kaisou
2026-06-08 23:39:34
16054文字
Public 1740年コンクラーヴェ話
 

Dimidio gradu foras 半歩だけ外へ

1740年コンクラーヴェ話・別視点11

過去と現在の話③

お忍びでの外出の記憶と今。

※歴史創作なので悪しからず

▼本篇まとめ
Aliquid est quod memoria mea non relinquit.
私の記憶を離れないものがある

https://privatter.me/user/kaisou_ja?category=110867

全7章/幕間含む
1740年コンクラーヴェ話の本篇その2
視点違いの2つの話のうちの1つ。



 広場へ踏み出すと、視界が開けた。中心に据えられた小さな噴水では、縁の石が湿った深い緑の苔に覆われ、溢れ出す水は陽を受けて眩い銀の破片へと細かく砕いていた。風がわずかに揺らすたびに、飛沫が紅を孕んだ光の粒になって宙に散る。その涼やかな音が、街の喧騒から切り離すかのように、耳に心地よく響いていた。
 オルシーニはそこで、本当に少し立ち止まりたくなった。その胸の高鳴りを、コシアはまた先に拾い上げたらしい。
「一度だけでございます」
「まだ何も言っていないが」
「お顔に出ております」
 オルシーニは、そこでとうとう声を立てないまま笑った。自分をただの老人として扱い、その心も遠慮なく読み解く。そんな無礼を不快に思わないのは、たぶんコシアだけに対してだ。

 二人は噴水のそばで短く足を止めた。水音がやわらかい。街の話し声も遠い。ここに立っているだけで、宮殿の中とは違う、淡く透き通った時間が流れていく。陽だまりの中に溶け込んでしまいそうな、凪いだ静寂だった。
「よいね」
 オルシーニが呟いた。
 コシアは、わずかな沈黙を置いてから静かに応じた。
……ええ」
 たった一言だったが、そこには多くの言葉が詰まっていた。連れ出されたこと、隣に立ち続けていること、そして主人の横顔がかつてなく穏やかであること。そのすべてを認め、自分もまた同じ心地よさを分かち合っている。そんな、深い肯定の響きがあった。

 少しして、オルシーニの呼吸がほんのわずかに深くなった。疲れたのだ。外の空気に昂ぶっていた熱が引き、確かな疲れが忍び寄ったのだ。長く歩いたわけではないな。外界で気を張ることそのものが、老いた身を静かに削っている。コシアは何も言わず、まず半歩だけ位置を変えた。主人の背を庇うように、噴水から離れた壁際の陰へ。行き交う人々から視線を切りやすい場所へと、流れるように導く。それから、静寂を乱さぬように低く言った。
「こちらへ」
 オルシーニは、その声に導かれるまま素直に身を寄せた。それは、命じられたからではない。自分にとって最も心地よく、何より楽なのだと、すでに体が理解しているからだった。  
 外へ出るたび、コシアはさりげなくその『楽な位置』を先に作ってしまう。そしてオルシーニは、その用意された安堵へ自然に身を寄せる。その隙のない献身が、今はただ、ひどく愛おしい。差し出された影の心地よさに浸りながら、彼は守られることの安らぎを、静かに噛みしめていた。
「助かるよ」
 壁際へ寄って、オルシーニは低く言った。コシアはそれを聞いて、静かに目を伏せた。
「当然です」
「当然、か」
「ええ」
「お前は、時々」
 一拍。
「まるで私の世話を焼くのが役目だと言わんばかりだね」
 コシアは、そこで初めてかすかに困った顔をした。
「それは」
「何だ」
「役目ではあります」
 オルシーニはもう一度笑った。それは、心からの安らぎが滲む笑いだった。
「そうだろうね」
 それから、ごく自然に続ける。
「私は、お前がいると外でも息がしやすい」
 コシアは、その言葉に返事をしなかった。返せば想いが軽くなると分かっているのか、あるいは、返す言葉が見つからないのか。ただ。わずかに顔を背けた。耳の後ろが微かに熱を帯びて赤らんでいる。噴水の音だけが、しばらく二人のあいだに、透明な膜のように流れていた。

 オルシーニはそれを見た。見て、何も追わない。ここで言葉を重ねれば、コシアは一歩引いてしまう。だから追わず、代わりに、当たり前の顔で言った。
「もう少し歩こうか」
 コシアはすぐに意識を引き戻した。
「ですが、今度はゆっくりです」
「また命令だね」
「お願い、でございます」
「なら、従おう」
 そうして二人はまた、穏やかな歩調で歩き出した。

  主人と従者のようでいて、その実態は異なる。教皇と若い近習でありながら、外界ではむしろ若い男のほうが歩みの主導を握る。オルシーニはその不思議な逆転を少しも嫌わず、むしろ、全幅の信頼を寄せてその手綱に身を委ねていたかった。
 周囲の護衛たちからすれば、それはひどく奇妙な光景に映っただろう。特別に目をかけられているはずの若造に、最高権威である年長の教皇が、まるで引かれるように歩かされているのだ。だが当人たちにとっては、それこそが何よりも自然で、揺るぎない形だった。