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美味いものは冷めても美味い.zip
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主足怪文書不法投棄
アカウント移行前に新書ページメーカーで投稿していたものをまとめてみました
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おつかい
その日の朝も、いつもと同じだった。
薄いブランケットにくるまって、ソファの隅で丸くなる足立。カーテンの隙間から差し込む光が頬を照らし、眩しそうに眼を瞬かせているが、その場から動こうとはしない。
湯気の消えたマグカップはテーブルの上に置かれたまま。恐らく一口も飲んでいない。
「
……
足立さん」
声をかけると、ワンテンポ遅れて足立の肩がぴくりと動く。焦点の合わない目がこちらを見た。
「ん
……
?」
眠っていたわけではない。ただ、何も考えずぼーっとしていたのだろう。
鳴上の胸に罪悪感が浮かぶ。
この日々を選ばせたのは、他でもない自分だ。
足立は今、鳴上悠に全てを預けて、思考を放棄して生きている。そのことに安堵する自分もいる。
けれど同時に"このまま閉じ込めておいていいのだろうか"という迷いもあった。
「
……
おつかいを、頼んでもいいですか」
言いながら、少し探るように足立の顔を覗き込む。
反応は遅い。けれど、ほんの少しずつ目に自我が戻っていくのがわかる。
「
……
おつかい?」
「牛乳と、卵だけです。すぐ近くのスーパーで、レジもそんなに混まないと思いますし」
「
……
ふぅん」
曖昧な返事。けれど、否定ではなかった。
沈黙が続く。けれどそれは、思考を手放す沈黙ではなく、考えようとしている沈黙だった。
「
……
あそこ、けっこう混んでるよね?」
「この時間なら空いてます。平日の午前中ですし」
「そっか
……
」
足立は俯き、ブランケットの端を指先でいじる。けれど、その背筋はほんの少しだけ伸びていた。
鳴上はその姿を見つめながら、胸の奥にじんわりと何かが滲むのを感じた。
この人はまだ壊れていない。まだ自分の意思で選ぶことができる。それが嬉しかった。
「無理そうだったら、すぐ戻ってきてください。でも、引き受けてくれると嬉しいです」
足立は、長い間を置いてから、ゆっくりと頷いた。
「
……
じゃあ、行ってみようかな。
……
久しぶりに、外の空気、吸ってみたくなったかも」
その言葉に、鳴上は素直に安堵した。"自分で何かしたい"という言葉を足立の口から聞くのは、本当に久しぶりだったから。
鳴上にとって、足立が外の世界と向き合うことは、同時に"二度と帰ってこなくなるかもしれない"という恐怖と隣り合わせだった。それでも、自ら何かを選んでくれたことが、嬉しくもあった。
そんな矛盾を抱えながら平然としている彼こそ、本格的に壊れてきているのかもしれないが。
***
玄関から出た瞬間、空気が変わった気がした。数分前まで自分がいた部屋の空気とはまるで違う。
ちょっと息苦しい。けれど、それを意識しないように足を前に動かし、歩みを止めない。
手にはエコバッグ。ポケットには鳴上から預かったメモ。買うのは牛乳と卵、たったそれだけ。
目的地までは、ゆっくり歩いて五分もかからない。それだけのはずだった。
スーパーの自動ドアが開き、冷気が頬をなぞる。
入店と同時に、店内放送が耳に入り、カートの音、人の足音、かすかなざわめきが重なっていく。
牛乳売り場はすぐ見つかった。棚の前に立って、手を伸ばす。隣に立った誰かが、ちら、とこちらを見たような気がして、反射的に動きが止まった。
じろじろ見られたわけではない。でも、その一瞬が今は耐えられなかった。袋を掴む手がわずかに震えた。
卵はすぐ見つかる。でも、レジに並ぶのは怖かった。何が怖いのか、上手く説明できない。自分の後ろに人が立つと、心がざわつく。息が上手く吸えない。
列を外れて、雑誌棚の前に逃げ込んだ。表紙の文字が読めない。目が泳ぐ。
その時、視界の端に黒いスーツ姿が見えた。ピンと伸びた背筋。白いシャツに、控えめなネクタイ。制服ではない。けれど、その佇まいを見た瞬間、足立の体がびくりと跳ねた。
「
……
刑事」
その単語を口にした途端、呼吸が急激に浅くなった。目が合ったわけでも、話しかけられたわけでもない。しかし、足立の不安を煽るには充分すぎる材料だった。
顔を知られていたらどうしよう、と思った瞬間、胃がきゅうと縮んだ。口の中が酸っぱくなり、全身の毛穴が開くような感覚に襲われた。
***
帰り道の記憶は曖昧だった。カゴの商品をどう戻したのかも思い出せない。ただ、逃げたかった。
背中がじっとりと汗ばんでいる。脈拍が早い。歩幅が定まらず、何度も立ち止まりそうになる。
けれど、立ち止まってはいけない気がした。
立ち止まったら、もう二度と動けなくなる気がした。
玄関が見えた瞬間、ようやくまともに酸素を取り込めたような気がした。震える手で鍵を回し、扉を押す。
ガチャ、と音を立てて扉が開いた。室内の空気が漏れてくる。数十分ぶりの慣れたぬるさに、安堵して思わず目を閉じた。そのまま一歩、足を踏み入れる。
「足立さん、おかえりなさ
……
」
聞き慣れた声が途中で止まった。リビングの奥から顔を覗かせた鳴上が、言葉を失ってこちらを見ていた。
足立はエコバッグを手に握ったまま、ぴたりと動けずにいた。顔色は青く、唇がわずかに震えている。瞬きのタイミングは不自然で、視線はただただ虚ろで。
鳴上は、何も言わずにそっと歩み寄る。エコバッグを強く握り締める足立の手に触れると、その指先は驚くほど冷たかった。
「
……
おかえりなさい、足立さん」
足立は返事をしなかった。ただ鳴上の胸元に額を預けるように寄りかかる。息が浅い。鼓動が速い。けれど、何も訴えようとはしていなかった。
「少し、戻れたかもって、思ったのにね
……
」
自嘲とも諦めともつかない声音。それを聞いて、鳴上の胸の奥に酷く不謹慎な感情が湧いた。
——
やっぱり、この人には俺が必要なんだ。
情けないほど歪んだ安堵。けれど、足立を抱きしめた鳴上の腕に迷いはなかった。
「
……
大丈夫ですよ。ゆっくり慣れていきましょう」
そっと耳元で囁くと、足立は一度だけ小さく頷いた。
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