しか野
2026-02-09 00:32:06
235465文字
Public 同人誌関連
 

★既刊サンプル(スミイサ)

2024.7〜2026.2に発行したスミイサ本のサンプルまとめ


◆Come rain or shine(2024.7.15)
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・主題はシン花ですが、序盤は原作時空、かつ非常に不穏です。
・メインキャラの死亡描写があります。
・非人道的、残酷な描写が少しだけあります。
・2024年3月から書いていたものなので、アフストとは齟齬があります。
・捏造イサ兄が、地の文に少しだけだけ出ます。(セリフなし)
・大団円ハッピーエンドのはずです。
・何でも許せる方向け(すべてを投げ捨てる呪文)
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■前章

 ルル・スミスは、己の名に誇りを持っていた。大切な相棒が優しい声音で呼んでくれたファーストネーム、誰より大切な養父からもらったラストネーム。そして、その伴侶が優しく呼んでくれた『ルル』の柔らかくて甘い響き。
 ずっと、この名を誇って生きていくのだと信じていた。

 電話を取ったスミスが、大きく目を見開いて立ち上がる。オーク材の椅子が倒れて派手な音を立てたが、彼は少しも気にかけず、通話相手の言葉にのみ意識を向けているようだった。
「本当、ですか」
……が、……だ』
……分かり、ました。今すぐに向かいます……では」
 わずかではあるが、緊迫した声が漏れ聞こえた。よく聞き覚えのあるそれは、間違いなく日本にいるサタケの声だ。スミスは硬い声で応えたあとセルフォンをポケットに入れ、近頃は整えることも忘れた髪をぐしゃっと握りしめた。
……スミス?」
 脂汗のにじむ養父の顔を見上げておそるおそる声をかけると、彼は濁ったグリーンの目でルルを見下ろしてきた。その目はルルを見ているようで、その実何も見ていない。いつもずっと遠くにいる『誰か』にだけ、彼の視線は注がれているのだ。あの時から、ずっと。
……ルル、今すぐ支度をするんだ。すぐ出発すれば、二時間後の便に間に合う」
 スミスの声は震えていた。すべて察したうえで、ルルはあえて問いかけた。
「どこへ行くの?」
「日本だ。……イサミが見つかったらしい」
 やはり、とルルは思った。支度する必要など何もない。セルフォンはポケットにあるし、今の時代それだけあれば十分に事足りる。
「先に車で待ってる。急いで、スミス」
「分かってる。……悪いが、チケットの手配もしておいてくれ。クラスは何でもいいから」
 頷くと、スミスはよろめきながらリビングの奥、自室に消えていった。ルルはセルフォンを取り出して素早く、二時間後の日本行きの便を検索して二席確保する。出発直前にも関わらず、空席があったのは幸いだった。もしリザーブできなかったら、彼は軍用機か、あるいは大統領専用機でも抑えにいっただろう──おそらく、どんな手段を使ってでも。
 数分もしないうちにスミスが家から出てくる。荷物は小さなバックパックひとつだった。
「待たせた。すぐ出してくれ」
 ルルはこの数年で免許を取得していたし、こうしてスミスと共に空港へ向かった回数は両の指に数えきれない。すっかり手慣れたもので、クラッチを踏んでギアを入れた。

*

 英雄と称えられた二人への名誉勲章、その叙勲式。その後ATFの仲間たちからサプライズで贈られた世界旅行。あの夢のような日々のことを、ルルは一日たりとも忘れたことはない。
 スミスがいて、そしてイサミがいて、波に揺られ、見知らぬ地を共に歩き、いつも頬が痛くなるほど笑い、疲れ切って泥のように眠った。お前に世界を見せてやりたい、と二人はいつも言っていた。
 こんなことを言ってはがっかりされるかもしれない、そう思って黙っていたが、本当は世界なんてどうだってよかったのだ。二人がそばにいてくれさえいれば、そこが息も凍るような極寒の地でも、汗が蒸発してしまうほどの灼熱の地でも、幸福でいられるに違いなかったから。

 旅を終え、日本に帰国するというイサミをルルは必死になって引き留めた。そばにいてほしい、三人一緒じゃないと嫌だと幼い子供のようにわがままを言って彼を困らせてしまった。無理を言ってはいけないとスミスに諭されたが、彼の方がよほど寂しそうな顔をしていたのをよく覚えている。
『休みが取れたら会いに来るよ、お前とスミスに』
 そう言って撫でてくれたイサミの優しい手、その指にはスミスが旅の終わりに贈ったプラチナの指輪が光り輝いていた。揃いのものがスミスの左手薬指にもあって、空港の人工的なライトを受けて煌めいている。
『待ってるよ。……俺たちも、会いに行くから』
『イサミ……本当に帰っちゃうの? やだよ……ルル、寂しい……
『ごめんな、ルル……。俺も寂しいよ』
 そう言ってイサミはルルを強く抱きしめ、耳元で『大好きだ』と言ってくれた。堪えることのできなかった涙が溢れ、彼の肩口を濡らす。
『大丈夫……これきりじゃない。この先何度だって会えるし……いずれ退役したら、こっちに移るつもりだ』
『それっていつ? 明日?』
『明日は難しいなぁ。何十年後か、わからないが……必ず。な? スミス』
『ああ。約束したからな。その時、俺と結婚してくれるって』
 スミスは左手を掲げ、指に光る指輪を得意げに見せてくる。その時には盛大な結婚式を挙げるのだと彼は胸を張って宣言した。
『うぅ……何十年、長い』
『でも俺はもうお前の家族だし……その、もう一人の父親のつもりだよ、ルル』
 だから笑って見送ってくれ、とイサミは微笑んだ。今生の別れというわけではないにしても、最後に見せるのがぐしゃぐしゃの泣き顔なのはルルだって本意ではなかったし、彼の記憶に残る最後の表情は笑顔であってほしかった。だが、涙腺がまったく言うことを聞いてくれないのだ。
『イサミ……パパ』
『いいな、それ……ありがとう、ルル。今度会った時も、そう呼んでくれるか?』
……うん、分かった。絶対、呼ぶ』
 イサミは嬉しそうに目を細め、ルルの額に親愛のキスをおくってくれた。

 だがその後、彼をそう呼ぶ機会は訪れなかった。

*

 イサミが帰国し、一ヶ月ほど経過したころだっただろうか。雲ひとつない、よく晴れた日のことだった。その澄んだ青色は、まぶたの裏に焼き付いている。
 その日は二人そろって休日だったため、朝から近所のベーカリーにて焼きたてのパンをいくつも買い込み、ここにイサミもいてくれたらなとぼやきながら齧りついていた。何しろイサミからの連絡が途絶えているのだ。帰国して間もないころに『しばらく忙しくなる』と連絡があったきりで、こちらから通話を求めてもアンサーフォンにつながるばかり。
 いよいよ直接会いに行くかと、堪え性のないスミスは本気で考え始めているようだった。
 三つ目のクロワッサンを一口かじった時、スミスのセルフォンに着信があった。彼は画面を見て相手を確認すると、眉間に皺を寄せた。
……サタケ二佐?』
『え? サタチョ?』
『うん、珍しいな……。連絡先を交換してたことも忘れてたよ。……もしかしたら、イサミのことかも』
 スミスは震え続けるそれの通話ボタンを押した。ルルに気を遣ってかスピーカーモードに切り替え、テーブルに置いてくれる。
『Hello? サタケ二佐? スミスですが』
『スミス中尉……悪いな、いきなりで驚いただろう』
 硬く、強張った声だった。少なくとも気軽な世間話とはいかないようで、スミスがきゅっと表情を引き締めるのが目に入った。ルルも手に持っていたパンをペーパーナプキンの上に置いて、少しばかり身構える。
『構いませんが、そちらは夜中では?』
 ちら、とスミスは時計を見上げたので、ルルもつられてそちらを見やった。針は午前八時少し過ぎを指しているので、かの国は日を跨いだ頃だろう。時差については、未来でミユに教えてもらっていた。
『少し帰りが遅くなってな。率直に聞くが、そちらにアオ三尉が行っていないか?』
『イサミが? ……いいえ、ここには俺とルルだけです』
『そうか……。分かった、朝から邪魔したな』
 確かにイサミの話ではあったが、内容は予想外のものだった。当然、ここに彼の姿はないし、ここ一カ月ほど顔も見ていないし、声すら耳にしていないのだ。
 サタケが通話を切りかけたので、スミスは慌てて立ち上がり、セルフォンにしがみつくようにして彼を引き留めた。明らかに、はいそうですかと話を終わらせるわけにはいかない状況だ。
『ま、待ってください。イサミに何か?』
……そこにはルルしかいないか?』
 ちら、とスミスが視線を寄こしてくる。彼はほんの一瞬迷う素振りを見せたが──おそらく、このまま会話を聞かせてもいいかどうか──、やがてスピーカーモードのままの端末をテーブルに置きなおした。
『はい。彼女も聞いています』
……落ち着いて聞いてほしいんだが、アオ三尉が……二週間ほど前から、行方が分からないんだ』
『え……
 スミスの顔色が、目に見えて悪くなる。ルルは思わず口に手をやり、息を呑んで彼の話の続きを待った。
『本部に顔を出していた、という目撃証言はあったが、俺は何も聞いていない。それにあいつはその日、休暇をとっていたんだ』
……
『それでもしかしたら、と思って連絡したんだが……
……すぐ、そちらへ行きます』
『落ち着け。あいつだってガキじゃないんだ、そのうちフラッと帰ってくるかもしれない。……引き続き捜索するが、中尉の元にもし連絡が入ったら、知らせてくれるか?』
『わかり、ました……
『ありがとう。……ルルも聞いてるか? 朝からすまなかったな。驚いただろう? まぁ、そう心配することはないさ』
 サタケは努めて穏やかに、スミスとルルが混乱しないように配慮して話してくれているようだった。そこに、彼が尊敬される上官たる所以を見たような気がした。例えば酷く焦燥感に塗れた声音だったらおそらく、スミスはもうここにはいない。とうの昔に家を飛び出していただろう。
 通話を終えた後、スミスはがっくりと椅子に腰を下ろして呆然と、沈黙するセルフォンを見下ろす。もはやパンの芳しい香りなど、意識の埒外にあるようだった。
『イサミ……
 その何より大切で美しい名前を、スミスは震える声でそっと呼んだ。ルルとて今にも叫びだしたいような衝動に駆られていたが、なんとか喉の奥におさえこんで堪え、イサミのことを考える。父と呼んで嬉しそうに微笑んでくれた彼の顔を。
(どうして? イサミ、どこに行っちゃったの?)
 心配することはない、サタケはそう言っていたが、気休めのようなものであることくらいルルにも分かる。二週間は決して短い期間ではない。たとえば家族がそんなにも長い間行方をくらませて、一切心配しない者などそうはいまい。
 だが、イサミは弱い人間ではない。陸自TS部隊のエースパイロット、世界を救ったヒーロー、日本人にして名誉勲章を受勲した英雄。世界に彼を知らぬ者はいない。そんな彼に万が一のことが起こるとは考えにくかった──あるいは考えたくないだけなのかもしれないが。
……スミス、大丈夫だよ。イサミ、強いもん』
『ルル……
 ルルは先ほどの、サタケの言葉を思い出す。本部に顔を出していた、と言っていた。もしかしたら、誰にも──それこそサタケにも言えないような極秘の任務だとか、そういうものを請け負った可能性だってあるではないか。
 そういう風に明るく例え話を披露して見せると、スミスはほんの少しだけ、目元をやわらげた。
……ごめんなルル、気を遣わせちまった』
『いいの! ルルもイサミのこと、心配だけど……今はサタチョの連絡を待ってみるしかないと思う』
『そう、だな……大丈夫だよな……
 イサミ、とスミスは不安げに彼を呼んだ。

 しかし願いも虚しく、イサミが行方を眩ませたまま一ヶ月、二ヶ月、と無情にも時は過ぎていった。じっとしていられるものか、とスミスはたびたび休暇をとっては日本へ赴き、数日後にひどく憔悴した様子で帰ってくる。一緒に行きたいと請うても、きちんとスクールに通わなきゃダメだ、イサミのことは俺や二佐たちに任せて、と言って聞かせてくるばかりだった。きちんと人間社会のことを学んでほしい、というのはイサミの願いでもあったので、無下にすることもできない。ルルが何もかも投げ捨てて捜しまわっていたなんて知ったら、多分イサミは怒るし、何より悲しむだろうから。

 そうしているうちに、五年もの月日が流れた。
 誰もが英雄は死んだのだと噂した。しかしスミスは決して諦めなかった。もはや何度目、何十度目かも分からないが、また近いうちに日本へ彼を捜しに出向く予定だったのだ。あらゆる伝手を辿ったが、彼が出国した記録は残っていなかった。つまり、国内にいるはずなのだ──想像すらしたくなかったが、たとえその命の灯火が、すでに尽きていたとしても。

*

 十数時間のフライトを終えて日本に降り立った二人はタクシーを捕まえ、スミスはドライバーへある名を伝えた。彼はこの五年でほとんどネイティブと変わらないほどの日本語を身に着けていた。この国で行動する上で必要だったから、スミスは何よりイサミのために恐るべきスピードで習得したのだ。
「──診療所まで」
 ルルはこの時初めて、スミスの目的地を耳にした。スミスは長いフライト中も機内でじっと動かず、昏い炎の宿った目でただ一点を見つめていた。ルルはとても、彼に話しかけることができなかったのだ。
「診療所って……びょう、いん……だよね?」
……
 結構かかりますよ、とドライバーが言う。どうやら郊外の小さな施設らしかった。構わないから急いでくれとスミスが鋭く言うと、やがて車体が緩やかに走り始めた。
 スミスは腕を組むと、流れていく外の景色へと視線をやった。よくイサミが撫で、褒めていた金色の髪は傷んでぱさつき、見る影もない。大好きだと抱きしめていた逞しい腕もずいぶん筋肉が落ちてしまっていた。
 たびたび休暇を取っては出国してしまう彼を、軍は扱いかねているようだった。仮にも世界の危機を救って名誉勲章を受け取った英雄の一人である。ぞんざいにすることもできないんだろう、といつか語っていたのは彼の友人であるヒロだった。
(イサミ……
 不安で胸が押しつぶされそうだった。ルルとて、病院がどんなところなのかくらい知っている。五年の月日、ようやく見つかったイサミ、病院、スミスの昏い表情。考えると血の気が引いた。決してかつてのような状態にない、事実がそう告げている。
 スペルビアのことを考えずにいられなかった。ルルはいつも首に下げているネックレスを握り締める。大切な人が遠くへ、二度と会うことができないほど遠くへ行ってしまう恐怖が、ルルの胸を塞いで息苦しくさせる。
(スミス、何も言ってくれない……。お願いオジサマ、イサミを助けて……
 握ったそれに祈るように、ルルは目を閉じた。数十キロほどの道のりを、永遠にも思えるほど長く感じた。

 一時間弱ほどで目的地にたどり着き、釣りはいらない、と何枚もの紙幣を乱雑に押し付け、スミスはタクシーを降りた。ルルもそのあとに続く。
 事前に連絡していたためか、小さな駐車場ではサタケが待ち構えていた。アースカラーの、目立たない服装をしている。
「サタケ二佐!」
「早かったな。あと数日はかかるかと」
「そんなことよりイサミは、イサミはどこですか!」
「落ち着け。……すぐ案内する。くれぐれも、静かに」
 勢い余って食ってかかるスミスは、今にも胸ぐらを掴まんばかりの勢いだ。
……分かりました」
 しかしサタケは冷静に、必死な若者をいなす。いや、ルルの気のせいでなければ、サタケ自身も努めて冷静であろうとしている……そんなふうに見えた。彼が取り乱すのを一度も目にしたことのないルルだからこそ、そう感じられたのかもしれなかった。
 着いてこい、と足音を立てぬよう歩く彼によって導かれた先、奥まった場所に位置する小さな個室だ。あらかじめ人払いされているのか、医師や看護師などとは一度もすれ違わないまま辿り着いた。
 サタケが扉を小さく二回ノックすると、すぐさま内側から開く。顔を覗かせたのは、スミスらと同じくイサミの捜索に尽力していたヒビキだ。酷く顔色が悪く、憔悴しているようだった。
「あ、スミス……ルルちゃんも」
「イサミは……
 ヒビキが寂しげな顔をして、すっと横に退いた。大がかりな生命維持装置から生える何本ものコードが、一台のベッドに伸びている。シーツの上に投げ出された骨の目立つ腕の手の甲には針が留置され、点滴のパックから絶え間なく液体が落ちていた。
「イサミ……?」
「イサミ!」
 その名を呼び、スミスは呆然と立ち尽くし、ルルはベッドに駆け寄った。かつての精悍さが嘘のように弱々しく、生気の感じられない寝顔を晒して眠っているのは、まさしくイサミその人だった。口には酸素マスクがかけられて顔の半分が隠れてはいるが、間違いなく。
 背後でドアの閉まる音がした。サタケもヒビキも、病室を出て行ったようだった。
「イサミ…………
 スミスがようやく、のろのろと近づいてくる。彼はおそらく、サタケとの会話によって、ルルに先んじてイサミのこの状態を知っていたはずだ。だが、いざこの光景を見ると足がすくんでしまうようだった──それはルルも同じだ。信じられない、信じたくない、どうして? そんなことばかり考えてしまう。
「イサミ……やっと、会えた……
 スミスががくりと膝をつく。そして、針の刺さった手の甲を避けるようにして、やせ細り節の目立つ左手の指を握った。
 その薬指に、スミスが贈ったプラチナの輝きはなかった。自ら外したにしろ、なくしたにしろ、今のこの指に合うはずもなかった。
 どうしてイサミがこんな姿になっているのか、ルルには全く理解できなかった。健康的に日焼けしていたはずの肌は青白く、巻かれた包帯からはみ出す黒髪には、白いものがところどころ混じっている。体を覆うシーツの上からでも分かるほどやせ細り、点滴の針が刺さる腕など、あの頃持っていた力強さの面影が欠片も残っていなかった。この腕ではきっとTSもろくに操縦できないだろう──世界を救った勇敢なパイロットの、彼が。
「遅くなってごめんな……ごめん……
「スミス……
 心臓が早鐘を打ち、呼吸が乱れる。ルルは己がひどく緊張している事に気がついた。
(違う)
 恐怖しているのだ、と改める。イサミの子の姿を見た瞬間、本能的に悟ってしまったからだ。
 彼の命の灯火は、おそらく今にも潰えそうになっている、と。
 サタケとヒビキは、最期の時間を『家族』で過ごしてほしいと、おそらくそのためにこの場を辞してくれたに違いなかった。
「イサミ、イサミ……やだ、起きて」
 清潔なシーツをぎゅっと掴む。彼の体に触れることが怖かった。
 しかしイサミの瞼はかたく閉じられたまま、あの優しいブラウンの瞳を覗かせてくれない。ルル、と優しく呼んでもくれない。
「イサミ……なんで、どうして……
……
 スミスは何も言わない、いや、何も口に出せないのだろう。比べられるものではないがそれでも、愛する人間を今にも失いかけている彼の心はルル以上に千々に乱れ、混乱の最中にある。
「イサミ……
 ルルは祈るように目を閉じる。ブレイバーン、オジサマ、お願い、イサミを助けて──
 その祈りが通じたのか否か、あるいはイサミも懐かしい気配をどこかで感じ取ってくれたのか、ぴくりと左手が動いた──ような気がした。
 スミスがはっと息を呑んだ。固く閉じられている瞼が、弱々しく震える。
「イサミ……!?」
 そして、そっと細く目が開く。あれほどに焦がれた暖かい色の虹彩がようやく、瞼の下から現れる。それはしばらく泳いだ後に、スミスとルル、二人の姿を順にとらえた。
「イサミ、イサミ……?」
……
「俺だ、スミスだ。ルルもいる。分かるか……?」
 小さく、ほんのわずかではあるがイサミは頷いた。そして目を細める。笑っている。そしてマスクの下で、口が小さく動く。
「どうした……?」
 スミスがその口の動きにじっと目を凝らす。
「は、ず、し、て……? これ、を?」
 動きを読み取ったスミスが、彼の顔の半分を覆うマスクを指さすと、イサミはまた小さく首肯した。二人は息を呑む。彼の生命を維持しているものの一つであるそれを外すなど、思いもよらないことだった。それはほとんど、自殺に等しい行為なのだから。
「駄目だよイサミ、それはできない」
……
「だめ、だって……
……す、みす」
 ほとんど息だけの、かすれた声だった。それでも確かに、五年ぶりに耳にする彼の声だ。彼は会話を望んでいる。そのために邪魔なものを、彼と二人の間にある壁を取り払いたいのだ。
 これがおそらく最期になると、イサミ自身も悟っている。
……いやだ、嫌だよイサミ。俺を置いていかないでくれ。約束しただろう、俺と、一緒になってくれるって……!」
……ご、めん……
「お前が謝ることじゃ……ない……!」 
 肩のあたりのふくらみにスミスは額を押し付ける。ルルはぐっと己の口を押えた。そうして我慢しなくては、今にも叫びだしてしまいそうだった。
……ずっと、お前の、夢、見てた……。きっと助ける、また、会えるからって、言ってくれて……
「けど、俺は間に合わなかった! お前が、こんな目に遭っていたのに……俺は……
「んなこと、ねぇって……。また会えた、だろ? ありがとな、スミス……ルル、も……
「イサミ! パパぁ……!」
 行かないでくれ、スミスは血を吐くような声で縋りついた。

 だが願いもむなしく、奇跡のような時間はそれだけで終わってしまった。まもなくイサミは意識を失い、その目は再び閉ざされた。
 そのほんの数時間後のことだった。彼がこの世のものでなくなってしまったのは。まるでスミスとルルに看取ってもらうために、必死に生きながらえていたとでもいうように。

 なぜこんなことになってしまったのか、イサミを発見して救出したサタケも詳しくはわかっていないようだった。ただイサミは、大きな権力によって見逃されていた、いや、黙認されていた非合法の研究機関にいたのだという。しかし踏み込んだ時にはもうもぬけの殻で、虫の息のイサミだけが取り残されており、大した手がかりを得ることはできなかったらしかった。
 俺のせいだとスミスはひどく嘆き、恐慌した。間違いなく、未知の巨大な人型TS──そういうふうに、上層部には報告したのだ──、その乗り手であったイサミを軍事利用しようだとか、そういう算段だったに違いない。まさにその『TS』の正体であるところのスミスは、己を呪い、責めた。ルルには何も言えなかった。安易な慰めの言葉が彼を救えるはずもなく、またルル自身も大切な家族を失った悲しみに打ちひしがれていた。
(オジサマも、イサミも、いなくなっちゃった)
 枯れ果ててしまったのだろうか、もう涙も出ない。
 イサミも、何度も泣いたのではないだろうか。痛くて苦しくて寂しくて、時にはスミスやルルの名前も呼んだだろうか──
 一度ひどい尋問を受けたことがある、とイサミに聞いたことがある。だがきっとそれを遥かに凌ぐ痛苦に晒されていたに違いなかった。
 このままにはしておかない、とサタケは静かに言っていた。この職を辞してでも、なぜイサミが命を落とさなければならなかったのか、真実を突き止めてみせると。
 しかしスミスは、その言葉に首を振った。真っ赤に充血し、ぎらぎらとした目をサタケに向けて言った。きっとイサミはそれを望まない、と。
 確かにイサミならそう言うだろう。俺のために犠牲になってくれなんて、天地がひっくり返っても口にするような人間ではなかった。もう誰にも死んでほしくないと望む優しいヒーローだった。ルルはそれを、よく知っている。

 イサミの葬儀がひっそり執り行なわれ、そして手のひらに収まるほどに小さくなってしまった彼は重い石の下へとしまわれてしまった。人間社会を学んだルルはもちろん知っている。お墓だ。生き残った者が死者を弔い、慰めるためのもの。
 スミスはすっかり気落ちし、海兵隊を辞すると、イサミのそばにいたいからと日本への移住を決めた。思いを同じくするルルももちろん、隣に立っている。
 宇宙工学を学んでいた経験を活かし、ルルは日本の大学に編入した。事情を知るミユが仕事を回してくれるし、ギークな趣味を除けば金の使い道などほとんどなかったスミスには十分に蓄えがあり、二人暮らしていくのに苦労はない。
 そんなスミスはただただぼんやりと生きていて、ずっとイサミの写真を眺めていたり、時々話しかけたりしながら過ごしている。間違いなく生きているし、呼吸もしているのに、まるで屍のようだとルルは心を痛めた。本当に好きだった、愛していたのだ、イサミのことを。だからルルには何も言えなかった。悲しみを押し殺して、間違ってもスミスが彼の跡を追ってしまわないよう見守る。ルルにできるのはそれくらいのことだ。
 ただスミスは時々、夜に姿を消すことがある。問うてみても、イサミに会いに行っているだけ、そうぼんやりと言うだけだ。
 イサミが、ひいてはアオ家の人々が眠る墓地、そのほど近くに二人の家はある。だからスミスはそこへ赴いているのだとルルは納得しようとしたが、きっと違うのだと、そう確信する自分もどこかにいた。

*

 そうしてまた、数年の月日が流れた頃だった。
 丑三つ時に、ルルの部屋のドアが静かにノックされた。つい読書に耽って時間を忘れていたルルは、きっとスミスが注意しに来たのだと思って慌てて本を閉じた。
 彼はイサミを失った当時に比べ、だいぶ落ち着きを取り戻していた。イサミの写真を愛おしそうに撫でて話しかけることは日課になっていたが、時々、本当に時々だが、微笑みをみせることがある。良い変化であると、ルルは信じたかった。
「スミス? 開けていいよ」
……ああ、ルル。こんな遅くまで起きてちゃダメじゃないか」
 顔を出したスミスは、シンプルなシャツとパンツに、そして暗色のジャケットを着込んでいる。とても、これからベッドに入る服装には見えなかった。
……ミユに借りた本が面白くて、つい。もう寝るよ」
 もう中身も見た目も立派に成熟していたが、スミスはルルをこうして子供扱いするのをやめない。時々もどかしく思いつつも、スミスがそうして甘やかしてくれるのは心地いいので、そのまま放っておいている。どうせ彼のそばにずっといるつもりなので、無理に大人を気取る必要はないのだ。
 そうだった、のだが。
「そうしなさい。……ルル、俺はちょっと出かけてくるよ」
「こんな時間に? 朝じゃダメなの?」
 ルルの心は焦りを覚える。このまま行かせてはいけない、黙って見送ってはいけない。きっと取り返しのつかないことになる。
「ああ。ごめんな」
 しかしスミスはうっすら微笑むと、緩く首を横に振った。
……スミス、帰ってくる……よね?」
「なぁ、ルル。イサミのこと、好きか?」
 震え声の問いかけに、スミスは答えてくれない。逆に聞き返されて、当然だとルルは何度も首肯した。嫌な予感がして仕方なかった。
「好きだよ、ずっと! ルルの大好きな、もう一人のパパだもん! でも、スミスのことも大好きだよ! だから……だから……
 行かないで、と言葉をつづけようとしたが、それは喉の奥で止まって音にならなかった。引き留めたところで、彼がこの場に踏みとどまってくれるとは到底思えない。その澱んだ青い瞳には、昏い決意が満ち満ちているようだった。
「ありがとう。俺も、ルルのことが大好きだ。イサミのことも……。どうか、許してくれ」
 良い夢を、とスミスは踵を返す。たまらず駆けよって、ルルはその広い背中にしがみついた。そして心音を確かめるように、耳を当てる。
……また会おうね、スミス。私の、ルルのパパ」
「ああ、きっと……いつか」
 そうしてもう振り返ることなく、スミスは行ってしまった。ドアを開け、夜の闇の向こうに背中が消えていく。
(言えなかった。ルルも一緒に連れて行って、って)
 ルルは頽れて、冷たい床に膝をつく。目の奥がかっと熱くなり、涙がこみあげてくる。
(ルルを置いていかないで……スミス、イサミ……
 そうして一晩中、ルルは幼い子供のように泣きじゃくった。

 スミスは帰ってこなかった。
 数日後、あるニュースがセンセーショナルに報道された。ある国営の研究施設で、大勢の研究者たちが何者かに惨殺されたのだという。それも一人一人がひどく痛めつけられ、なぶられ、苦しみぬいた様子があったのだと。
 荒れた現場であるにも関わらず、犯人は自身の痕跡を残していない。単独犯か複数犯かもわからないが、恐るべき殺人鬼は今も逃亡中である──そういう内容だ。
(ああ……
 ルルにはすべて分かってしまった。スミスはイサミを失ってからずっと、強く望んでいたのだ──復讐を。
 そうしてこの数年ずっと、水面下で爪を研いでいたのだ。時おり姿を消していたのもきっと、捜していたのだ、狂気を振りかざす相手のことを。
 イサミがいなくなったあの時、彼は『それ』を望まないからと感情を抑え込んだように見えていた。だがあの時にはすでに、己がどう動くべきか決めていた。そして誰も巻き込まず一人でやり遂げてみせると誓ったに違いなかった。
 もしあらかじめ彼の思惑を知っていたとして、引き留めることができただろうか。なおも現場の様子を伝えるニュースから目をそらすように、タブレットの電源を落としながらルルは考える。
(そんなこと、イサミは望んでない……なんて、陳腐な言葉だ)
 死者は何も望まない。望んでいないと伝えてくることもない。それが死だ。この世から存在が無くなってしまうということだ。それでもスミスは、己がなすべきことを成し遂げた。それは決して賞賛されるべき行いではなく、むしろ唾棄すべき悍ましい重罪である。おそらくルルが今やるべきことは、犯人の告発なのだろう。
 しかしルルは、その道を選ばない。これからも二人の娘として、誇りを持って生を全うしなくてあならない。
 インターホンが鳴る。この家を知っているのはごく近しい一部の知人のみだ。ルルは注意深く気配を探り、どうやら相手は一人であることを確認してからドアスコープを覗いた。そこに神妙な面持ちで立っていたのは、数年来の友人の一人である。
……ミユ!」
 ルルはドアを開け放った。一度はたどった悲惨な時間軸において、彼女はルルの姉であり、母親でもあった。ルルは殊更、彼女を好いて慕っている。
「ルルちゃん……。私、渡すものがあって来ました」
 ミユは周囲を見回した後、すべるように入ってきて素早くドアを閉め、鍵をかけてバーロックを下ろすまでを流れるような動作で済ませて、ほっと息を吐いた。
「ごめんなさい……つい、警戒しちゃって」
「警戒……ミユも、知ってるんだね」
……はい。ごめんなさい、スミスさんから全部聞きました。……これ、あの人から預かったものです」
 差し出されたのは一通の封書だった。宛名も差出人も書かれていない、シンプルで白い封筒だ。ルルは封もされていないそれから一枚の便箋を、震える指で取り出した。ところどころ歪んだ文字で、ほんの数行ほどの文章がつづられている。見慣れた、スミスの文字だった。
 
 賢いお前なら、もう全部わかっているだろう。
 ルル、万が一の時、お前を悪しき殺人者の子にはしたくない。
 お前はもう立派な大人だが、すでに俺の方で手続きはをしてある。
 もうすでに、『スミス』ではなくなっているはずだ。
 あとのことはミユに託す。
 すまなかった。許してくれとは言わない。
 今まで俺の家族で、娘でいてくれてありがとう。

 なんてひどいことを言うのだろう、指に力が入り、薄手の紙に皺ができる。ルルはずっと信じていたのだ、ルル・スミスの名を誇って生きていくのだと。知らない間に奪われたそれに、ルルは唇をかみしめる。
「ルルちゃん、なるべく早めにここを離れましょう。あの人はうまくやったみたいですけど、それでも」
 ミユもまた、スミスの行いを否定しない。直接彼自身から計画のすべてを聞いたとしたら、彼女は非常に重要な証人であるはずだ。だが彼女もまたルルと同じように、全てを飲み込むことにしたようだった。
 彼女と、ヒビキと、そしてイサミの三人はとても仲が良かった。性別を超えた確かな友情があったことをルルも知っている。だからスミスが仇を討ったことを咎めようとはしないのだ。
 ルルは大切な家族を奪われた。しかし、スミスが命を奪った相手にも同じように家族がいて、その死を嘆き悲しんでいるに違いない。なら復讐とは、悲しみを連鎖させるだけの行為なのだろうか。
 ルルには分からなかった。きっと永遠に答えは出ないのだろう。だが、はっきりしていることが一つある。
……ミユ、ルルは『スミス』だよ。ずっと」
 ルルはこれからもスミスとイサミの家族で、子供であるということだ。スミスが望んだように、表向きはこの名を捨てなくてはならない、だが。
「ええ、わかってます……

 悍ましき殺人事件の真相は結局明らかにならず、犯人も依然不明のまま。そのニュースは日本の人々を大いに怯えさせたが、やがて次なる衝撃的な出来事が起これば、興味はそちらへと移っていく。そうして、徐々に風化し、忘れられていく──
 スミスは帰ってこない。きっともう、イサミの元へ行っている。
 ルルはそれでも懸命に、二人の分まで生きてみせた。私はスミス、心の中ではそう誇り高く名乗りながら。


■一章

 陳腐かもしれないが、それはまさしく運命だった。青いカクテルをあおる彼の横顔に、すとんと一目惚れしてしまったのだ。
 恋とはするものではなく、落ちるもの。そんな言葉が脳裏をよぎった。

 日本へ転勤のため引っ越してきて、早一ヶ月。こちらでの業務にも慣れてきたし、良いシッターを見つけることができて娘のことは安心だし、明日は休日だ。久しぶりに息抜きを、とスミスは勤務先近くのオーセンティックなバーへと足を運ぶことにした。マスターが穏やかな老紳士で雰囲気が良く、落ち着いて飲めるのだと同僚に勧められた店である。
 深酒をするつもりはなく、二杯か、三杯か、その程度と、それから軽くスナックでも摘まんで早々に帰宅するつもりだった。シッターに延長料金を弾んでいるとはいえやはり娘が心配だし、眠る前にはかわいい額にキスをしてやりたい。
 オーク材の重厚なパネルドアを引くと、店内は落ち着いた間接照明に彩られていた。音量の絞られたBGMはコンテンポラリー・ジャズ。テーブルやカウンターに客はいるが、聞こえる話し声は囁き程度。なるほど、悪くないとスミスは満足した。
 髭面のマスターにすすめられてカウンターへ腰かける。ウイスキーのロックと、それからナッツをオーダーして何気なく横を向く。一席空けたそこには、おそらく近しい年頃の青年が一人、座っていた。
 スミスは息を呑んだ。短い黒髪がおりた額、そこから顎までのシャープに整った横顔に、思わず釘付けになってしまったのだった。
 『ああ、ようやく会えた! ずっと捜していたんだ!』と心の中で誰かが歓喜の声を上げたような気さえした。
 じっと凝視されてさすがに気づいたか、青年が怪訝そうな面持ちでこちらを向く。
……あの、何か?」
 テノールの心地よい声だった。スミスははっと己の無礼に気が付くと、慌てて両手を胸の前で振る。
「そ、Sorry……ええと、ゴメンナサイ」
 赴任するにあたって最低限の日本語教育は受けていた。社内の共通言語は英語だが、日常生活において滞在先の言葉を操れるに越したことはない。
「英語で構わない。それで、俺に何か?」
 しかし青年は、ああ、と気づいたように言葉を切り替えてくれた。日本人は比較的英語が不得手と聞いていたが、彼はずいぶん慣れているようで、やや日本訛りながらもネイティブスピーカーとほとんど遜色ないようだった。
「いや、あの……その、俺たち、どこかで会ったことがないかな?」
 言ってしまってから、しまった!と思った。これではまるっきり──
……ずいぶん使い古された決まり文句だな」
「ち、ちが、ナンパじゃな……いや、ナンパなのかな、これ」
「──お客様」
 穏やかなバリトンが会話を遮った。老紳士がナッツボウルと、それからロックグラスをスミスの前にほとんと音もなく置いた。澄んだ茶色のウイスキーに、美しく削られた丸氷が浮かんでいる。
「あ、どうも……
「騒がしくしてすみません、マスター」
 紳士はにこ、と気安い様子で青年に笑いかけた。どうやら彼は常連のようで、スミスに牽制を入れてきたらしかった。迷惑行為は退店ですよ、とその目が告げてきている……気がした。
……俺、そういうの……困るんで」
「ち、違うんだ本当に……君が気になっているのは確かだけど」
 距離があるから声も大きくなってしまうのだ。スミスは彼との間にある席にそっと腰かけなおす。すると彼は、びくっと肩を震わせると、体を少しばかりのけぞらせた。突然の行動で驚かせてしまったようだった。
「ごめん、本当に……少しでいいから、話を聞いてくれないかな」
……
 彼はおどおどした様子でスミスと、それからマスターを交互に見た。まずい、追い出されるか──とスミスは身構えた。だが、やがて青年が小さく頷いてくれたのを確かにスミスは見て取った。
「いいのかい? ありがとう……今日はぜひ、俺に奢らせてくれ」
「初対面の人に、そういうのは。……それに俺、結構飲むから」
「へぇ、面白いな。ますますご馳走したくなっちゃったよ」
 あわよくば酔わせて……などと不埒なことを考えたわけでは決してない。なにしろ鋭い監視の目もあるし、そんな不誠実なことは以ての外だ。
 とにかく彼のことを知りたい、その一心だった。どれだけ杯を重ねようと気持ちよくカードを切ってやろうではないか、とスミスは鼻息を荒くする。
 それに聞くところによると、日本人は酒にあまり強くない人種らしい。確かにこれまで酒の席を共にした日本人たちはすぐに顔を赤くしていたように思う。
「けど……
「頼むよ、急に声をかけて驚かせたお詫びも兼ねて、ね?」
……そこまで言うなら」
 どうせこれきりだ、とでも思ったのだろうか、彼はようやく頷いてくれた。

 日本人は英語が不得手だとか、アルコールに弱いだとか、そういうのは偏った見方であったことをスミスは実感していた。彼は本当に際限なく、文字通り水のように酒を煽って見せたのだった。しかし決して粗雑な仕草ではない。一杯一杯の酒を十分に楽しみ、美味しい、とにっこりマスターに笑いかけていた。なるほど、気に入られるのもよくわかる。そうして見事潰されたスミスは情けなくも逆に彼にクレジットカードを切らせ、こうして店の前でうずくまっているというわけだ。
……大丈夫か?」
「すまない、今は話しかけないでくれないか……
 脳がアルコール漬けにでもなったみたいに、思考がぼやけてまったく定まらない。なんて情けないんだ、と頭を抱えたいが腕を動かすのも億劫だった。
「仕方ねぇな。……あんた、家はどこだ? タクシー捕まえてやるから」
 彼は多少顔が赤くなっている程度でふらつきもせず、ほとんど素面であるかのように見えた。流しのタクシーを捕まえようと通りに目をやってくれる。
 退店する際、マスターが何やら耳打ちしていて、彼は『そういうわけにもいかないでしょ』と笑っていたが、おそらくその辺に捨てておけ、とでも言われたのだろう。だが実際、そうされてもおかしくはない失態である。さすがに治安のよいこの国で身包みを丸ごと剥がされる、という事態にはならないだろうが、スミスとしては今日中に帰宅しなければならない事情もある。素直に彼の厚意に甘えるほかあるまい。
「うぅ……〇〇駅の近くの、マンション……
「そりゃ運がよかったな、俺ん家の最寄りだから、近くまで送って行ってやるよ」
「本当に……? そりゃすごい偶然……うっ」
 やっぱり運命かな、と考える余裕はなかった。込み上げてくるものを抑えるべく口を抑え、必死に喉に力を入れるので精一杯だった。
「頼むから吐かないでくれよ。……ナンパしてきたとは思えないな、あんた」
「まったく……情けない限りだ……
……いや、面白いよ」
 隣に屈んでくれた彼が苦笑いしながら、背中をさすってくれる。ありがたいが、今はちょっと勘弁してほしいなと心の片隅で思った。

 なんとか胃の中のものをやりすごして自宅最寄りの駅に辿りつき、そこでお別れかと思いきや、
「ほっとくと寝覚めの悪いことになりそうだし、家まで行ってやるよ」
 などと彼がありがたい申し出をしてくれた。なんて心優しいのだろうと感激すると同時に、こんなに優しくて大丈夫なのかと心配になってしまう。そんなんじゃ悪い男か女につけ入れられるぞ、と。しかしこの場合、悪い男は己のほうなのだろうか、とスミスは自問する。
 駅からマンションまで、徒歩五分ほどである。利便性を重視して家を決めたのが功を奏した形だ。
「さすがにここまでで大丈夫か?」
「ああ、もちろん……ありがとう、おかげで助かったよ」
 エントランスまで肩を貸してくれた彼は、オートロックのドアの手前で体を離し、壁に体をもたれさせてくれた。優しい彼はタクシーに乗る前にミネラルウォーターのボトルを買ってくれて、とにかく水飲みまくって寝ろよと心強いアドバイスもくれたのであった。
「じゃあ、俺は帰るから。……あんた変なやつだけど、今日は楽しかった。ありがとな」
「ま、待って……please……wait……
 眉間をぎゅっと押さえながら、足早に立ち去ろうとする彼を引き留める。
「支払いのことなら気にしなくていい。俺の奢りで」
「そうじゃ、なくて……。いや、それもあるけど……また、会えるかな?」
 これきりになるのだけは御免だった。まともに働かない頭でどうにか彼との繋がりを得ようとするが、気の利いた言葉ひとつ出てこない。
……さぁな。まぁうちもこの辺だから、もしかしたら」
「そう、祈ってるよ……心から……
 限界が近い、という自覚がある。こんな場所で、それも彼の目の前で粗相を働くわけにはいかず、エントランスを出ていく彼を、口を押さえながら見送るしかなかったのだった。
 
*

 頭が鈍器で繰り返し殴られているかのようにガンガン痛んだ。胃は泥をいっぱいに詰め込まれているかのようだし、えずくたびに酸っぱいものが込み上げてきて喉を焼かれた。つまり、有り体に言って二日酔いの症状が重く出ている。コンディションは最悪と言って過言ではなかった。今日が休日でなかったら、死にそうな声で会社にコールし、救急車でも呼ぶか?と気を遣われているところだった。
「スミス! 今日はルルとお出かけする約束!」
 五歳になった義理の娘が、派手な音と共にドアを開けて寝室に参上した。彼女は意気揚々とベッドに飛び乗ってきて、なかなか顔を出さない養父をしきりに叩いたり、あるいはこんもりした山の上でゆさゆさ体を揺らしたりした。勘弁してくれスウィーティ、と声を振り絞っても、蚊の鳴くようなそれは元気にはしゃぐ子供の耳にはちっとも入らないのだった。
「起きて起きて! もう九時だよ!」
 賢い子だ、もう時計だって読める── 誇らしく思いながらも、スミスはこの世の終わりのような苦しみに苛まれ続けた。

 結局スミスが幽鬼のようになりつつもベッドから這い出し、リビングに現れたのはそれから一時間後である。ルルは養父を揶揄うことにとうに飽きていて、テレビ番組をザッピングしたり、タブレットで幼児向けの動画を観たり、いかついロボットの玩具で遊んだりしていた。
「スミス、おそーい! ルルにはいつも、早く起きろねぼすけさんって言うのにぃ!」
「悪かったよ……ご飯は? 何か食べた?」
「パンとミルク! スミスも食べる?」
「いや、俺はいいかな……
 しこたま飲んだ日の翌日というのは喉がからからになるもので、冷たい水が驚くくらい美味しくて気持ちがいい。一気に三杯ほど飲み干してから、スミスは昨夜の彼のことを考えた。エキゾチックな黒髪と少し日に焼けた肌、間接照明に照らされるブラウンの瞳。ほんのちょっと口端をあげる控えめな微笑み。本当に美しくて、可愛らしい青年だった。率直に言って、好みのタイプだ。
 そうしてぼんやり彼のことに思考を巡らせているうちに気がついた。彼の名前は、なんといったか。
……なんてことだ」
 昨夜はお互い、名乗りすらしていないのだ。二人だけで会話するのに支障がなかったので、今の今まで気づかなかったことに愕然とする。しかし彼が、見知らぬ無礼な男を相手に安易に名乗ることをしなかったことに対して、不思議な安堵感を覚えることも確かだった。彼の保護者でもあるまいに。
 彼の住まいもこの辺りだと言っていた。あのバーにももちろんまた顔を出すとして、どうにか運命が引き寄せてくれないかと祈る。逃してはいけないと本能が叫んでいる。
「スミス〜? ぼーっとして、どうしたの?」
「ん? ああ、なんでもないよ。ルル、パパもうちょっとしたら動けそうだから、お出かけの準備はできる?」
「うん、できる! でもスミス、ちょっとお酒くさいよ?」
「ぐ……シャワー、浴びてくる」
 娘の手痛い指摘に言葉を詰まらせる。子供というのは無邪気でかわいらしいものだ……そして正直だ。彼女のお気に入りの、ソープの香りがするコロンをつける必要もあるだろう。
「うん、そうして! お魚さん楽しみだね!」
「ああ、イルカさんやペンギンさんもいるぞ」
 前々から連れて行くと約束していた水族館。彼女をがっかりさせずに済みそうなのは本当によかった。昨夜の彼のアドバイス通り、とにかく水を飲んだことが幸いしたのかもしれない。
 ああ、外に出たら偶然彼が通りがかってくれたらいいのに。

 昼前に、ルルと手を繋いでマンションを出た。彼女の背中には、スミスの影響ですっかり好きになった特撮ヒーローの顔を模したリュック。中にはぬいぐるみだとかハンカチだとか道で拾った石だとか、彼女の好きなものが詰め込まれている。
「晴れてよかったなぁ」
「うん! でもルル、雨も好きだよ!」
 そんな風に娘と言葉を交わしながらマンション敷地内を歩く。
 こちらに引っ越してきた当初は彼女がこの国に馴染めるか心配だったが、毎日楽しそうに幼稚園に通っていて胸をほっと撫で下ろしているところだ。少し変わった容姿をしているが、天真爛漫で物怖じしない性質が、同年代の子供たちを惹きつけてやまないようだった。親としてなかなか誇らしい。
 そうして娘の楽しげな鼻歌に耳を傾けている時だった。
『ルイス・スミーーーーーーーッス!!』
 どこか機械的でありながらも妙に発音と威勢のよい声が辺りに響き渡った。本国では決して珍しくないありふれた名ではあるが、少なくとも日本のこのマンションに現在住んでいるルイス・スミスは己だけだろう。突然の出来事にスミスは狼狽し、どこから聞こえたものかと周辺を見回す。
「スミス! スミス! 何かいる!」
 先んじて気づいたらしい愛娘が指した先には、彼女より一回りほど小さなぬいぐるみ……らしきものが自立していた。駐車場のど真ん中である。
「な、なんだ? 誰かの落とし物か?」
 ルルが興味津々みいそいそ駆け寄るので、とても危険そうには見えない物体とはいえスミスも慌てて後を追う。ずいぶん愛らしくデフォルメされているが、どうやら架空のロボットを模した人形のようだった。
『落とし物ではない! 私には立派な所有者がいる!』
「うわ、えらく流暢に喋るな。ぬいるぐるみっぽいけど、中身はAIロボットか?」
 近年、人間をサポートしたり、共に暮らしたりするために生み出されるそれは、さほど珍しい存在ではない。黎明期に比べると、手に取りやすい価格に落ち着いたとも聞く。スミスとしても、ルルの友人として一台迎え入れてもいいと思っているところだった。
 柔らかそうなロボットは、短い腕を伸ばしてスミスをびしっと、おそらく指差して言った。
『昨日はよくも私のイサミを! ナンパしてくれたな! ルイス・スミス!』
「な、なんで俺の名前を知って……イサミ?」
 聞き覚えのない名前のはずだが、妙に舌に馴染む。なんて素敵な名前なんだろう、と真っ先に思った。そして、『昨日』『ナンパ』という言葉から符合するものといえば──
……昨夜のあの子、イサミっていうのか!」
『しまったァ! しかし名前すら聞いていなかったとは……ますます許し難いな!』
「なになに? なんの話してるの?」
 ルルは物怖じせずぬいぐるみに間近まで接近して屈み、その頬をつんつんとつつく。やめないか、と彼(でいいのだろうか?)と口では言うものの、怒る様子はないので子供には優しいらしかった。
『いいかい、君のパパはだな、昨日──』

「おい、ブレイバーン!」
 スミスははっと顔を上げた。そして、本当に運命だったのだ、と心から思った。
 モスグリーン色のエプロンを身に纏った可憐な黒髪の青年が、慌てた様子で駆け寄ってくるのが見える。昨夜とは違って前髪がすっきりと整えられ、秀でた額はキスをするのにはうってつけの様子だった。
「すみません、こいつが何か……あれ? あんた、昨日の……
 ひどく戸惑った様子で駆け寄ってきた青年──イサミは、すぐにスミスの正体に気づいたようだった。
「ああ、本当にまた会えるなんて……昨日は本当に迷惑をかけてしまって……ありがとう、助かったよ」
「いや、別に。無事に部屋まで戻れたんならよかった……その子は娘さん?」
 イサミは、なおもぬいぐるみ──どうやらブレイバーンと名付けられているらしい──を興味深そうに見つめるルルを、柔らかな眼差しで見下ろす。
「ああ。ルルっていうんだ。ルル、昨日俺を家まで送ってくれた人だよ」
「そうなの? ルルはね、ルル・スミスっていうの! スミスがおせわになりました。ありがとう、お兄さん」
 紹介を受けた愛娘は立ち上がると、子供特有の大きな頭をペコリと下げた。背負っているリュックがずるずる頭の方に下がっていくのを見て、イサミがくすっと微笑ましそうに目を細める。
「どういたしまして、ルル。賢くてかわいい子だな」
「だろう!? 自慢の子なんだよ」
 彼の言う通り、ルルはあんまり賢くて物分かりがいいので、かえって心配になってしまうほどだ。子供ながらに養親に迷惑をかけてはいけないと意識しているのかもしれないが、もっと年相応に我儘を言ってくれてもいいのに……と詮ないことを考えたりもする。
 そうしているとイサミはふと難しい顔をして、スミスに少し顔を寄せてきた。近づいた距離にどきっと胸を高鳴らせていると、彼はそっと耳打ちをしてくる。
……余計なお世話かもしれないが、パートナーがいるのに人をナンパするのはちょっと、誠意に欠けてると思うぜ。この子もかわいそうだ」
「! ちょっと待ってくれ、誤解だ!」
 何かとんでもないmisunderstandingが生じている気配がするが、考えてみれば無理もない。子供を連れている男親を見れば、産んだ母親がいるだろうと想像するのはごく自然なことだ。
「この子は間違いなく俺の子だが、パートナーはいない。シングルなんだ。嘘じゃない、信じてくれ」
「そ、そんなに必死にならなくても……
 思わず詰め寄るスミスに、イサミは一歩どころか二歩、三歩ほど後ずさってしまう。すかさず間に割り込んできた大きなぬいぐるみが、大きなグリーンアイをぎりっと釣り上げた。表情豊かなことだ。
『何をしているルイス・スミス! イサミに手を出したらただではおかないぞ!』
「人聞きの悪いことを言うな! 俺はただ、誤解を解きたくて」
「ゴカイ? ゴカイって何?」
『ルル、君のパパは昨日イサミをだな』
「こら、余計なこと言うなブレイバーン。子供に聞かせる話じゃないだろ」
 イサミがすかさずぬいぐるみを諌めてくれるが、確かに考えてみれば、自分の親がバーで出会った初対面の男をナンパした挙句酔い潰された、なんて幼い子供に聞かせる内容ではない。言葉にしてみると情けないことだと改めて実感したスミスは、がっくり肩を落とした。
「よく、わかんないけど……うちのスミスがごめんね?」
『ルル……苦労しているんだな』
……
 まずい、どんどんイサミの中で株が下がっていっている気がする、とスミスは焦りを覚える。
「ガピ? ルル、毎日たのしいよ。くろう、してない! ……あ、そうだ! イサミとブレイバーンも一緒にいく? あのね、今日は水族館に連れてってもらうんだよ」
 準備もばっちりなの、とルルは背中のリュックを自慢げに見せつける。イサミは屈んでルルに目線を合わせると、かっこいいリュックだなと褒めてみせ、彼女は嬉しそうに鼻息をふんふん荒くする。かわいい子とかわいい子がかわいい様子を見せている、これって最高の光景だなとスミスは脂下がった顔をしないよう表情筋を引き締めることに努めなくてはいけなかった。
「そりゃ楽しみだな。……誘ってもらえて嬉しいけど、ごめんな。俺たち仕事中なんだよ」
「おしごと? 今日、どようびだよ?」
「うん。土曜と日曜に働く大人もいるんだ。水族館の人たちだって、そうだろ?」
 優しく言い聞かせてくれるイサミに、ルルはなるほどと納得した様子だ。
「仕事、というのは……
「ああ、花屋やってんだ。一人で細々やってる小さい店だけど。これ、店名」
 イサミは身につけているモスグリーン色のエプロンの、胸元を指差す。確かに大きな字体で『ブレイフラワ』と縫い取ってあった。白い花や葉の飾りが細かくて、なかなか凝っている。(後にイサミが自ら刺繍したと聞いて、スミスは大いに驚くことになる。)
『君は一人じゃないだろう、イサミ。私がいるのだから』
「はいはい、いつもありがとな。じゃ、俺たち配達の途中だからこれで。またな、ルル。パパと一緒に楽しんでこいよ。あんたもな」
 幼い子供だからと適当にあしらったりすることなく同じ目線で丁寧に接するイサミに、スミスの中の好感度は鰻登りである。話を振られてこくこく頷いた。
「こ、今度行くよ、君の店!」
 ブレイフラワブレイフラワ、と心の中で何度も唱えて頭に叩き込む。今度は素面だ、決して忘れたりなどしない。本国でもここでもずっと忙しくしていて、花屋なんてとんと縁がなかった。彼がどんな手つきで花を扱い、花束をこしらえてくれるのか見てみたくてたまらない。
「はは。お待ちしてます」
『気をつけていくんだぞ。また会おう!』
「またねー! イサミ! ブレイバーン!」
 ルルはすっかり二人──一人と一体に心を許し、懐いた様子だった。元々おおらかな子だ。まだ慣れないこの街に知り合いが増えるのはスミスとしても大歓迎である。
「ああ、またな。ほら急ぐぞブレイバーン。お前が慌てて飛び出していったから路駐してんだ。違反切られたらまずい」
『む、それはいけない』
 イサミは膝下ほどもある大きなぬいぐるみ、ではないAIロボットをひょいと抱きかかえると、最後にぺこりと律儀に頭を下げてから駆けていってしまった。見た目よりずっと軽いのか、イサミが力持ちなのか、定かではない。
「行っちゃったね」
 背中が見えなくなるまで手を振っていたルルがその小さな腕を下ろし、幾分か気落ちした様子で呟いた。
「大丈夫、またすぐに会えるよ。今度一緒に、イサミのお花屋さんに行ってみような」
「ほんと!? いつ!? 明日!?」
 子供はいつだって気が早い。大体『今すぐ』か『明日』だし、『今度』なんて言葉でごまかすことはできないのだった。それにスミスは常に、この少女に誠実でありたいと思っている。
「そうだなぁ、早くて明後日かな。明後日はわかるかい?」
「明後日は、明日の明日だよ」
「Goodだ。幼稚園の帰りに寄ってみるとしよう。場所もちゃんと調べておくから、パパに任せなさい!」
「うん! 任せる! 約束だからね!」
「ああ、約束だ。……さ、今日は水族館だろ? 行くぞ、ルル」
 たっぷり楽しむためにも、なるべく早めの電車に乗りたい。急ぐぞ、と一声かけてルルを抱き上げ、きゃっきゃとはしゃぐ少女のための運び屋と化すのだった。

 帰りの電車内、はしゃぎ疲れたルルが寝入ってしまったので、その小さな体を抱きかかえてやりつつスミスはセルフォンを手に取った。目的はもちろん、ある調べ物のためだ。
(ブレイフラワ、っと……
 なかなかに特徴的というか、風変わりな名前である。入力して検索ボタンを押せば、あっさりと一軒の花屋が検索に引っかかった。専用のウェブサイトはないようだが、地図といくつかのレビューとが表示される。数は多くないが、評判は上々の様子だった。
 地図は最寄駅裏の、比較的閑静な住宅街の中の一点を指し示していた。写真も出てくる。なるほど、一人(と一体)で切り盛りしているというのも頷ける小さな店構えをしていた。もしかしたら店頭での直接販売より、注文を受けて方々に飛び回るのをメインとしているのかもしれなかった。昨日も、配達の途中だと言っていたし。
(うん、これならルルを迎えに行った帰りに寄れるな。よし、予定通り明後日に顔を出してみよう)
 スミスはすっかり、突然舞い降りた運命の恋に参ってしまっていた。


■第二章

 幼い子供を男手一つで育てているスミスに、会社は比較的寛容である。定時よりも少しばかり早く上がらせてもらい、幼稚園へとルルを迎えに走るのが日常だ。どうしても抜け出せない時だとか、突然の用事の際にはシッターが代わりを務めてくれる上、家でしばらく面倒も見てくれる。おそらく自分は運が良いし人に恵まれている、とスミスは実感するばかりだった。
 友人らしい子供たちと遊んでいるルルを呼び寄せると、彼女はぱっと顔を輝かせて走り寄ってくる。加減なく飛び込んでくる体を受け止めてくるくる回ってやると、きゃあきゃあと鈴を転がすような声で笑うのでたまらない。本当にかわいい子なのだ。
 今はすっかり懐き、慕ってくれるが、出会った頃の様子はひどいものだった。一緒に行きたくないと駄々をこねて、齧られたり蹴られたり──今となってはそれも、二人が親子になるにあたっての通過儀礼として必要なものだった、と理解できる。
「ルル、今日は帰る前に寄るところがある!」
 手続きを済ませて彼女を引き取り、肩車をしてやりつつ駅へと歩く。道すがら、とっておきの秘密でも明かすような口調で言ってやる。
「なぁに? ……あ! イサミのお花屋さん!」
「That's right! 少し急げば間に合うぞ」
「やったぁ!」
 ガピガピ、とはしゃぐルルが髪をぐいぐい引っ張るが、こんな痛みはかわいいものである。たぶん二、三本は抜けているんだろうが──
「おみやげ、イサミとブレイバーン渡さなきゃ!」
「もちろん、持ってきているとも」
 ルルがたっぷり数十分も悩んで吟味して、これしかないと選んだ品である。きっと早く手渡したいに違いないと思って、かわいらしくラッピングされたそれはばっちりバッグに入れてある。
「ありがと! 喜んでくれるかな?」
「もちろんだ! ルルが選んだものだぞ? 喜ばないはずがない!」
 仲の良い親子の間で話題が尽きることはない。水族館での思い出だとか、今日幼稚園でどんな遊びをして、どんなおやつを食べたかだとか、元気いっぱいのルルの話に耳を傾け、相槌を打ち、スミスはひとときの幸せな時間を楽しんだ。

 あらかじめ頭に叩き込んでおいた道順を辿っていくと、住宅街に入っていく。そして、やがて一軒の花屋が視界に入ってくる。オーニングテントにプリントされた『ブレイフラワ』の丸っこい文字は、先日調べた際に見た写真のままだった。
 店先でイサミが、鉢植えの花を手入れしている。しおれた葉を剥ぎ取る手つきは慣れていて、そして丁寧なものだった。そばにブレイバーンの姿もあって、彼の方が先に来訪者に気づいたようだ。
『む、イサミ。お客さんだぞ』
「うん?」
 声をかけられたイサミが顔を上げる。その目がスミスと、肩車されているルルを捉えて、わずかに表情が緩んだ。
「本当に来てくれたんだな。いらっしゃい」
「あ、ああ……す、素敵な店だな!」
 立ち上がって膝についた埃を払いつつ、イサミがにこりと──少々硬いながらも客へ向ける微笑みを浮かべてくれる。舞い上がってしまいながらスミスは、どうにか言葉を発してはみたが……いつもはくるくる良く回る頭と舌だと同僚たちには言われているのに、彼を前にすると形なしである。
 イサミは気にした様子もなく、店内を親指で指す。
「それはどうも。よかったら中、見てってくれよ。俺は閉店準備してるけど、何かあったら呼んでくれ」
「それは……忙しい時にすまないな」
「いいよ。新しいお客さんは大歓迎だ。ルル、気に入ったものがあったら教えてくれよ。今日はサービスしてやるから」
 初めてのお客さんに、とイサミが目を細めると、頭上のルルがじたばた暴れ始める。
「やったぁ! スミス、下ろして下ろして! お花、みる!」
「わかったわかった、じっとしてろって」
 スミスはまかり間違っても愛娘を落っことさないよう殊更慎重に屈み、ぴょんと飛び降りる彼女に手を貸してやる。早速、いそいそと店内に駆け込んでいった。
「ブレイバーン、ルルについててやってくれ」
『了解だ、イサミ。……ルイス・スミスよ』
「な、なんだい?」
 一回りも、二回りも、いや、それ以上に小さな存在が足元からねめつけてくる。見た目はデフォルメされた愛らしいロボットなのに、その威圧感ときたら成人男性顔負けである。
『くれぐれも、イサミを怖がらせないように。それだけは肝に銘じておくことだ』
「おい、何言ってんだブレイバーン。悪いな、気にしないでくれ」
『忠告したからな。……イサミ、何かあったらすぐ私を呼ぶようにな』
「何もねーっつの。早くルル追いかけろよ。植木鉢とか、倒しちゃったら危ないだろ」
『むむ……君には危機感というものが足りていない。……まぁ、いい。ルル、待ってくれ!』
 ブレイバーンはようやく、小さな店内で興味深そうにきょろきょろしている少女を追いかけていく。
 もちろんイサミを怯えさせるつもりなど毛頭ないが、まだ会ったばかりで、決して親しくはない相手なのだから自制すべし、と己にしっかりと言い聞かせて口を開く。
「あ、あのさ……イサミ、と呼んでも?」
「かまわない、スミス」
 無作法な問いかけだったかもしれないが、イサミは快く頷いた上に呼び返してくれた。ちゃんと名前を憶えてくれていて──
……待てよ、一昨日……俺、君に名乗っていない……ような?」
 スミスは、先日の偶然の再会について回想する。いきなりブレイバーンに名前を叫ばれ、駆けつけたイサミにルルのことを紹介して、それから……
「だったな、そういえば」
 くす、とイサミが笑う。小馬鹿にしたようなものではなく、スミスの間の抜け具合に思わず失笑してしまったらしかった。
「本当にすまない、どうかしていたんだ……
 運命に違いないと舞い上がって、人付き合いの始まりとして基本中の基本もできていなかったとは。バーでの失態といい、今のところイサミに良いところ一つ見せられていない。
「けど、ブレイバーンがでけぇ声で呼ぶから覚えちまったし。いいんじゃねぇか?」
 いい名前だな、と彼は自然に、何の飾り気もなく褒めてくれる。この名を人生最初の贈り物としてくれた両親に思わず感謝してしまった。いつか、ファーストネームを呼んでくれる日もくるのだろうか?
……そういえば彼はなぜ、俺の名前を知っていたんだろう?」
「さぁな。バーで変なアメリカ人に絡まれて、家まで送ってやったって話はしたけど……
「へ、変なアメリカ人……
 なかなかの言われようだが、それも当然だろう。たとえばスミスが同じ立場に立ったとしても、きっと同じように『変なアメリカ人』と表現するに違いなかった。
 イサミは植木鉢をひとつ抱えつつ、何か思案するような顔をする。
「あいつ、不思議な奴だから……もしかしたら、この街……いや、『日本国民の顔と名前は、すべて一致しているぞ!』なんて言い出してもおかしくない気がする」
「それは……あり得る、のかな?」
「さぁ? 俺もそこまで、長い付き合いってわけじゃないから。未だによく分からないやつなんだ」
 ずいぶん息があっている様子だったし、彼からも大切に思われ慈しまれているているようなので、てっきり長い付き合い──たとえば幼少のころに親からプレゼントされたものとか、そういう風にスミスは考えていた。しかし、どうやらそうでもないらしい。
 気にならないでもなかったが、今はその前にぜひとも、確かめたいことがあった。
「そのぉ……君は、その、ええと……
……
 いい歳をした男性がもじもじする様子は、彼の目にどう映っているだろう? 少なくともその表情に嫌悪は浮かんでないようなので、思い切って切り出すことにする。
「失礼な質問かもしれないが……こ、恋人は……いる、のかな?」
 聞いてしまった!!とスミスは内心叫んでいた。もっと段階を踏んでからだろう!と叫ぶ自分と、よくぞ勇気を出した!と褒め称えてくる自分が脳内で騒ぎたてている。
……いるように見えるか?」
 イサミは幸い怒ったり戸惑ったりする様子は見せず、ただ不思議そうに小首をかしげた。その幼気な仕草にどきっと胸を高鳴らせつつ、
「君はとても、魅力的だから……
 正直な気持ちを吐露する。イサミはきれいだ。そして凛としている。どうかフリーであってくれ、と念じるのはあまりに礼儀に反するし不誠実だが、どうか許してくれと願いながら返事を待った。
 イサミは抱えていた植木鉢に根を張っている花(あいにく名前は分からない)をしばらく見つめたかと思うと、苦く笑って口を開いた。
「そりゃ、見込み違いだな。……いないよ。もうずーっとな」
「そ、そう、なのか!」
 ハレルヤ、と脳内で快哉を叫ばずにはいられなかった。なんてことだ、最高に運がいい。こんなにも喜びで胸が躍るのは、ルルがはじめてパパと呼んでくれた時以来かもしれない!
 しかし、もし彼が『いる』と言ったとして、おそらく諦めはしなかっただろう。
「なんだよ。ずいぶん嬉しそうだな?」
 失礼なやつだ、とイサミが口をとがらせるので、ええいままよとスミスは一歩踏み出して彼に詰め寄った。
「あ、あの! もう、気づいてるかもしれないが、俺は君に、ほ、ほ、惚れているんだ!」
「ほ、惚れ……って、あ、会ったばっかじゃねぇか、俺たち」
 イサミは後ずさりながら、戸惑いをあらわにする。そのかかとが鉢植えに当たって、土がいくらかこぼれるのが目に入った。
「一目惚れなんだ! あのバーで会った時から、君のことばかり考えちまってる……!」
 これは何の誇張もなく、本当の話だ。ルルと水族館を楽しんでいる時だって、ここにイサミがいたらどんな顔をしただろうかとつい考えてしまったし、昨日はこの店までの道順を覚えつつレビューを熱心に読み込んで、彼の誠実な仕事ぶりを想像したりした。そして、次の休日には花の図鑑を買いに行こうと決めていた。彼が扱うものを知りたいというのはもちろんのこと、ひとつでも共通の話題がほしいという浅はかな考えもあってのことだ。
 彼の言う通り、二人はほんの四日前に会ったばかりである。お互いのことは、それこそ名前くらいしか知らない。それでも、彼を逃がすな、と本能のようなものが叫んでいる。これを恋と呼ばず、何をそう呼ぶというのか。
 イサミはすっかり困った様子だった。その表情からは、とてもではないが明るい返事が返ってくるとは思えない。スミスは息を呑んだ。
……悪い、けど…………好きな人、いるから」
 ごめん、とイサミは意気消沈した様子でつぶやいた。さっと血の気が引いた気がしたが、自分のことよりはまず、彼だ。
「謝ることじゃない、イサミ。いきなり悪かった。だからどうか、そんな顔を──」
『──だから! イサミを怖がらせるなと言っただろうルイス・スミス!』
 一体どんな原理なのか、ブレイバーンが店内から間違いなく空を飛んで二人の間に割って入った。浮いている、見間違いではなく。
「こ、怖がらせるつもりはなかったんだが……すまない」
『出禁にするぞ出禁に! 君専用の罠を店の周りに仕掛けてやる! おおっと、ただしルル、君は別だ。いつでも来るといい』
 紫色の花を一本手にしたルルが、彼の後を追うように店から出てくる。どうやら気に入りのものを見つけたらしい。見覚えはある気がするが、やはり名前は分からない。
「ブレイバーン、俺は大丈夫だ。……ヤグルマギクか。それが気に入ったのか?」
「うん! スミス、これ買って!」
「いいよ、今日はサービスするって言ったろ?」
「本当? ガピィ! ありがと、イサミ!」
「包んでやるから、ちょっと待ってな」
 これ頼む、とイサミは抱えていた鉢植えを、相変わらず浮いているブレイバーンに差し出す。彼の体ほどもあるそれを器用に受け取ってみせたロボットは、ちらちら……というよりじろじろスミスを睨みつつも素直に店内へとそれを運んでいった。
 イサミは屈むと、何枚ものカラフルな包装紙を膝の上に広げて見せた。わぁ、とルルが目を輝かせる。
「きれい! どれでもいいの?」
「ああ。好きなのを選びな。リボンも」
「やったぁ! ねぇスミススミス! リボンはスミスが選んで!」
「え、あ、ああ……
……これ、見本」
 イサミがエプロンのポケットから、リボンの切れ端が何本も貼り付けられた厚紙を出してくれる。素性すらほとんど知らない外国人に愛を告白されたのだ、彼の気まずそうな態度は仕方がない。
(しかも、どうやら俺は振られたらしい)
 スミスは受け取りながら、イサミの言葉を反芻した。好きな人がいる、確かに彼はそう言ったのだ。
(好きな人、好きな人か……そうか……イサミに愛されるなんて、そいつはなんて幸運なやつなんだ……!)
 しかも口ぶりから察するに、おそらくイサミの片思いである。恋人はずっといないと、そう教えてくれたのだから。控えめな彼のことだ、きっと思いを告げることも出来ていないに違いない。ああなんていじらしいのだろう、とスミスは胸をきゅんと甘く高鳴らせた。彼の健気な視線に気づかないとはまったく、なんて鈍いのだろう。許し難いものがある。彼の想い人を悪し様に罵るのは、大変気がひけるが──
「スミス! 決めた? ルル、包むのこれにする!」
「え? ああごめん、ちょっと待ってくれ」
 透かしの美しい薄桃色の包装紙を選んだルルが、得意げにそれを広げてみせる。いいのを選んだな、というイサミの言葉にご満悦である。
「そうだな、その色に合うのは……これかな?」
……わかった。ちょっと待っててくれ。すぐにできるから」
 色彩センスなんて持ち合わせていないが、ルルの好みと紙の色とスミスなりに向き合って選び取ると、イサミはするりと店内に引っ込んでいく。入れ替わるようにして戻ってきたブレイバーンが、一八五センチはあるスミスと同じ高さまで浮き上がってぷんぷん腕を組んだ。
『油断も隙もないなルイス・スミス! さてはイサミに愛を告げただろう!』
「あい?」
「そ、そういう話は……!」
 ルルが不思議そうに小首を傾げたので、さすがに幼い娘に聞かせるのは気恥ずかしい、とスミスは慌ててロボットの口(と言っていいのか)をふさごうとした。しかし飛んでいる相手には無意味で、さらりと躱される。
『隠し立てしてどうなる?』
「なになに? ねぇ、なんの話?」
「あ、いや、ルル……これはだな……
 まだわずか五歳の娘にどう説明したものかと、スミスがおろおろ目を泳がせていると、助け舟が入る。
「お待たせしました……ん? なんか揉めてるのか?」
『いいやイサミ! なんの問題もないぞ!』
 まったく悪びれない様子で、ブレイバーンは堂々と言ってのける。とにかく徹底的に、イサミの心を煩わせまいと努めているように見えた。
「そうなのか? ……はい、お客様。どうぞ」
 イサミは膝を折り、包んだ花を差し出した。ルルが選んだのは一本だけだったはずなのに、同種の白やピンクの花も数本一緒にまとめられていた。そしてリボンは根元で美しい飾り結びにされていて、小さなお客様を喜ばせようという彼の想いが込められているような気がする。
「ありがと! ガピ!! すごくかわいい! 見てみてスミス!」
「ああ、とても素敵だ。帰ったら家に飾ろうな」
 大切そうに両手で受け取ったルルが、大喜びでそれを掲げてみせた。花瓶はないが、代わりになるものは探せばきっとあるはずだ。しかし、飾るためにはこの素敵な包みを取らなくてはいけないのが、大変惜しいところである。
「ありがとう、こんなにたくさん……やはり、代金を払わせてほしい」
「いいって。明日で廃棄になりそうなやつだから。その代わり、今後ともご贔屓に」
……今後も、来ていいのかい?」
 ブレイバーンがいうところの出入り禁止になったとて、おかしくないことを言ってしまった自覚はある。思えば先ほどはひどく舞い上がっていた。本来なら少しずつ距離を詰めて、それから── そういうふうに冷静に考える余裕がちっともなかったのだ。
 スミスは鼓動を早めながら、押し黙った彼の返事を待った。不思議な空気を察してか、ルルは花を抱えたまま養父と花屋の顔を交互に見ては目をぱちぱちさせているようだった。
 ややあって、イサミが小さく口を開く。
……客として、なら……
「ありがとう……さっきは驚かせてごめんな。でも、俺の気持ちは本当なんだ……想うことだけは、許してくれるかい?」
……
 どうかそれだけは、と祈るようにスミスは目を細めて彼を見つめた。
 イサミは俯き、葉が何枚か落ちている地面をじっと見ているようだった。NOを突きつけるべきか否か、考えているのだろうか。おそらく彼が首を振ったらその瞬間、ブレイバーンが黙ってはいないだろう。
 しかしややあって、イサミは小さく、本当に小さくだが首を縦に振ってくれた。目は合わせてくれないが、耳がほんの少し赤くなっているのが見て取れる。
「ありがとう、イサミ」
……別に、礼を言われるようなことじゃない」
「そんなことはない。君は優しいんだな……
 今すぐぎゅっと抱きしめたいところだが、そこは──本来堅牢であるはずの──理性が働いた。好意を持って彼に触れるなど百年早い。なにしろ今スミスは、one-sided loveの状態だ。
 初めてかもしれない、とスミスは思い至った。こんな風に、誰かへ一方的に恋焦がれるのは。
「じゃあルル、今日のところはもう帰ろうか。お花屋さんは閉店の時間だ」
「そうなの? わかった! ……あ、そうだ! あのね、水族館でおみやげ、買ったんだよ! スミス、ちょうだい!!」
「おっと、そうだったな」
 スミスは二つの包みを出して、彼女に手渡してやる。
『お土産? 私たちにか?』
「うん! あげるね!」
 海の生き物が描かれた可愛らしい袋をそれぞれに差し出す。開けてみて、と促されてイサミはそうっと、慎重な手つきでシールをはがす。
「どう?」
「ありがとう、すごくかわいいな」
『イサミ、私のとお揃いだぞ!』
 中から出てきたのはイルカがあしらわれたキーホルダーである。二人は嬉しそうにそれぞれのものを見比べると、口々にルルに感謝を述べた。彼女は大変満足げに、そしてどこか恥ずかしそうにはにかむ。
「大事にするよ。そうだ、家の鍵をつけるよ。そうしたらずっと一緒だ」
「ほんと!? スミススミス、ルルも鍵につけたい!」
「ルルは鍵もってないだろ? そうだな、幼稚園のバッグにつけよう! きっとかわいいぞ」
 このままじゃまた話し込んで長居してしまいそうだ、とスミスはルルを抱き上げた。
「忙しいところ悪かったな。じゃあ、また……来るから」
……ああ」
「またね! イサミ、ブレイバーン!」
 小さな手を目いっぱい振るルルを左腕におさめ、スミスは幾度となく振り返りつつブレイフラワを後にする。イサミもしばらくの間、二人を見送ってくれていた。

「スミス、ゆうきばくはつだよ!」
 すっかり花屋の建物が見えなくなったころ、歩きたい!とせがむルルを下ろしてやった途端に彼女はこんなことを言い出した。ゆうきばくはつ……すなわち勇気爆発というのは、スミスが彼女と出会ったころに教えたおまじないの言葉だ。その響きの通り、勇気を出したいときに唱えると力が湧いてくる。
「ルル? どうしだんたい?」
 しゃがんでルルの真剣なまなざしを受け止めると、彼女はふんっと鼻息を荒くしながら花束を頭上に掲げた。まるで正義のヒーローの剣。目がきらきら輝いていて、まぶしい。
「ルル、わかっちゃった……スミス、イサミのことすきなんでしょ?」
 小さな指が鼻先に突きつけられる。
「う……パパ、そんなに分かりやすいかな」
 まさか若干五歳の子供に見破られようとは。先ほどはずっと不思議そうにしていたが、その実彼女なりに考えていたのだろう。あまりに気恥ずかしく、スミスは顔が熱湯のように熱くなってくるのを感じる。
「うん! だいすきって顔に書いてある!」
「ほ、本当に……!?」
「ガピ!」
 満面の笑みで肯定されて、スミスはがくっと肩を落とした。それならば、もしかしたら言葉にしなくともいずれ、イサミには伝わっていたのかもしれなかった。ポーカーフェイスは得意なつもりだったが、認識を改めなければいけないのかもしれない。
 ブレイバーンの言う通りだ、隠し立てしたところで仕方がない。スミスはこっくり頷くと、一目惚れなんだよ、とこぼした。
……でもね、イサミには好きな人がいるんだって」
「すきな人……スミスじゃないの?」
「残念ながら……。どうしたらいいと思う?」
 五歳の娘に恋愛相談とは、と己を情けなく思いつつ、しかし吐露せずにはいられない。ふむふむ、とルルは訳知り顔で何度も首を縦に振った。どうやら養父からの相談事が嬉しいらしい。
「えっとね……あ! わかった! スミスがイサミの『すきな人』になればいいんだよ!」
 我ながら完璧なアイディアだ、と言わんばかりにルルは胸を張って言った。なんて賢い子なんだろう、とスミスは感動して目頭を熱くする。
 まったく、確かにその通りなのだ。何を悩む必要があるのだろう。
……パパに、できるかな?」
「うん、できるよ! ……ルル、スミスのこと『きらい』って言ったのに、スミスはルルのこと、好きって言ってくれた。うれしかった。だからね、だからね」
「ありがとう、ルル。……パパ、頑張ってみるよ」
 うん!とルルは晴れやかに破顔する。誰より理解者でいてくれる娘の頭を撫で、花をつぶさないよう優しく抱きしめた。
「でもな、ルル。パパが一番大切で大好きなのはお前だよ。それだけは、忘れないでくれるかい?」
「わかってるよ! ルルもスミスのこと、好き!」
 幼い子供特有の白くて柔らかい頬に親愛のキスを落とすと、彼女はきゃあと鈴を転がすような声で笑った。
「──あら? ルルちゃんに、スミスさん?」
 子供のぬくもりを堪能していると、背後から若い女性の声。そういえば、住宅街とはいえ往来のど真ん中であったとスミスはルルを解放して振り返る。
「あ、ミユだ!」
「やっぱり! 仲のいい親子だなと思ったら! お二人とも、こんにちは」
 通りかかったのは、週に何度かルルのシッターを務めてくれている女性──ミユだった。優しげで、一見ぼんやりしているようにも見える女性だが、趣味を兼ねてフリーのロボットエンジニアとして活躍しているらしく、業界で知らぬ者はいないんだとか。
「偶然だな。仕事の帰りかい?」
「ええ、そんなところです! お二人は幼稚園の帰り……にしては、逆方向ですね」
「あのね、これ! 見て!」
 大好きなシッターに偶然会ったルルはとてもご機嫌な様子で、小さな花束を差し出す。
「あら、素敵ですねぇ。この包みとリボンも、すごくかわいいです!」
「でしょ? イサミがくれたの!」
 我が意を得たりと言わんばかりに、花と飾りとを褒められたルルは嬉しそうだ。
「イサミ……さんって、あのイサミさん? 『ブレイフラワ』の」
「ミユ、知ってるの?」
「ええ。部屋に飾る花をよく買うんです。お二人も知ってたんですねぇ。イサミさん、お任せしたらいつも素敵なお花を選んでくださるし、お手入れのアドバイスも分かりやすいから助かってます!」
 どうやらその口ぶりから、常連客、あるいは友人といって差し支えないようだ。ならば、彼のことを……少なくともスミスよりは把握しているに違いなかった。背に腹は代えられぬ、とここは甘えてみることにする。とにかく彼のことを少しでも知りたかった。
……あ〜……もし、知っていたら、でいいんだけど……その、彼に、特に親しい人はいるのかな?」
「え? どうしたんですか、急に」
 大の大人のもじもじした様子に、ミユは当然ながらきょとんとする。するとルルがぴょんぴょん飛び跳ねながら、先ほど得たばかりの情報を嬉しそうに横流しするのだった。
「ガピ! あのね、スミスね、イサミのことが好きなんだって!」
「こ、こら! ルル!」
「そ、そ、それ! 本当ですか!?」
 驚かれるか、あるいは顔でも顰められるかと思いきや、ミユは突然目を爛々と輝かせ、とてつもない速度でスミスに迫ってきた。初めて見る表情だった。
「え、あ……う、ん……本当、だけど……
 彼女の勢いに気圧されるように一歩後ずさったスミスは、目元を引きつらせつつ肯定した。どういうわけかミユは『ああ神様』なんて天に祈りを捧げ始める。まったく状況は読めないが、どうやら彼女のなんらかのツボを刺激してしまったらしかった。
 彼女はひとしきり涙を流したあと、はっと正気に戻ったようにこほんと一つ咳払いをした。
「おっと……失礼しました。つい興奮しちゃって」
「ミユ、楽しそう!」
 つくづく、物怖じしない少女である。この様子を『楽しそう』の一言で片づけてしまえるとは、大物の気配がした。
「ええと、私の知る限りではありますけど、イサミさんにそういう方がいるのは聞いたことないですね。お休みの日はほとんど、お花のお手入れをして過ごされてるって言ってましたよ。……でも、そうですねぇ……私のお友達のヒビキさんって方とも仲いいですけど、あれは男女というより姉弟って感じですね。それから、近所の定食屋さんの店主さんとか?」
「どちらも初耳だな」
 さもありなん、何しろ彼に会ってまだ四日なので。
「定食屋さんの方は……サタケさんっておっしゃるんですけど、一回り以上年上で、お兄さんみたいなものって言ってましたよ。……うーん、でも一番親しいのはやっぱり、ブレイバーンさんですねぇ」
「ああ、あのロボット……
 定食屋の店主、とやらも気になったが、やはり大きな壁となりそうなのは件のAIロボットだ。
「熱烈ですよね! 『私はイサミを守る騎士だ!』なんて言ってて」
「騎士……knightか。それは確かに、アツいな」
 さながらイサミは、忠誠を誓う主人といったところか。不覚にもなかなか、格好いいではないか。イサミが一人で店を切り盛りできているのは、騎士の尽力あってのことなのかもしれない。あの小さな体でどれだけのことが出来るのか定かではないが、少なくとも頭脳はヒトより優れているはずだ。
「ほんと、アツいですねぇ。私、擬人化もありかな〜って思うんですけど」
「ぎ、ぎじん……なんだって?」
「ふふ、こっちの話です。事情は分かりましたので、任せてください! 何かわかったら情報共有します! スミスさんも進捗あったら教えてくださいね。報連相は基本ですから!」
「ええ? Spinachがなんだって?」
 聞き慣れない言葉が続けて飛び出してくるので、スミスは目を白黒させる。そんな彼を余所に、ミユは俄然、燃え上がっているようだった──やはり理由はよくわからないが。
 しかし分からないなりに、どうやら頼もしい味方を得たことだけは確からしかった。


■第三章

……妬けるな、君の「好きな人」に』
 スミスとルルが帰宅した後、黙々と閉店作業を続けるイサミにブレイバーンが優しく声をかける。膝下ほどのサイズの彼はそこそこの重さがあるが、どういう仕組みなのか、燃料源はなんなのか、背中の小さなスラスターからバーニアを噴かせて数メートルほどなら宙に浮くことができる。イサミにとっては見慣れた光景だが、スミスはずいぶん驚いた様子を見せていた。
 そうして飛び上がった先のカウンター上がブレイバーンの定位置だ。彼はいつもそこから、優しい緑色のカメラアイでイサミを見守っている。
……一応、確認なんだが……それ、私のこと……ではないよな?」
「お前、そもそも「人」じゃないだろ」
『厳しいな。確かに私は、ブレイバーンだ!』
「いや、ロボットだろ」
『ははははははは!』
 イサミのつっけんどんな言葉を、ブレイバーンは高らかに笑って受け流す。彼は昔から、それこそ出会った時からそうだ。イサミの憎まれ口をものともしない。
……やっぱり変だと思うか? 会ったこともない、顔も知らない人を好きって」
『ちっとも思わないな。君は君の想いを大切にすると良い』
 ブレイバーンにはずいぶん前に、件の『好きな人』について明かしている。しかし彼はイサミを頭ごなしに否定しない。かといって、すべてを肯定するわけではない。優しくも厳しい声で諭してくるし、かと思えば甘い声で誉めそやしてきたりもする。はっきり言えるのは、彼はイサミの全面的な味方である、ということくらいだ。
 軒下に出していた鉢植えなどを店内にしまい、落ちた花びらや葉を掃いて新聞紙に包んで丸め、イサミは店のシャッターを下ろした。
『イサミ……私はいつでも、君の幸せだけを祈っている』
「知ってる。いつもそればっかだもんな、お前」
 イサミは相棒を抱き上げると、いつも見守ってくれるロボットをぎゅっと抱きしめた。大胆だな!と彼は嬉しそうである。どこで作られ、どこから来て、なぜそばにいてくれるのか、イサミは今でも知らない。

*

 彼が突然現れ、私はブレイバーン!と高らかに名乗りをあげたのは数年前──亡くなった兄の四十九日の法要の日、納骨を終え、一人呆然と墓の前に佇んでいる時だった。
 早くに両親を亡くしていたため、歳の離れた兄はイサミにとって唯一の肉親であり、親代わりでもあった。人と接することをひどく苦手としていたために家に籠りがちだったイサミを、兄は無理に連れ出そうとはしなかった。ゆっくりでいいんだぞ、と優しく励まし、頭を撫でてくれた。
 彼は親から引き継いだ小さな花屋を営む傍ら、親友の店で立ち働いたりと懸命にイサミを支えてくれたのである。そうして過労がたたって倒れ、そのまま還らぬ人となってしまった──
 全部俺のせいだとイサミは己を強く責め、ただかろうじて呼吸をするだけのような日々を送ってきた。四十九日を無事に終えたら兄の、家族の後を追おうとすら考えていた。

 最後まで打ち明けることはなかったが、イサミには兄のほかにも、頑張れと励ましてくれる人がいる。いや、正確には『人』ではないのかもしれなかった。物心ついた時からずっと、夢に出てくる存在だ。ぼんやりとした影のような形であらわれるその人は、おそらく年上の男性で、たぶんエメラルド色の瞳をしている。
 目が覚めるといつも、『彼』が優しく労わってくれたことや、瞳の輝き以外はすっかり忘れている。だがイサミはずっと、『彼』のことが好きだった。兄が多忙でそばにいてくれないときでも、眠れば『彼』に会うことができた。
 しかし兄を亡くしてからずっと眠りが浅く、夢を見ることもできない。『彼』も消えてしまったのだろうか、兄と一緒に──

『私は、ブレイバーン!』
 家名の刻まれた御影石を呆けて眺めるしかないイサミの前に、言葉を発する小さなぬいぐるみが現れた。それも、空から。人型のロボットを模したそのぬいぐるみは、バーニアを噴かせながら着地した。その訳の分からない存在は、腰に手をやって堂々と立ちながら、
『君を守る、君だけの騎士だ!』
 そう言ってのけたのだった。

 訳のわからないそいつは、それでも『人』ではないので怖くなかった。なにしろ、見た目だけは本当に愛らしいぬいぐるみなのである。流行りのAIロボットかと尋ねてみたら、彼はほんの数秒押し黙ったのちに、その通りだと答えた。
 いくら追い返そうとしても構い倒してきて、ご飯を食べろよく眠れと世話を焼いてくるロボットにいつしかイサミは慣れていき、そばにいることが段々当たり前になっていった。
 そうしているうちにイサミの心は落ち着いていって、夜も深く眠れるようになったのだ。
『久しぶりだな、イサミ』
 恋する相手に再会できたのは、ブレイバーンが現われて二ヵ月ほどしたころだっただろうか。イサミの心は、歓喜に打ち震えた。

 ようやっとイサミが落ち着いたころに、亡くなった兄の親友──イサミのことも何かと気にかけてくれていたサタケが家を訪れた。手には二段重ねの重箱を携えている。彼は兄が営んでいた花屋の四軒向こう、地元民によく親しまれている定食屋の店主である。
 思ったより元気そうでよかった、と彼は頭を撫でてくれた。ときどき訪ねてきてくれていたのは知っていたが、イサミはそのほとんどで居留守を決め込んでいたのだ。もちろんサタケとて分かっていただろうが、無理に顔を合わせようとはしなかった。その気遣いが、イサミにはありがたかった。
……ところで、そいつは?』
 リビングに通したサタケはイサミの差し出してきた湯呑を受け取りつつ、彼の隣に当たり前のような顔をして立っているロボットを、戸惑いを隠せない様子で指さした。
『私はブレイバーン! イサミのソウルメイトだ!』
『え、ええと……?』
 サタケはいかにも『理解しがたい』という難しい顔をしているが、イサミとしてもうまく説明できる気がしない。
『すみません、俺にもよくわからないんです。害はないので、気にしないでください』
『そ、そうか……。よくわからないが、お前がそう言うなら』
 少し見ない間に何があったんだ?と余程言いたそうだったが、イサミは無視を決め込んだ。尋ねられたとて答えられないのだから、致し方ないことだ。分かっていることと言えば、今のところは無害な存在であることくらいである。
……あいつの店、どうするんだ? 畳むつもりなら手伝うよ。土地を売って生活費の足しにするのもいい』
 それが彼の本題らしかった。イサミはきゅっと口をつぐむ。
 あいつの店、つまりは兄の営んでいた小さな花屋のことだ。植物を愛していたという両親がはじめて、兄が引き継ぎ、イサミを育ててくれた大切な店である。常識的に考えれば、廃業するほか道はない。社会というものをほとんど知らないイサミにとって、サタケの助力は間違いなくありがたいものだった。
 しかし、素直にうなずけない自分がいる。本当にそれでいいのだろうか、と問いかけてくる自分もいる。
 そうしてイサミが迷う様子を見せていると、サタケは首を振った。
『今すぐに決めなくていい。店舗として誰かに貸し出す手もあるし。ま、よく考えてみることだ』
……はい。もう少し、時間が欲しいです』
『わかった。……これ、簡単なものだけど、よかったら食べてくれ。じゃあ今日のところは帰るよ』
 サタケはテーブルに置いた重箱を指し、それからブレイバーンを一瞥してからアオ家をあとにした。
『おお、見てくれイサミ! 稲荷寿司がこんなにぎっしり』
 早速ふたを開けたブレイバーンが、整然と敷き詰められたつやつやのそれを見せてくる。
『すげ。とても一日じゃ食べきれないな……そういえばブレイバーン、お前ってメシは食うのか?』
『何を言ってるイサミ! 私はロボットだぞ! もちろん、食べられない!』
『じ、自慢げに言うことか……?』
『ははは! お、こっちはおかずがいっぱい詰まってるな』
 二、三日はこれでもつぞ、と彼自身は食べられないくせ嬉しそうにはしゃいでいる。たぶん、イサミがきちんと食事を摂ることが喜びにつながるのだ
 この二ヵ月ほどですっかり分かってしまった、彼の生態というか、性質が。まったく理由が分からないし、心当たりだってちっともないが、突然押しかけてきたこのロボットは己を心から好いてくれているらしい、と。不思議な気持ちだが、悪い気はしなかった。
『イサミ、食べながらぜひ聞かせてくれ。……君のお兄さんのこと、そしてお店のことも』
……構わねぇけど、なんでそんなこと聞きたいんだ?』
『君のことはどんなことでも知りたいんだ。それに、気持ちの整理にもつながる。サタケの言ったこと、考えてみるんだろう?』
 兄の店を、どうしていくのか。イサミは膝の上で拳をにぎる。落ち着いたとはいえ心の傷はいまだ癒えず、生々しく血を流し続けている。まだ、兄のことを考えるのは辛い、いっそ逃げ出してしまいたい──だが、イサミは踏みとどまり、息苦しさを覚えながらも頷いた。
……そうだな、わかった。聞いてくれるか? ブレイバーン』
『もちろんだ! 何時間でも、何日でも、何十日でも付き合うと約束しよう』
……ばーか。そんなにかかるかよ』
 そうして散らかった引き出しを整理するように少しずつ、兄を思い出しては言葉にしていった。口下手な自覚はある。たどたどしく何度もつっかえながら吐き出される思い出の数々を、ブレイバーンは時折相槌を打ちながら静かに聞いてくれた。普段の騒がしさが嘘のように。
 性格はまるで違うのに、ブレイバーンはどこか兄に似ている気がする。きっと絶対的な味方でいてくれると、決して長い付き合いではないのに信じられる程度には。
 素晴らしいお兄さんだったんだなと彼が感慨深そうに言ってくれた時、そうなんだ、とイサミは笑うことができた。
『大好きだったんだ……。ちゃんとお礼、言いたかった』
『今からでも遅くはない。きっと伝わる』
『そうかな……そうだと、いいな』
 ぺた、と頬を触ってきたブレイバーンの小さな手にはロボットらしからぬ温もりがあった。なんでも、人間にとって心地よいように人肌程度の熱を常に発しているらしい──なんのための機能なのやら、とイサミは笑う。
 よかったら抱きしめてみるといい、という提案には首を振っておいた。

 兄の想いに報い、感謝の気持ちを伝えるためにどうすべきか、イサミはしばらく考え込んだ。そんな中でふと、思いついたことがある。もしかしたら、荒唐無稽な話だとサタケには呆れられるかもしれない。
『素晴らしいことだと思うよ』
『そうかな? 本当にそう思う?』
 夢の中に出てきた『あの人』に、イサミは恐る恐る打ち明けてみた。すると彼は多分笑って(表情は見えないから、声色から判断するしかない)、イサミの考えを褒め称えた。
『ああ。君のお兄さんもきっと、いや、必ず喜ぶだろう! だが、容易なことじゃないのは……わかってるよな?』
『もちろん。たくさん、勉強しなくちゃいけない』
『That's right! でも君なら大丈夫だ。学ぶことは得意だし、好きだろ? 英語だって、とても上手だよ』
 夢だからあまり意識してないが、彼と話すときはおそらく英語を口にしている。篭りがちと言ってもただいたずらに時を過ごしていたわけではないのだ。興味のある分野について学んだり、体を鍛えたりと、一人でできるあらゆることに取り組んできた。時間と体力だけは、いつも有り余っていたから。
『前から思ってたけど、あんたは……アメリカ人?』
『どうだろう? これは夢だよ、イサミ。相手がどこの誰なのかなんて、大した問題じゃない』
『でもあんたは、ずっと俺を見ててくれた。本当に、これはただの夢なのか?』
 とてもそうは思えなかった。ただの薄ぼんやりした霧の塊のように見える彼が、それでもあまりに『具体的』すぎて。夢とはもっと突拍子もないもので、目覚めればすぐに記憶から消去されてしまうものだ。だがイサミは彼とどんな会話を交わしたのか覚えていられる。その声が若い男性のものだということも。
……夢だよ、君の。そして……俺の』
『あんたの……?』
『そう。……さ、もう起きる時間だ。君のその考え、サタケ二……いや、サタケさんに話してみるといい』
……わかった。また会える?』
『Sure. ……君が望めば、必ず』
 またな、とその人はおそらく、手を振ってくれた。

 イサミは数日後再び訪れたサタケに、自身の考えを思い切って打ち明けた。それは、兄の花屋を継ぎたい、というものだ。ブレイバーンも『あの人』もその目標を肯定してくれたが、果たして社会経験豊富なリアリストであるところの男はどうだろうか。
 無理だろう、とサタケはその考えをすげなく一刀両断した。予想していた反応だ。花屋と一口に言っても決して甘いものではない。ただ売ればいいというものではなく、仕入や経理を考え、ディスプレイやアレンジメントをこなし、そして何より見ず知らずの他人と接することは決して避けて通れない。兄に頼まれて時々、荷下ろしを手伝ったことがある程度のイサミは、まさしく門外漢であった。
『お前の気持ちはわかる。俺だって、あいつの店がなくなるのは寂しい……だが、現実的に考えて無理だ』
『わかってます、今のままじゃ無理ってことくらい。だけど俺、頑張って勉強します』
『一朝一夕で身につくものじゃない。あいつだって随分苦労してたんだ。お前だってそれは知ってるだろ?』
 もともと後を継ぐために親について学んでいたとはいえ、それでも兄は軌道に乗るまで毎日頭を悩ませていたように思う。その記憶は鮮明に残っているから、簡単なことだとは思っていない。それでもイサミは、食い下がる。
『はい。でも……俺、諦めたくないです。父と母と、それから兄さんの店……なくしたくない』
『もちろん私も手伝うぞ、イサミ!』
 イサミの隣に座って、というより立っているブレイバーンが、後押しするように声を上げる。
『はぁ……結局お前はなんなんだ? いや、まぁこの際だからそれはおいておくか……
『心配せずとも、私は決してイサミを傷つけない。……私はとても優秀なAI知能を積んだロボットだ。イサミを大いに助けてやれるだろう。だが、ロボットはロボットに過ぎず、人間にしかできない仕事はもちろんできない。だからこそ足りない部分を補い合って、きっと上手くやっていける。なぁ、イサミ?』
……ああ。頼む、ブレイバーン』
『もちろんだ! 君のためなら、私はどんなことでもする』
『頼りにしてる』
『い、イサミ……!!』
 小さなロボットはいたく感激したようで、イサミのしっかりした二の腕にしがみついてわんわん泣いた。もちろん声だけだ。目からは何も出ちゃいない、が、どうやら本当に感極まっているらしかった。本当に不思議な存在だ。
……変わったな、イサミ。いい目をするようになった。……わかった。それじゃあ勉強しながら、俺の店で働くといい。人に慣れなきゃいけないだろう?』
『サタケさん……! ありがとうございます!』
 折れてやった、という態度だったがおそらく、元々強く反対する気はなかったのでは、とも思う。イサミの覚悟を試そうとしていたのでは、と。真意は分からないが、ほとんど後ろ盾がなく心細いイサミにとって、その心遣いはありがたいものだった。
 見知らぬ他人が怖いなど、そうそう言っていられない。変わらなくては、とイサミは強く思った。
『いいんだ。俺もあいつには世話になった。早速来週から、いいな?』
『はい!』
『それと、その、ブレイバーン……だったか? イサミが信用しているなら、俺が口出しするようなことじゃない。どうか、こいつを頼むよ』
『任せてほしい。時が来るまでは必ず、私がイサミを守ろう』
 時、という二文字がイサミの心に引っかかった。しかし、早速打合せだ、とブレイバーンが話を進めてしまったので、そのまま有耶無耶になってしまった。
 期限は一年だ。一年でものにならなければ、花屋は手離す。そしてイサミは別の働き口を探す。サタケは、俺のところにそのまま就職すればいいと言ってくれるが、近しい人間がそばにいてはずっと甘えてしまう気がした。だから、それは本当に、どうにも立ち行かなくなった時にとる手段だ。彼には本当に頭が上がらない。

 その夜、あの人に会いたいなと願いながらイサミは目を閉じた。望めば必ず会えると彼は言っていたから、それはもう強く、強く望みながら。 
『よく頑張ったな、イサミ。えらいぞ!』
 今日の成果を報告すると、イサミの邪な思惑通り、彼はとびきり甘い声音でまるで幼い子供でも褒めるみたいな口調で称えてくれた。とても気分が高揚して、なんだってやれるような気がしてくる。多分これが、恋というものの力なのだ──大した経験はないから、偉そうなことは言えないが。
 上も下も、右も左も分からない不思議な空間で、イサミは腰を下ろす。これは座れているのだろうか、何度味わってもなんとも言えない感覚だった。
『ブレイバーン……は、ちゃんと君を守ってる?』
 あの不思議で複雑な存在のこと、彼にはまだ話していなかった。だけど彼は元々その存在を知っている風に、慎重に伺うような様子でそう問うてきたのだった。
『知ってるのか、あいつのこと』
『うーん……かなり複雑な事情があるんだ。でもこれだけは信じてくれ。彼は絶対に、君を裏切らない、と』
『それは……分かってる、つもりだ』
 言われるまでもなくとうの昔に、イサミはブレイバーンを信じている……つもりだ。しかし目の前のエメラルドの人に断言されると、やはり自分は間違っていないとより強く信じることができる。
『よかった。……俺は彼がうらやましい。実体を伴って、君のそばにいられるんだから』
『あんただって……こうやって、俺を励ましてくれる』
『君の夢の中でだけね』
 頭を撫でてやることすらできやしない、と彼は霧の塊みたいな相変わらずの体を、残念そうに揺らした。
 考えてみれば、そんな姿に加えて、おそらく顔があるであろう部分の目のところだけが輝いているのだから、結構恐ろしい様相なのかもしれない。おとぎ話に出てくる妖怪みたいだ。だけどイサミがちっとも恐ろしく感じないのは、その輝く目があまりに優しく、暖かい光を帯びているからだ。
……どこの誰かなんて大した問題じゃないって、あんたは言ってたけど……でも、俺……あんたがただの、夢の世界の住人には想えない』
『たとえば、実在の誰かと、夢を通じて会っているとか?』
『そう、なのか?』
『No. ただのRomanticな例え話さ。でも、そうだな……俺は君を──』
『え?』
 聞こえない、と言う間もなく、イサミは夢の世界から連れ戻されてしまった。

 それからイサミはサタケの店で週に何度か働きながら、兄の部屋にあった書籍で懸命に勉強した。準備に一年ほどかけて花屋を継ぎ、ずっとそばで支えてくれたブレイバーンにちなんで屋号も変えた。そうして誕生したのが、花屋『ブレイフラワ』である。
 それまで住んでいた一軒家は土地ごと売り、物置と化していた花屋の二階に移り住んだ。そうして、今に至る。

*

 あれから数年。まだ見知らぬ他人への恐怖は克服しきっていないが、顔見知りや常連相手になら緊張せずに話すことができるようになった。おそらく友人と呼んで差し支えない存在もいる。よく花を買いにきてくれるミユだとか、その友人で大らかなヒビキだとか。
 幸いイサミが心を込めて拵える花束やアレンジメントは評判がいい。『元々センスがあったのだろうが、もちろん一番は君の努力の賜物だ!』とブレイバーンは事あるごとにイサミを褒めそやしてやまない。兄というより親みたいだなと思うことが時々ある今日この頃だった。
 花は喋らないから楽だ、とイサミは思う。だけど葉のつやだとか花弁の開き具合でその気持ちを静かに伝えてきてくれる。
『ルイス・スミスは、怖がらずに接することができているように見えるぞ』
 経理の一切を請け負ってくれているブレイバーンが、業務用タブレットを起用に叩きながらそんなことを言う。
「そうか? そうかもな。あいつは全然、怖くないんだ」
『君は楽しそうに話してくれたな、変なアメリカ人にナンパされたと』
「変なやつだよな。俺なんかのこと好きだなんて。しかも一目惚れだと」
『そうして己を卑下するのは、君の良くない癖だな。君は自分の魅力に気づくべきだ。そうして心をひらけば、世界はもっと広がる』
「そんなこと言うの、お前くらい……いや、あいつもか。変な奴らだな」
 人の美醜にはあまりピンとくるものがないが、多分あの男は『イケメン』という部類に入るのだと思う。きらきらの金髪、海のような色の目、通った鼻筋に優しげな口元。
……あいつ、明日も来るかな」
『そうだな。私の勘だが、おそらくは』
「ふーん……
 なんだか気分が高揚して、イサミは調子はずれの鼻歌を歌った。