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しか野
2026-02-09 00:32:06
235465文字
Public
同人誌関連
★既刊サンプル(スミイサ)
2024.7〜2026.2に発行したスミイサ本のサンプルまとめ
1
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11
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◆波間のひと(2025.5.18)
人魚にまつわるSF(少し不思議)なお話。
アフストとは齟齬あり。いろんな捏造あり。
-----
◇プロローグ◆
まだまだ力加減というものを知らないルルの放った強烈な一撃は、すっかり弛緩していたイサミの体を海へと思い切り叩き落とした。しまった、と思った時にはもう遅い。体が『攻撃』を認識して反射的に避けてしまったのは、軍人の本能だろうか──などと、呑気に己を分析している場合ではなかった。
「イサミ!」
スミスは慌てて船の縁に駆け寄って、数メートルほども下にある、今は比較的穏やかな海面に目を凝らす。異変に気づいた他の面々も駆け寄ってきて、スミスと同じように姿勢を低くした。
しかし、イサミの姿を見出すことはできなかった。彼は先ほどまでの激しい打ち合いで消耗している。よもや、海面に叩きつけられてそのまま──想像すると、背筋がゾッと粟立った。
『イサミィ! 今行くぞ!!』
こちらもまた、加減を知らないロボットの轟音である。耳をつんざく雄叫びののち、彼はなぜか陸上移動形態であるところのブレイサンダーへとその姿を変えた。そして勢いのままに海へと飛び込んでいき、派手な水柱が立つ。
とにかく救命ボートを手配せねばと、駆けつけたプラムマン上級曹長が鋭く声を上げ、弾かれたように幾人かが走り去っていく。「イサミ、弱い」と頬を膨らませていたルルだったが、周囲の雰囲気からいよいよ己のしでかしたことに気づいてきたのか、みるみるうちに眉尻を下げて不安そうにスミスを見上げてきた。彼女の小さな頭をくしゃっと撫で、安心させるように微笑みかける。
「大丈夫だよルル、イサミはすごく強いから。さっきの試合で分かっただろ?」
「うん
……
ルル、イサミなら跳ね返してくれるかなって、思って
……
」
「全快の時ならやってくれるぜ、多分な。さて
……
」
できることなら今すぐ飛び込んで、彼を探して泳ぎ回りたいところだが、泳ぎが決して不得手ではないとはいえこの高さである。二次災害の元になることは目に見えていた。
とにかく少しでも水面に近いところへ──下部のデッキを目指すべく体を反転させようとしたところで、「あ! イサミ!」ルルがそう叫んだ。周囲がにわかにざわつく。スミスも慌てて、縁に再度へばりついた。
果たしてイサミが、水面に顔を出していた。幸いスミスは、多くの軍人の例にもれず視力が大変優れている。ゆえに、イサミがどうやら気を失ったりすることもなく、濡れた髪をかきあげ大きく呼吸しているらしいところがよく見えたのだった。
スミスはほっと胸を撫でおろす。隣に座り込んでいるルルを横目で見やると、彼女もまた安心したように、肩の強張りを解いたようだった。
「イサミーーーーー!! だいじょーぶーーーッ!?」
手を口で囲い、即席のメガホンで声を張り上げるルルに、イサミが右手を挙げて応えた。
「ごめんねーーーー!!!」
イサミも何か叫び返しているようだが、あいにく聞こえない。しかしルルを安心させるような言葉を投げかけていることだけは確かだった。
「イサミ、大丈夫そう!!」
「みたいだな。よかった
……
。でもな、ルル! 危ないだろう! イサミが特別丈夫じゃなかったら、きっと怪我じゃ済まなかったぞ!」
幸い大事は免れたので、こうしちゃいられないとスミスはしっかりルルを叱りつけた。しゅんと肩を落とすルルだったが、保護者(暫定)としてはやっていいこと、悪いことをしっかり身につけさせねばなるまい。厳しく接することも、大切なのだ。この二十四年親になったことはないが、自身の親が時に優しく、そして時に厳しく、何より深い愛情を持って接してくれていたことはよく覚えているのだ。見様見真似ではあるが、赤ん坊同然のルルにもそうしてあげられたら、と思っている。
しかしながら、うっかり避けてしまった自身も大いに反省すべきだろう。あとでルルと一緒に「ゴメンナサイ」をしなくては。多分彼は、ほんの少しだけむくれた後に「仕方ねぇな」と流してくれるのだろうが。
さて怒るのはここまでだ、とスミスは視線をイサミの方へと戻した。彼はゆるやかに手を動かしながら、危なげなく浮いている。まもなく救命ボートが到着するだろう、と思った矢先、ブレイバーン──いつの間にか通常形態に戻っている──が、その巨体を浮上させた。水中でいくらか冷静さを取り戻したのか、イサミをひっくり返して再び沈めてしまわないよう、距離を空けている。
イサミがすいすい泳ぎ、彼に近づく。そしてなにやら言葉を交わしているようだが、彼の声はこちらまで届かない。だがブレイバーンは別である。なにしろあの声の大きさだ。
『大丈夫かイサミ!?』
「────」
『さすがイサミだ。器用だな!
……
さぁ、乗ってくれ。上に戻ろう』
「────」
『構わないが
……
もうじき日が暮れるから、ほどほどにな。私はここで待っているよ』
やがてイサミが姿を消す──海に沈んだ、いや、自ら潜ったのだ。そして再び浮上したかと思うと、足のつかない海中であることを感じさせないほど滑らかに泳ぎ始めた。
「スミス! スミス! ルルも泳ぎたい! いい?」
ブレイバーンから離れすぎないよう、ゆるく円を描きながら滑るように泳ぐイサミを、ルルはきらきらした目で見つめている。そのうち今にも飛び込まんばかりに身を乗り出したので、スミスは慌てて抱き抱えて止める羽目になった。
「っと、それはまた今度な。
……
それにしても、上手いな。イルカみたいだ」
太平洋にぽっかり浮かぶ列島を思い浮かべ、JAPANは海洋国家だからかな、などと思考を巡らせていると、隣に立つ人影があった。彼の友人、ヒビキである。その向こうにはミユの姿もあった。
「防大じゃ水泳の訓練もあるからねぇ。ま、どこもそうだろうけど」
「もちろんあったけど、俺はそこまで得意じゃないんだ。どうも体が浮かなくて」
「スミスさん、筋肉すごいですもんね!」
「泳げなかったら退学、ってわけじゃないけど、みんな死に物狂いって感じだったなぁ
……
」
もちろん私もね、と苦い記憶を思い出したかのように顔を顰めたヒビキは、防衛大一学年における八キロ遠泳の厳しさについて臨場感たっぷりに語って聞かせてくれた。話が上手いので、海に飛び込まんとしていたルルの注意はすっかり惹きつけられる。これ幸いと彼女を離してやって、スミスはヒビキの話に耳を傾けつつ、イサミの姿を再び見下ろした。
イサミはなおも楽しそうに、水中の生き物となっている。
きれいだ、いつしか無意識のうちに呟いていた。
◇1
飛行機の小さな窓越し、眼下に広がる真っ青な海を見て、スミスはそんなひと時のことを思い出していた。今にして思えば、有事に何を呑気にやっていたのだろうと苦笑するばかりだが、あの時はあの馬鹿騒ぎがどうしても必要だったのだ。兵士たちは元気を取り戻してより一層結束を固めたし、イサミはスミスにずいぶん心を開いてくれたものだった。不器用ながらも微笑みかけてくれた時の感動といったら、息が詰まって一瞬意識が飛んだくらいだ。
思えば──イサミが海へと落ちてしまった、というより落とされてしまった時、ブレイバーンがブレイサンダーへと咄嗟に形態を変えてしまったのは、相棒の危機に焦って混乱した末に『とにかく一刻も早くイサミの元へ駆けつけられる姿に!』という気持ちが先行してしまったためだった。今ならばわかる。なにしろ、他ならぬ自分のことだからだ。
そして、あの時のイサミの言葉も。
『大丈夫かイサミ!?』
『平気だ。驚いたけど、咄嗟に体勢を変えたから』
『さすがイサミだ。器用だな! さぁ、乗ってくれ。上に戻ろう』
『その前に、少しでいいから泳いできていいか? 久しぶりなんだ。ハワイじゃそんな暇もなかったしな』
『構わないが
……
もうじき日が暮れるから、ほどほどにな。私はここで待っているよ』
悪いな、と言い置いて、イサミは深く潜っていった。
彼の泳ぎは、遠目から見ても美しかった。もちろん、ブレイバーンとして間近で見ている時にも、あんまり眩しくてロボットであるにもかかわらず目がくらむかと思ったくらいだった。
彼の手足が立てる水飛沫に太陽の光が反射し、それはまるで彼自身が放つ輝きのようだった。
スミスが現在機上の人となっているのは、もちろん彼に会いにいくためだった。
約半年間にわたって三人のホームであった、壮麗なるアイコン・オブ・ザ・シーズ。下船の時が近づくにつれ、イサミが少しずつ元気をなくしていっていることにスミスは気づいていた。寂しい、と思ってくれていたのだ。
しかしスミスは、すでに決意していた。原隊復帰の前にもう一度この目で世界を見て回ること、そして己の中の激情と向き合うことを。
スミスの硬い決意の言葉を聞いた時、イサミは口を開き、ほんの一瞬何かを言いかけたようだった。だが、小さなそれはすぐに閉じられてしまう。彼はしばらく沈黙したのち、諦めたように口角を小さくあげた。
『
……
気をつけて行ってこいよ』
その優しい目には呆れと、それから隠せない寂しさが浮かんでいた。
あの時、彼は何を言いかけ、飲み込んだのだろう。──行かないでくれ、とでも?
そうあって欲しいと思うのは傲慢だろう。一度離れることを決めたのはこちらなのだから。
一人で世界中を旅して、時には復興にも手を貸して、美しい景色も、そして目を背けたくなるような光景にも出会ってきた。優しい人の言葉に勇気づけられたり、傷ついた人の深い悲しみに無力感を覚え──スミスはさまざまな経験をした。それら一つ一つは胸に深く刻み込まれ、糧となっている。
そんな旅を経て、改めて強く実感したことがある。どんな時も、イサミに隣にいて欲しいということだ。喜びも、時には悲しみも、あらゆるものを分かち合いたい。やはり、彼なのだ。彼しかいない。
そうだ早く会いに行け今すぐ会いに行け成すべきことをしろ、と『私』の方の騒がしさも日増しに高まっていく。我がことながら、制御できない。たぶん本能みたいなものだからだ。
いっそブレイバーンになってしまえば、いくつも飛行機を乗り継ぐよりずっと早く、彼の元に馳せ参じることができる。だがその衝動はどうにか堪え、スミスは一度アメリカ本国へと帰国する道を、冷静に選び取った。
長い休暇の終わりが刻一刻と近づいてきていている。先の戦いにおいて重要な役割を果たしたとされ、名誉勲章を受け取り、一躍英雄視されることとなったスミスがこれ以上行方をくらませたままでは、いずれ大変な騒ぎになることは容易に想像できた。そうしたらきっと、イサミも巻き込まれてしまうだろうことも。
今ごろ原隊復帰して日常に戻ろうとしているはずの彼の心を、そんなことで煩わせたくはなかった。
番号非通知の電話が私用のセルフォンにかかってきたのは、帰国後、いくつかの店に立ち寄って帰路に着いた時のことだった。元々所持していた愛用の端末はハワイにて行方不明になったので、新たに契約したものだ。だから、番号を知っている者は誰もいないはず。
無視を決め込んでもいいが、えらくしつこい。十コール鳴ったところでスミスは通話ボタンを押し、慎重に声を発した。不審な相手であれば、即座に切ってやろうと思った。
「
……
Hello?」
『あー、ルイス・スミス中尉か? やれやれ、あっさり見つかったな』
「ええと
……
ああ、CIAの?」
馴染みはないが、聞き覚えはあった。中央情報局所属、ボブ・クレイブその人である。なぜこの番号を、と思ったが、彼にとってそんな情報を入手することくらい朝飯前だったのだろう。それよりも、今さら何の用なのかが気になるところだったが、その疑問はすぐ氷解することとなった。
どうもあちらはスピーカーモードになっているようで、周囲の、というよりある少女のにぎやかな声が筒抜けだったからだ。
「もしかして、この声は
……
ルルですか」
『ああ、ちょっと待ってくれ』
『──あ、スミス!?』
世界一かわいい少女の快活な声である。思いもよらぬ組み合わせだが、どうやら大変世話になっているらしい。
『嬢ちゃんのことであの兄ちゃんにも以前連絡を入れたんだが
……
「ルルがお世話になってます」なんてバカ丁寧に言われて拍子抜けしたぜ』
恨み言の一つでもぶつけられると思ったのだろうか。イサミはそんな男じゃない、とスミスは誇らしい気持ちになった。一応は謝罪を受けたし、誤解も解けたからそれでいい、と結論づけたのだろう。
『もー! ルル、スミス見つけるためにアンコー・ボブとすぱいの修行してたのに!』
「
……
What‘s? あー、元気そうで何よりだよ」
『元気だけど、がっかり! けど楽しかったから、許す』
「それは、何よりだな
……
?」
一体なぜ叱られ、そして何を許されたのかわからないが、スミスはとりあえず曖昧に笑って置くことにした。
「
……
ルル、俺はじきにハワイに戻ることになると思うが、ルルはどうする?」
『スミスに着いてく! いいでしょ?』
「ああ、もちろんだ。
……
だけどその前に、俺にはやらなきゃいけないことがある」
『ガピ! ルル、ちょーさ済み! イサミ、チバのナラシノ!』
「ルルにはなんでもお見通しだな」
『ルル、もうしばらくアンコー・ボブの世話になってる!』
どうやら「すぱい」修行がいたくお気に召しているらしい。ボブには悪いが、顔見知りが面倒を見ていてくれるなら安心できる。しかしながらルルはあの通り自由奔放で、きっと手を焼いているだろう。彼にはJAPAN土産をたっぷり贈る必要がある。
そういった経緯の末に降り立った、日本は成田空港である。ここは東京に近く、デスドライヴズの被害もあったと聞くが、ほとんどそのダメージを感じさせなかった。周囲にはさまざまな人種の人々が行き交っていて、賑やかだ。
しかし外に出てみれば、抉られたまままだ埋められていない地面だとか、処理の間に合っていない瓦礫の山などの確かな爪痕が散見されて、スミスはこれまで巡ってきたいくつもの国々を思い起こした。
人々はまだ、癒えぬ苦しみの渦中にある。だが、それでも着実に前に進んでいるのだ。
スミスは流しのタクシーを拾い、基地最寄りの駅名を伝えた。
しかし、目的地に到着して料金を支払い(癖でチップを上乗せしてしまったが、固辞された)、黒い車体が走り去っていったところで重要なことにハッと気がついた。ほとんど勢い任せでやってきたはいいが、自衛隊の基地というのは当然、一般に広く開放されている施設ではない。中に入らせてくださいとにこやかに頼んでみたとて、はいどうぞと歓迎されるはずがないのだった。危うく、侵入を図る不審な外国人になってしまうところだった。
そこで、『何かあったら連絡しなよ』とヒビに連絡先を渡されていたことを思い出した。あれは名誉勲章の受勲式が終わり、クルーズ船に押し込まれる前のタイミングだった。
しかし半年の間ずっと退屈することなく充実した日々を送っていたためにすっかり忘れており、結局一度も連絡をすることはなかったのだ。今こそ、使わせてもらうべき時だろう。
この時間帯では、あちらは勤務中かもしれない。『イサミに会いたいんだが、なるべく近いうちに約束を取り付けるか、もしくは俺の連絡先を知らせてもらえるかい』と要件のみのメッセージを飛ばし、今日のところは近場にホテルでも取って考え事にふけろうと思っていた。そうして、マップアプリから検索しようとした矢先である。画面が切り替わり、電話を受信したことを告げてきた。表示されているのは、今しがたメッセージを送った相手の名前である。
「
……
Hello、リオウ三尉かい」
『そうだよ、久しぶりじゃん』
「いきなり悪いな。メッセージを見てかけてくれたんだろう?」
スミスは話しながら辺りを見回す。こぢんまりとした駅だから、往来の人の邪魔にならぬよう隅によった。
『そう! 何あれ? 回りくどいことしないで、直接イサミに言えばいいじゃん』
「
……
知らないんだ、連絡先」
『え
……
?』
「俺も、自分でびっくりしたよ」
こんなことならボブに聞いておくんだったと考えたところで、もう遅い。
「
……
ずっとそばにいたから、わざわざ遠距離における連絡手段を交換する、という発想が出てこなかったんだよなぁ」
『
……
まぁ、文字通り「ずっと」だもんね』
彼女は、スミスが死してなお姿を変えて寄り添い続けたことについて、言外に触れている。元の姿に戻れるとは思っていなかったし、望んでもいなかった。この姿なら彼と共に戦える、彼を守れる、と新たな体で生きる決意を固めていたのだ。
だから、正体を告げなかった。ルイス・スミスを失い悲しみに暮れるイサミを哀れに、そして愛しく思いながらも。
そして元に戻れたと思ったら、半年間の同居だ。「イサミ」そう呼べば声が届くところに、彼は常にいた。「なんだよ、スミス」そう応えてくれる彼の優しい微笑みときたら、この世の幸いを全て集めて形にしたような──
…
『おーい、スミスー?』
「
……
おっと、悪いな」
『なぁに? 黙っちゃって。ま、どうせイサミのこと考えてたんだろうけど』
「鋭いな」
『いや、たぶん誰でもわかるから。
……
あのさ、今日ちょうど休みなんだ。近くにいるなら会わない?』
それですぐに連絡してくれたのかと合点がいって、スミスは二つ返事で了承した。
『おっけー。今どこにいるの?』
「ええと
……
実はもう、ナラシノ駅に」
『思ったより近!! 行き当たりばったりだなぁもう! だったら、三十分後でどう? マップ送るから』
「問題ない。よろしく頼むよ」
Bye、と軽い挨拶と共に通話が切れる。程なくしてマップが共有され、目測だが歩いて十分もかからない距離のようだった。スミスはそう多くない荷物を抱えなおし、駅構内のトイレでさっと身だしなみを整える。鏡にうつる自分は、長旅のこともあって少しばかり疲れているように見えたが、目には力があるように思えた。もうじきイサミに会えると思うと、心がざわついて仕方ない。
早く、早く彼に会って、伝えなくては。
ヒビキに指定されたのは、街の一角にあるカフェである。マップを頼りに迷うことなく辿り着き、スミスはテラス席に友人の姿を認めて手を振った。すぐに気がついた彼女は洒落たサングラスをくいっとあげ、快活な笑顔を浮かべる。
スミスは素早く店内に入り、片言の日本語と身振り手振りでコーヒーとドーナツを注文し、足早にテラス席へと出た。あらかじめ、ヒビキが『金髪のアメリカ人と待ち合わせ』とでも伝えてくれていたのだろうか、スムーズに案内された。
「やぁ、せっかくの休日に悪いね」
「いいよ、暇してたし。適当に出かけようと思ってたところだったから」
ミユと休みが合わなくて、と友人の名を出してヒビキはぼやく。
座ったら、と促され、スミスは正面の椅子に腰掛ける。ヒビキは汗をかいたプラスチックカップを手に取ってストローを咥え口を湿らせると、頭にかけていたサングラスをテーブルに置いてから切り出した。
「で、イサミなんだけどね」
「ああ、彼は元気か? また無茶をしてないといいんだが」
「
……
実はさ、わかんないの」
「
……
What‘s?」
おそらく、よほどひどい顔をしてしまったのだろう。ヒビキが「うげ」と顔を歪めた。
「んな怖い顔しないで、聞いてよ」
「
……
ああ」
「あいつ、戻ってきてしばらくはあちこちの基地に出向いて講演とか、慰労とか、まぁ色々やってたんだけど」
「イサミがそんなことを
……
?」
「想像つかないよね。私も意外だなって思ったけど、結構積極的にやってたよ」
世界を救い、日本に凱旋した英雄の訪問である。さぞかし、歓迎されたことだろう。あのよく通るテノールボイスで、若い隊員たちを労ったというのか。羨望の眼差しを嫌というほど浴びたはずだ。彼の行いはとても尊く素晴らしいものなのに、どうにも苛立ちを覚えてしまう。しかしスミスはその気持ちを必死に押し隠し、ヒビキに続きを促した。
「
……
でもだんだん元気がなくなってきて
……
たいちょ、じゃないや、郡長に相談したらさ
……
話をしてくれて、それで休職することになったんだよね。あいつは嫌がってみたいだだけどさ」
「そうか
……
」
半年ものんびりしちまった、とイサミは下船前よく口にしていた。確かに、あれは長い休暇のようなものだった。
だんだん元気をなくしていったというヒビキの言葉に、実際この目にしたわけでもないのに、下船が迫るにつれ消沈していった彼の姿が重なるようだった。
「で、何日かは官舎にこもってたみたいだけど、今はいないんだ」
「じゃあ、実家とか?」
「
……
あいつ実家は東京だけど、家族はもう、誰もいないって」
「いない
……
?」
「うん。みんな早くに亡くしてるって聞いた」
スミスは、彼の家族の話は聞いたことがない、と気がつく。そして自身も、イサミに身の上を明かしたことはない。スミスは同情の視線を向けられることを避けるため意図的にそうして生きてきたが、彼もまた、同じなのかもしれなかった。
ずっとそばにいたのに、まだ彼のことを何も知らない、スミスはそう気がつく。ますます、今すぐ会わねばという気持ちが強くなった。
「
……
他に、行く宛に心当たりは?」
「んー
……
おじいちゃんおばあちゃんの家が、四国にあるって聞いたことはあるかな」
「シコク? 知らないな、地名かい」
「そうだよ、えっとね
……
」
ヒビキはタブレットでマップアプリを起動すると、日本列島を拡大し「今あたしたちがいるのがここね」と東京近くの内湾の辺りを指さした。
そして左下にマップを動かすと、大きな島が現れる。日本地図を目にすることがあれば、大体は目に入る島の一つである。
「ああ、この島がシコクっていうのか」
「そ。でも、ここのどこっていうのは具体的にはわかんない」
「いや、十分だ。早速行ってくるよ」
スミスは地名を脳内にインプットし、こうしてはいられないと席を立つ。しかしヒビキが慌てて引き留めてきたのだった。
「待って待って! 四国って情報だけでどうすんの? 地図だけじゃ分かりにくいかもしれないけど、確かハワイの島を全部集めたのより面積大きいんだよ?」
「そうなのか。
……
じゃあ」
「ブレイバーンになる、なんて言わないでよね」
「
……
」
考えを先取りされ、スミスは押し黙った。気ばかりが焦っている。
「ちょっと、やめてよね! どう考えたって大騒ぎになるじゃん! ただでさえ存在を秘匿するのに苦労したって、郡長もげっそりしてたんだよ?」
「
……
そうだ、彼なら知ってるんじゃないか? イサミの行き先」
彼の上長である男の名が浮かび、これは名案に違いないと光明を見出せた気がした。しかしヒビキは腕を組み、難しい顔をする。
「そりゃ
……
報告義務があるから、多分ね。
……
けどさ、そこまでして今すぐ会ってどうするの? 待ってれば、そのうち戻って来ると思うけど」
ずっと休職してるとも思えないし、とヒビキは肩をすくめる。確かにそうだろう、あの責任感の強いイサミが、ずっと大人しく休んでいるとは到底思えなかった。
「
……
まず、謝罪を。それから
……
どうしても、彼に伝えたことがある。今すぐに」
今生の別れではないとはいえ、寂しがりの彼を置いていってしまったこと。そして胸に溢れんばかりの想いを余すところなく伝え、跪き、もう二度と愚かな真似はしないという誓いを立てたいのだ。
「んー、けど郡長から聞き出すのは難しいと思うよ? いくらあんた相手でも、規則ってものがあるんだからさ」
「そうか、わかったよ。で、どうしたら会える?」
「私の話聞いてる!?」
「聞いてるさ」
「んもー
……
絶対聞いてないじゃん
……
。どうしてもっていうなら、出勤してきた時を狙うのがいいと思うけど
……
でも、ほんと無理だと思うよ」
「説得するよ
……
このままだと、俺は自分を抑えられなくなるかも、って」
「それ、説得っていうか脅迫なんじゃ
……
」
ヒビキはしばらく難しい顔をしたり、明後日の方向を見たりして落ち着かない様子だったが、やがて「もうどうなっても知らないからね」と投げやりな言葉を口にし、サタケのおおよその出勤時刻や、愛車の特徴などを教えてくれた。時間と場所さえわかれば、あの派手な赤いジャケットを見落とすことは、おそらくないだろう。
「君から聞いた、とは言わないでおくよ」
「はー、無駄だろうなぁ。始末書決定かも
……
イサミじゃあるまいし!」
彼女はストローをくわえ、自棄みたいに一気にコーヒーを飲み干した。そしてカップを勢いよく置くと、中の氷がざらっと音を立てる。
「はー
……
ま、無事会えたらさ、待ってるって伝えてよ」
「了解だ」
「それと! 連絡先、ちゃんと交換しといて」
もう勘弁してよね、とヒビキはため息をついた。
「ありがとう、リオウ三尉。助かったよ」
「ノンノン! 私、昇進して二尉になったからね。小隊長とお呼び」
「Oops! それは失礼、リオウ小隊長殿」
おどけて返し、「これはお礼に」と手をつけていないドーナツを差し出す。
「私の苦労はドーナツ一個分かい!」
「シコク土産に期待してくれ」
スミスはぱちっと片目を閉じてみせ、店を後にする。いってらしゃーい、という疲れて間延びしたヒビキの声を背中に受けた。
基地に程近いビジネスホテルに宿をとり、一週間滞在する予定でクレジットカードを切った。首尾よく事が運べば一泊で済むが、ヒビキの言うとおり、そううまくいくとも思えない。なんといっても相手は、所属が異なるとはいえかつて指揮官と仰いだ男である。彼の厳しさは身をもって知っていた。
早起きは仕事柄得意であったが、スミスは念のためアラームを二重にかけ、イサミのことを想いながら床についた。
だからだろうか、夢に彼が出てきてくれたのである。あの日のように、彼は海を優雅に泳いでいた。スミスの手を引いて、深く、深く──
…
もうこれ以上は無理だと、潰れそうな肺の痛みに耐えながら首を振ると、彼は悲しそうな顔をして手を離した。待ってくれ、と声を上げようとするも、それはあぶくとなるばかりである。そうしてイサミは一度たりとも振り返ることなく、深海へと消えていったのだった。
目が覚めると、そこは当然海中などではなく、ホテルの広々としたベッドの上である。シングルルームをサーブしようとしたが、空室がありますからとダブルルームに通されたことを思い出した。
アラームはまだ鳴っていない。その五分前だ。スミスはそれらをオフにすると、なんとも言えない気持ちを抱きながら体を起こした。
夢の中とはいえ、イサミの顔を久しぶりに見ることができた。世界旅行中に一度切ってあげたけど、あれからまた少し髪が伸びているようだった。
せめて明るい夢だったら、と思う。そうしたらいくらか気分が上向いただろう。だがイサミにあんな顔をさせてしまった。夢なら夢らしく、深海でも平気な肺であればよかったのに。
シャワーを浴びてじっとりとかいていた汗を流し、身だしなみをさっと整え、昨日のうちに買っておいた携帯食で簡単な朝食を済ませる。カーテンを開けてみると、外は快晴のようだった。明るく、視界は極めて良好である。これならば、目当ての人物を見逃すこともあるまい。
大体このくらいの時間を狙うと良い、とヒビキに教えられた時間まで、まだ一時間ほどある。だが万が一ということもあるので、スミスは早速、刑事よろしく張り込みへと乗り出すことにした。清掃不要の札をノブに掛け、意気揚々
……
とまではいかないが、それなりに軽い足取りでホテルを出て基地を目指す。近辺まで行けば、あとはただの外国人観光客を装って物珍しそうにしていれば良い。また、興味があるのも確かであった。なぜならイサミの職場だからである。
ここでかのヒーローが日々訓練を積み、課業に勤しんでいるのかと思うと、まるで夢のテーマパークにやってきた子供みたいな気持ちになる。一般市民に施設を開放するイベントを年に数回やっていると聞くので、そんな時、彼も訪れた子供たちにぎこちなく笑いかけたりしているのだろうか
……
そんなふうに思いを馳せているだけで、時間が経つのはあっという間だった。
やがて特徴的な排気音が背後から近づいてくる。ヒビキに、彼はなかなか厳ついバイクに乗っていると聞いていた。もしやと振り返ると、視界に赤色が踊ったのだった。フルフェイスヘルメットで人相はわからないが、間違いない。目当ての人物である。
スミスは隠れることはせず、堂々とそこに立っていた。当然、彼もすぐに気づいたのだろう。ややハンドルを傾け、こちらに近づいてくるのだった。
エンジンを切ってバイクを降り、ヘルメットを脱いだ男はもちろん、サタケその人である。ここまでは、順調だった。
「驚いたな。スミス中尉
……
いや、もう大尉なのか」
「お耳が早いですね、Sir」
「Sirはやめてくれ。私はもう君の指揮官ではない。
……
全く、リオウ二尉だな?」
「Ah
……
あまり、強く言わないであげてください。俺が強引に聞き出したので」
やはり、お見通しである。スミスは頬ををかき、彼女が始末書の山に押し潰されないようできる限り擁護するが、サタケはその件についてはノーコメントだった。
「
……
それで、私に何の用だ? 聞かずとも、わかる気がするが」
「なら、話は早いですね。イサミの居場所をご存知ですか」
「無論、知っている。隊員の居場所は把握しておく義務があるからな」
「教えてください」
衒いもなくまっすぐ、正直にぶつけた。遠回しに言ってみたところで仕方がない。サタケは面食らって、手に持っていたヘルメットをハンドルにかけた。説教モードに移行しそうな雰囲気だった。
「あのなぁ
……
教えられるわけがないだろう。規則を舐めるなよ」
「そうですか
……
わかりました」
おや、とサタケは意外そうに片眉を上げた。ずいぶん素直で驚いた、とその顔が語っている。
「一応、捜すあてはありますので。
……
ところで一佐殿、この辺りに開けた場所はないでしょうか?」
「
……
おい、まさか脅す気か? そもそも、私たちは君たちの尊厳を守るために」
「わかっています! けど、どうしても会いたいんです。できれば、今すぐに
……
そうでないと、なぜか
……
もう、これきりになってしまうような気がする」
根拠などなく、ただ「直感」だとか「直感」などとしか表現のしようがない。何かを言いかけて諦めた時のイサミの顔や、夢の中で悲しげな表情をして去っていくイサミの背中、そういうものがスミスに焦燥感を抱かせている。
サタケは眉間のあたりに手をやって目を瞑り、大きなため息をついた。そしてスマートフォンを取り出すと、「一度しか言わないからな」と言い置いて何桁もの数字を一気に読み上げる。小数点がついていて、すぐにピンときた。おそらく緯度、経度だ。日本の住所を言ったところでわかるまいと思ったのだろう。この情報だけであとはなんとかしろという、慣れぬ土地で雑に放り出された形だが、スミスにとって十分だった。
「
……
よし、覚えましたSir!!」
最大限の感謝を込めて無理やり握手し、上下にぶんぶん振り回す。体格はスミスの方が優っているので、されるがままである。
「おい! 肩が外れる!」
「失礼しました!」
「やれやれ
……
。私も、アオ二尉ついては気になっているところなんだ。本人の希望とはいえ、慣れないことをさせてしまったしな」
ぜひ、イサミの講演の様子について詳らかにしてほしいところだが、今はそれどころではない。進むべき道が見えたのなら、あとは行動あるのみだ。
「では、俺はこれで! 良い一日を!」
「大尉もな」
サタケはヘルメットを被り、ジャケットを靡かせて颯爽と走り去っていく。あっという間に小さくなる背中を見て、いつか大型バイクを買って後ろにイサミを乗せて走るのもいいな、と夢想した。できることならこの胸の中にずっと乗ってほしいわけだが、そんな機会は来ない方が世界のためだった。ブレイバーンが現れる時、それはすなわち世界の危機に他ならない。
スミスはホテルにとって返し、記憶した緯度経度についてすぐさま調べた。示された場所は、背後に山の迫る小さな漁村のようだった。そこから近い駅、電車の路線、空港、と逆から辿って行き、このルートならば行けるだろうとおおよその見当をつける。
荷物をまとめ、返金は結構と言い置いてチェックアウトする。飛行機、タクシー、電車等様々を駆使して、待ち時間などを含めると六時間ほどの旅路になるはずだ。うまく行けば、本日中に辿り着けるはず。
(いま行くぞ、イサミ!!)
スミスはルルに「もうすぐ会えるはずだ!」と一報を入れてから駆け出したのだった。
◇2
初めての経験にしては、なかなかうまく動けたのでは。スミスはたどり着いた先の小さな木造の駅舎にて、額の汗を拭った。
まずは飛行機で四国へ降り立ち、タクシーで大きな駅へ。そこからは約二時間ほど電車に揺られ、ついに目的地である。海沿いを走る路線なので、雄大に広がる海と地平線が山の間から時おり見えて、何て美しいのだろうと目を細めた。自然豊かで、デスドライヴズによる被害の痕跡も見受けられない。この辺りは幸運にも、その魔の手から逃れることができていたらしかった。
住民たちはもう帰路に着いたのか、あるいはただ人口が少ないのか、人の姿はまばらである。どうやらこの辺りで外国人、特にコーカソイド系は珍しいようで、少なからず視線を感じた。
サタケからもたらされた情報では、ここまでが限界だ。しかし闇雲に歩き回ったところで、見つかるわけがない。まさか、家が少ないからといって、ガールスカウトのクッキー販売よろしく一軒一軒訪ね歩くわけにもいくまい。
そこでスミスは、通りがかった親切そうな老婆に、必要であろうとインストールした翻訳アプリを使って声をかけてみることにした。あらあら、と嫌な顔ひとつせず対応してくれた彼女に、早速尋ねてみる。最近、若い青年が訪れなかったか、と。彼女はしばらく考えたのち、手を叩いた。
「そういえば、碧さんとこのお孫さんが来てるけど、あの子のことかしら」
「アオ
……
! ああ、間違いないです! ありがとう、親切なマダム!」
あそこだよ、と彼女は青い屋根の家を指し示してくれる。まさに、目と鼻の先である。道中気をつけてお帰りを、と上品な老婆と握手し、スミスは走り出す。ここまできて全くの見当違いだったらどうしよう、と考えなかったわけではない。だから、聞き慣れた名前を耳にできたことで一気に不安が解消されたのだった。
ものの数分で、青い屋根の平屋にたどり着く。低い囲いの向こうには広々とした庭があって、だがほとんど手入れされていないようで雑草が伸び放題だった。風に飛ばされでもしたのかビニール袋や空き缶といったゴミすら散見される始末で、一見、人が定住しているのか怪しく見えてしまうほどだった。
しかし、今は他に行先もない。スミスは意を決して門扉を開き、庭を横切って玄関前に辿り着く。足元には鉢やひび割れたプランターやいくつか置いてあり、いずれにも乾き切った土が詰まっていて、植えられていたのだろう草花の名残がわずかに見られたのだった。
スミスは一度深く呼吸してから、インターホンに指をかけた。そして必要以上に強く押し込むと、ドアの向こうからわずかにレトロな電子音が聞こえた。電気は問題なく通っているらしかった。スミスは手を下げ、その場でしばらく待つ。
だが、扉が開くことも、スピーカーから声が聞こえてくることもなかった。
ちら、と窓を横目で見てみれば、もう日も傾いているというのにカーテンの向こうから灯りが漏れていない。外出しているか、あるいは居眠りでもしているのかもしれなかった。
一旦どこかに宿を、と思ったが、あいにく宿泊施設らしきものは見当たらない。しかし、いざとなれば野宿でもかまわなかった。軍事行動中に野営はつきものだし、しばらく風来坊生活をしていたこともあって慣れたものだ。
スミスは門を出て、早鐘を打っていた心臓を宥めるように深呼吸した。ここまで走ってきたせいではない。この程度で息を切らすほど、やわな訓練はしていないからだ。
緊張しているのだ、とスミスは自覚した。イサミに会えることを喜ばしく思う反面、数ヶ月ぶりに相対して果たして冷静でいられるか、自分でもわからなかった。衝動のままに抱き寄せ、何かとんでもないことを口走ってしまいそうな気がした。
(しばらく待って、また訪ねてみよう)
海風にでも当たりながら散歩すれば、多少は冷静さを取り戻せるかもしれない。
何隻もの漁船が係留された波止場を、郷愁じみたものを感じながら歩く。まったく見慣れない風景なのに、どこか切ないような、懐かしいような気持ちが込み上げる。イサミにゆかりのある地だからなのだろうか。
そういうふうに彼のことばかりに思考を巡らせながら歩いていたから、覚えのある姿が目に入った時、初めは幻かとスミスは思ってしまった。
しかし一度固く目を閉じて、開いてみても、かすみのように消えてしまったりはしなかった。
「
……
イサミ
……
」
何より大切な名前を、スミスはつぶやく。
波止場に座った彼は物思いに耽っているのか、あるいは眠っているのか、立てた片膝に頬を埋めてじっとしていた。なんの飾り気もない白いシャツと黒いパンツが、彼本来の美しさを引き立てているようだった。記憶にあるよりいくらか伸びた髪は、先日見た夢の中の彼によく似ている。セットされていないそれが、ぬるい潮風に煽られ波のようにそよいだ。
一歩、スミスは彼に近づく。じゃり、と靴裏から音がしたが、イサミは突然の来訪者に気付かぬ様子で、あたかも像のように動かない。
そして、もう一歩。あと五歩分ほど歩み寄れば、彼に手が届く。
「イサミ
……
眠っているのかい」
その時、一際強い風が吹いた。それに揺り動かされて意識が浮上したかのように、イサミの瞼がゆっくりと開かれた。ずっと待ち望んでいた温かなライトブラウンの瞳が、夕陽を受けて煌めく。
彼はしばらく呆けていたが、やがて埋めていた顔をあげた。そしてスミスの姿を捉え、切れ長の目を大きく見開く。
「す、みす
……
? これ、夢か
……
?」
まるで久しぶりに声帯を動かしたみたいな、掠れた声だった。
「夢じゃない、俺はここにいるよ、イサミ」
「
……
ほ、本当に? 本当にスミスなのか?」
「ああ、ついさっき来たところだよ。よかった、君に会いたかったんだ」
今すぐに、まずは再会の抱擁を交わしたい。そう強く思ってさらに一歩踏み込んだところで、イサミが身構えて声を上げた。
「
……
それ以上、こっちに来るな」
「イサミ
……
? 聞き間違い、かな。今『近寄るな』と言ったか?」
「お前の耳は正常だ。俺が英語を忘れたんじゃなければな。
……
郡長あたりに聞いて、わざわざこんなところまで来たんだろうが
……
今すぐ、帰ってくれないか」
イサミはスミスを拒絶するように、両膝を立ててそこに顔を埋めてしまった。まるで何者も突き通せぬ見えないシールドでも貼られたかのようだ。だが、伏せられる前のほんの一瞬、彼の目が悲しげに揺れたような気がした。
彼にこんなにも強く、はっきりと拒絶されたのは初めてのことかもしれなかった。少なくとも、ルイス・スミスとしてはそうだ。
「君が怒るのも、理解できるが」
「
……
そんなんじゃない」
「だったら、どうして」
「
…………
」
「
……
なぁ、イサミ。こんな時間じゃ、帰るに帰れないよ。今から泊まるところを見つけるのも難しい
……
せめて一晩だけでも、君の家で過ごさせてくれないか」
彼が心底優しい男であることを、スミスはよく知っている。その柔らかい部分に訴えかけるように、このままでは今夜は宿無しだと同情を引くように言った。我ながら卑怯だと思ったが、帰れと言われてのこのこ帰る程度の軽い気持ちで海を超えるものか。
「
……
明日、すぐに帰ってくれるなら」
「ああ、約束する」
案の定、イサミはスミスを切り捨てられないようだった。上がり込んでしまえばこちらのもの、と悪役じみたことをスミスは考える。
イサミは後ろに手をつくと、機敏さの感じられない動きでゆっくりと立ち上がった。服はオーバーサイズのようではっきりとはわからないが、少し筋肉が落ちているように見えた。それに、顔色が決して良いとは言えない。
「
……
イサミ、具合が悪いのか」
「風に当たってたから、冷えただけだ。
……
行くぞ」
立ち上がった時と同様、ゆっくりとした動作でイサミは歩き出す。生まれたての子猫のように、足元がどうにもおぼつかない。「やはり体調が」と口を出すが、ひと睨みで黙らされる。何も言わずに着いてこい、とその目が訴えてきていた。
幸い、イサミは倒れることなく家にたどり着いた。今日日あまり見かけないような単純な形の鍵をポケットから出し、億劫そうに回す。
無言で中に入るイサミに続き、彼の祖父母の家だというそこに足を踏み入れる。中はしんと静まり返っていて、人の気配は全くしなかった。
イサミは左手にある変わった形の扉──襖というらしい──を横に開くと、「ここ使え」とぶっきらぼうに言った。
「ここは
……
」
「じいちゃんが使ってた部屋。ずいぶん前に亡くなってるから、布団はないんだ。予備もないから、あとで俺のを」
「いや、いい。畳は柔らかいし、問題ないさ」
「
……
わかった。風呂はそこだ。あとは好きにしてもらっていいから」
「
……
うん、ありがとう」
必要最低限のことだけを伝えて、イサミは襖を閉め静かにどこかへ行ってしまった。きっと自分の部屋へ戻ったのだ。とりつく島もないとはこのことだった。
さて、とスミスは荷物を肩からおろす。畳は草いきれのような匂いがして、なかなか悪くない。フローリングやコンクリートのように硬くも冷たくもないから、バスルームからタオルでも一枚拝借すれば、十分に安らかな眠りを得られそうだった。
部屋の主はずいぶん前に亡くなった、という言葉通り、室内はすっきり片付いていて、物ひとつない。庭はあの様子だったが、ここはある程度掃除がなされているようだった。ところどころ埃の降り積もった場所はあるが、気になるほどではない。ただ、几帳面なイサミにしては──庭の様子も含め、らしくないな、とは感じる。
落ち着いたところで考えるべきはもちろん、イサミとどうすれば会話できるか、である。スミスの出奔に憤っているわけではないのなら、彼の態度の理由に心当たりがないのだ。
彼のことを深く知らない人間は、無表情で、何を考えているのか分かりづらいと評する。だが、そうではないことをスミスは知っている。彼の目は何より雄弁で、感情が表に出やすい。今日は何かいいことがあったんだな、とか、どうも怒っているらしい、とか、スミスには一目でわかるのだ。決して自惚れではない。
だから今、彼の本心が見えないことに戸惑っている。怒っているわけではない、ましてや嫌われたわけでもなさそうだ。一瞬だけ見えた悲しみにも似た色が、大きなヒントになっている気がする。
(
……
わからない)
イサミについてわからないことがあるのが、耐え難い。異なる存在なのだから、全てを知り尽くすことができないのは当然のことだ。だがスミスは、彼と一つになって戦うことの心地よさを知ってしまっている。
いいから話を聞け、と彼を追い込み、力で押さえ込むことはおそらく容易い。彼も力が強いし、かなりのウェイト差がある相手でも殴り飛ばせる膂力の持ち主であることも、身をもって知っている。あの時に受けた拳の痛みと言ったら、今でも忘れられない。
だが今ならば、おそらく負けないだろう。あの時とは状況が違いすぎる。それにどうやら、彼は本調子でない。あの様子ではトレーニングもろくにこなせていないだろう。
しかし、決定的に彼に嫌われてしまうような手段を取ることは決してないだろう。スミスが望んでいるのは対話であって、一方的な押し付けではない。
スミスは大きな体をごろんと畳の上に横たえた。強行軍でここまできたが、疲労感はさほどないし、眠くもない。本当なら今頃、イサミと膝を突き合わせてあれこれ言葉を交わしている予定だった。それがたち消えになり、うまい方法も思いつかないときた。一眠りして、頭をすっきりさせるのもいいだろう。
そんな時だ。
「
……
スミス、起きてるか」
「あ、ああ! どうしたんだい、イサミ」
まさかあちらから声をかけてくるとは思わなかった。襖ごしのくぐもった声に覇気はないが、彼に名前を呼ばれるのは嬉しい。
襖がそっと半開きになり、イサミがそっと顔を覗かせた。スミスは嬉々として跳ね起き、従順な飼い犬のように駆け寄る。
「
……
こんなのしかないけど、メシ。食い終わったら流しに置いとけよ」
「イサミ
……
! ありがとう」
「
……
」
彼は木製のトレイを差し出し、スミスが受け取るとつんと顔を逸らして行ってしまった。ぎしぎしと、板張りの廊下はよく音が鳴った。
彼が「こんなの」と評したのは、グラス一杯の冷たい水と、大きなライスボール二つだった。機械的でない柔らかな丸みを持った三角形で、きっと彼が握ってくれたものと知れた。しかも、中に押し込まれた具材がそれぞれ異なっている。一般的に外国人が食べ慣れていないものは避けてくれたのか、ベーコンに、サーモン。もちろんたまらなく美味しくて、スミスは指についたご飯粒もしっかりと胃に入れた。
実のところ日系で日本食好きのアラカイと親しかったし、ハワイには日本食レストランも多いので、大抵のものは食べられるのだが──そんなことより、イサミの心遣いが嬉しい。冷たくしなければと思うのに、本質的な優しさがそうさせない。その二つの狭間で彼は葛藤しているように感じられた。前者に振り切れない彼が、スミスは愛しくてたまらない。そして、会話の余地はある、とも思った。
一応、彼の部屋──教えてもらっていないが、襖の隙間から灯りが漏れていたのでわかった──に向かって「ご飯美味しかった、ありがとう
……
シャワーを借りるよ」と声をかけ、汗を流してから、スミスはひとまず眠ることにした。むわっと熱気のこもる小さな脱衣所で、スミスは乱雑に髪を乾かす。なるべくイサミの邪魔はしたくないから、長居はすまい。
元々そういう、雑なところのあるスミスを見ては、イサミは「風邪ひくぞ」とタオルをかけてくれた。そして頭皮を揉むように優しく拭きあげてくれるのがたまらなかった。羨ましがったルルがろくに水気をとっていない長い髪から水を滴らせ、「こら!」と叱られるまでがセットだ。もちろんイサミは、彼女の髪も、殊更丁寧に手入れしてやっていた。
『お前もルルも、せっかくきれいな髪なんだから。ちゃんとしろよな』
禿げちまうぞ、とつむじをぎゅっと押され、おどけた口調で『禿げちゃったら嫌いになる?』なんて聞いてみたことがある。すると彼は確か『お前はどうなんだよ』なんて質問に質問で返す、ずるいことをしてきたはずだった。
答えはもちろん、NOだ。どんな姿になっても、イサミがイサミであればいい。
スミスは洗面台に落ちた数本の金髪を集めて捨て、できるだけきれいにしてから廊下へ出た。
「シャワーありがとう。
……
じゃあ、おやすみ」
イサミに声をかけるも、先ほどと同様返事がない。この襖一枚隔てた向こうで、彼は今どんな顔をして、どんな気持ちでいるのだろうか。
スミスは部屋に戻って灯りを落とし、体を横たえて目を閉じた。
喉の渇きを覚え、暗がりで目が覚める。セルフォンを手繰り寄せてタップすると、午前二時であった。きっとイサミも、今ごろ夢の中だろう。
水でも一杯貰おうかと、体を起こす。頬を触ってみるとざらざらしていて、どうやら畳の目が跡を残しているようだった。
暗い廊下に出てみると、ある一室から灯りが漏れていた。先ほどスミスも借りた、バスルームである。イサミが遅い入浴でもしているのかと思ったが物音がしないから、おそらく灯りの消し忘れだろうと推測して、スミスは板張りの廊下を抜き足、さし足で歩いた。だがどうしても、木がぎしぎし軋む。
(どうかイサミが目を覚ましませんように
……
)
細心の注意を払い、バスルームの引き戸を慎重に開ける。古い家のようだから建て付けが悪くなってるようで、多少の音が立ってしまうのは致し方ない。
「──誰だ!」
隙間から漏れたひんやりした空気が、頬を撫でたときだ。鋭い、鞭のような声が間髪入れず飛んできて、スミスは慌てて取手から手を離した。そして思わずホールドアップまでしてしまう。
「っと、イサミか? ご、ごめん、ライトの消し忘れかと思って」
「スミスか
……
悪ぃ、しばらく一人だったからつい警戒しちまった」
「君が謝ることじゃない。こちらこそ、驚かせてすまない。
……
喉が乾いちまったんだが、水をもらっても?」
「構わない。冷蔵庫に麦茶
……
ええと、Barley Teaもあるから、好きなのを」
「ありがとう、いただくよ。
……
邪魔して悪かったな」
「
……
いい。心配してくれたんだろ」
「うん
……
のぼせるといけないから、長湯しないようにな」
どうにもぎこちない会話を終えてスミスは立ち去ろうとしたが、ふと違和感を覚えて足を止めた。しかし正体が掴めぬまま、首を傾げつつキッチンへ向かい、よく冷えた麦茶を一杯飲み干して部屋に戻ったのだった。
翌朝、帰り支度をするふり──おめおめ逃げかえるつもりはさらさらない──をしながら本日の作戦立案に取り掛かっていると、イサミが唐突に襖を開けて現れた。袖のあまりがちなグレーのスエットは、最後に会った時より少し伸びた前髪も相まって、彼を実年齢より幾らか幼く見せている。
「おはよう、イサミ。早いな」
「
……
おう」
彼は相変わらず、どうも不機嫌そうというか、戸惑いの隠せない表情をしている。
「
……
適当なもんだけど、朝飯作ったから」
「本当かい? ありがとう! 昨日のライスボールも、最高に美味しかったよ」
それはイサミの機嫌をとりたくて阿っているわけではなく、掛け値なしの本音である。それが伝わったのか、彼の目からほんの少し、本当にほんの少しだが険が抜けたように見えた。
昨日はじっくり見る暇のなかったダイニングには、四人がけのテーブルとそろいのデザインのチェアが四脚。年季の入った絨毯には毛羽立ちや埃が目立つ。
ここだけは現代的なカウンターキッチン(おそらくリフォームしたのだろう)にのろのろと歩いていき、イサミは昨日と同じ木製のトレイを手に取ったようだった。
「イサミ、俺が」
「いいから座ってろ」
「
……
足、痛めてるのか」
「お前が気にすることじゃない」
彼はやや乱暴に、トレイをテーブルに置いた。「それ食ったら帰れよ」と言いおくことも忘れない。昨日はライスだったが、今日はトースト、スクランブルエッグにウインナー、それからスープ、コーヒーまで添えられている。いつも簡単に済ませてしまいがちなスミスにとって、ご馳走も同然だった。
しかしイサミも一緒に、とはいかず、彼はキッチンで細くて座り心地の悪そうな椅子に座って水を飲んでいるばかりである。あるいは、スミスが何かしでかさないか監視しているようにも見えた。
スミスは食事を綺麗に平らげ、コーヒーの一滴まで残さぬよう飲み干し、ゴチソウサマ、と手を合わせる。スミスが口を動かしてる間、イサミは何もないところをぼんやり眺めたり、足を摩ったり、時々ちらと視線を向けてきたりとどうも落ち着かない様子だった。
「
……
食い終わったなら、帰れよ。そろそろ電車も動き出すし、駅前ならタクシーも捕まる」
「待ってくれ
……
なぁイサミ。俺と、話をしないか」
「すぐ帰るって約束だっただろ。嘘だったのか」
「
……
ああ、嘘だよ。そうでもしなきゃ、君は家に入れてくれなかっただろ」
スミスが包み隠さずはっきり告げると、イサミは一瞬ぽかんと目を丸くした後「開き直る気かよ」と顔を顰めた。
「
……
なぁ、ここでブレイバーンになって、君を無理やり中に閉じ込めたっていいんだぜ?」
こんな小さな集落だ、きっと大騒ぎになるし、家を何軒か潰してしまうかも。それにきっと、未知の存在の顕現に自衛隊だって黙ってはいまい。そんな子供じみた馬鹿みたいな脅迫の数々に、イサミは極めて不愉快そうに眉を顰めた。彼にこんな顔を向けられるのは久しぶりかもしれない。
「
……
お前、そうやってサタケ郡長を脅してこの場所を聞き出したんだろ」
「見損なった? 嘘つきで、力づくで君に言うことを聞かせようとする俺を」
「
……
」
「頼む、この通りだ
……
俺の話を、聞いてくれ」
そうでなきゃ、本当に何をするかわからない。そういう激情も、言外に含ませた。
イサミは注意深く、スミスから目を離さぬまま手に持っていたグラスを置く。彼がなぜこんなにも頑ななのか、今のスミスにはわからなかった。ずっと様子がおかしい理由も。
だが確かなのは、彼に隠し事があるということだ。それも、彼にとって重大で、命を預け合った相棒にすら明かせない何かが。
自分はイサミの優しさにつけ込んでる、そういう自覚はあった。心から頼み込めば拒絶できないとわかっていて、強引に迫っているのだから。
静かで、だが決して穏やかではない張り詰めた時が幾許か流れる。遠く、漁船の汽笛の音がして、漁は朝が早いのだなとなんとはなしに考えた。
「
……
聞くだけ、なら」
ようやく彼が口を開いてくれるまで、どれだけの時が経っただろう。まさか、一時間とか二時間とか、それ程ではなかっただろう。だが体感として、そのくらいの時間経過をスミスは感じていた。
「それで本当に、帰ってくれるんだな?」
「
……
君次第、かな」
「ずるいな、その言い方」
彼の言う通り、とても卑怯だと自分でも思う。さっきからずっとそうだ。己にそんな一面があったことに、二十五年間生きてきてスミスは初めて気がついたのだった。
イサミはその場を動かない。表情には、許容というより諦めの色が濃い。いずれにしろ、聞いてやるから話せ、とようやく許しを与えてくれたようだった──本当はこんな形は、本意ではないのだが。
スミスは立ち上がると、彼の元へと歩み寄って膝をついた。そして、座り心地の悪そうな椅子に座る彼の、決して明るくはない顔を見上げる。
「俺は
……
君やルルと離れて、世界を改めて巡ってきた。特に、あの船旅じゃ寄らなかったところを中心に」
相槌はない。イサミは膝の上で拳をぎゅっと握り、まるで何かに耐えているようだった。
「
……
そうして、いろいろなものを見たよ
……
そのたび、隣に君がいないことを寂しく思った。勝手だと思うかもしれないが、俺は君に、そばにいてほしい。
……
この先もずっと、君と共に在りたいんだ」
どうか振り払わないでくれと願いながら、スミスは膝の上の彼の手を取って俯く。それは冷たく、体温をほとんど感じられない。彼はひどく緊張しているのだ、とスミスははっとした。そして顔を上げると、ますます驚愕してしまう光景がそこにあった。
イサミの目に、みるみるうちに涙が盛り上がってくる。そしてそれは間も無く決壊し、頬を伝って流れ落ち、彼の手を握るスミスの手の甲をあつく濡らしたのだった。
「い、イサミ
……
ごめん、急にこんなこと言ったら驚くよな」
「ちが
……
違う
……
」
慌てて彼の手を離すと、イサミは子供のように手の甲でごしごしと目元を拭う。見ていられなくて、スミスは腰を上げて彼を抱きしめた。胸の辺り、薄いシャツと下着に涙が染み込んでにわかに熱くなる。彼に泣かれると、スミスの頭の中は真っ白になってどうしたらいいのか分からなくなる。宥めるように背中をさすったり、どうか泣き止んでと声をかけるくらいしかできない。
「
……
ごめん、無理なんだ
……
もうお前とはいられない
……
」
くぐもった声が発するのは、確かな拒絶の言葉だ。なぜ、と掠れた声で問い返しても、無理だとしか彼は言わない。
「帰ってくれ、頼む、お願いだ
……
」
「
……
なぁ、何か事情があるなら話してくれ。きっと、いや、絶対に力になって見せるから」
そう追い縋っても、イサミはYESとは言ってくれない。「ごめん」と繰り返すばかりだ。謝ってほしいわけじゃないし、むしろそうされる理由がわからなくて、もどかしさにスミスは歯噛みする。
決して諦めないつもりだった。だが、無理を言って彼を泣かせることに本当に道理はあるのか、スミスは染み込んでくる彼の涙を感じながら考えた。
そうして考えた末、「わかった」とどうにか口にする。
「
……
今日のところは、引き下がる。さっきはあんなことを言ったけど、君の意思を無理やり曲げるつもりはないんだ。信じてくれ。
……
だけど、俺は諦めないからな」
「
……
」
「ほら
……
あんまり擦ると、かわいい目が腫れちまうぞ」
スミスは彼を離して、濡れて冷たくなった頬を指の腹で優しく拭ってやる。泣きじゃくる彼を見ると、還ってきたあの日を思い出す。どうしようもなく愛おしくて、離れるのが惜しかった。
「
……
じゃあ、また来るから。
……
具合が悪いんだろう? どうか体には気をつけて。
……
何かあったら、連絡してほしい」
それから、気が変わった時も──とは言えなかった。スミスは近くにあったペーパーナプキンに連絡先を書きつける。彼がこれをどう扱うかはわからないが、折りたたんでしっかりと手に握らせた。
イサミはずっと無言だ。スミスは彼のつむじにキスをひとつして、黙って立ち去った。ドアを閉める前に振り返りかけて、やめた。
借りていた部屋を簡単に清掃して、スミスは家を後にする。とぼとぼと、昨日とは打って変わった足取りだと気がついて、無性に可笑しくなった。ようやく彼に会えると、あんなに胸を躍らせていたのに。
数分ほどで木造の小さな駅舎に辿り着き、一時間に二本ほどしかない電車をベンチでぼんやり待つうち、果たして本当にこれでいいのだろうか、とスミスは己に問いかけ始める。
このままではもう会えなくなる気がすると、あの予感は今でも頭の隅にこびりついている。だがどうしてもあれ以上追い縋ることができなくて、ほとんど逃げるようにしてここに戻ってきてしまった。
あんなふうに泣きじゃくって、彼は決して普通じゃなかった。話したくないのならそれでもいいから、そばにいさせてくれないか、そしていつか打ち明けてほしい──そう懇願するべきだったのでは。そういうふうに考え出すと、止まらなかった。何もできませんでしたとすごすご帰ったら、きっと無理を言ったヒビキやサタケ、そしてルルにも呆れられるに違いない。そして何より、自分自身が納得できない。
(やっぱり、駄目だ。このままじゃ
……
)
らしくなかったと思い直し、スミスはベンチから立ち上がる。乗るはずだった電車が線路を走る音が聞こえてきたが、構うものか。スミスは荷物を背負い直し、勢いよく駆け出した。昨日とは違って、彼の住処への道はわかっている。
あっという間に辿り着いてインターホンを何度も鳴らすが、当然、彼が素直に出てくるはずもない。窓を破るか、という乱暴な考えが一瞬頭をよぎるが、頭を振って振り払った。
辛抱強くここで待つか、あるいは他の手を考えるかとあれこれ考えていると、玄関先できらりと煌めく何かに気がついた。ひび割れた白いプランターのすぐそばに落ちているそれを拾ってみると、透明で平たいレンズのようなもので、日光に当ててみると七色に美しく輝いた。
(なんだろう、これは。すごくきれいだ
……
)
魚の鱗に似ているかもしれない。漁村だからさもありなんと思ったが、もし魚から剥がれ落ちたものだとしたら随分大きい、と感じた。たぶん、成人男性くらいの大きさか、それ以上はあるだろう。あるいは、精巧な作り物かもしれない。
スミスはひとまずそれをポケットにしまい、また波止場で海を眺めてやしないかと踵を返した。
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