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黒竹
2022-05-30 21:20:05
41083文字
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オブザーバーなら遠すぎる
【初音ミク】【巡音ルカ】【オリキャラ】
取り残された君に会いに行こう、というお話。ミクさんとルカさんがメインですが多分ネギトロじゃないです。
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ベッドは二人で寝ても充分余る。
ルカの手を強く握って離さないミクは、すでにスリープ状態となっていた。一切の機能の停止。手を離さないのはそのせいだけれど、彼女の意思だと思った方がロマンティックだ。
目覚めたら今日のことをすべて忘れていたらいい。あれだけ叫んでかすれもしない喉のことも、よみがえってしまった寂しさのことも、ルカが供してしまった温もりのことも。
ミクの外装に開けられた微細な穴からシトラスの香りが漂っている。定期的にアロマオイルを補充することで常に香りが発せられるオプションの効用だった。スタジオのいたるところにこの香りが沁みついていた。それだけの期間、彼女はここで暮らしていた。
ふと、マスタの身体に沁み込んだ煙草の甘い匂いが懐かしくなった。
噛まれた指にはもう痛みがない。絡まれた指先には、少しだけ、労わりがあった。
内側から温かさを感じる。
ミクの方を向いていた身体を仰向けた。もうすぐ夜が明けそうだった。手元のスイッチを操作してシェイドを半分ほど上げると、夜明け前特有の、薄く青みがかった空を窓の向こうに見る。そういえばこんなに毎日続けて朝を経験するのは初めてだ。自宅ではマスタがいない間はスリープモードにされるので、大抵、目覚めると夜だった。休日だけは時々昼間に起動することもあったけれど、夜明け前を体験した回数は片手で足りるほどだろう。
人間の間では夜明けのコーヒーという言葉がひとつの名詞として扱われることもあるとデータベースに記録されている。理由も載っていたがさっぱり意味が判らなかった。なんにせよ、自分たちには相応しくない言いまわしだ。
隣から、独特な電子音が小さく聴こえた。起動音だ。ミクが目覚めたようである。まだフル充電には早い気がするのだが、何か異常でも察知したのだろうか。それにしてはこちらに通知がない。
ルカの訝りにも気づかず、ミクが勢いよく身体を起こした。「マスター!?」信じられない、という顔で叫ぶ。ルカが呆気にとられているうちに、転びそうな素早さでベッドを下りるとドアの外へ飛び出す。ルカも慌てて追いかけた。
玄関から続く廊下をノロノロ歩いてくる彼の姿を、ルカは一瞬認識できなかった。映像通信でその顔は何度か見ていたし、よくよく見れば確かに同じ顔なのだが、あまりにも面差しが違っていたので同一人物と判断できなかったのだ。
ミクは動揺を隠しきれない様子で彼の前に立ち尽くしている。
「
……
なんだ、元気そうじゃないか」
呟いてから「くぁぁ」と大口を開けてあくびをする彼の頬から顎にかけて、うっすらと無精ひげが生えていた。身なりはそれほど乱れていないものの、ひげと赤い目、それと疲れ切った表情から徹夜明けであることは明白だった。
わたわたとうろたえながら、ミクが何度か口をパクパクさせた。
「あのあの、マスター、こっちには来れないって、なんで、え?」
「調子が悪いんだろ? ハードのチェックでも引っかからなかったみたいだし、何かの拍子にパラメタがずれたのかもしれない。そっちは俺じゃないと調整できないからクライアントに話して午前中だけもらってきた」
「あー、もう二度とタクシーでここまで来たりしたくない」自らの腰をさすりさすり、プロデューサが疲弊した声でぼやいた。
それから、ミクの後ろに控えているルカに気づいて、あぁ、と気の抜けた声を洩らす。
「初めまして
……
っていうのも変か。どうも」
「おはようございます。随分とご無理をされたようですが、大丈夫なのですか? ミクは確かに本調子ではありませんが、公開しても問題がないほどにはクオリティを保っていたと思いますけれど」
「それがなに? ミクがいないと俺の音楽は完成しない」
だから彼女の歌声に瑕疵があるのなら絶対に直さねばならない。そう、彼は平淡な表情で言う。
そこにあるのは偏執とも言える執着だった。音楽に対しての。そしてミクの歌声に対しての。彼が持つそれを、愛着や愛情と表現することはできないけれど、研ぎ澄まされた情熱は見て取れた。始発電車すら待てない、幼さにも通ずる激しさを。
少し誤解していたようだ。ルカは彼が、初音ミクをただの便利な道具として扱っているのだと思っていた。そうではなかった。彼にとって初音ミクは必要不可欠な道具だった。抱いて眠る優しさのない、しかし彼女が完成されるためなら自らに鞭打つことをためらわない、強い感情。
ミクの部屋を思い出す。彼女のためにあつらえられた家具と、ラックに収められたディスクの山を。
ルカは十秒ほど彼と彼女を見つめ、受ける印象を分析して、答えを出した。
「私は、あなたを好きになれそうにありません」
慌てたのはミクだった。眉を下げて、彼を守るように二人の間へ割って入る。
「ルカ? どうしたの? マスターにそんなこと言っちゃ駄目だよ」
宥めようとしてくるミクに取り合わず、ルカは視線を彼に向けたまま続けた。
「でも、あなたの姿勢や信念については尊敬できると思います」
「
……
ふぅん」
「あの歌声を手に入れたあなたを、羨ましいと思うのです」
嘘偽りなく心の底から。
きっと、彼が自分の魂を半分けずって探し当てた歌声は、日本中に散らばるすべてのボーカロイドが求めてやまない理想そのものだ。
パラメタでも歌い方でもない、それを生み出した源はストイックすぎるほど極限まで磨き抜かれた希求と恋だ。
抱いてくれる腕の温もりを捨てて、笑いかけてくれる優しさを捨てて、「充分だ」と満足してくれる喜びを捨てて、日々のささやかな営みを捨てて、「おはよう」と「おやすみ」と「ただいま」と「ありがとう」を捨てて。
歌声以外につながるものをすべて捨てて。
そうして得られた、天上の声だ。
たまらなく憧れる。
それらは自律行動型機械であるボーカロイドの存在意義すら覆しかねないギリギリのラインにある取捨選択だった。
多分、いや百パーセント、己はあの声をマスタに捧げられない。一度も。何をどうしても。
だって無理だ。あの狭いアパートの一室で一歩も動けなかったけれど、起動時に挨拶をしたりくだらない雑談をしたり動画を一緒に見たり煙草の匂いに安心したり散らかっている部屋に眉をしかめたり不器用な手つきで髪を梳いてもらったり「よく頑張ったね」と言ってもらったり曲をアップする直前の緊張した横顔を眺めたり安物の工具とパソコンで手探りのメンテナンスをされたり、そういうものを全部手放すことなんてできない。
それらは、一言で言えばマスタとのつながりだ。
システム制御なんて関係ない。
巡音ルカは他のボーカロイドと同じように、小さな世界でマスタと手をつないでいたい。
だからルカは、広くて大きな世界にいる二人を、音速で駆け巡る二人を、ミクにそうさせる彼を好きにはなれない。
だけれど、彼女を救えるのは他の誰でもなく彼ただ一人なのだ。
不安で眠れない夜に握る手の持ち主では彼女を救えない。
じゃあ歌ってみるかと彼が言って、初音ミクはブースで歌声を披露した。ここ数日の不調が嘘のように、歌はルカを捕えて離さなかった。
それは。
夢のような世界だった。
美しくてご都合主義で触れることの叶わない、そんな世界だった。
ルカはそれを、恋、だと、思った。
空にメロディが融ける。
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