しか野
2026-02-09 00:32:06
235465文字
Public 同人誌関連
 

★既刊サンプル(スミイサ)

2024.7〜2026.2に発行したスミイサ本のサンプルまとめ


◆Aurora(2025.7.6)

★1章
 
 星の瞬く音が聞こえてきそうなほど静かな、月のない夜だった。
 こんな日は本来の力を発揮できないが、それでもスミスの鋭敏な鼻は、同胞のかすかな匂いを嗅ぎ取った。そう遠くではないようだ。この街にやってきて半年になるが、『こちら側』の気配を感じるのは初めてのことだった。
 仕事を終えた夜半過ぎ、これから帰宅して朝まで本を耽読しようと思っていたところである。だがスミスの足は自然、気配のする方を向いていた。
 月明かりの助けがなくとも、スミスは種族柄、夜目がよく利く。些細な段差や石ころに躓いたりすることなく歩を進め、辿り着いたのは小さな空き地──いや、どうやら公園であった。外周はぐるりと低木で囲まれていて、古ぼけたベンチが二つあるほか、中央にかろうじて砂場らしきものがあり、それでようやく公園と判別できる程度のちっぽけな領域である。それでも小さな足跡がいくつも散見されたから、日中は子供たちが元気に駆けまわっているのだろう。
 さて、開けたところには人っ子ひとり見当たらない。それもそのはず、人間とはスミスの知る限り一様に昼行性の生き物であるので、草木も眠るこんな時間に公園でのんびりくつろいでいるはずがないのだ。いるとしたらおそらく、反社会的な輩の集会だとか、酒に酔って自制の効かなくなった者だとか、そんなところが関の山だ。いずれにしろ、概ねまともではない。スミスは仕事柄、酔っ払いというものを見慣れているから、なおさらそう思うのだった。
 同族の匂いはどうやら、低木の茂みから漂ってきている。近づいてみると、より一層伝わってくる──とてもか細く、今にも消えてしまいそうな生命の気配が。
 こうしてはいられない、とスミスは屈みこみ、細い枝が肌を傷つけるのも厭わず的確に目当ての茂みをかきわけていく。
 そうして見出した木の根元に、おそらく元は白いのであろう毛並みを泥や埃で汚した子犬──いや、子狼がぐったりと四肢を投げ出し、倒れ伏していた。
「おや……
 スミスは首をかしげる。感じたのは『同胞』の気配なのに、目の前の小さな生き物はどう見ても、己と存在を異にしているのである。少なくともスミスに、狼に変身する能力はない。
 しかし同胞でないとはいえ、このまま捨て置くにはあまりに幼く、脆弱な存在に見えた。「これがこの子の運命だ」と見捨てて立ち去ったら、夜明けを待たずに命が潰えてしまうのは火を見るより明らかだった。スミスの根底にある優しさは、そんな運命を許せなかった。
 スミスは大きな両の手のひらで、そっと掬い取るようにして白く小さな毛玉を抱き上げる。弱っているうえに長い間冷たい土に触れていたためだろう、体からすっかり熱が奪われて冷え切っているようだった。だが、心臓が確かに鼓動していることが、薄い皮膚越しに確かに感じられる。呼吸は今にも途切れそうなほどか細いが、懸命に生きようとしているようだった。
「これは……そうか、君は俺たちと人狼のミックスなんだな」
 触れてみて、彼、あるいは彼女の体の中で複雑に交じり合うものを察する。だからこの鼻が誤作動を起こしたのだ、とスミスは納得した。いや、半分は確かに『同族』なのだから、あながち誤りとも言い切れない。異種族同士の婚姻は非常に珍しいが皆無ではないから、この子もそういう奇特な両親のもとに生まれたのだろう。
「しかしこんな小さな子が、なぜ人間の街で……しかも一人きりで」
 両親の姿は、当然見当たらない。連れ帰って手当てしてやりたいところだが、家までこのかよわい体がもつかどうか。せめて体を温めてやりたいと思ったが、スミスにはそれに足るだけの体温がない。この手はきっと、これまで子狼が横たわっていた土よりもよほど冷たいことだろう。
 服にでも包んでやって、できるだけこの子に負担がかからぬよう走るしかない……そう思った時のことだった。

「──おい、そこのあんた」
 響いたのは、よく通るテノールの声だった。スミスは突然耳に飛び込んできたそれに驚愕し、びくっと肩を揺らす。手の中の小さな命に意識が集中していて、近づいてくる気配に気づくことができなかったようだ。
 スミスは咄嗟に子狼を隠すように胸に抱えて、恐る恐る振り返る。こんな時間にこんなところに現れる輩などきっと碌なものではないと、先ごろ思ったところである。
 いざとなれば人間一人程度、軽くあしらえる。だが、なぜだろう。この声の主は悪い存在ではない、善きものであると訴えかけてくるものがあった。
「こんな時間に……一人で、何を?」
 カンテラを片手に近づいてきたのは、襟の詰まった濃紺色の服を身につけた若い男だった。涼やかで切長の目の上に、意志の強そうな眉。派手さはないが、整った顔立ちをしている。
 いかにも生真面目そうな警官だ。オレンジ色の炎に照らされた顔には警戒心が見て取れて、易々と逃がしてくれそうにはない。スミスは腕の中のかよわい存在を思い、つい舌打ちしそうになった──が、堪えた。こんなところで足止めをくらい、長々とおしゃべりにかまけている場合ではない。あやしまれないよう振る舞う必要があった。
……あー、悪いが、俺は急いでいるんだ」
「少し話を聞くだけだ。……ん? 何を持ってる?」
 いかにも何か隠しています、という態勢だったから、あっさり看過されてしまった。男の表情が険しくなる。何か危険なものを持っていないかと、疑っているのだ。
 しかしその疑いは、子狼が少し身じろぎして、毛皮がまろびでたことであっさり消え失せた。
「猫……いや、子犬か? あんたのペット?」
「あ、ああ……うん、大切な家族なんだ。実は少し前に逃げ出してしまったのをずっと捜していて……ようやく見つけたと思ったら、この有様で」
 腕を開いて小さな毛玉を見せてやると、「なるほど」と男が頷いた。我ながら、なかなかどうして信憑性のある嘘をつけたのでは、とスミスは自画自賛した。咄嗟に並べ立てたにしては上等だろう。大切な家族を捜索するためなら、深夜に外を歩き回っていてもそれほど違和感はないし、急いで帰りたいと訴えることも不自然ではない。それに、多少は真実も混じっている。半分だけとはいえ同じ血を有した存在なら、家族といって過言ではないからだ。
「だいぶ弱ってるみたいだけど、大丈夫か」
……ちょっと、危ういかもしれない。体がすっかり冷え切っているし、お腹も空かせているみたいだ」
「なら急いで帰らないとな。呼び止めて悪かった。歩きか? よかったら家まで送る」
「灯りがあったほうがいいだろう」と彼はカンテラを掲げた。いかにも警官らしい親切心と正義感だが、今はあいにく、必要としていない。
 今日が新月でなければ、と思う。力が安定していれば「近所だから平気だ」と彼から急いで離れ、蝙蝠に姿を変えてしまえばいい。そうして子狼を咥えて飛べば。街外れの自宅まであっという間のはずだった。
「家はそんなに遠くないんだ。だから大丈夫」
「そうか? ならいいんだが」
 しかしスミスは、はたと思い至る。無事この子の命があるうちに連れ帰れたとして、自宅にこの子を温めてやれるような道具はないし──スミスにとって無用の朝物であるところの暖炉は埃をかぶっているし、薪だってない──、人ではない己の血を与えてやるわけにはいかない。かといって、狼が好む新鮮な肉だって、ありはしないのだった。この時間では雑貨屋も肉屋もとうに店じまいしているだろう。
 スミスは困り果て、ちら、と警官の方を見た。早く行こう、とその目が訴えてきている。そしてその視線が、スミスが抱えている子狼へと移動した。
……震えてる」
 彼は眉をひそめ、気遣わしげに子狼を見つめる。確かに、腕の中の白い毛玉は小刻みに体を震わせているようだった。
「ああ……かわいそうに。俺はあまり、体温が高くないから」
……ちょっと待ってろ」
 彼は何を思ったか、カンテラを地面に下ろす。そして手を自身の首元にかけたかと思うと、突然襟のホックを外した。ぎょっとするスミスを尻目に、その下のボタンまでも上から四つほどするすると外してしまう。スミスの目には、その合わせから覗く肌がよく見える。日に焼けて小麦色の顔や首などとは違って、清らかな月光の色をしている。その薄い皮膚の下に走る熱い血潮を想像し、スミスは思わず唾を飲む。新鮮な生き血とは縁遠い生活を送っているから、つい本能的に『美味しそうだ』と感じてしまったのだった。スミスはそんな己に、ひどく嫌悪感を覚える。
「その子、こっちに」
「え? あ……ああ」
 彼の意図していることはすぐにわかった。己のことにかまけている場合ではない。スミスが震える小さな体を差し出すと、彼はそっと両手で受け取り──ほんのひと時、指が触れ合う。生きている人間なのだから当然だが、とても暖かかった。
「よしよし……いい子だ」
 彼は子狼をしっかりと胸に抱え、肌に触れさせ、体温を分け与えようとしてくれている。毛が泥で汚れていることなど、ほんの少しも気にしていないようだった。
 やがてふすふす、と濡れた黒い鼻が鳴る。どうやらようやく与えられた温もりが心地よいらしかった。
「あ、こら。そんなところ舐めても何も出ないぞ」
 小さいながらも立派な狼の口から舌がのぞき、彼の肌をちろちろ舐めている。食べるものを、あるいは血を欲しているのだとスミスにはわかった。踏み込みすぎかもしれない、という考えが頭をよぎったが、あるいは彼ならばという予感もあった。
……実はその子、ちょっと変わった品種なんだ。血、というか、鉄を舐めるのが好きでね」
 これは少々苦しいか、とスミスはたっぷり冷や汗をかきながらもごもご言い募る。先ほど吐いた嘘が八十点だとしたら、これは二十点、いや、きっとそれ以下の出来だ。
……
 案の定、彼は小さな子をしっかりと腕に抱いて大切に愛でつつも、疑念たっぷりの目をスミスに向けてきた。そんな犬がいるものか、と今にも言い出しそうな表情だ。
 しかし、それはほんの数秒のことだった。すぐに表情を緩めた彼は驚くべきことに、「それって、俺の血でも平気か?」と真摯な目で提案してきたのだった。
「え」
「嗜好は人それぞれだもんな。……いや、この場合は犬それぞれか?」
「君……信じてくれるのかい」
「家族のあんたが言うことだしな。それで、この子は俺の、と言うより人の血を飲んでも大丈夫なのか? 体に悪影響は?」
「な、ないよ」
 むしろ人間の血こそ都合がいい、とはもちろん言い添えない。
 彼は「わかった」と短く答えたかと思うと、左手の親指に尖った歯をあて、ほとんど躊躇なく皮膚を穿った。みるみるうちに指の腹に血が盛り上がってくる。皮膚が薄く細かい血管が集中しているから、指というのは血の出やすい部位だ。また、痛みを強く感じやすい。だが彼はわずかに顔を顰めた程度のもので、血が垂れる前にと急いで子狼の口に指を含ませてやった。
……いてっ……よしよし、舐める元気はあるみたいだな」
「本当かい? よかった、それなら大丈夫そうだ」
 小さな手が、もっとよこせと言わんばかりに彼の手を掻いている。その様子を見ながら、スミスはどうしようもなく鼻をくすぐる香りに心を乱されていた。
 芳しい血の匂いだ。率直に言って、ご馳走を目の前にして椅子に縛りつけられているような気分だった。生真面目そうな見た目通り、三食しっかり食べてよく眠るという、規則正しい生活を送っているのだろう。健康的で、魅惑的な芳香だ。
 馬鹿なことを、とスミスは本能を振り払うように固く眼を閉じる。
「本当に好きなんだな。ミルクみたいに飲んでる」
 その愛情に満ちた声に、スミスは目を開けた。
 彼は目を細め、必死に生きようとしている子供に、まるで愛し子を見つめるような優しい眼差しを向けている。なんてお人よしで、警戒心の薄い男なのだろう。「そんな犬がいるものか」と常識を説いたり、生傷を動物に舐めさせることで自身の健康に悪影響はないのかと案じたり、そういうことはちっとも考えていないらしかった。
 やがて、もごもごと動いていた子狼がおとなしくなる。
「ん……寝ちまったみたいだ。赤ちゃんみたいだな」
 彼は指を、牙に引っかからないようそっと引き抜いた。涎や血で汚れたその指を服の裾で雑に拭うと、その手でポケットに手を入れた。出てきたのは厚手の白いハンカチである。「手、出せ」
「手? はい」
「違う、両手」
 唯々として従うと、彼はスミスの両手の上にハンカチを片手で器用に広げた。そして彼は子狼の体をそこにそっと乗せて、すやすや眠るその子を赤ん坊のおくるみのごとく包んでくれた。
「これで少しはあったかいだろ」
「ありがとう……恩にきるよ。だいぶ元気になってくれたみたいだ」
「そりゃよかった。けど、早く連れて帰ってやれよ」
 彼はさっと服を直すと、地面に下ろしていたカンテラを拾う。
「じゃあな、ちびすけ。もう迷子になるんじゃねぇぞ」
 彼は微笑むと、丸く愛らしい頭をそっとひと撫でしてくれた。
「ま、待ってくれ。何か礼を」
 そのまま立ち去ろうとする彼を、スミスは慌てて引き止める。
「いいって。それより急げよ。また冷えたらかわいそうだろ」
「これ、洗って返したい」
「気にするな。その子の遊び道具にでもしてくれたらいいし、いらなくなったら捨ててくれ」
 それじゃ、と簡潔な言葉を残して、彼は足早に去っていってしまった。見回りの途中で足を止め、異常なしと立ち去る事なく世話してくれたのだ。彼がやってきた時「面倒だ」と思ってしまったことを恥じ、とても申し訳なく思った。
 スミスは遠ざかっていくオレンジ色の灯りをしばらく見つめたあと、腕の中の子供を見下ろした。人の体温と生き血がよく効いたようで、安らかで可愛らしい寝顔を見せている。この様子なら、早晩命を落とすということはないだろう。あとは体の汚れをきれいにしてやって、傷を手当てし、柔らかいベッドで休ませているうちに薪や食料を調達すればいい。あの親切な警官のおかげで、そのための時間ができたのだった。

***

 スミスの住処は、街外れの大きな一軒家である。一人で住むには持て余す広さだが、近所に墓所があるためか周囲に他の住居がなく、静かなところが非常に気に入っていた。
 半年前に故郷を飛び出し、この街にやってきた。バーで雇ってもらい、雑用をしたり、簡単な酒を作ったり、おしゃべりな客の相手をしたりなどして日銭を稼いでいる。バーの店主は、日の落ちた夕方からしか働けないというこちらの事情を汲んで「まぁ適当に来てくれたらいいぜ」と言ってのける、なかなか豪快な男だった。とても気が合うし、良き友人でもある。
 スミスはヴァンパイアという種族柄、日光を非常に苦手としている。当たれば即死、というほどではないが、なるべく避けたくはあった。だから、活動するのはどうしても夜が中心になる。
 人と『人でないもの』が断絶してから、数百年の時が流れている。お互い決して分かり合えない、関わりを持つべきではない、と刷り込まれて育つのだ。生きる世界の異なる存在である、と。
 だがスミスは、幼い頃から人間の世界に強い興味を持っていた。同じような考えを持つ先進的な同胞は少なからずいて、人間の世界へと旅立っていった者もわずかではあるが存在した。そうして「分かり合えなかった」と肩を落として帰ってくるものもいれば、それきり姿を見せない者もいた。後者はきっと、人の世界に馴染んで暮らしているのだ。スミスはそうした同胞たちに、心から敬意を表している。
 そもそもスミスが人間の世界に焦がれるようになったのは、温和な両親の影響である。ヴァンパイアは途方もなく長寿である。害されない限り、ほとんど不死といってよかった。ゆえに両親には、はるか昔ではあるが、人間と共存していた時期があるのだった。その時のことを二人は、素晴らしい思い出だとスミスに語って聞かせる。だが、そうではなかった者たちによって、断絶への道を進むことになったのだ。
 今ではすっかり、『こちら側』のものたちは、人間に恐れられる存在である。
 スミスはそんな世界を変えたかった。そのための一歩を踏み出したいと、故郷を飛び出す機会を虎視眈々と狙っていたのだ。何があってもこの腕一つで切り抜けられるよう、体を鍛えた。人間の世界のことも、書物で学んだ。少々古いが、生態が大幅に変わっている、ということはおそらくないはずだ。
 そうして半年前にようやく、両親から許しを得た──というより、諦めさせたのだった。「人間の世界もすっかり変わっているはず。くれぐれも気をつけて」と涙ながらに送り出されたのである。
『辛くなったら、いつでも帰ってきなさい』
 母親はスミスの手をしっかりと握り、そう言ってくれた。
『先立つものがなくてはな。これを売って金に換えるといい」
 父親は屋敷に眠っていた価値のある書物や、古いアクセサリー、金のかけらなどをたっぷり持たせてくれた。

 この大陸では、険しい山脈を挟んで人の国と、そうでないものの国が分たれている。スミスはその山々をこえ、麓の街──即ち、この街にたどり着いた。人間の世界の仕組みも、自分の生きてきた世界の仕組みとそれほど変わらないのは幸いだった。父親から受け取ったものをいくらか金銭に替え、土地や家を扱っている店に赴き住居を借り、夜間働ける職場を探し、順調にこの街に落ち着いた。家を街外れに借りたのは、念のためだ。体温が非常に低いこと、顔色が青白いこと、人間でいうところの犬歯がずいぶん尖って鋭利であることを除けば外見はほとんど人間そのものだが、目立つことはなるべく避けたかったのだ。
 この街の人間は、とても親切だった。そしてごく普通に生活を営み、穏やかに暮らしている。『こちら』の世界と、何ら変わりない。いつかきっとわかりあい、再び手を取り合うことができるはず、そう強く実感したのだった。
 そんなスミスが、外の世界で初めて会った同胞が、この小さな狼である。己と同じような志を持って一人飛び出してくるには、あまりに幼かった。しかもよくよく見るに、どうやら女の子である。
 スミスは、彼女をくるんでいるハンカチの結び目をほどく。
「よしよし……起きないでくれよ……
 スミスは己のベッドに小さな体を横たえ、傷を手当てし、障りのない範囲で毛についた汚れをぬぐってやる。こうして見てみると、彼女の毛並みは白というより銀糸のようでなんとも美しい。スミスの出逢ってきた人間は善良な者ばかりだったが、そうでない者がいることもまた理解している。だから、この美しい狼が良からぬことを考える人間に捕らえられなくてよかったと秘かに思いつつ、寝具をかけてやった。
 汚れた白いハンカチは、よく洗って彼に返さなくてはならないだろう。花柄の優雅な刺繍が縁を飾る、見るからに上等な品だ。彼は気にするなと言っていたが、改めて礼も言いたい。
 ──何より、彼にもう一度会いたいと思う。
 一見冷たそうに見えるのに、指先と微笑みはあたたかな温度を持っていた。純粋で、善良で、彼となれば分かりえるのでは……と思わずにはいられない。
(警官隊の詰め所に行けば、会えるんだろうか……
 詰め所は街の中央にあって、賑やかなそのあたりにスミスはほとんど近寄らない。実のところ、半年も滞在していながら街の全容を未だに知らないのだった。
 そんなことを考えながら、小さく上下する布の塊を見る。ひとまずは安定しているようだが、目を離すのはまだ不安がある。夜はスミスの時間だ。一晩見守り続けることくらい、造作もないことだ。もともと、帰宅後は読書して過ごすつもりだった。
 スミスは本を手に取ると、木工屋の隅で値引きされていたのを買い求めた椅子──背もたれがちょっぴり歪んでいる──をベッドの横に置いて腰掛け、視界の端に彼女をおさめつつページをめくった。この本は世界各地の酒について解説していて、バーの気のいい店主に『酒の知識が重要だからな』という言葉と共に借りたものだ。
 ひどく静かな部屋に、小さな寝息と、ページをめくる音だけが響いた。


★2章

 そろそろ日が昇るころだろうか。くぅん、とか細い獣の声がした。スミスは本に落としていた顔を上げると、ベッドの方を見やる。彼女にかけてやっていた寝具が、もぞもぞと蠢いている。
「目が覚めたかい」
 スミスはベッドの隅に本を置く。やがて、銀糸の子狼が寝具から顔を出した。見開かれた目は赤色と紫色の中間のような、不思議な色をしている。彼女は物珍しそうにあたりを見回したかと思うと、やがてスミスの姿を認め──キャン、と鋭く吠えながらとびかかってきたのだった。
「おっと! おい、落ち着け!」
 驚きつつも、難なく小さな体を受け止める。そして噛みつかれる前に、首根っこを引っ掴んだ。
「大丈夫だから、落ち着けって! 何もしないよ!」
 宥めようとするも、彼女は落ち着くことなく「下ろせ」とばかりにじたばたと手足を振り回す。ずいぶん元気だ。これだけ暴れることができるなら、もう心配はいらないだろう。やれやれと息を吐きながら、スミスは彼女をベッドに下ろしてやった。警戒心もあらわに前足を突っ張ってぐるぐる吠えるが、あいにくかわいらしいだけである。
「いいかい、君は昨夜気を失って倒れていたんだ。ぼろぼろで、お腹も空かせて。何があった? 家は? ご両親は? どうしてあんなところに一人きりでいたんだ?」
 立て続けに質問すると、彼女は不満そうにふんと鼻を鳴らした。どうやらスミスの言葉を理解はできているらしかった。そしてくいくいと、手招きでもするみたいに前足を動かす。
「ん? なんだい? ……あっちへ行けって?」
 またも不満そうにする。違うらしい。
……もしかして、あっち向いてろって?」
 彼女はきゅんと鼻を鳴らす。どうやら今度は正解だ。スミスは肩をすくめて、彼女の望むとおり壁の方を向いた。
 間もなく、背後の気配が大きくなるような感覚があり、ベッドがぎしっときしむ音がした。
……ガピ」
 少女の声である。そういうことかとスミスは納得し、「もう見てもいいかい」と声をかけた。
「いい」
 短い応えに、スミスは体の向きを戻す。
「それが君の、『人』の姿だね。……それはそうとレディ、そこのシーツでもかぶりなさい」
 うっすら青みがかった美しい銀髪の少女は、たった今狼の姿から変異したのだから、当然何も身に着けていない。背後に毛の塊らしきものが揺れているが、おそらく尻尾だろう、
……誰?」
「それはこっちも聞きたい。俺はルイス・スミス。君は?」
「ルル? ルルは、ルル」
「ルルか、いい名前だ」
 スミスはシーツを広げて、ルルと名乗る少女の肩にかけてやる。
 年の頃は、人間でいうところの十歳にも満たないくらいだろうか。独り立ちするには、あまりに早いように見える。
 スミスはもう一度、先ほどの問いかけを繰り返した。ルルは少し考えると、たどたどしく答えてくれた。
「ルル、親はいない。ずっと昔に別れて出て行っちゃった。帰る家もない。今は、『オジサマ』捜してる」
「オジサマ?」
「うん、オジサマ。にんげん。少し前にルルのこと、助けてくれた」
「なるほど。恩人を捜してるってわけだ」
 それで行き倒れていたのかと納得するが、もしスミスが通りかからなかったらと思うと無茶が過ぎる。だが、その考えなしの無鉄砲さがスミスの目には好ましくうつる。かつて故郷を飛び出した自分と重なるような気がした。
「ルル、ハンパモノってばかにされて、お外に出たけど、お腹すいちゃって……そしたらオジサマ、おいしいお肉をくれた!」
「それでその、オジサマとやらをずっと捜してたのかい。すごいな、こんなに小さいのに一人きりで」
「ルル、そのうちこのベッドぐらい大きな狼になって、オジサマを乗せてあげるんだもん」
 ルルは頬を膨らませ、ベッドの上を跳ねる。確かに、人狼は得てして大きくなることが多い。半分がヴァンパイアであっても、きっと立派な白狼に育つことだろう。
「うんうん。夢はでっかく、だな」
「そう、でっかい! ……ごめんねスミス。ルル、さっきコンランしちゃった」
「いいさ。気が付いたら知らないところにいたんだものな。驚いて当然だよ」
「スミス、ルルたすけてくれた?」
「君を見つけたのは俺だけど、助けてくれたのは人間だよ。君を温めて、血を飲ませてくれたんだ」
「ガピ! すごくおいしい血を飲む夢、見た! けど、夢じゃなかった!」
 ルルはぺろっと唇を舐め、「ちょっと残ってる」とにんまり笑う。やはり美味しいのか、と頭の隅で考えた。
……それで、ルル。君はこれからどうするつもりだ?」
「オジサマ、捜す! けどその前に、ルルにおいしい血をくれたにんげんに、ありがとうって言う!」
「素晴らしい心がけだ! あいにくオジサマは分からないけど、その人間はきっとすぐに見つかるよ。この街に住んでいる人だろうしね」
「ほんと!? じゃあ、行ってくる!」
 ルルは嬉しそうにぴょんと跳ね、シーツを置き去りにしてベッドから飛び降りた。そのまま再び狼に変化して走り去りそうな勢いだったため、スミスは慌てて肩をつかんで引き留める。
「待って待って! まだずいぶん早い時間だよ。もちろん早朝から働く人間もいるけど、多くはそうじゃないんだ。もう少し待った方がいい」
「そうなの? 知らなかった!」
「やれやれ……ルル、君は日中外に出られるのかい」
「うん! 昼も夜も、ルルは元気!」
「そりゃいいな。俺たちと人狼のいいとこ取りか。うーん、俺も付き添いたいが……今日は天気がよさそうだしなぁ。曇っていたらまだ平気なんだが」
 しっかりと日光を遮断する分厚いカーテンをほんの少しだけめくり、外が忌々しい朝日に包まれつつあるのを確認する。スミスはほとんど純血のヴァンパイアであるため、太陽の光は天敵だし、うっかり当たろうものなら気分が悪くなるし、肌は焼けるように熱くなる。長時間晒されれば、命にもかかわってくるのだった。
 服を着こんで全身覆い隠すことでいくらかダメージを軽減できるが、徐々に肌寒い季節に移行しつつあるとはいえ、衆目を集めるのは間違いなかった。
「ん~……でもあっちのほう、雲ある」
 ルルはカーテンの裾からもぐりこんで、窓の向こうを見ているようだった。スミスは慎重に後ろに下がる。
「もう少ししたら、たぶん曇るよ」
 彼女は預言者じみたことを言うと、スミスのもとに戻ってきて、「においでわかる!」と得意げな顔をした。

 果たして、彼女の小さな予言は見事的中した。厚い雲が太陽を覆い隠したのである。
「スミス、曇ってきた!」
「ワオ、本当だ。これならどうにか外に出られるよ」
 スミスはカーテンを半分ほど開ける。まだ少々眩しいが、屋外に長居しなければ体調への影響は薄そうだった。何かあれば、木の下だとか、軒先だとかに体を滑り込ませればいい。
「よし。ルル、狼の姿になれるかい?」
「なれるけど、どうして?」
「昨夜の人間には、そっちの姿で会ってるだろ? 人の姿でありがとうって言われても、何のことやらって首を傾げられちまう」
「ルルがルルだよって伝えればいい!」
「うーん……まだ、やめておいたほうがいいだろうな。俺たちのような存在を、大抵の人間は怖がるんだ」
「そうなの?」
 ルルはいまひとつ、納得いかないようだった。両親が早くにいなくなったと言うし、人間との確執について理解していないのかもしれない。ある意味非常にフラットで、偏見がないとも言える。
……彼なら多分、分かってくれるだろうが……今は、驚かせないようにしよう」
「んー、わかった。じゃあスミスが『ありがとう』って、ルルのかわりに伝えてくれる?」
「ああ、もちろんだ。俺も改めて礼を言いたいからな」
「ん! 多分、街に入れば匂いでわかると思う!」
「そりゃいいな」
「じゃあ、あっち向いてて!」
 スミスは彼女にさっと背を向ける。人狼は、変化の様子を第三者に見せることを好まない。その間はとても無防備になってしまうためらしい、と以前両親に聞いたことがあった。ルルも本能的に、それを理解しているのだろう。
 しばらく古ぼけた壁紙を見つめていると、ガウ!と背後から獣の鳴き声がする。どうやら「もういいよ」と言っているらしかった。
 小さな毛玉となった彼女は、畳まれているハンカチに鼻を突っ込み、しきりに呼吸している。彼の残り香を嗅ぎ取っているらしい。わずかながら彼の血が付着しているので、半分だけどはいえ人狼の血を持つ彼女には十分な手掛かりになるだろう。
 やがて彼女が得意げに吠えてベッドを飛び降り、スミスのそばに駆け寄ってくる。
「よし。すぐに支度するから、いい子で待っていてくれ」
 そわそわと落ち着かない様子の彼女を宥め、スミスはさっと着替えを済ませ、髪を整える。最後にコロンをつけようとしたが、ルルの鼻に悪影響を与えるかもしれないと思ってやめた。
「準備完了だ。ルル、待たせたな。おいで」
 屈んで両腕を広げると、ルルが嬉しそうにぴょんと飛び込んでくる。赤ん坊にそうするように抱えてやって、スミスは寝室を後にした。
 元の住人はきっと、家族で暮らしていたのだろう。寝室はここの他に三部屋もあるし、キッチンも広く、放置されていたテーブルは八人ほどはゆうに腰掛けられる大ぶりのものだった。たまには本腰を入れて掃除してやらねば、とスミスは広い通路を歩きながら思う。このところ手を抜いていたから、少々埃っぽい。
 念のためもう一度窓の外の様子を伺ってから、スミスはエントランスのドアを開けた。ルルをしっかり抱え直してやってから、門までの石畳を歩く。
 一口に『街』といっても、ここは大きな街である。スミスとて、まだ全容を知っているとは言いがたかった。あまり目立たないように過ごしているので、特に人通りの多い中央通りにはほとんど足を運ばないのである。
 ルルがふんふんと鼻をひくつかせている。記憶した匂いと一致するものを探り当てようとしているのだ。スミスはゆっくりと歩を進め、彼女の探知機が反応するのを待った。
 やがてルルが、わんと吠えて前足を動かす。スミスの職場であるバーに程近い通りに差し掛かったところだった。
「ん? そっちってこと?」
 下におろして道案内をしてもらったほうが早いが、このサイズである。人通りの多いところに入って蹴られたり踏まれたりしたら事だし、ましてや馬車に轢かれでもしたら目も当てられない。まだ朝方で、混雑しているとまではいかないにしろ、スミスはどうにも心配だった。この子はどうやらとてもやんちゃだから、少し目を離した隙に飛び出していってしまいそうだ。
 そういうわけでスミスは彼女を抱えたまま、その小さな前足によるナビゲーションに従って黙々と歩いた。通りを抜け、まだ数回しか足を踏み入れたことのない中央通りに踏み込む。街はこの通りを挟んで東側の区画、西側の区画に分かれていて、スミスの家やバーは前者に位置している。後者はというとさまざまな店が立ち並び、観光客も多く訪れるためいつも賑やかなのだとバーで共に働く友人に聞いたことがあった。
「ルル、こっちで合ってる?」
 ルルの前足の動きには迷いがない。時折り興味深そうにあちこちに意識を飛ばしているようだったが、分かれ道に差し掛かったら的確にナビゲートした。スミスも鼻は効く方だが、やはり人狼の血を持つルルには敵わないらしかった。
 普段は避けるようにしている人ごみに少々尻込みしつつ、スミスはなるべく堂々と歩くように努める。不審に思われるのは避けたいところだった。そうして間もなく、ルルが一際大きく鳴いた。探し求めていた目的地はここである、と告げているようだった。
「ここは……
 西区画の大きな通り沿いにある、種々の店の一つ。色とりどりの花が所狭しと並んでいる。どこからどう見ても、花屋だった。てっきり警官の詰め所の一つか、あるいは彼の自宅にでも辿り着くと思っていたから、彼女には失礼ながら花の匂いで嗅覚がくるってしまっているのではないかと考えてしまう。
「あ、いらっしゃーい」
 店先で鉢植えの手入れをしていた短髪の若い女性が、エプロンの汚れを軽くはらいながら立ち上がる。そしてスミスの腕の中のルルを見て、気の強そうな目をにっこりと細めた。
「お、かわいいわんちゃん。いい子にしてるねぇ。……お花、何かお探しですか? よかったら見てってくださいね」
「ありがとう。一つ尋ねたいんだが……こちらに、若い男性の店員さんはいるかい? 黒髪の」
「え?」
 女性が怪訝そうな眼差しを向けてくる。確かにこれでは、あまりに怪しいとスミスは己の言動を顧みた。誤解を招かぬよう、己やルルの正体は伏せて事の次第を概ね正直に話すことにする。
「実は昨夜、公園でこの子を助けてくれた人を捜しているんだ。この子が、この店からその人の匂いがすると」
「へー、賢いわんちゃんですね。あ、そういえばそんな話を聞いた気がします。たぶん、イサミですね」
「イサミ……
「ちょっと待っててください。呼んできますね!」
 女性はぱたぱたと、店内に入っていく。
……イサミ、って名前なのか。彼は」
 聞きなれない不思議な響きをしている、と思った。だがどうしてだろう、強く胸をうつものがある。顔立ちも異国風だったから、もしかしたらこの大陸の出ではなく海を渡ってきた移民か、あるいはその末裔なのかもしれない。
 小さくその名前を反芻していると、店の中から一人の男性が顔を出す。濃いグリーンのエプロンを身につけたその人は、間違いなく昨夜の彼だった。
……もしかして、って思ったけど、やっぱり昨日の」
 腕の中のルルがばたばた暴れ出す。彼は──イサミはほっとしたように息を吐くと、彼女を見つめて微笑んだ。
「よかった、すっかり元気だな。そんなに暴れて平気か? 怪我してただろ」
「おっと……! この子が、どうしてもあなたに礼を伝えたいと言って聞かなくて。本当に、ありがとう」
「気にしなくていいのに。……けど、こっちこそありがとな」
 イサミは優しく微笑みながら、ルルの頭を撫でてくれる。すると彼女はすっとおとなしくなって、気持ちよさそうに目を閉じるのだった。
 スミスは彼に名乗って、右手を差し出し握手を交わす。
「花屋だったとは。俺はてっきり」
「警官って思った? 近いけど、俺は自警団に所属しているだけなんだ。夜はああやって、持ち回りで見回りをしていて」
「なるほど……頭が下がるよ。おかげでこの子が助かった」
「仕事だから、気にするなよ」
 当たり前のことをしただけで、礼には及ばない。彼は心底そう思っているらしかった。そんな彼の左手、親指に巻かれた包帯をスミスは見る。
「その指は……平気かい。花屋なら尚さら不便だろう?」
「手袋をすれば問題ないし、こんなのはすぐに治る」
 自警団なんてことをしていると小さな怪我はしょっちゅうだ、とイサミは苦く笑う。犯罪行為の取り締まりだけでなく、人探しだとか、さまざまな非常事態への対応もしているらしかった。なるほど、そういうものに比べたら、指がちょっぴり切れるくらいは怪我のうちに入らないのかもしれなかった。
 昨夜通りがかったのがこの心優しい青年でなかったら、もしかしたら腕の中の小さな命は今ごろ物言わぬ屍になっていたかもしれない。いくらヴァンパイアの血を有しているといっても、害されればその命は潰えるのだ。そう思うと、いくら礼を言ったところで足りない。
 しかし彼は、見るに勤務中である。店内にしたし、何より花屋の名前が刺繍されたエプロンがその証左である。あまり長い間留め置くわけにもいかなかった。
 そろそろ帰るよ、と言いかけたところで、首の裏に焼けるような痛みを感じた。はっとなって、スミスは振り返る。先ほどまで厚い雲に覆われていた太陽が、顔を出しつつあったのだ。路面がじんわりと陽に照らされ、明るく染まっていく。迂闊だった、とスミスは内心舌打ちした。
 黙り込んでしまったスミスに何を思ったか、イサミが訝しげに声をかけてくる。
「どうかしたか」
「あ、いや……
 太陽が出てきたのでよくない状況です、なんて間違っても口にするわけにはいかなかった。先ほどルルにも言って聞かせたように、人間にとって『人間でないもの』は恐怖の対象なのだ。彼のあたたかい銅色の目が怯えの色に染まっていくのを想像して、スミスは肌の痛みも忘れるくらいに気分を落ち込ませた。
 しかしこの状況は、如何ともし難い。ルルには後を追ってきてもらうとして、とにかく一目散に家へととって返さねばならないだろう。それでも、多少のダメージは避けられないが。
「スミス、さん?」
「悪い、もう帰るから」
 己がヴァンパイアであることを誇りに思うことはあれど厭うことはないが、こういう時ばかりはこの体質を忌々しく思う。
……もし時間があったら、花を見て行かないか。その子には匂いが辛いかもしれないし、外で一緒に遊んでるから」
 イサミがふと、そんなことを言い出した。できればしばらく避難したいと考えていたスミスにとって、渡りに船である。
「いいのか」
「もちろん、ここは花屋だからな。気に入ったものがあったら連れて帰ってやってくれ。ええと、その子……という呼び方も、あれか。名前は?」
「ルルだ」
「ルル、いい名前だな。ほら、おいで」
 呼びかけられたルルは嬉々とした様子で、広げられたイサミの腕の中に飛び移る。これでいくらかやり過ごして、太陽が再び雲に隠れた隙を狙って走って帰れば、想定よりダメージを軽減できそうだった。夜には仕事に出なければならないから、それに越したことはない。
「ミユ、ちょっといいか?」
 イサミは指をルルに齧らせながら(もちろん甘噛みだ)、店内に向かって呼びかける。すぐに、編んだ髪を肩に垂らした優しげな女性が奥から出てきた。彼女もまた、イサミのものと揃いのエプロンを身につけている。
「はーい。あ、どうも〜いらっしゃいませぇ」
「この人の相手、頼めるか。初めてらしいから、色々見せてやってくれ」
「了解です! あら、わんちゃん! かわいいですねぇ」
 うふふ、と彼女は目を細める。店員が皆、犬──正確には、狼だが──に全く抵抗がない様子だ。
 スミスはミユと名乗った店員に案内され、時々外の様子を伺いつつ店内を見て回った。中は思ったより広々している。
 花には、大いに興味があった。人の生き血を啜ることを忌避しているスミスにとって、その可憐な花々は飾ったり愛でたりするだけのものではない。貴重な食料として、生命活動に直結しているのである。育てるのに悪くなさそうな品種に目をつけては、頭の中のメモにそっと書き込んだ。実家から適切な花の種を大量に持ち込んではいるが、保険があるに越したことはなかった。
「花、お好きですか?」
「ん? ああ、もちろん」
「よかったです! 気に入ったものがあったら、言ってくださいね。きれいに包みますから!」
 紙やリボンもたくさんありますよ、と張り切っている様子だ。
「ああ。……あの、貴女はここに勤めて長い、のかな」
 下手なナンパと思われかねない切り出し方だ、と口にしてから思ったが、ミユに気にした様子はない。そうですねぇ、と顎に手をやって考え込む仕草をした。
「多分、三年くらいですね。ここじゃ一番の新入りですよ」
……あの、彼は?」
「彼って、イサミさん? 店長……あ、今日はお休みなんですけどね。店長の次に長くいるって聞いてますよ!」
「へぇ……
 歳若く見えるが、もしかしたらスミスよりもよほど社会というものを知っていそうだ。特にスミスは、人間社会に足を踏み込んでまだ半年ほどという世間知らずである。
 ミユはじっと、スミスを見つめてくる。植物を思わせる深い緑色の大きな目は、何か言いたげな様子だった。
「な、何か?」
……あの、もしかして……気になるんですか、イサミさんのこと」
「え? ええと、まぁ、その、すごく親切だな、とは……
 あの優しさと純粋さ、不器用そうな微笑みに心惹かれるものがあるのは確かだった。スミスの目指す、人間との融和。その一歩として、彼の存在は大きなものになるのでは、とそういう予感がなぜだか胸の裡にある。
「なるほどなるほど!」とミユはしたり顔でしきりに頷く。気のせいか、瞳が猫のようにきゅっと細まっているように見えた。
「わかりますよ! イサミさんって一見ぶっきらぼうなんですけど、すごく優しい人ですよね! うふ、うふふ……
……
 悪い人間ではないのだろう、むしろ大変善良に思える。だがその笑顔の裏に何か隠されている気がして、スミスは苦笑するしかなかった。
 時折り客が訪れ、先ほど店頭にいた店員──ヒビキというらしい──が接客に励んでいる。こちらにかかりきりでいいのかとミユに尋ねるが、この時間帯は顔馴染みの常連ばかり訪れるからヒビキ一人で問題ない、とのことだった。
 そうしているうち、どうやら具合よく大きな雲がかかってきたようで、外が薄暗くなるのが見てとれた。この気を逃すまい、とスミスはにこにこしているミユにいとまを告げることにする。
「案内、どうも。そろそろ帰ることにするよ。近いうちにまた顔を出すから、その時はたくさん買わせて欲しい」
「はい! お待ちしてますね!」
 またのお越しを〜とのんびりした声と共に見送られて店を出る。
 店先では、屈んだイサミがルルと遊んでいた。黒い鼻先で一本の細い草をくねくね踊らせていて、彼女はそれに勢いよく飛びかかってはボールのようにころんとひっくり返り、嬉しそうにきゃんきゃん吠えている。
「はは。お前、怪我してるのにそんなに暴れていいのか? ま、元気なのはいいことだけどよ」
 彼は親しげにルルに声をかけている。優しく慈愛に満ちた声色だ。
……あの」
「っと、そろそろ帰るか?」
 声をかけると彼はぱっと草を手放し、それに早速食いついて戯れるルルを見やって微笑みつつ膝を払って立ち上がる。
「この子と遊んでくれてありがとう。今度はぜひ、買い物させてくれ」
「お待ちしてます。結構遅い時間までやってるから、夜でもぜひ」
「俺は休暇や休憩で、いつもいるとは限りませんが」と彼は言い置く。それはそうだろう。昼間はここで働いて、夜は持ち回りとはいえ街の見回りまでして、それを年中続けているわけにもいくまい。スミスと違って彼は人間で、体力に限りがあり、当たり前に疲労する。
 スミスは砂つぶをたくさん体につけたルルを抱き上げると、イサミに軽く手を振って別れを告げ、早足で通りを横切った。
……あ、ハンカチのこと)
 今度洗って返す、と伝えるのをすっかり失念していた。会いにいく口実が増えた、とも言える。彼は気にするなと言っていたが、あんな高価そうなものをはいそうですかと捨てるのは気が引けて仕方ない。
 また空が気まぐれを起こさないうちにと、スミスは足をさらに早める。それに、たとい今のように日が翳っていたとしても、肌は多少痛むのである。体を揺らされて不快だろうに、ルルは腕の中で大人しく丸まっていた。
 無事に家に辿り着き、足早に扉を潜るとほっと息を吐く。幸い、太陽はその偉大な姿を隠したままでいてくれたのだった。
 すぐさまルルが、スタっと絨毯の上に降り立つ。
「ルル、変化するならさっきの部屋にある俺のシャツを着ておいで。わかった、というかのように一つ吠えると、ルルはばたばた階段を登っていく。そこそこ段差が高いが、引っかかることなく跳ねるように走っていってしまった。
 やがて人の姿になったルルは、言いつけ通りスミスのシャツを羽織って戻ってくる。隠すのがまだ上手でないのか、やはりふさふさの尻尾が背に躍っていた。その上、頭にはぴんと張った三角形の耳までも。新月やそれに近い日には得てして力が安定しないのは、スミスにも覚えがあることだ。
 彼女は先ほどと打って変わって、どこか沈んだ様子だった。
「ルル? どうしたんだ?」
……ルル、早く会いたくて急がせちゃった。暗くなるまで待てなかった。……スミス、太陽当たって痛い?」
 ルルにはわかんないから、と彼女は、ふさふさの耳をぺたんと伏せる。
「なんだ、そんなことか。大したことないから気に病まなくていい。それに、俺だって彼に早く会いたかったんだから」
「本当? 怒ってない?」
 不思議な色のガラス玉みたいな目が、伺うようにスミスを見上げてくる。
「もちろん。むしろ感謝してる。君のおかげで探し当てられたんだからね」
「ありがとう」と言葉を添えて頭をぐりぐり撫でてやると、萎れていた尻尾がぶんぶんと左右に動く。素直で、とても可愛い子供だ。
「ん……イサミ、会えてよかった! オジサマみたいに、すごく良いにんげんだった!」
「ああ、そうだな。とても心優しくて、あたたかい人だった……
 彼のぎこちなく控えめな微笑みが、どうにも頭から離れない。スミスはほうっと息を吐きながら、ルルを伴ってキッチンへと向かった。
 たくさん遊んでもらって疲れているであろうルルに、水を注いだグラスを差し出してやる。喉からから!とルルは嬉々としてそれを一息に飲み干した。
……そういえば、ルル」
「ぷはー! なぁに、スミス」
「思ったんだが……イサミを匂いで探し当てたんだから、その『オジサマ』とやらも、同じようにその賢い鼻で辿れないのかい」
 ルルはグラスの縁の水滴までぺろっと舐め取ってから、「それはむずかしい」と顔をしかめた。
「ルル、オオカミは半分だけ。鼻すごくいいけど、ジュンケツには敵わない。……それにルル、どこかでオジサマに助けてもらった後、馬車の藁の中で寝ちゃった」
「あー……つまり、寝てる間に運ばれちゃった?」
 こくん、とルルは頷く。ようするに『オジサマ』と遭遇した場所から、少なくとも馬車を必要とする距離分は離れてしまっている、というのが現状らしい。それから途方に暮れて彷徨って、あの茂みの中で行き倒れていたわけだ。スミスはなんとなく、荷台に乗せられて出荷されていく子羊や子牛の姿を想像してしまった。
 あまりに手がかりが少ない、とスミスは現実的に考える。なにしろここは大規模な街だから、日々行き交う馬車は数知れない。藁が積まれていた、という情報だけで、『オジサマ』の居場所を突き止めるのは至難の技だろう。
「ルル、闇雲に探していたら、きっとまた行き倒れちまうぞ」
「うう……だけどルル、オジサマに会いたい」
「わかってるさ。だから、君さえよければだけど、しばらくこの家を拠点にしたらどうだい?」
……いいの?」
「もちろんさ。部屋は余ってるしね。俺もできるだけ協力するよ、君の『オジサマ』捜しに」
「ガピ!! スミス、ありがとう!!」
 ルルはふさふさの白い尻尾を激しく振りながら、嬉しそうにスミスの周りをぐるぐる回った。
「ただし!」とスミスは人差し指を立ててピシャリと言う。ルルはぴたっと動きを止めた。
「危ないことはしないこと! それから、一人であんまり遠くに行かないこと! 知らない人には着いて行かないこと! それと」
「ガピ……ルル、一度にたくさん言われるとわからない」
「む……じゃあ、少しずつだな。まずは……ルル、その耳と尻尾はしまえる?」
「ん〜……むずかしい。あんまり得意じゃない」
「けど、人が見たらびっくりしちゃうぞ。外に出る時はなるべく、狼の姿でいたほうがいいかもしれない。けど小さいし、誰かに連れて行かれたら厄介だし……どうしたものか」
「ルル、平気だもん。足、すごく早い!」
 彼女は得意げに胸を張る。それはそうだろう、なんたって小さくとも狼だ。並の人間の足では、歯が立つまい。
 そう、理性ではわかるのだが。
「けどやっぱり、心配だ。くれぐれも、あんまり人の多いところには行かないように。そうだな……家族がいるってわかるように、首にハンカチでも巻いておこう」
 そうしたら少なくとも、野良ではなく家のある子供だと伝わるだろう。
「ハンカチ? イサミにもらったの?」
「あれは彼に返さなきゃ。代わりのものを買ってくるよ」
「ルル、あれがいい! お花きれいだし、いい匂いする!」
「わがまま言わないの」
「ガピィ……
 ルルはむくれて頬をぷっくり膨らませる。そうしてしばらくうーうーと唸っていたが、やがて諦めたように「わかった」と頷いた。
……じゃあ、紫色がいい。オジサマの服と一緒。ルルの好きな色!」
「よしよし、いい子だ。紫色だな。近いうちに雑貨屋を覗いてくるよ。……いいかい、さっきも言ったけど、人の多いところには近づかないように。蹴られたり、馬車に轢かれでもしたら大変だ」
「むー……ルル、早く大きくなりたい! このおうちくらいに!」
 夢が、ベッドからずいぶんスケールアップしている。スミスは、立派に大きく成長してこの家を下敷きにして眠るルルの姿を想像し、借り物だからまずいななどと取り止めもないことを考えた。


★3章

 数日後。
 出勤の前に、スミスは件の花屋へと足を伸ばした。礼を述べに行って以来のことだ。本当は翌日にでも顔を出したかったのだが、昨日の今日で訪れてはちょっと必死に見えるかもしれない、だとか余計なことを考えてしまった結果だ。
 店先にいたのは、見覚えのない男性である。エプロンをつけていて、イサミたちよりは幾らか年嵩に見えるから、おそらくミユの言っていた『店長』とやらに違いなかった。イサミは店内だろうか。あるいは、休みという可能性もある。
……こんばんは」
 どうかいてくれ、と祈りながら店に近づき、男に声をかける。
「いらっしゃい。……あ」
 顔を上げた男は何かに気がついたように、スミスの頭のてっぺんからつま先まで、じっとつぶさに観察してくるのだった。
「あ、あの、何か?」
「大柄、金髪、碧眼、ハンサム、それに少々顔色が悪い……もしかして、ルイス・スミスさん?」
「そ、そうですが」
 おそらくそう珍しい名前ではないと思うが、この街に大柄で金髪碧眼のルイス・スミスが偶然もう一人いるとも思えないから、辿々しくも頷いた。そして強い視線から逃れるように身じろぎすると、男は「おっと悪いな」と片眉を上げる。
「イサミに聞いてる。私はここの、まぁ店長ってやつだな。よろしく」
 茶色の髪を短く整えた彼は、サタケと名乗った。若く見えるが、気配に隙がなく、妙な貫禄がある。聞けば、彼もまた自警団に属しているらしかった。
「あいつならもうすぐ上がりだ。話したいなら待っているといい」
「では、そうさせていただきます。その……イサミに聞いていた、というのは?」
「ああ……あいつには言うなよ? ……『友達ができたかも』と」
「彼が、そんなことを……?」
 スミスは、そっと控えめに打ち明ける彼の姿を脳裏に思い描いた。それはとても甘美で、思わず口元が緩みそうになるのを堪える。
……不服か? あいつが、何か迷惑でも?」
「まさか! 嬉しいです。俺も、彼とは仲良くなれそうだと思っていました。それに、彼には世話になりこそすれ、迷惑だなんて」
「そうか、ならいいんだがな」
 後は適当に適当にくつろいでくれ、とサタケは仕事に戻ってしまう。手持ち無沙汰になったスミスは、並べられた切り花を眺めながらイサミが出てくるのを待った。
(大柄、金髪、碧眼……それに、ハンサムか)
 身体的特徴と、それから……四つめは、褒め言葉だろう。一般的には、間違いない。イサミがその言葉について別の解釈をしていない限りは、どうやらこの外見をそのように評価してくれている。スミスはひっそり、両親に感謝した。
 顔色が悪いのは仕方ない。初対面の人にまず心配されるのは常である。生まれつき血色が悪いだけで、体は健康そのものですよとアピールすれば大抵はすぐに納得してもらえた。なんといってもスミスは体をよく鍛えているから、顔色を除けば極めて健康体としか映らないのである。
 女性用の化粧品でも塗ってごまかすか、などと検討しているうち、店内から駆け出てくる姿があった。エプロンを脱ぎ、オフモードのイサミである。どうやら店内からスミスの姿が見えたようで、それで慌てて来てくれたらしかった。
「スミス、さん」
「やぁ、数日ぶりだ。お仕事お疲れ様」
 もっと気の利いた言葉の一つや二つかけられないものかと、口にしてしまってから思った。しかしイサミは嬉しそうに口角を上げると「ありがとう」と囁きくらいの声量で応えてくれた。
……店長、俺あがります」
「お疲れ。明日は遅番だからゆっくり休めよ」
「ッス」
 イサミが花屋を離れようとする。ちら、とスミスの方を見たので、おそらく着いてこいということだろう。スミスはサタケに礼を述べ、イサミの後を追った。
 彼の隣に並び、よく整備された石畳を歩く。もう日も落ちているため、通り沿いの店々はすでに看板をしまっているところが多い。そうでないところは、窓からオレンジ色のランプの光を漏れさせているのだった。
 イサミは花屋から少し離れたところ、大きな木の下ではたと立ち止まった。
……悪い、連れてきておいてなんだが、店に用事だったか」
「いや、君に会いにきたんだよ。……ところで君のこと、イサミと呼んでいいかい」
「そりゃあ……それが、俺の名前だし」
「そうだね。とても素敵な響きだ」
 きっと何か、特別な意味が込められているのだろう。それを知るにはまだ、スミスは人間の世界にあまりに疎い。
 スミスはポケットに手を入れると、きれいに折り畳んだ白いハンカチを取り出した。それはもちろん、あの日イサミに借りたものだ。
「ごめん、どうしても汚れが落ちなくて」
 泥や埃は洗えば落ちたが、わずかに付着した彼の血の跡はどうしてもそこに残り続けた。あんまり擦ると布地を痛めそうで、途方に暮れていたところだ。
「ああ、血って落ちないよな」
「まったくだ。……実はこれ、あの子がすっかり気に入っちゃってね、なかなか離したがらなくて困ったよ」
 一度は納得した様子だったものの、やっぱり欲しいとわがままを言い出して手を焼いた。スミスにも覚えがある感覚だが、ヴァンパイアは一度自分のものと決めたものを手放すのがとても……非常に、苦痛なのだ。スミスはさすがにその本能を御することに慣れているが、まだ若いルルには難しいのだろう。
「汚れてて悪いけど、そんなにルルが気に入ったならやるよ。言っただろ、おもちゃにでもしてくれたらいいって」
「けど」
「それ、お前が思うほど高価なもんじゃないぜ? そこの雑貨屋に売ってた普通のハンカチに、俺が刺したんだ」
「君が、この刺繍を?」
 スミスは縁を彩る花を指の腹でなぞる。素人目に見ても見事な出来栄えだから、素直に驚いた。
「ああ。……おかしいか?」
「違う。とても綺麗で凝っているから、びっくりしたんだ。君は多彩なんだなぁ……
「別に……大したことない。ただの趣味だ」
 そう否定しつつも、照れた様子から満更ないようだ。一見ぶっきらぼうそうだがその実、感情が分かりやすい。可愛らしいものだと思った。「だからこそすごいんだよ」とさらに褒めそやすと、照れ隠しの拳が二の腕に飛んでくる。子狼ルルのパンチくらいの、可愛い威力だった。
「そうやって作ったもの、喜んでもらえるのは嬉しいんだ。だからルルにやってくれ」
「わかった、君がそこまで言うならありがたく。ルル、絶対に喜ぶよ」
 スミスはルルがぱっと顔を華やがせて喜ぶ様を思い浮かべ、ハンカチをポケットへとしまい直した。きっとイサミの脳裏にも、きゃんきゃんと吠えながらぐるぐる回るルルの姿が浮かんでいることだろう。
「俺、これから出勤するところなんだ。あ、自警団の方」
「花屋に続けて……大変だな」
 イサミのつとめる花屋はここ西区画、自警団の詰め所は中央通り、スミスの職場であるバーは東区画にある。つまり、とスミスはとてもいい思いつきをした。
「イサミ、よかったら……途中までご一緒しても? 俺もこれから仕事なんだ。東の方でね」
「構わない」
 快く受け入れてくれて、スミスは胸が躍った。できれば牛の歩みのようにたっぷり時間をかけたいところだが、イサミには大事な勤めがある。無論、己にも。店主は寛容な男だが、それに甘えっきりではいられない。
 歩きがてら、バーで雑用をしていることを話すと、イサミは興味を惹かれたようだった。
「お酒、好きなのかい」
「ああ。忙しいからしょっちゅうとはいかないけど、週に一回は飲みに行く」
「それはいい! 礼も兼ねて、ぜひ奢らせて欲しいんだ。うちの店に来てくれないか?」
「もう礼ならじゅうぶ、」
「頼むよ。俺の気が済まないんだ」
 ぐっと彼の言葉を遮って食い下がる。礼をしたいのはもちろんだが、彼ともっと話をしたいのだ。スミスの必死な様子にイサミは驚いて目を丸くしたが、やがてふっと目を細めて微笑んだ。
……わかった。じゃあ明日の夜はどうだ? 自警団、休みだから。花屋の方が終わってからになるけど」
「明日だな! よし!」
「けど俺、結構飲むぜ? あんたの財布、すっからかんになっちまうかも」
 イサミが、何か企んでる悪役みたいににやっと笑う。「上等だ、いくらでもグラスを空にしてくれ!」と豪語できたら決まるのだが、あいにくスミスの懐事情にそこまでの余裕はない。両親が持たせてくれた品々は、家を借りた際に換金したものを除いては手を付けておらず、残りはいざという時の備えとしている。
 バーの給金は、自由にさせてもらっているにしては悪くないし、スミスは人間のような食事を摂らないため、これまで金銭的に困ったことはほとんどなかった。だが、今はルルがいる。彼女は、食の方に関しては性質が大きく人狼側に傾いている。ようするに食欲旺盛で特に新鮮な肉を好むのだが、それがなかなか値が張るのである。
 しかし面倒を見ると決めたのは己自身だ。責任というものがある。
……じゃあ、最初の一杯だけ」
「十分だよ。ありがとな」
 己への妥協に妥協を重ねた結果漏れ出た言葉に、イサミはおかしそうに笑って頷いた。

***

「ずいぶん機嫌が良さそうだな」
 翌日、約束の日の夜だった。洗ったグラスを拭いてぴかぴかに磨きあげていると、店主であるアラカイがなんとも意地の悪そうな、からかいまじりの顔を向けてくる。
「そうかな?」
「ああ。鼻歌でも歌い出しそうな顔してるぜ?」
 慌てて己の頬を触るが、それで何かわかるはずもない。観念して、スミスは昨日のイサミの、別れ際の優しい笑顔を思い出しながら白状した。
……今日、友人が飲みにくるんだ」
「へぇ。友人、ねぇ」
 含みのある言葉と笑みである。
「なぁ、何の話だ?」
 黙々とテーブルを拭いていたヒロまでも食いついてきてしまった。彼もまたここで働く、いわば仲間である。彼と店主は長い付き合いであるから、それはもう気が合うし、話し出すと止まらない。
「ここに来て半年くらいか? 浮いた話のひとつもないから心配してたところだ」
「へぇー、ついに気になる相手ができたのか!」
「いや、そんなんじゃ……
 ない、と否定しようとしたが、スミスは一旦口をつぐんだ。
 気になる相手か、と問われたら、間違いなくその通りだ。スミスはイサミのことが、気になってたまらない。もっと話したいし、近づきたいし、彼のことを深く知りたいと思う。
 その気持ちは、人間とわかり合いたいという信念からのみ生まれ出るものだろうか? いわば、自身の目的のためにイサミを利用しようとしているのか。
 違うはずだ、とスミスは自答した。もっと何か温かい、これまで縁のなかった柔らかい感情が、胸のうちに生まれつつあることをスミスは自覚していた。思えば、彼が何の迷いもなくルルを助けてくれたあの時から。
……そう、かもしれない」
 気がつけば、肯定していた。アラカイは「おお」と目を輝かせると、ばんばんと音が鳴るくらいにスミスの肩を激しく叩く。日々重い酒樽を運ぶ逞しい腕だ、はっきり言ってものすごく痛い。
「そうかそうか!! よしよし、ここは唯一の妻帯者たる俺がアドバイスをしてやろう!!」
「唯一って言うほどか? ここ俺たち三人しかいないだろ」
「うるさいぞ。で、どんな子だ? オープンの時間までじっくり聞かせてもらおう」
 茶々を入れるヒロをいなし、アラカイが興味津々といった様子でぐいぐい顔を寄せてくる。それにヒロも乗っかってくるから、暑苦しくて仕方なかった。