黒竹
2022-05-30 21:20:05
41083文字
Public VOCALOID
 

オブザーバーなら遠すぎる

【初音ミク】【巡音ルカ】【オリキャラ】
取り残された君に会いに行こう、というお話。ミクさんとルカさんがメインですが多分ネギトロじゃないです。


 昨日から自分がずいぶん浮かれていると、ルカは自覚している。まさしく僥倖。機材で窓が半ばふさがれた部屋に暁光が差し込んでいるようだ。
 外に出られる。
 外に出られるのである。
 大事なことなのでルカは昨日から二回どころか二百回はその言葉を反芻していた。
 てっきりここで歌ったものを電子データとして送るのかと思っていたら、なんと人気プロデューサの所有するスタジオでミクと一緒に歌うのだというではないか。スタジオに赴くということは出かけるということだ。お出かけ! 夢のような四文字だった。
 スケジュールとしては一週間。郊外にあるスタジオで、満足するまでゆっくりレコーディングをしていいとのことだった。マスタは仕事があるし、向こうも色々と作業が詰まっているので指示は電話とメールがベースになるようだが、そんなことは大した問題ではない。
「マスター、そろそろ出発した方がいいんじゃないですか?」
「まだ二時間はあるよ……。あっちだって準備とかあるだろうから、早すぎると迷惑だろ?」
 呆れた口調で言い返された。ルカだってそれくらいは判っているのだが、どうしても気が急いてしまう。
 待ち遠しい。というか待ちきれない。この会話だって何度目だろう。一年くらい歩いてないから少々不安だ、ジャイロは壊れていやしないだろうか。ちょっと試しに歩いてみた方がいいんじゃないだろうか。一週間も空けるのだ、マスタに「お世話になりました」と膝をついてみてもいいような気がする。いやそれでは今生の別れになってしまうか。
 ルカがあまりにもそわそわしているせいか、マスタがちょっとバツの悪そうな顔になって、のそのそと床に散らばったものを片づけ始めた。ルカの立つ六十センチ四方以外に見えなかったフローリングが次第に姿を現していく。
 右の物を左に寄せて作った一本道の脇にどいたマスタが、表情を変えないまま言った。
……荷物、玄関に置いておきなよ。忘れたら大変だし」
「は、はいっ」
 ひと抱えもあるトランクカートをどうやったら忘れるのか甚だ疑問ではあったが、重要視するべきところはそこではない。
 一歩。恐る恐る踏み出す。バランサは正常に機能していた。危なげなく右足が道に踏み込み、次いで左足が追随する。首から上の機能を使ったのはいつ以来だろう。メモリを辿るまでもない。ここに来てから初めてだった。おそらくは出荷前に動作テストを行っているだろうから、その時に歩行していたとは思うが、当然ながらその時の記録など初期化されて残っていない。
 歩いた。ルカが歩いた。据え置き型かと揶揄されても仕方のない状況から、ルカは見事に脱却したのだ。
 カートを持って、ドアを開けて、狭いキッチンの前を通って玄関に到着。カートを置いて部屋に戻る。
「荷物置いてきましたっ」
……う、うん、ありがと」
「では、そろそろ出発」
「しなくていい」
 残念。肩を落とすとマスタがますます困り顔になった。「ああ…………
「録りもそうだけど、あの辺は観光地で有名だから、なんか景色とか、そういうの見たりして遊んできなよ。あ、いや、仕事で行くわけだけど、けっこう時間あるって言ってたからさ」
「はい。少しネットで見ましたけど良いところみたいですね」
「スタジオで寝泊まりするらしいんだけど部屋もわりと広いんだって」
 それはなおさら楽しみである。この狭苦しい部屋も、これはこれで愛着のようなものがあったりするのだが、やはり広々とした空間への憧憬は捨てきれない。
 この時、ルカの興味は外に向けられていた。外。比喩も何もない文字通りの意味である。辞書を引いたら一番はじめに出てくる意味としての外へ、ルカは想いを馳せていた。
 要するに場所が大切だったのであって、そこにいる他者のことなどどうでもよかったのだ。心底、まるきり、髪の毛一筋ほどの興味もなかった。
 そこにいるはずの、外にいるはずの、初音ミクに対して。