外伝 硝子の窓辺に佇む【後編】

あらすじ
かつてこの国には名探偵がいた。あらゆる謎を解き明かしたその探偵は、悪の教典と共に暗い滝壺で眠っている。
舞台は英国。不可思議な事件を巡る、残された者の物語__。
エマ=ジェームズ・ワトソンの元に奇妙な殺人事件の解決依頼が持ち込まれる。貴族家の女性が窓辺に佇むようにして死んでいたという奇妙な状況。さらにその事件には『魔女の絵画』という神秘の遺物が関わっている__。依頼の手紙にはそのような文面があった。依頼を受けたワトソンはシャルルマーニュと共に事件の捜査へ向かうが……?

スペシャルサンクス
Littorio様: エストレア・アマネセール様、トゥリウンファル・アル・アマネセール様、アドレナリーナ・アマネセール様をお貸しいただきました。
快くお貸しくださり、物語をだいぶ好き勝手に書かせて頂き本当にありがとうございました。
笋様: 『鳥の一族』の一族名をお借り致しました。事後報告となってしまい申し訳ありません。
読者の皆様: いつも感想をありがとうございます。本当に励みになっています。

中編➤ https://privatter.me/page/65b902c57d32f
前編➤ https://privatter.me/page/65afd8e7e75d5

ついに【後編】です。ここまでお付き合いいただきありがとうございました!!!! もうしばらくミステリーはいい!!!! 禿げる!!!!!!


***

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『魔女の絵画』の中




シャーロック・ホームズとメアリー・モースタンは、私が口を開くのをじっと待っていた。

この世界は虚像でしかない。絵画の中に存在する、私の過去と記憶が生み出した幻想である。朝が来てしまえば虚しく泡のように消えてしまう刹那の再会だ。
この一瞬を永遠に留めてしまいたいと思うことをやめられない私は、過去に強く縛られ、決してどこにも行くことができない。221Bを、ロンドンを、英国を離れられないことが何よりもその示唆だった。

もしここから出なければ、私はずっとこのままだ。外では雨が滝のように降りしきっている。まるで瀑布の音であった。この部屋の外がライヘンバッハの滝なのではないかと錯覚するほどの音が響いている。
薄暗い部屋の中で燃えている暖炉の炎が、時折パチパチと音を立てる。その音のおかげで幾許か失落の瀑布を忘れられるが、いつも通りソファに腰かけるホームズと、カウチに座って浮かない顔をしているメアリーの存在が、私のいるべきところを曖昧にした。

「ごめんなさい。盗み聞きするつもりはなかったわ」先程私がホームズと言い争っている間、ドアの向こうにいたらしい。メアリーはぽつりと呟き室内の重たい沈黙を破った。
……謝らないでくれ。君は何も悪くない」
「ジョン。違うの。そうじゃなくて、他にも言いたいことがあるのよ」メアリーは自分の肩にかけていた、私のガウンを強く掴んだ。「嬉しいと思ってしまった。貴方がそれほど私を、シャーロックを思ってくれているということが。忘れないでいてくれていることを喜ばしく思ってしまった」
「メアリー……

私の前にいる、私が誰よりも愛した人__メアリー・モースタンも、私の記憶が生み出した幻想だというなら、もうそれでよかった。
前に進む足を得ようとその先は地獄だった。大きな戦争があった。仲間がどんどん死んでいった。軍医として共に戦場へ赴き、負傷した仲間を救おうと手を伸ばしても、砂が指の間から零れるように、どんどん、どんどん。皆私に救いを求めながら、或いは苦しみ怨嗟を蒔きながら死んでいった。
二人と死に別れてからハイドノーブルの元で随分働いた。だからよくわかる。私は運が良かったのだ。ホームズと出会った事。メアリーと出会った事。
最初に出会ったのがあの女であったなら、私の運命はもっと悲惨だっただろう。


……

私は言葉を見失っていた。
何を話せばいいのか、話したいことは沢山あったはずだった。だがいざ本当に__たとえそれが自分の心が生み出した幻想であっても、二人を前にすると、喉に骨が刺さったように息苦しく、一方でただ言葉が無くともそこにいてくれるだけで全てが満たされるような気さえした。

……友人が、できたんだ……

馬鹿みたいな切り出しだと思う。どのような三文小説よりも下手くそで、これが書き出しだったらまず殆ど全ての読者が読む気をなくし、本を閉じて棚へと戻すだろう。

「知っているよ。一人はメアリーによく似た喧しい鳥。もう一人は僕の兄にそっくりなうるさい馬だ」
……何でわかる」私は思わず吹き出す。言い当てられた事よりも、知りえるはずのないそれを知っている事に驚いていた。
「知っているさ。僕は君の傍にずっといるんだぜ? 君の事なら何でも分かる。今とんでもなく面白い事件に巻き込まれていることもね」
「シャーロック! また事件の話ばかり! 私はもっとジョンの事が聞きたいわ。ね、そのご友人、どんなお方なの? 私に似てるって、顔? それとも精神性かしら」
…………案外、心も、だ。君に似て優しくて、世話焼きだ。……まあ、しょっちゅう執筆の邪魔をして妙な事件に巻き込んでくるのが彼の汚点だが」

私はバレル・ホークアイの顔を思い出していた。メアリーに似た顔立ち。だが精神的には別人である。高級車を警察の安月給で無理して購入した見栄張りな一面もあれば、一方でそうした見栄を簡単に投げ捨てて、誰かのために平気で命を賭けられる男だった。

「馬の方は僕が言おうか。当ててやろう。そうだな、兄さんの子孫だ。ハイドノーブル家の馬子だろ? 基本は自由人でお人よし、家族を深く愛する父親という側面もある。君が邪険にできないのは、君をしっかり認識して友として尊重していることをよ~く知っているからだ。真面目なワトソン先生は親愛には親愛を、憎悪には軽蔑を返す。……メアリーの『殴られたら殴り返せ。タダでは済ませるな』という物騒な教えを、今の今までしっかり肝に銘じているだけはあるね」
「な、なによ! 殴られたら殴り返すのは普通でしょ!?」メアリーはそう言ってホームズの肩をどつきまわした。
「痛い! ほら見ろ、一発の威力が十倍になって返ってきた!」ホームズは肩をさすって、「僕の肩は犯人よりもメアリーに一番負傷させられている……」と独り言ちた。
「お前が余計なことを言うからだろう。自業自得だ」私は冷たくあしらった。
「酷いな!? ……大体ワトソン、君なぁ、僕らが好き過ぎだろう。僕らが死んでもう百三十年経とうとしてるんだぜ? いつまで喪に服しているつもりなんだ」

ホームズは揶揄うように言った。私はその言葉に上手く言い返せない。

……百年も経つんだな」
「そうだよ、マイ・ディア」ホームズは唇の隙間から紫煙を吹き出した。「……いや、すまない。どうあっても僕ら人間は君を置いてゆく。……ああ、駄目だ。僕は君に適切な言葉をかけることができない」
「百年なんて瞬きの間だ。私は終わりを知らない。ずっと皆を抱えて生きていく」

絞り出すような声が漏れた。私は漸く、自分が泣いていることに気づいた。


「生きていて欲しかった。幸せでいて欲しかった。もっと話がしたかった……


本来であれば陸を識ることはなく、人をも識ることはないまま、世界の海をゆらゆらと漂うだけの泡だったはずだ。
だが私は多くを知った。人を知り、己を知り、世界の広さを知った。
そうして私は『ジョン・ワトソン』になったのだ。


「ジョン……」メアリーは私の名を呼び、私の左手にそっと手を重ねる。ホームズは私の方を向かず、下を向いていた。
「そう、か。……君は、優しすぎるな。幻想種として生きるのは向いていなさすぎる」

その声は震えていた。ふい、と顔を背けたホームズはわざとらしく大きな溜息を吐く。

自分自身の姿が徐々に変わっていく。ホームズがくれたキャメル色の古いデザインのスーツは、黒いスキニージーンズと現代的なデザインのスーツジャケットに、スタンドカラーのシャツは紺色の細いタートルネックセーターに、靴はデパートのセールで購入した安物だが、歩きやすく軽いものに。
すっかり今を生きる私、エマ=ジェームズ・ワトソンと名乗る今の私の姿に戻っていた。

前にいる二人の時は止まっている。
1891年。全ての終わり。私の世界が一度終わりを告げた時。
私は右手で涙を乱雑に拭って二人を真っ直ぐに見据える。


…………頼みがある。ある事件を解決したい。二人の力を貸してくれ」


メアリーは何も言わずガウンを置いて、虚空から魔術道具の入った鞄を取り出した。
ホームズはその言葉に一瞬目を丸く見開き、そして輝かせる。言うのが遅いよ、と呟いて、椅子に引っかけていたフロックコートを素早く身に着けた。