kaisou
2026-06-08 23:39:34
16054文字
Public 1740年コンクラーヴェ話
 

Dimidio gradu foras 半歩だけ外へ

1740年コンクラーヴェ話・別視点11

過去と現在の話③

お忍びでの外出の記憶と今。

※歴史創作なので悪しからず

▼本篇まとめ
Aliquid est quod memoria mea non relinquit.
私の記憶を離れないものがある

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全7章/幕間含む
1740年コンクラーヴェ話の本篇その2
視点違いの2つの話のうちの1つ。

 その日の午後、オルシーニは珍しく自分から切り出した。

「少しだけ、外の空気を吸いたい」
 声は穏やかだった。教皇に即位して以来、彼は以前にも増して大勢の人間に囲まれて過ごしている。人に囲まれること自体には慣れていた。だが、教皇として取り囲まれるのは別だ。儀礼のたびに、装いと言葉はその重みを増していく。瞬きひとつにさえ神学的な意味が付与され、沈黙さえもが教皇庁の意志として解釈される。その耐え難い重圧を、彼は決して表には出さない。
 出さないが、ニコロ・コシアだけは知っている。夜の静寂の中、彼が深海へ沈むように椅子へ深く身を預けること。人払いのあと、瞼の裏に潜む暗闇を見つめる時間が、日に日に長くなっていること。そして食卓の会話が途切れるたび、その視線がこの石造りの迷宮を越え、遠く手の届かぬ空を彷徨っていることを。
「外、でございますか」
 コシアは問い返した。反対はしない。しないが、言葉の置き方ひとつで相手の真意の深さを測る。
「遠くへ行くつもりはない」
 オルシーニは机の上の書簡から目を上げ、少しだけ笑った。
「宮殿の影が見える範囲でよいのだ。ただ、少しだけ外へ出たい」
「侍従たちが頭を抱えます」
「だろうね」
 オルシーニはその返しを、むしろ少し楽しそうに受けた。それは、厳格な儀礼の網の目をかいくぐろうとする子供のような、混じりけのない無邪気さを孕んだ表情だった。自らを縛り付ける不自由さを、まるで愉快な遊びのルールであるかのように受け流している。
 その顔を見ると、コシアには分かる。もう心は半分以上、外の風に吹かれている。形ばかりの懸念を並べて止めたところで、一度傾いた天秤が戻ることはないと、その穏やかな頑固さが告げていた。
「では」
 コシアは短く、承諾の意を込めて言った。
「時間は短くいたしましょう。服も変えます。修道服ではかえってその歩き方の美しさが目立つ。……どこにでもいる隠居した老人のような、地味な俗服を用意させます。人数も、私を含め数名に絞りましょう」
「そうだね、それがいい」
「くれぐれも、目立たぬように。教皇ではなく、ただの老いた世俗の男として振る舞っていただかねばなりません」
「努力してみる」
 その曖昧な言い方に、コシアは少しだけ目を細めた。
「努力、でございますか」
「私も、君の完璧な計画に協力するつもりはあるさ」
 オルシーニはそう言って、インクの乾ききらぬ手紙を、未練もなく脇へよける。その手つきは、もはや聖座の主としてではなく、束の間の自由を待ち侘びる一人の男のものだった。コシアの返事すら待たず、彼はすでに立ち上がりかけている。
「ですが」
 先走る主君の背を追うように、コシアが声を低くして続けた。
「最終的には、すべて私の言う通りにしていただきます。よろしいですね」
 オルシーニはそこで足を止め、肩越しに、はっきりと声を立てて笑った。
「それは、最初から決まっているのではないかな」
 その一言に、コシアは何も返さなかった。返す必要など、どこにもなかったからだ。この人は時折、こうした残酷なまでの信頼をさらりと口にする。自分を御す権利を、目の前の男にだけは完全に委ねているのだ。
 悪びれもせず、隠そうともしないその無防備な信頼。それはコシアにとって、どんな厳格な規律や義務よりも、逃げ出しがたい枷となっていた。この老人に手綱を丸ごと預けられ、命運までをも背負わされている。その重みが、呪いのようにコシアをこの聖座の影に繋ぎ止めていた。