kaisou
2026-06-08 23:39:34
16054文字
Public 1740年コンクラーヴェ話
 

Dimidio gradu foras 半歩だけ外へ

1740年コンクラーヴェ話・別視点11

過去と現在の話③

お忍びでの外出の記憶と今。

※歴史創作なので悪しからず

▼本篇まとめ
Aliquid est quod memoria mea non relinquit.
私の記憶を離れないものがある

https://privatter.me/user/kaisou_ja?category=110867

全7章/幕間含む
1740年コンクラーヴェ話の本篇その2
視点違いの2つの話のうちの1つ。



 外へ出た時、空気はまだ明るかった。季節の変わり目の午後で、陽は高すぎず、石壁に当たる光もやわらかい。通りには建物の影が長く落ちはじめ、敷石の上を薄い明暗がゆっくりずれていた。風が角を回るたびに、街の匂いが混じる。焼いたパンの気配、どこかの家の煮込み。川の湿り気、遠い厩舎の気配、宮殿の内側にはない、不揃いで、生きた匂いだった。
 耳を澄ませば、荷車の軋み、戸口で交わされる短い声、窓辺から落ちてくる笑い声が、通りのあちこちに散っている。ひとつひとつは小さいのに、重なると街そのものが静かに息をしているようだった。
 ランベルティーニは建物の影を出たところで、ためらいなく歩き出した。まず空を見て足を止める人ではない。歩きながら吸い、見ながら考え、考えながら次の角へ行く。そういう人だった。外へ出たことそのものを味わうというより、外へ出た先に何があるかへ、もう気が向いている。視線も足も、同じ速さで先へ滑っていく。
「もう少し、ゆっくり」
 コシアが低く言う。すぐには答えず、半歩ぶんだけ先を見た。目の前の角か、その先の通りか、何かもう別のものへ意識が伸びている顔だった。
「君が遅い」
「聖下が早いのです」
「そうだろうか」
「ええ」
 歩幅が落ちた。それでもまだ普通の散歩より少し早い。何かを見つけたい人間の足だ、とコシアは思った。落ち着きがないのではない。むしろ逆で、目に入るものの一つ一つへ、その都度きちんと興味を持ってしまうから早いのだ。見たい。確かめたい。近づきたい。その意志が、歩幅の端々にまで出る。
 コシアは半歩だけ位置をずらし、相手の速度に合わせて自分の歩幅を削った。止めるのではなく、崩しすぎないように削る。こういう人は、正面から抑えると余計に先へ行く。だから、壁際へ寄せ、人の少ない側へ流し、速度を落としても不自然にならぬ形に整える。それを、ランベルティーニはもう半ば当然のように受けていた。
 しばらくして、ふいにランベルティーニが口を開いた。前を向いたままの声だった。さっきから自分の歩幅が少しずつ削られていることに、きちんと気づいていた声でもあった。
「君は」
「何でしょう」
「人を歩かせるのがうまい」
 コシアは前を向いたまま、わずかに沈黙した。自分がしていたことを、そのまま言い当てられた気がしたからだ。視線は動かさない。だが、口元だけがわずかに硬くなる。
……歩きやすい方へ寄せているだけです」
 ランベルティーニはそこで、ようやく少しだけ顔を向けた。からかっているのではない。思ったことを、そのまま確かめるような目つきだった。
「それを上手いと言うのでは?」
「違います」
「違わない」
 即答だった。あまりに早いので、コシアはそこで初めて嫌な予感を覚える。流したいことを、この人は流させない。その手の抜き方を知っていて抜かない。
 ランベルティーニは歩きながら、指先で外套の縁を軽く払った。癖のような仕草だった。言葉を選ぶ時ではなく、選び終えた言葉を置く前の仕草だと、コシアは知っている。
「君は、人の息の置き方を見る」
 その声音は軽くない。観察をそのまま口にしている時の声だった。
「どこで足が止まるか。どこで楽になるか。どこから人目が薄くなるか。全部、先に作ってしまう」
 コシアはそこで、ほんのわずか眉を寄せた。そこまで言われると、褒め言葉というより見透かされた時の不快さに近い。
「聖下」
「褒めている」
 ランベルティーニは、今度はわずかに笑った。言いすぎたと思っていない時の、薄い笑いだった。
……聖下は、見なくていいものまで見ます」
「知っている」
 そこで初めて、コシアはちらりと横を見た。相手がどこまで分かっていて言っているのか、測ろうとしていた。ランベルティーニは、その視線を正面から受けた。避けないところが、やはり少し悪い。そういう時のこの人は、こちらが引きたがっているのを分かっていて、わざとそのまま立っている。それが可笑しくて、腹立たしかった。