Privatter+
Font
Serif
Sans Serif
Color
Light
Dark
auto
Font size
Large
Medium
Small
Language
Japanese
English
Sign in with Google
Sign in with ID and password
Account ID
Password
Sign in
Forgot password?
Create account
しか野
2026-02-09 00:32:06
235465文字
Public
同人誌関連
★既刊サンプル(スミイサ)
2024.7〜2026.2に発行したスミイサ本のサンプルまとめ
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
◆楽園(2024.12.15)
本編より約15年後のお話です。怪我などの描写があります。
アフストIFですが、アフストを否定する意図は一切ありません(私はアフストが大好きです)
-----
ただただ仕事に邁進してきた人生の最後としては、なかなか悪くないのではないか。
瞬間、イサミはそう思った。
人は死に直面したとき、走馬灯を見ると聞いたことがある。特に心に深く残る人生の出来事が、一瞬のうちに頭の中を駆け巡るのだという。
若い時分に色々──そう、色々だ。そう形容せざるを得ない出来事に巻き込まれ、やがては自ら身を投じるようになり、命の危機に晒されたことは一度や二度ではない。だが、走馬灯とやらの訪れを感じたことはなかった。
そんないとますらなかった、とも言える。
(これが、そうなのか)
イサミの脳裏に鮮やかに浮かんだのは、ある男の顔だった。金色の髪、快活な表情。青色の虹彩はまるでグラデーションを描くように緑色に変わってゆき、いつも優しく、そして力強く言葉を発する口が一つの言葉を──名前をつむぐ。
『イサミ』
その優しい声は、二つ分の響きを伴っていた。
■一章
「それで、これからどうすんの?」
防衛大での出会いから数えてもう二十年近い付き合いになる友人──ヒビキが、安堵や呆れ、悲しみが入り混じった複雑な表情で問いかけてきた。備え付けの座面の硬い丸椅子に腰掛けた彼女は、腿の上に乗せた手で洒落たスカートをぎゅっと握りしめている。
「そうだな
……
」
シーツの下に隠れた、もうまともに動くことはないであろう左足を眺める。不思議なくらい心が凪いでいて、イサミはその言葉をすんなり口に出すことができた。
「辞める、ことになるだろうな」
「イサミ」
「この足じゃ、もうTSには乗れないだろ?」
そもそもイサミは、『あの瞬間』、確かに一度死を覚悟したのだ。しかしどうにか命を繋ぎ、上等な個室で柔らかいベッドに身を預けている。意識がない間に手術を受けたらしいが、当然記憶にあるはずがない。
TS合同訓練での出来事だった。今は別の隊に属する友人と久しぶりに顔を合わせることができて、イサミは密かに喜んでいた。積極的に昇進を目指していないために、四十路を迎えた今も一等陸尉に止まっているイサミと違って、ヒビキは立派な二等陸佐殿だ。リオウ二佐殿、とからかいまじりに敬礼してやったら、やめてよ、と昔のように思い切り尻を蹴られてしまった。
「新人たちをびしばししごいてやらないとね」なんて昔のようににんまり笑っていたが、その実彼女はなかなかに優しかった。もちろん、飴ばかりでなくしっかりと鞭もふるう。一個大隊を率いる立場としての彼女を垣間見ることができて、イサミは感心すると同時になんとも不思議な気持ちになったのだった。
TSの操縦において、自分を置いて右に出るものはいない──とまで豪語する気はないが、この十五年遊んでいたわけではなかった。日々アップグレードされる機体に合わせて最適にTSを操れるよう、努力は怠ってない。語り継がれる『英雄』に憧れて門戸を叩く若者たちをがっかりさせないように、そして何より自分のためにイサミは直走ってきたのだ。
もう自分にはこれしか残されていないのだと、言い聞かせるように、ずっと。
何かを思い出しそうになり、イサミは振り払うように首を振った。その時だった。
悲鳴が聞こえた瞬間、ほとんど反射的にイサミは走り出していた。操作ミスによりTSが大きく傾いていた。特に新人が扱う時は危険だから一定の距離をとるようにと、あれほど強く言い聞かせたのに!
思えば、ほんの数秒足らずの間の出来事だっただろう。足がすくんで動けなくなっているらしい若い整備士を、ほとんど飛びつくようにして抱きかかえる。「イサミ!」ヒビキが、ほとんど悲鳴じみた声で呼ぶのが耳に入った。
目の前に、今まさに自分たちを押しつぶさんとする鋼鉄の塊が迫る。──その時だ、走馬灯のようなものがかけ巡ったのは。
『イサミ』
応える前に、イサミは現実に立ち返る。己はともかく、助けなければならない命がある。もう誰も死なせないとあの時誓ったはずだ。
イサミは弾かれるようにして飛び退ったが、ほんの一瞬体の反応が遅れた。尖った鋼鉄が足を掠め、痛みより先に炎に焼かれたような灼熱が体中を駆け巡る。
それきりぷつんと記憶が途切れ、気がついたらベッドの上だ。そしてすぐ横には、泣きそうな顔でヒビキが立っていた。
イサミは生きている。足の怪我はもちろん、頭も強く打ったようだが異常なし、失ったものは、左足の機能だけ。TSとは手だけで操縦するものではない。フットペダルで動きを細かく調整しなければならないのだ。ちょうど、自動車に似ているかもしれない。
つまり、かつてのようにTSを操縦することは不可能になった。目覚めた時、そういう事実がそこには横たわっていた。
あるいは、手だけで操縦できるよう、TSに特殊な改造を施せば可能性はあるかもしれなかった。だが、いくらエースパイロットとはいえ、イサミ一人だけのためにTSに専門的な難しいカスタマイズを施すのは現実的ではない。武器を追加で搭載するだとか、色を変えるだとか、そういう単純な作業では済まないのだ。
そういう風に、イサミは冷静な頭で考えた。
「お前がそんな顔すんなよ。
……
俺は大丈夫だ。なんか、妙に落ち着いてるっつーか
……
」
ヒビキは、まるで自分のことのように悲しそうな顔をしている。そんな彼女を元気づけるように、イサミはなるべく、なんてことはないのだという風に軽い口調で言った。
「
……
それ、まだ状況をうまく実感できてないだけじゃないの?」
「そうかもな」
「そうかもな、って、あんたね
……
」
「
……
若い頃だったら多分、躱せてたのにな。あの整備士にも怖い思いをさせちまった」
「
……
泣きながら謝ってた。乗ってた子も」
「無事ならいい。気にするな
……
って言っても無理だろうけど、気落ちしすぎるなって伝えておいてくれるか?」
ん、とヒビキは頷く。気のいい彼女のことだから、きっとうまく、前向きに誘導するかたちでイサミの気持ちを伝えてくれるだろう。きっと気概を持って入隊してくれたのだ、ここで膝を折ってほしくなかった。若者はすなわち、この国の未来である。
「
……
それで、辞めてどうするつもりなの?」
「まだ考えてないけど、なんとかなるだろ」
「まぁ、あんたならなんとかしちゃうんだろうけど
……
サタケたいちょ、じゃないや、サタケさんに相談してみる
……
とか?」
ヒビキは、数年前に退官し、趣味が高じて始めたバイクの修理屋をやりながら悠々自適に暮らしているという、元上官の名前を出す。懐かしい響きだった。もう数年会っていないが、彼のことだから元気に独身を謳歌しているのだろう。
最後まで迷惑をかけ通しだった彼に、こんなことを相談するのは憚られる。だがおそらく、話せば何かしら力になってくれるだろう。
「それもいい、かもな」
「でしょ? 『一緒にバイクの道に進むぞ!』なんて言ってくれたりして」
「今の、隊長の真似か? 怒られるぞ」
おどけてみせるヒビキに、イサミは微笑んだ。とても気を遣ってくれているのが伝わってくる。
「
……
あのさ、一応、聞くんだけど
……
」
こちらの顔色を窺うようにしておそるおそる、ヒビキは慎重な様子で切り出す。良くない予感がして、イサミは続きを遮ろうとした。自分はとても勘が鋭いのだ、それはサタケも、目の前にいる彼女も認めるところだった。
「ヒビキ、」
「あいつには、何も言わないの?」
『あいつ』その親しげでとてもありがちな代名詞によって示された人物を、イサミは一瞬で理解する。いや、彼女が口を開く前から分かっていた。誰のことを思い浮かべて『あいつ』とあらわしたのか。
この十五年、その名をまったく耳にしなかったわけではない。何しろ世界を救った英雄の片割れだし、共に苦境を乗り越えた米軍──特に海兵隊とは、今も密接な関係にある。その名を聞くことすら避けようと思ったら、自衛隊を辞して、情報を完全に遮断した隠遁生活でも送るしかない。
だが、口にすることはできる限り避けていた。彼を呼ぶことが、イサミにとってはどうにも恐ろしいことのように思えて仕方なかった。
『イサミ』
だがイサミは、自身の中の、いわば妄想に過ぎない彼(あるいは『彼ら』)の優しい声に救われたも同然だった。あの響きで現実に立ち返ることができたのだ。そうでなければ、かの年若い整備士と一緒に巨大な鉄塊の下敷きになっていただろう。TSの重量は、練習機でも三十トンを優に超えるから、常人であれば無事でいられるはずもない。
胸中に、さまざまな思いが去来する。彼への感情を一言で言い表すことはとても難しい。かといって、彼についてどれだけ話しても構わないと言われても、おそらく何も言葉にできないだろう。そのくらい入り混じっていて、まるでもつれた糸のようになっているのだ。
押し黙ったイサミに、ヒビキはそれ以上何も言えなくなってしまったようだった。
◇◇◇
傷の痛みが落ち着き、ある程度動けるようになれば、リハビリがはじまる。足の重要な神経が完全に断裂したために再接続の手術が実施されたものの、完全回復は見込めないとすでに宣告されている。だが、地道なリハビリやケアを続けることで、完治はしないものの少しずつ、本当に少しずつではあるが可動性や感覚が蘇っていく可能性はある──というのが主治医の言だった。
これからの生活のためにも、たとえほんの僅かであっても動けるようになるに越したことはないだろう。イサミはできる限り前向きに、そして積極的に取り組みはじめた。
そのうちに、上官が病室を訪れた。足の状態について説明すると、非常に難しい顔をされた。さらに退官の意向を続けて伝えると、眉間に寄った皺が一層深くなる。
ありがたいことに、強く引き止められた。確かにもうTSに乗るのは厳しいかもしれないが、後方の隊に異動することや、後に続く者たちの指導を考えてほしい、と。イサミの実績を考えれば当然の提案だろう。
しかしイサミは首を振った。「私には向いていないでしょうから、考えていません」とはっきり告げた。元々、亡き兄のようなTS乗りを目指して入った自衛隊である。イサミにとっての生活とは、TSに乗ることとほとんど同義であった──十五年ほど前のある一時期を除いて、だが。
だから、それを失ってどう生きていけばいいのか、イサミにはまだ分からない。自分の世界はとても狭いのだと実感する。だが、生き方を模索する日々を今から始めても悪くないのでは、と思ったのだ。
年甲斐もなく自分探しだなんて、とイサミはひっそり自嘲した。
ひとまず退院まで退官は保留とするが、官舎を引き払うのは急がなくていい、とありがたい言葉を頂戴し、イサミはひとまずほっと胸をなでおろした。上官との面会に、柄にもなく緊張していたのかもしれなかった──体がこんな状態で、今すぐ住処を失うという憂き目に合わずに済んだというのもある。
午後にはヒビキが顔を出してくれる予定になっている。少し話したら、リハビリに赴かなくてはならない。
イサミは上官が置いていった菓子の封を開け、一口齧った。
「ごめん
……
私、余計なこと、した」
ヒビキは約束通りの時間に、非常に気まずそうな面持ちで現れた。中途半端に半分ほどドアを開けて、なぜだか入室せずに立ち尽くしている。
「なんだよ、どうしたんだ? そんなところに突っ立ってたら邪魔になるから入れよ」
「う、うん
……
。あのさ
……
ほんっと、ごめん」
ヒビキが今にも泣き出しそうに顔をくしゃっとさせると同時に、彼女のものではない、大きな手がドアの端にかかった。そしてその手、ドアのもう半分を静かに開いていく。
徐々に顕になる空間、そこには男が一人立っていた。ずいぶん大柄だ。覚えのある、ありすぎる姿にイサミは息を呑む。
金色の髪、澄んだ緑色の目。「嘘だろ」と無意識のうちに口にしていた。その言葉が通じたか否か分からないが、彼は確かにここに存在していることを伝えるかのように手をひらっと振ると、
「
……
やぁ、久しぶりだな、イサミ」
そう言って淡く微笑んだのだった。
『さて、これから三人は別々の道に行くわけだな』
『俺たちみんな、会おうと思えばいつでも会える。そうだろ?』
あの日の別れ以来だった。十五年は決して短い月日ではない。だが、イサミの意識はあの日に引き戻され、いだいた無力感、寂寥感、そして諦念が鮮明によみがえる。
お前は嘘つきだ。そして俺は勇気のない、意気地なしだ──
……
「な、んで、ここに
……
」
喉がからからに乾いてて、掠れた声しか出なかった。
「わ、私あの
……
あ! 下で飲み物買ってくるね!」
ヒビキは体良く逃げを打つ。ごゆっくり、なんて適当なことを言い置いてそそくさと去っていってしまった。二人の間に走った緊張感というか、なんとも形容し難い気まずい雰囲気に怖気付いたようだ。無理もないだろう。
「
……
イサミ、そっちに行っても?」
スミスは彼女には目もくれず、イサミだけを見ている。
「
……
悪いが、失礼するよ。看護師さんたちの視線がとても気になるんだ」
口を閉ざしたイサミが是と返す前に、スミスは一歩、こちらのスペースに入り込んできた。そして後ろ手に戸を閉めると、もう二歩ほど歩み寄ってくる。そう広くない病室だ、ぐっと縮んだ距離は、彼の表情を知るには事足りた。
彼は光り輝く何かを目の当たりにしたかのように、眩しそうに目を細めている。
「
……
ヒビキ、に、なんか言われたか」
「ああ」
肯定する。それしかないだろう。イサミの現状を知っていて、スミスに連絡が取れる人物など限られてくる。彼女がもたらした『余計なこと』にイサミは歯噛みした。
「それで、わざわざアメリカから? いや、海兵隊だもんな、別の国か」
「いや、今は本国勤務なんだ」
「そ、か
……
忙しいだろうに、悪いな
……
」
「大したことじゃないさ。職業柄、長距離移動は慣れているから」
十五年ぶりの再会だというのに、口から出てくるものといえばただの世間話に等しいものだった。久しぶりに会った、顔と名前も一致しない親戚を相手にしているみたいだと思った。
言葉が、うまく出ない。だが、ただ一つ確かな気持ちがあった。
「
……
お前、には
……
」
イサミは俯く。真っ白で清潔なシーツが視界いっぱいに広がる。
「
……
お前には、見られたくなかった」
まるで肺を押し潰されているかのようなうめき声が、喉の奥から絞り出された。
ヒビキに言ったように、心が思ったより落ち着いているのは確かだった。誰かを守ることができて、その結果もたらされたことならば静かに受け入れようと思っていたのだ。
だけど、これは違う。目の前に彼がいて、こんな姿を見られるのは我慢できなかった。彼が慕ってくれていた時の自分は、もういないのに。
「イサミ
……
」
「せっかく来てもらったのに、悪いけど
……
帰ってくれないか
……
」
そして二度と姿を見せないでほしい、とは口にしなかったが、言外に含めたことはきっと伝わっただろう。
「
……
ああ、帰るさ」
彼が今どんな顔をしているのか、俯いているイサミには見えない。存外素直に容れる言葉が返ってきて、ホッとすると同時にほんの少し落胆している自分もどこかにいて、己の醜さに吐き気がする。
しかし言葉とは裏腹に、スミスの気配が遠ざかることはない。立ち尽くす彼の大きな体が落としている影は、動くことなくそこに在った。何を躊躇っているのか、とイサミは歯噛みする。
早く踵を返し、ここから去ればいいのだ。
「
……
帰るよ。君が頷いてくれたら、すぐにでも」
スミスがこぼした言葉の意味がわからず、イサミはのろのろと顔をあげた。それでもまっすぐに見つめる勇気はなくて、視線はせいぜい、彼の喉のあたりまでしか上げることができない。
尖った喉仏が小さく上下して、どうやら唾を飲み込んだらしいことがわかった。
「
……
俺は、君を連れ帰るために来たんだ」
「は
……
?」
「イサミ、俺と一緒にアメリカへ来てくれ」
ついにイサミは視線をあげ、彼の顔をしっかりと見ることになった。彼の言葉の意味が理解できず、しばらくまともに使わない間に英語を聞き取れなくなってしまったのかとすら思った。
スミスは、真摯な眼差しをこちらに向けている。
「意味が、わからない。どういう意味だ
……
?」
「
……
カンザスに、両親が残してくれた土地と家があるんだ。元々祖父から譲り受けたものらしいけど、ずっと祖父方の親戚に管理してもらっていた。けどもう歳だから、引っ越して娘夫婦と暮らすんだって」
「
……
」
「だから、その土地は俺の管理下になったってわけだな」
「
……
それが、どうしたんだ?」
「イサミ、そこで俺と
……
一緒に、暮らさないか」
彼の声は、おそらく気のせいではなくかすかに震えていた。懺悔室で重い罪を告白する信仰者のようだ──あいにくイサミにはそんな経験はなかったが、多分、イメージとしては近いと感じた──。彼にも、決して熱心という枕詞はつかないにしろ、信仰する神はいるだろう。
近くで彼の顔をよく見ると、目尻に薄く皺が刻まれていて、経過した年月を感じさせた。だけど、澄んだ目の輝きだけはちっとも変わっていない。あの頃は、こうして見てくれているだけで嬉しかったし、心が躍った。だが今は辛いばかりだ。輝きがそのまま針となって、皮膚に突き刺さっているような気分だった。
イサミはシーツを強く掴む。
「俺を
……
俺を、憐んでいるのか? TSに乗ることしか能のない俺が、それすら奪われた、から
……
」
「違う!」
スミスが声を荒げる。しかし個室とはいえここが病院とすぐに思い出したように、一度ぐっと口を引き結んだ。
「違うんだ、イサミ。そんなんじゃない
……
」
苦渋に満ちた声だった。
スミスはゆっくり距離を詰め、ベッドに慎重に腰を下ろす。ぎしっと軋む音。マットレスが深く沈み、彼の大きな体を受け止めた。
「君を、憐れむなんて
……
そんな風に思わないでくれ。どうか
……
聞いてくれ」
シーツを握るイサミの手を、上からスミスの大きな手のひらが覆う。咄嗟に逃れようとしたが、強く握られてそれは叶わなかった。
「
……
愛してるんだ、君のことを。もうずっと
……
君と出会ったあの日から」
「あ、い
……
?」
鼓膜を叩いたI love youの三語は、空耳ではない。そんな馬鹿な、と己の耳を疑いながら、イサミは咄嗟にスミスの左手を──薬指の付け根を見る。そこに銀の輪の輝きはない。しかし、支障があるからと付けずに生活する人だってたくさんいるだろう。
だから、決めつけることはできない。スミスに大切な相手が、生涯の伴侶がいない、だなんてことは。
「お前、家族、は
……
?」
イサミは唇を舌で湿らせ、慎重に確かめるように口を開く。スミスは意外なことでも聞かれたかのように目を少し見開いた。
「家族? 両親はもういないし、ルルは立派に独り立ちしただろ?」
君もよく知っての通りだ、と付け加える。どうして今更そんなことを聞くのか、と言わんばかりの口調である。
「そういう、意味じゃ
……
」
「
……
ああ、なるほどね。そういうことなら
……
」
得心がいったように、スミスは深く頷いた。そしてイサミの手を握ったそこに一層力を込めると、
「俺は一人きりだよ、ずっと。
……
忘れられない人がいるんだから、当たり前だろう?」
スミスはもう片方の手を、己の胸の辺りに置いた。そこに住まわせている「誰か」がいるとあらわすように。
「俺は
……
君が友人や仲間に囲まれて幸せにやっているなら、それでよかったんだ。君を想うだけで生きていけた。
……
だけど君が、一人きりで生きていくっていうなら
……
俺はそれが、許せない。君が幸せじゃないなら、何も意味がないんだ」
だからその手で幸せにする、とでもいうつもりなのか。
イサミが強く手を引くと、スミスは咄嗟に力を緩めた。ひっこめた手を隠すようにシーツの中にしまうと、イサミは顔を背ける。窓の向こうにはただコンクリートの建物がひしめいていて、イサミに何かを教えてくれることはなかった。
これ以上スミスと何か、言葉を交わせる気がしない。何もかも突然すぎて現実感がなく、どこか他人事のようですらある。
だが、現実だ。
イサミはスミスの方へ向き直らないまま、
「
……
帰って、くれ
……
頼むから」
と、それだけを口にした。その響きに切実なものを感じたのか、スミスはベッドから腰を上げる。マットレスにかかっていた重みが離れ、イサミの体は一瞬、ふわっと浮いたような感覚があった。
「
……
わかった。『今日のところは』、帰るとしよう」
それは再訪を予告する言葉である。冗談ではない、とイサミは首を振った。
「もう、来ないでくれ」
「
……
また、な」
YESとは言わないまま、スミスの気配が遠ざかってゆく。ドアが静かに開かれ、そして閉じる音がした。そうしてようやく、イサミはそれまでスミスがいた空間に目を向ける。
「
……
」
イサミは手を伸ばし、今しがたまで男が腰かけていたところに触れる。そこにはぬくもりが残っていて、確かにそこに彼がいたことを伝えてきた。
スミスが立ち去ってから、十分ほど経過した頃だろうか。ヒビキが叱られている犬みたいな顔で病室に戻ってきた。手には何も持っていないので、やはり適当な口実だったらしい。
「ごめん
……
なんか、黙っていられなくて」
「
……
いいよ、別に怒ってない。俺のこと考えて、連絡してくれたんだろ」
だが、十五年だ。十五年もの間つながりを絶っている人物に連絡せねばと思わせてしまうほど、あの頃の二人は近しく、親しく、離れがたく見えていたのだろう。事実、そうだった。イサミはスミスと、そしてルルと共にいたかったのだ。本音を押し隠して道を分ったあと、イサミはずっと後悔していた。
例えばあの時、行かないでくれ、俺も連れて行ってくれと取り縋れば、何か変わっただろうか?
「
……
あいつの連絡先なんて、知ってたんだな」
「ううん。ミユからルルちゃんに連絡とってもらって、そこから。
……
あのさ、聞いていいのか分かんないけど」
「
……
あいつが何しに来たかって?」
「
……
うん。ただのお見舞いとは思えないもん」
そう言ってヒビキは、事の顛末を聞かせてくれた。
スミスに連絡がついたのは一週間前。事情を伝えると彼は驚き、「少し時間をくれ」とだけ言い残して一方的に電話を切った。そして昨日連絡を寄こしたかと思うと、「これから日本へ飛ぶから迎えに来てくれ」とまたもや一方的に言い放ったのだという。
そうしてやってきたスミスは、何か強い決意を秘めたような表情をしていた──だから、ただの見舞いで訪れたわけではない、と察したらしかった。
「それにしても、勝手なやつ!」
「と言いつつ、素直に迎えに行ったんだな」
「そりゃあ
……
もともと、あんたに会わせなきゃって思ってた、から
……
。ほんとに、ごめん」
声は頼りなく細くなっていき、やがて途切れる。こちらをおそるおそる伺う彼女の様子は、まるで年相応に見えなかった。凛々しく勇ましいリオウ二佐はどこへやら、だ。
ともかく、彼女の目的は無事に達成されたということになる。目論見通り、イサミはスミスと十五年ぶりの再会を果たすこととなったのだから。
「
……
あいつ、俺を連れてアメリカに帰るつもりなんだと」
隠すようなことでもない。イサミはスミスの目的をはっきりと告げた。ヒビキははっとするが、しかしどこか納得したようにうなずいた。
「
……
で、それを拒絶したってわけだ」
「当たり前だろ。あいつに迷惑をかけて生きていくなんて考えられない」
「あっちは迷惑だなんて、微塵も思ってないと思うけどね」
むしろ喜んで世話を焼きたがるでしょ、と周知の事実であるかのようにヒビキは言う。おそらくそうなのだろうと、イサミにだって分かっている。
「
……
こっちの
……
俺の、問題だ」
故国を離れ、かつての戦友によりかかって生きていくなど考えられない。イサミの新たな人生の選択肢に、そんなものは存在しないのだ。
「
……
だから、あいつはもう通さないように伝えておいてくれるか?」
「けど
……
ううん、分かった。私がやったことだもんね。帰るときにちゃんと手続しとく」
ヒビキは何かを言いかけ、それを飲み込んだようだった。大方予想はつく。「本当にそれでいいのか」──この一択だ。
良いも悪いもない。二人の人生はすでに、十五年前のあの日に分かたれている。
「
……
あのさ! 私、引っ越しの手伝いできるからね! あんたん家何もないし、楽勝だよ。退院したらいつでも呼んで」
「いつでもって
……
仕事はどうすんだよ」
「休む! 『アオ一尉殿のお手伝いです!』っていえば誰も口出しできないでしょ」
「お前なぁ
……
。ま、じゃあその時が来たら、お言葉に甘えるとするかな」
任せて、とヒビキは頼もしく胸を叩いた。いつも通り明るくあろうとしてくれる親友の存在が、今のイサミにはまぶしく、そしてありがたかった。
◇◇◇
基本的に毎日朝、昼、夜の三回、その時々の担当看護師が検温や血圧の測定に訪れる。
朝食後、何をするでもなくぼんやりしていると、軽やかなノックの後に看護師がやってきた。理由はよくわからないが、どこか当惑している様子だ。
昼の検温にはいつもより少し早い、と時計を見ながら思っていると、まだ年若い彼女は困ったように口を開いた。
「あの
……
昨日いらっしゃった方なんですけど
……
実は今朝方も顔を出されてまして」
どうやらヒビキはきちんとやるべきことをやってくれたらしい。だが、事はそう容易に運ばなかったようだった。
「患者さんのご意向でお通しできないとお伝えしたんですが、ずっとロビーにいらっしゃったみたいで」
「まさか、今も?」
「いえ。外来受付が終わるので、と外に出て頂いたんですけど、そのあとずっと中庭に」
「
……
ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません」
思わず頭を抱えたくなったが堪えて、平身低頭謝るほかない。強行突破という選択肢を選ばなかっただけ、まだましなのかもしれなかった。
「いえ、あのぉ
……
お困りなら、よかったら警察に連絡しますけど」
「それは
……
いえ、大丈夫です。中庭ですよね。こちらから出向いてみます」
きっとあの男は梃子でも動くまい。そうして警官が駆けつけてきて、強制的に連れていかれるのか、よもや理不尽な抵抗はすまいが、いずれにしろ非常に面倒なことになるのが目に見えていた。
しかし、イサミの申し出に看護師は首を振った。車椅子に乗ればなんとか動けるようになったとはいえ、外に出るのは控えるべきと苦言を呈される。入院患者である以上、専門家の意見に逆らうわけにはいかなかった。
結局出禁は諦めて、病室に通してもらうことにした。せめてここではなくラウンジで面会してはどうかと心優しい彼女は助言してくれたが、ともすれば他人に聞かせない方がいい会話が交わされる可能性もある。丁重に断って、イサミは再度頭を下げた。
手土産を携えて現れたスミスに、今一つ反省の色は見られなかった。それどころか、ようやく会えた!とばかりに嬉しそうなので、イサミは開口一番怒鳴りつける。
「お前な! 病院の人に迷惑をかけるな!」
「Sorry
……
けど引き下がれなくて」
「危うく警察を呼ばれるところだったんだぞ、お前」
スミスは肩をすくめる。まるで、そんなことは大したことではないと言わんばかりの態度だった。まさか抵抗するつもりだったのだろうか──公務執行妨害で一発アウトだ。国家権力に拘束されるために訪日したわけではあるまいに。
「
……
昨日の話なら、断ったはずだ。俺はアメリカになんか行かない。帰ってくれ、今すぐに。大体お前、」
「言っただろ? 引き下がれないって」
仕事はどうした、と続ける前に、スミスが言葉を遮ってくる。彼はあくまで頑なだった。丸椅子に腰かけ、手土産を置き、勝手に長期戦の構えを見せる。思い通りに動かすことのできない体をこれほどもどかしく思ったことはない。全快の状態であれば、たとえ一回りほど体格の大きな相手でも組み付いて投げ飛ばして見せるのに。
だが、もしイサミが怪我一つなく元気にしていたら、投げ飛ばす相手は多分ここにいないのだろう。
「お前、なんで今になって
……
十五年だ、十五年も
……
」
「
……
どうして放っておいたか、って?」
そうだ、と頷きかけて、イサミは思い直し首を振った。
「
……
違う。
……
俺だって、お前に会いに行かなかった、だから同じなんだ」
別離について、イサミが一方的にスミスを責める権利などなかった。
イサミは恐ろしかったのだ。会いに行ったとして、心にずっとくすぶっている想いが──スミスやルルと一緒にいたいという気持ちが受け入れられなかったら、もう生きてはいけない気すらした。
「いや、君には俺に怒りをぶつける権利がある。どうして十五年も放っておいて、今さらのこのこ来たんだ! って」
そんなことはない、と反論しようとしたところで、スミスが首を振る。
「
……
だって、俺は多分
……
君が会いに来てくれたとしても、顔を合わせることすらできなかった」
「ど
……
うして、だ?」
「
……
イサミに、イサミのままでいてほしかったから」
彼の答えは抽象的で、イサミの心に芽生えた暗い疑問を解消してはくれない。
「だけど、今なら、君を
……
君と一緒に、生きていける」
スミスはぐっと身を乗り出して、その視線でまっすぐにイサミを射抜いた。
「何より君のことを一番に考えて、何者からも守ると誓う。決して不自由はさせない。そのための準備だってしてるんだ。
……
だから、一緒に来てくれ」
「
……
お前に、養われて生きていけって? お前の足を引っ張りながら? そんなのはごめんだ」
そんなのは決して対等ではない。元、がつくとはいえ仮にも相棒だった男に一方的に縋り付くなど。
「やっぱり
……
お前は、俺を憐れんでるんだ」
「違う。言っただろう、君を愛してるって。愛する相手を守りたい、慈しみたい、大切にしたい。どれも人として当たり前の感情だ。養うだの養われるだの、それってそんなに重要なことなのか?」
「俺のちっぽけなプライドが、悪いっていうのか」
「
……
悪い、とは思わない。けど、必要ない。今、ここでは。
……
イサミ、君はとても優しい。俺に迷惑をかけたくないって、そればっかり考えているんだろう?」
違う、と咄嗟に否定する前に、延べられたスミスの手がイサミの頬に触れた。ろくに手入れもしていない四十路の肌だ、きっとかさついて心地よいものでは無いだろう。反射的に体を引こうとしても、そう広くはないベッドの上だ、逃げ場などない。
「よく考えてみて。本当に迷惑に感じているなら、そもそも俺はここにいない。ヒビキにだって、お大事に、なんて伝えるだけでよかったんだ」
だがそれだけで済ませることができず、彼はこうしてはるばるやってきた。
「なぁ、俺を拒絶して、君はどうなる? 一人で生きていって、それで
……
」
「
……
一人じゃなきゃいいのか? たとえば、俺が誰かと、一緒になったら?」
「
…………
祝福、するよ」
たっぷりの沈黙の後の言葉を、嘘だ、とイサミは思った。彼は言葉とは裏腹に非常に険しい表情を浮かべ、言葉は悪いが人でも殺しそうな雰囲気すら漂わせる。彼は頬に添えていた左手を引くと、まるで自分を押さえるように右手をぎゅっと強く握ったようだった。
「君ほどの人だ、きっと今まで引く手数多だっただろう」
「
……
そんなわけない」
浮いた話がひとつもなかったと言えば嘘になる。いつまでも独り身の英雄にそういう話を持ちかけてきた上官はいたし、女性が声をかけてくれたこともあったと思う。だがイサミの心は動かなかった。そのうちに誰もが諦めたのか、ここ数年色恋沙汰とは無縁だ。
スミスと同じだ。忘れられない人がいて、その存在が心の大半を占めているのに、他の誰かをそこに入れてやることなんてできない。
「イサミ、俺は絶対に一人では帰らない。警察でもなんでも好きに呼べばいい。使える手段は全て使ってここにとどまる。君が頷くまで、動く気はない」
ほとんど脅迫に近い。イサミはスミスの強さを、とりわけ一度決めたことを意地でもやり通す頑なさをよく知っている。彼は本当に、常人では叶えられないこともやってのけてしまうのだ──約束を果たすために、時空を飛び越えるくらいのことは。
「それでも、どうしても俺を一人で帰したいなら
……
はっきり言えばいい。俺のことが嫌いだ、と」
イサミは息をのむ。スミスのぎらついた、いっそ狂気じみていると言って過言ではない目がイサミを捉えて離さない。
「顔も見たくないって
……
言えばいいんだ。イサミ」
こっちの方がよほど脅迫だ。そんなこと、言えるはずもない。たとえ方便でも、それだけは無理だった。
自分は決して器用な方ではない、と思う。とりわけ、嘘をつくのは苦手だ。心にもないことを口にするのはとても難しい。それでもこの歳まで、縦社会でうまくやってきたつもりだ──特にあの戦いの後からは。だから不得手なりに外面を取り繕って、愛想良く振る舞うことも多少は覚えた。
だが、今ここにいる相手はスミスだ。彼を前にすると何も取り繕えなくなってしまう。イサミは唇を噛み、俯いた。
ぎし、と木の軋む音がする。そして大きな影がLEDライトの灯りを遮った。のろのろ顔を上げると、スミスがすぐそばに立っている。体を引き寄せてくる両腕にさしたる力は込められていなかったが、イサミには抵抗できなかった。
「
……
君に『何もするな』なんて言わない。これからどうしていくか、一緒に考えよう、イサミ。
……
俺だって、ハイスクールを出てすぐに訓練を受けて海兵隊に入って
……
それ以外の生き方を知らないんだ」
彼の匂いを間近に感じて、涙腺がゆるむのが分かった。ここが世界で一番心安らぐ場所だと体が覚えて、紛れもない歓喜が胸の内から湧き上がってくる。
そうだ、あの時──死の予感を覚えた時に彼に名を呼ばれ、たとえ願望がもたらしたただの幻聴であっても、イサミは確かに嬉しかったのだ。最期に耳にするのが彼の口にする己の名前だなんて、これ以上の幸福があるか?──と。
もはや押しのけることができず、イサミは頷いた。
■二章
イサミの退官や、出国にかかる種々の手続きや、それから官舎の片づけだとかで、二人が旅立つことができたのは約一ヶ月経ったころだった。
病院を通じて購入した車椅子に、イサミはおさまっている。後ろには大きなバックパックを背負ったスミスが立っていて、チケットやパスポートを熱心に確認していた。
見送りはいらないと伝えていたが、それでもヒビキは出発ロビーの喧騒の中にいる。彼女はらしくもなく涙ぐんで、イサミの髪をくしゃくしゃかき回した。この歳になれば一つや二つ年齢が違ったところで大した差はないと感じるが、それでも彼女は年下だ。だが姉のように振舞うところは、今日に至るまでちっとも変わらなかった。
「元気でね。ちゃんと連絡寄こしなさいよ?
……
スミス、こいつのこと、お願い」
「ああ
……
任せてくれ。命に代えても守るよ」
戦いにでも行くつもり?とヒビキは笑うが、やはり寂しそうに見えた。今生の別れでないとはいえ、海を隔てればそう簡単には会えなくなる。そう考えると、イサミの胸にも寂寥感が漂うのだった。
それでも、共に行くと決めたからには振り向くことはしないし、後悔もしたくない。今はまだ、先のことが何一つ見えていなくても。
成田空港から約十一時間のフライトを経て、まずはコロラド州・デンバー国際空港に辿り着く。そこでヘイズ空港への便にトランスファーし、再び空の人となって一時間半。そこから最終目的地までは、スミスがあらかじめ予約しておいたプライベートシャトルにて向かう。用意されていたのは大型のバンで、イサミの乗る車椅子の収納も問題なかった。スミスはドライバーに相場よりずいぶん多めのチップを支払い、細かく行き先を指定したうえ、イサミが快適に過ごせるよう何かと取り計らった。
そうしてドライブは順調に進み、予定通り一時間半ほどで到着した。
またよろしく、とたっぷりのチップを受け取って上機嫌のドライバーを見送った後、二人は降り立った地を見回す。
まず視界に飛び込んできたのは、雑草の生えた何もない広大な農場──囲む木の柵が行きつく先が、地平線の向こうに消えていて見えないくらいだ──、そして一軒の平屋だった。その隣には、大木を挟んで、農耕機械や肥料などを格納するためだろうか、大きな倉庫が建っていた。
「ここが俺たちの新しい家だ! ここもずっと管理してもらっていて
……
日本へ向かう前にリフォームを指示しておいたけど、うん、終わってるみたいだな」
玄関までは段差があるが、横にスロープが設えられていて、車椅子でも問題なく登れるようだった。後ろに回ったスミスに押されてそのゆるやかな坂を上り、こちらもまた使いやすいようにだろうか、大きな取手が取り付けられた引き戸を開く。
「靴はここで脱ぐんだ。イサミはその方がいいだろう?」
入って、中を見て驚いた。床はフラットで段差はない。そして、正面にまっすぐはしる通路の両脇には真新しい手すりが設置されているし、ドアはどれもイサミに扱いやすい引き戸になっているようだった。この様子だと、おそらくあらゆるところが同じような作りになっているのだろう。
「お前
……
俺が頷かなかったら、どうするつもりだったんだ?」
いわゆるバリアフリーの整った屋内の様子に、イサミは半ば呆れながら後ろのスミスを振り返る。
「エアアンビュランスを手配しようと思ってた。君には眠ってもらって、ドクターは適当に言いくるめて」
「
……
」
「そんな顔しないで、ジョークに決まってるだろう? さ、家の中をざっと案内するよ」
つまり、意識を奪ってその隙に強引に運んでしまうという算段があったということだ。本当に冗談だったのか怪しいところだったが、イサミはふっと息を吐いて背もたれに身を委ねる。自由に動き回れるほど、この家を知っちゃいない。
「こっちがリビングだよ。テレビは好きに見ていいから」
スミスはまず、玄関右手のドアを開く。窓が大きく開放的で、農場をある程度見渡すことができるようだった。
設置されている大きなソファは革張りではなく、薄いグリーンのファブリック製だ。この家の雰囲気にとてもぴったりで、触り心地も良さそうだった。おそらく、滑りやすい革張りではイサミの足に良くないと考えたのだろう。
「で、ダイニングと、キッチン! 低めに作ってもらったから、イサミにも使いやすいよ。俺は椅子に座ればいいし」
リビングとつながっているダイニング、そして奥にはキッチンがある。スミスの言う通り、シンクやコンロなどが一般的なそれより一段低い位置にある。
その後案内されたバスルーム、トイレ、いずれもイサミの体に最大限配慮されていて舌を巻いた。こう言ってはなんだが、一体どれだけの費用がかかったのかとつい想像してしまう。ますます、己が首を縦に振らなかったらどうしていたのかと考えてしまうのも致し方ないことだろう。
そして最後にいざなわれたのが、
「ここが、君の部屋。まだベッドと、最低限の家具くらいしかないけど」
広々とした寝室だった。目測だが、十畳以上はあるように見える。彼のいう通り、例えるなら引っ越してまだ間もない部屋、という雰囲気だった。ベッドと、大きな机と、それから空っぽの本棚。ドアが開放されている、作り付けのウォークインクローゼット。おそらく元の部屋にだいぶ手を入れたのだろう、どこもつやつやしていて、新築の家のような木の香りがたっぷりと満ちていた。
スミスは窓──イサミでも開閉しやすいようにか、比較的低い位置にあるスライド式だ──に歩み寄ると、おもむろに開け放った。夏の盛りの、熱気を伴った風が入り込んでくる。
「カーテンのことをすっかり忘れてたな。たぶん倉庫にしまってあるから、あとで取り付けるとしよう。
……
それにしても暑い」
「そうか? 日本の夏もこんなもん
……
いや、湿気がないからだいぶ過ごしやすい気がする」
「ああ、確かにジャパンは暑かった
……
」
自分がなかなか頭を縦に振らなかったから、どうやらスミスは日本の蒸し暑さにすっかり参ってしまっていたようだ(しかもあちらは梅雨の時期だった。)
「イサミ、今日は疲れただろう? ハウスクリーニングに頼んでシーツも洗ってあるから、すぐに眠れるよ。そうだ、お腹は空いてない?」
「さっき空港出る前に食っただろ?」
「あんまり食が進んでなかったから」
確かに、小さなデニッシュを一つ食べて、それからコーヒーを少し飲んだくらいだった。久しぶりのジェットラグに、どうにも体がついていかないようだ。
歳をとったものだ、と思う。
「
……
ちょっと疲れた、かな」
「だろう? ゆっくり休んで。ベッドには自分で移動できるかい?」
イサミが無理だと首を振れば、おそらく喜んでこの体を持ち上げてベッドへと横たえてくれるだろう。だがイサミは甘えることなく頷いた。
「大丈夫だ。練習してきたし」
「いい子だ。くれぐれも気をつけて。俺はカーテンを探してくるよ」
いい子だ、って。幼子のように扱われて、イサミは面食らう。くすぐったく、どうにも座りが悪いが、なかなかどうして悪い気はしなかった。こんなふうに甘やかされるのはいつぶりだろう。
「あ、そうだ、イサミ」
去り際、スミスがドアのところで振り返る。
「明日はお客さんが来るよ」
「客? 誰だ?」
「それは明日のお楽しみだな。だけど、とても素晴らしいゲストだよ」
楽しみにしていて、とスミスは片目を閉じる。彼がそう言うなら、イサミにとって悪い相手ではないのだろう。曖昧に頷いて、ふんふんと鼻歌を歌いつつ去っていく彼を見送った。
イサミは車椅子を固定して、練習した通りにベッドへの移動を試みる。幸い、多少衰えてはいるが筋力にはまだまだ自信があるし、右足は健在だ。難なくこなすことができてほっと胸を撫で下ろした。これで、ベッドの乗降のたび彼を呼び付けるという、考えるだけで憂鬱になるイベントをこなさなくて済む。
横たわってみると、マットレスは程よく硬く、シーツは清潔な匂いがした。遮るもののない窓から日差しが差し込んできて眩しかったが、やはり疲れが溜まっていたのだろう、睡魔はすぐに歩み寄ってきた。
◇◇◇
目が覚めると、そこには見慣れない天井が広がっていた──というのは、フィクションにありがちな書き出しだ。イサミはそんなことを考えた。
見慣れない天井、嗅ぎ慣れない木の匂い。イサミはベッドの手すりを握って起き上がる。それはしっかりと固定されていて、決して軽いとはいえない体を難なく支えてくれた。
首尾よく探しだしてイサミが眠った後に取り付けてくれたのだろう、窓には淡いブルーのカーテンがかかっていて、日光をうっすら透かしている。年季が入っていそうなそれを、イサミはとても好ましく思った。
足代わりの車椅子に移乗して部屋を出ると、香ばしく、食欲を刺激する匂いがした。これはたぶん、スミスがベーコンでも焼いているのだろう。バスルーム手前のバニティエリアで顔を洗って軽く身だしなみを整え、大きくひらけたリビングからダイニングへ入る。
キッチンからはじゅうじゅうと、何がしかこんがり焼かれている音がしていた。イサミが起き出してきたことにすぐさま気がついたスミスはほんの一瞬目を見開くと、顔を綻ばせる。嬉しい、と頬に大きく書いてあるかのようだった。
「おはようイサミ。呼んでくれればよかったのに」
「一人で平気だ。昨日も言っただろ?」
「うん、だけど困ったことがあったらすぐに呼ぶように。
……
ちょっと待ってて、もうすぐ朝ごはんができる」
スミスが用意してくれたのは、スクランブルエッグに、そこに添えられたベーコン(少し焦げている)とハッシュブラウン、トースト、くし型にカットされたオレンジにコーヒーという典型的なアメリカン・ブレックファストだった。しかし日本食に慣れたイサミの目には、非常に新鮮に映ったのだった。
「うまそうだ。お前、料理できるんだな」
「料理ってほどじゃないよ。ほとんど焼いただけだし、ハッシュブラウンはnuke it、ってね」
くい、と彼が親指で示したのは大きな電子レンジである。
「そんなことない。うまそうだ」
「喜んでくれたなら嬉しい。けどライスも食べたいだろう? ちょっと遠いけど、カンザスシティに出れば日本食も手に入るよ。ソイソースとか、トーフとか。取り寄せてもいいけどね。あ、でもナットウやマッチャは難しいかもなぁ」
「そんなに気を遣わなくていい。俺はなんでも食べるし、特に好き嫌いはない」
「それでも、故郷の味って恋しくなるものだぜ? 俺はあちこち飛び回ってたけど、やっぱりマカロニ&チーズを食べたくなったし、キーライムパイに齧り付きたくなったし、チェリーコークを飲みたくなったものさ」
「そういうもんか?」
食事に強いこだわりのないイサミにはいまいちぴんとくるものがなくて、首を傾げる。スミスは笑って、よく磨かれたフォークやナイフをイサミの前に置く。
「そういうものさ。ま、一番好きなのはやっぱりジャパンのカレーだけどね! ほら、冷めないうちに食べよう。食べ終わったら外を案内するよ。といっても何もないけど、食後の散歩にはちょうどいい」
イサミは頷き、いただきます、と手を合わせた。正面に座ったスミスもそれに倣い、ぎこちないその仕草にイサミは口元を緩めた。
重くて悪いけどこれを持っていてくれ、と小さなバックパックを腕に通される。中に何が入っているのやら、重いというほどのことはない。
それから、屈んだスミスの背に恐る恐る身を預けると、スミスは愕然としたように「Oh my GOD」と呟いた。
「や、やっぱり降りる」
入院中の運動なんてリハビリくらいものだった。やはり無駄な肉がついているのだと肩を落としながら、イサミはどうにかその広い背中から降りようとした。だがスミスの腕に阻まれ、一気に目線が高いところに上がる。まったく揺らぐことなく立ち上がった彼は、首を捻って見上げるようにしてイサミを見た。
「勘違いしないでくれ! 昨日車からおろす時にも思ったけど、軽すぎるんだよ!」
「そう、なのか
……
?」
「ああ! きっと筋肉が落ちちゃったんだな。君の食事、今後は俺の二倍にしよう」
「冗談じゃない。ろくにトレーニングもできないんだから、あっという間に丸くなるぞ」
朝食だって、正直なところ少しばかり量が多いと感じたのだ。若い時分は、食べることも仕事とばかりに胃袋に白米を詰め込んでいたものだが、年齢のこともあって食は細くなる一方である。スミスはぺろりと平らげていたが。
「丸いイサミかぁ
……
」
どんな姿を想像したのやら、声がなんとなく喜色を帯びている。前を向いてしまったスミスの顔は見えないが、見えずともにやけ面をしているのは想像がついてしまった。
散歩と称して背負われることになったのは、農場をぐるりと囲む石畳がろくに整備されてないことに起因する。幅は十分だが、がたついていて、ところどころに剥がれもあり、車椅子では車輪が取られて危険だからとスミスが強く言ってきたのである。「なら留守番してる」とイサミがすんなり言うと「それじゃ意味がないだろう」とスミスはがっくり肩を落としたのだった。
折衷案、というにはスミスにかかる負担が大きい気がしたが、彼はやけに嬉しそうだ。
「本当に広いな」
「確か、百エーカーはあるって聞いてるよ。小麦やとうもろこしを育てたり
……
そうだな、鶏を飼ったりしてもいいかも」
そうしたら毎日新鮮な卵が手に入る、とスミスは嬉しそうに言う。
「できるのかよ、そんなこと」
軍人夫婦の家に生まれ、ヒーローを志して海兵隊一筋、TS一筋に生きてきた、生粋の軍人たる彼が麦わら帽子を被り、鍬や鋤で畑を手入れしているのを想像してイサミは不思議な気持ちになった。
「さぁ、どうだろう? でも新しいことに挑戦するのはわくわくするものさ」
「
……
そう、かもな」
久しく忘れていた気持ちかもしれない。思えば、こうして海を飛び越えてやってきたのもまた、イサミにとって新しいことへの挑戦の一環なのかもしれなかった。そう考えると、この先どうなるかわからないと不安に曇る心が、ほんの少しだけ晴れるような気がした。スミスがすぐそばにいて、笑ってくれている、というのも多分大きいのだろう。
時々立ち止まりながら農場周辺を一通り見て回って、スミスは家の隣の木──昨日目に入った、家と倉庫の間に生えている立派な大木である──のあたりで足を止めた。さすがの体力で、息ひとつ上がっていないようだった。
昨日は気が付かなかったが、もう少し奥まったところには井戸もある。木の屋根はすっかり古びているようだが、今も水が引けるのだろうか。
「さて、休憩しようか。おろすよ
……
気をつけて。」
スミスはゆっくり膝を折って屈むと、慎重にイサミの体を柔らかい芝の上に下ろしていく。難しい体勢だろうに、危なげというものがない。
スミスは、背負わされていたバックパックから水筒や小さな包みを取り出した。中身は冷たいコーヒーと、先日空港で買っていたココナッツ味のクッキーだった。
「用意がいいな」
「ちょっとしたピクニックさ。いいだろ?」
使い捨てのカップにコーヒーを注ぎ合い、cheers、とぶつけてみるがもちろん音なんて出ない。顔を見合わせて笑い、喉を潤した。
ただっ広い敷地を眺めながらぽつぽつ会話するが、木陰とはいえジリジリとした暑さが体力を奪っていく気がした。長年の訓練で慣れているとはいえ、暑いものは暑い。動かし難い事実である。
「はー、暑い
……
長居しないほうがいいな。イサミ、家に戻ろうか」
「ああ。
……
ん? なんだ、この音」
「音?」
少しずつ近づいてくる重低音のようなものを、イサミの鋭敏な聴覚が捉えた。気のせいではないし、上空を飛んでいる飛行機のエンジン音でもない。しばらくすると、スミスの方も気がついたようだった。
「
……
ああ、君は本当に耳がいい」
見てごらんと指さされた道の先、どうやら車が近づいて来ているようだった。イサミは持ち前の視力で、それが紫色に塗装されたスポーツカーと即座に認識する。こう言ってはなんだが、長閑な農地には不似合いな厳つさだった。
「昨日言ってたお客さん、来たみたいだな」
「あれが?」
そういえば、そうだった。素晴らしいゲストが来る、そうスミスが昨日言っていたことを思い出す。すっかり頭から抜け落ちていた。
スミスの言った通り、その車は徐々にスピードを落としたかと思うと、二人の家の前で停車する。隣でスミスは「まさかここまで車で来るとはなぁ」と呑気に感心した。
やがて運転席が開き、ドライバーが降り立つ。スリムなパンツに、赤いローヒールのパンプス。女性だ。陽の光を受けて輝くプラチナの長い髪がさらっと、高貴なマントのようにひるがえった。
「あれは、まさか
……
る、ルル?」
「That's right! ──おーい! ルル! こっちだ!」
スミスが大声をあげて手を振ると彼女は──ルルはすぐに気がついたようで、こちらを向いてぱっと表情を明るくした。
「スミス! ──イサミ!!」
彼女は一目散に駆け寄ってくる。スミスはイサミの脇の下から手を入れて抱え上げつつ、難なく立ち上がった。
ルルはそのままの勢いで思い切り飛び込んでくる。イサミは踏ん張りがきかず体が傾くが、スミスが見事な体幹で二人分の体重を支え、受け止めた。
二人にひしっとしがみつき、立派な大人のレディになったルルは「会いたかった」とか細い声を漏らした。
「俺もだ、ルル
……
」
直接会うのは何年ぶりだろう。娘同然に思っている彼女の背中に、イサミもまた手を回した。
「
……
あ! ごめん、私、頭が真っ白になっちゃって! イサミ、大丈夫?」
相手が怪我人と思い出したか、ルルがぱっと離れておろおろとイサミの体を見回す。こういう慌てぶりや仕草はスミスそっくりだ。懐かしくなり、イサミは目を細めた。
「大丈夫。こいつが馬鹿力で支えてくれたから」
「なんなら二人まとめて抱っこもできるぞ」
「スミス、やめといたほうがいいよ。歳なんだから、腰悪くする」
辛辣なルルの言葉に、スミスは「そんなぁ」と肩を落とす。相変わらず仲が良く、息もぴったりのようだった。
「さてと、積もる話は中で。コーヒーを淹れるよ。ルル、車を裏に回してからおいで」
「あ、そっか。誰か通るかもしれないよね。先に入ってて! すぐ行くから!」
ルルは溌剌とした様子でばたばたと愛車の方へ戻っていく。
「はしゃいでるな。ああ見えて、普段は『物静かだが熱心な女史』として通ってるらしいが」
「元気なほうが、あいつらしくていい」
違いないな、とスミスは笑った。
:
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
Reaction
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.
Custom color
Reset color
広告非表示プランのご案内