さは同じになっていた。もしかして、そのために階段を下りたのかなと思った。思い上がりかもしれなかった。
 
 彼は、なら、と言った。
 
「僕も言わせてもらおうか」
 空いている右手が動く。そのまま胸元のホルダーに伸びる。左胸に連なる四つの管、その一番下を、彼は一瞥もせずに引き抜いた。
「今までに一つ嘘を言った。
 君の気にする隠し玉などはいない。既に君に見せている仲魔六体が、僕の連れている仲魔全員だ」
 僕に見せつけるようにする管は、鈍色に輝いていた。
「だからこれは空だ。
 誰も封じてはいないし、これからもそのつもりはない。
 いや、なかった、と言う」
 彼は、管の口を、僕に向けた。
 まだ何の力も込められてはいなかったから、管はただの試験管みたいな姿のままだった。でも管の口の引き手みたいな丸は、微かに震えている。管は僕を目標にしているのだとわかった。
「世界も人も他愛なく死ぬ。君の言う通りだ。
 僕も偶々命があるだけ、一体今までに何度死んでいたかしれない」
 ぎゅっと睨むような視線は、まるで僕に挑戦を挑むみたいだった。切れ長の瞳を縁取るまつげが、小さく揺れていた。
 彼は口をほんの少しだけ開いたり開けたりして、ようやく言うのだった。
「‪‪‪──仲魔になれ。
 死にゆく僕を必死で守れ。
 そうすれば、一日くらいは存えよう」
 彼は管を握り直した。聞き慣れない不思議な音がした。管が起動しかけている、その寸前で止められていた。
 この展開を、想像したことがなかったとは言えなかった。でもまさか、と思った。
 彼は僕を悪魔として扱うことを、不思議と嫌っていた。いや、僕を悪魔だとは思っている。でも彼は僕がマガタマを飲み込む様子を気にするし、魔法で傷を治すと嫌がる。変な線引きがあった。そして一番の線引きは、やっぱり管だ。今まで一回も封じられそうになったことがなかった。
 なぜだろう、と考えたことはある。
 僕が人間だったからだろうか。でも人間から悪魔になった存在なんて、めずらしくないらしい。ヨシツネなんて多分そうだろう。あの悪魔を管に封じて連れているんだから、僕を封じたって同じことのはず。でも彼はそうしなかった。
 僕たちの間にあるのは、手付金みたいなのを渡されただけの、約束にすら満たない繋がりだった。
 それを変える選択。
 僕は動けなかった。
 やっぱり選択を迫られるのは苦手だ。頭が真っ白になって、何を考えるべきかわからなくなる。
……嫌か。
 なら、いい。
 僕も嫌だ」
……どうして?」
「仲魔は、力だ。
 この人間の体で悪魔と戦うための矛であり、盾」
 管を差し向ける手が落ちた。力なく握られた管は、でも胸元には戻らなかった。
……君は、そうじゃない」
 しばらく口を閉じてから、彼は言った。絞り出すみたいに。
 なんで彼は、自分で嫌だと思っていることを提案したんだろう。僕は少し不思議に思ってから、すぐにわかった。僕もついさっき全く同じことをしていた。
 僕はライドウの人生を否定した。彼の生きる目的を、そんなもの、なんて表現する。ひどい侮辱をした。
 彼に死んでほしくないから、なんて理由は、結局は僕が彼に死んでほしくないだけで。彼のための言葉なんかじゃない。
 だから言っちゃいけないことだと思っていたし、言いたくなかった。
 けど、最後だから、言ってしまった。
 それは彼も同じなのかもしれなかった。
「僕は……
 僕は……僕は、どうしよう。どうしたらいい。
 嫌だというわけじゃなかった。彼の仲魔になりたくないなんて思うくらいなら、そもそもこんなに一緒に旅をしていない。断る言葉は出てこない。
 でも、わからなかった。彼の正真正銘の仲魔になって、彼に呼び出されて、彼の命令を聞いて、彼の元へ帰る。悪くない余生だと思う。けど、本当にそれでいいのだろうか。わからない。

 お互いに、何も言えない時間が続いた。

 僕が彼に押し付ける願いも、彼が僕に提示する選択も、たぶんそもそもが間違っているんだと思う。
 彼が帝都へ帰らなくても、僕が彼の仲魔になっても、どっちにしたって彼は……喜んだりはしないと思った。目の前の彼の表情が答えだ。いつもの仏頂面に見えても、眉間には少し皺が寄っているし、きゅっと細められた目は微かに揺れている。叶ってほしい願いなら、そんな苦しそうな顔はしない。もし彼が泣くことを知っていたら、そうしていたかもしれない。
 だから僕らは頷けないし、首も振れない。
 答えなんて、本当はお互いわかっているんだ。
 ここで僕たちはさよならなんだ。
 
 ‪‪‪‪──僕は、彼の持つ管を掴んでいた。‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬
 唐突だった。僕は自分にびっくりした。間違いなく、僕の刺青だらけの手が、銀色の管をぎゅっと握っている。
 初めて触る彼の管は金属でできていそうなのに、じっとりと温かった。彼がずっと握り締めていたからだ。
 それからようやく、思考が行動に追いついた。
 僕は、管に思いっきり力を込めた。管は思ったより硬かった。当然か、落として割れたなんてことがあったら大変だ。こうやって管を攻撃しようとする悪魔の力を跳ね除けるように、色々な細工が施してあるに違いない。
 でも僕はわりと強くなっていたし、そういった小細工を貫通するような呪いも得ていた。
 だから次第に管の反発は弱まっていって、いつしか、
 ぴし。
 と小さな音を立てた。
 管には亀裂ができていた。割れた破片が僕の手の中に落ちる。隙間からは管の中身が見えた。やっぱり空だった。
 僕は言った。
「きみと一緒には行けない。きみの仲魔になって、やっぱりきみが死んだら、僕はきっときみの世界を呪いたくなる……
 それは、いやだ」
 彼は驚いていた。何にだろう。管がこんなことになるのを初めて見たのかもしれない。あるいは僕の行動。どっちもか。
 僕は彼にはついていけない。彼の側で、彼の仲魔として、彼をどれだけ必死に守ろうとしたって、きっと彼は死ぬ。もし自分一人の命で世界が守れるなら、喜んでそうするような奴だと思った。そうなったら、僕は世界を憎むかも。でも彼の守りたいものを壊してやりたいわけじゃなかった。僕は、彼に死んでほしくないだけだった。
 そして僕が管に入ってしまったら、そんな彼を止めようとしても、管に封じられてしまう。だから管には入れない。
「でも、僕はきみの、仲魔だ。
 だからその管は、僕にとっておいてくれ」
 使えなくなったただの金属を、彼に握らせた。
 これでもう、管は僕を封じられない。他の悪魔だって封じられない。
 その管の破損が僕の証だ。せめて押し付けるのはそんなわがまま。
 彼は無言で、その管を眺めた。
 真新しいひび割れを指先で撫で、確かめるようにする。
 そしてぎゅっと握り直してから、胸にしまった。
 最初からあった場所、左胸の一番下。
……元より、そうだ。
 これは、君のための管だった。
 使うつもりはなかったのだが」
 彼はぽんと胸を叩いた。
「ならよかった」
「よくはない」
 傷ついた管は何にもならない。せっかくの武器を壊した僕に、彼は怒らなかった。
「どうでもいい時に、僕を思い出すきっかけにでもしてくれ」
 僕らは長いこと一緒にいた気がするけど、きっと別れたらすぐに忘れていくのだろう。
 僕に持ち物はないし、体に傷も残らない。彼もそうだ。
 お互いを思い出せるものはない。それは、さみしいことだと思った。
「なら、僕はこれをやる」
 彼も同じことを思ったのかもしれない。ポケットから、何かを取り出した。
 手にのせられたのは、黄色い小さな宝石だった。
「君の眼に似ていると思っていた。
 ……だから、と言われると、困る」
 指先ほどのトパーズ。一粒だけあっても仕方ない。ただ、綺麗なだけの石だ。
 僕は笑った。
 おまもりにはちょうどいい。使えない管も、見るだけの宝石も。
……ありがとう」
 宝石は悪魔も好きだから、僕もいろいろと持っている。でもこの石はとくべつだ。
 見るたび、きみを思い出せると思った。
「じゃあ……はやく行ってくれ。
 このままじゃやっぱり心変わりして、きみを引き止めそうになる」
 そもそも引き止めたのは自分なのに、彼を急かした。
 回廊の輝く階段は、いまだに変わらない光を称えている。
 階段下の大穴も、彼が飛び込むのをずっと待っている。
 ここから彼は、彼のいるべきところへ帰る。それをもう邪魔したくない。いや、止めたい。でもちゃんと送り出したい。
 結論はわかっていても、依然僕の心は渦巻いたままだ。
 余計なことをしないように、僕はむしろ階段を上った。彼を置いて駆け上がってしまいたい。そうすれば、迷わなくて済む。だけどそれはできなかった。さっきとは逆に、彼が僕の腕を掴んでいた。思わぬ力が、ちょっと痛かった。
……世話になった。ゴウトもな」
 彼はゆっくりと僕の腕を離した。
 ああ、さよならだ。
 ちゃんと別れられるのは、いつぶりだろう?
「二人とも、気をつけて。
 きみが死んだら、僕は怒って……きみの世界に乗り込んでしまうかもしれない。
 だから……
「善処はする」
……しないやつだろ、それ……
 この体がもし泣けるなら、泣いてしまっていたかもしれないと思った。ただ声が震えそうになるだけでよかった。
 ずっと見守っていたゴウトは優しく鳴いて、彼の肩に上った。
『うぬも無茶はよせよ。命あっての物種。それはうぬもだ』
「ああ……気をつけるよ」
 視線はあたたかい。ゴウトは彼の保護者みたいなものだから、彼が無理をしようとしても、きっと諫めてくれるだろう。僕にしてくれるみたいに。
 僕は、階段をさらに一段上った。
 離れないと、離れられなくなると思った。
「必要になったら、僕を呼んで。
 できるかわからないけど、きっと駆けつける」
 最後にせめて、意味のない約束を。
 彼は、頷いた。彼は階段を一段下りた。
「では、さらばだ」
 帽子の鍔を掴んで、ほんの少し持ち上げる。ちょっとした遠出の挨拶みたいだった。
 僕は頑張って微笑んだ。
「さよなら、ライドウ」
 ライドウとして生きるきみに、別れを。
 ライドウも微笑んだ。
 彼はマントを翻して、階段を駆け下る。
 大穴に飛び込む最後、その瞬間、僕を振り返った気がした。気のせいかもしれない。別に気のせいでも構わなかった。振り返ったのだと思うことにした。
 大穴は、すぐに閉じてしまった。光る床が広がる。僕は階段を下りて、その床に立った。
 僕の世界みたいに、もしも彼の世界も死ぬべき世界だと、誰かが定めるなら。
 今の僕なら、できることがある。
 でも立ち上がるのは、もう少し待ってほしい。
 僕は、その光る床に寝転んだ。
 この向こうに彼の世界があって、僕は行けない。だからここが一番、彼に近い場所だ。

 誰もいない回廊で、もう一度、さよなら、と言った。
 今まで一度も呼んだことのない彼の名前を、こっそりと付け加えた。



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