kaisou
2026-06-08 23:39:34
16054文字
Public 1740年コンクラーヴェ話
 

Dimidio gradu foras 半歩だけ外へ

1740年コンクラーヴェ話・別視点11

過去と現在の話③

お忍びでの外出の記憶と今。

※歴史創作なので悪しからず

▼本篇まとめ
Aliquid est quod memoria mea non relinquit.
私の記憶を離れないものがある

https://privatter.me/user/kaisou_ja?category=110867

全7章/幕間含む
1740年コンクラーヴェ話の本篇その2
視点違いの2つの話のうちの1つ。



 井戸端の女たちが笑う声がした。桶を持ち上げる音。水のこぼれる音。どれも街の暮らしの近くにある、生きた音だった。
 ランベルティーニはしばらく何も言わなかった。こういう時のこの人は、もう別のものを見ている。
「聖下」
「何だ」
 返事は穏やかだったがそれだけに悪い。見抜かれていると分かっていながら、とぼける気配が少し混じっていた。
「先ほどの書物台のことを、まだ考えておいでですね」
 ランベルティーニはそこで、わずかに歩調を落とした。否定しない時の間だった。視線は前を向いたままだが、気を抜けばすぐあちらへ戻りそうな顔をしている。
「少しだけ」
「少し、ではございません」
「君は勘がよすぎる」
「聖下が分かりやすすぎるのです」
 コシアは平板に言ったが、そこにはもう半分、諦めがあった。止めても、気になったものを完全には捨てない。そういう人だと知っているからだ。
 とうとう観念したようにランベルティーニは、息をついた。観念したというより、隠しても無駄だと判断した時の息だった。
「さっきは我慢した」
「ええ」
「だが、やはり少し見たい」
すがるような目で一瞬コシアを見た。
「存じております」
「今の返事は、許可ではないな」
「もちろん」
 ランベルティーニの視線の先には、さきほど通りすがりに目を留めた木の台があった。夕方の光の中で、紙の白さだけがまだ妙に浮いて見える。人だかりというほどではない。立ち止まれば十分に目に入る場所だった。
 コシアはその台と、その周囲の人の流れを測った。真正面から寄れば目立つが、壁際からなら角度は作れる。問題はそこまでしてこの人に見せる価値があるかどうかだった。
「一度目に入ったものは、後から余計に気になります」
 コシアは半ば呆れたように言った。諫めているのか、すでに折れかけているのか、自分でも意外な声だった。
「それは君も同じだろう」
「私は気になっても、今は寄りません」
「私は寄りたい」
存じております」
 そのやりとりのあいだにも、ランベルティーニの視線は再び木の台へ戻った。隠す気がないのが、いっそ潔い。
 コシアは短く息をついた。ここでなお止めれば、止まったとしてもしばらく気にするだろう。そうして別の場所でもっと悪い形で足を止める。そのくらいなら見せ方を選べる今の方がましだった。

 結局、コシアが折れた。折れたというより、被害の少ない方へ話を運んだ。自ら先に立ち、露店の端へ寄る。ランベルティーニは、それに気づいていながら何も言わず、その位置へ自然に収まった。 
 台の上には、粗い輪郭線で刷られた聖人像や、祈祷文を抜き出しただけの紙片が乱雑に並んでいた。どれも安っぽく粗悪な代物だったが、街の人間が買い求めるにはその程度で十分なのだろう。 聖人たちの貌はどれも判で押したように似たり寄ったりで、目は不釣り合いに大きく、鼻筋は彫刻刀を突き立てたような一本の直線にすぎない。口元には不自然なほど厳めしい陰影が刻まれており、それは敬虔な祈りを誘うというより、刷り手が作業の途中で業を煮やし、怒りに任せて彫り進めたような顔つきだった。
 ランベルティーニはその一枚をまじまじと見つめ、わざとらしく眉間に皺を寄せると、顎に手を当ててごく低く呟いた。
「これなど、なかなか凄惨な顔をしているな」
「聖人に向かって仰ることではありません」
「聖人がひどいのではない。刷り手のあまりの不器用さが気の毒なだけだ」
 その絶妙な言い回しに、コシアは危うく口元を緩めそうになった。引き締め直そうとしたときには、すでに遅かった。ほんのわずか、肩の力が抜けただけの気配で、目の前の男にはもう十分だったらしい。
「ほら」
 ランベルティーニが言う。
「何でしょう」
「少し、うけたか」
 コシアはそこで、いったん目を伏せた。否定してもいい。流してもいい。さっきの一言が少し可笑しかったことまで消せるほど、いまはうまく顔を作れなかった。
「版画の功績です」
「私のではないと」
「刷り手の方が役に立ってます」
 ランベルティーニは、声を立てずに笑った。大きくではないが、嬉しそうだった。うまくいった、と言わんばかりだけではない。自分の言葉がほんの少しでも相手に届いたことを、素直に喜んでいる顔だった。
 そういう顔をされると、コシアは少し困る。見て、考えて、言ってみた。その結果、ほんの少し自分の口元が緩んだ――その事実を、子供じみない程度に、隠しもせず喜ぶ。その笑い方を、コシアはやはり嫌っていなかった。