山城まつり
2025-06-02 22:09:16
41939文字
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suicidal/leniency Karte01:聖戦の幕開け

スーリニKarte01、サイト掲載の前にちらりと載せて みます
めちゃくちゃ長いんですけどほぼ書き直してまして、頑張ってるので読んでくださると うれしい すみません、煩悩です
以前より恐らく、手術シーンが大幅に分かりやすくなっていると思います!みんな大好き冠動脈バイパス術、よければ楽しんでいってくださいませ!!!!!!!(狂気)


7節 綱渡り



規則正しく鳴り響く電子音は、レオの生命を確かに証明していた。
スクリーンに心電図と血圧、脈拍、体温、呼吸数など、正常を表す緑の線と数字が映し出されている。看護師達が台の上に必要な器具を乗せ、患者であるレオに薄花色うすはないろのドレープを纏わせる。
手術の準備は着々と整えられていた。クレマリーとルミエールは肘まで丁寧に洗浄し、ガウンを着込んで薄手の手袋を装着し────手術室の中に入室する。
青白い光で満たされた手術室の中では、看護師が三名待っていた。ルミエールは「よろしくお願いします」と頭を下げて台の前に足を進める。クレマリーは全員を見回すと、高らかに手術開始を宣告した。

……これから冠動脈バイパス術を行う。執刀は私、助手はルミエール。場合によって柔軟に執刀を変えるつもりだ。今回のバイパスは左内胸動脈ひだりないきょうどうみゃくから左前下行枝ひだりぜんかこうしへ、右胃大網動脈みぎいたいもうどうみゃくグラフトを使用して右冠動脈後下行枝みぎかんどうみゃくこうかこうし……と、この二つだ。よろしく頼む」

はい、と看護師達が声を揃えて返事をする。そこには執刀医であるクレマリーに対する信頼があった。手術とはチームワークだ。信頼なくして行う事は叶わない。勿論それはルミエールも分かっている────けれどひとつだけ、不安が心の奥に沈殿していた。

「胃大網動脈でグラフトをするなら開腹もしないといけませんよね……?脚や腕の静脈でバイパスした方が患者さんの負担が少ないんじゃ……
「いい知識だな、ルミエール。だが今回は胃の動脈を使う……静脈だとまた詰まった時が大変だからな」

通常、バイパス術では脚や腕の血管を使用する。だが今回、クレマリーが使用すると言っているのは胃に走る血管だ。手足の血管を採取するより、胃の血管を採取するのは圧倒的に難しい。難しい上に、患者にとって大きな負担になる。患者に対してあれほど真摯に向き合うクレマリーが、〝敢えて〟その血管を使用するのには何らかの理由があるのだろう。だが、その意図を読み解けなくて────ルミエールは眉を顰めた。

「そ、それはそうですけど……その理由って、」
「それはいずれ分かる。分からないに越した事は無いがな」
「は……はぁ……

何だか濁された気がするが、頭の中の疑問符を飲み込んで空返事をする。いずれ、分かる。その意味もよく理解できないが……彼女がそう言うのであれば、従うべきなのだろう。脳内会議に終止符を打ったルミエールは息を吸って、レオの体に向き合った。靄が立ち込める朝のような色を秘めたシーツに隠されたレオの躯体。それは心臓部から腹部にかけてが切り取られていて、下に濃い肌色が覗いている。今からここを、開くのだ。治すのだ。ルミエールは意気込んで、碧玉の瞳に光を宿す。

全員の気持ちが、一つになった。
それを見届けたクレマリーは、看護師からメスを受け取り────いよいよ胸部を切開するのだった。

……冠動脈バイパス術。
それは、心筋梗塞や狭心症の患者に対して行われる開胸手術だ。
心臓表面を走る血管──冠動脈と呼ばれる三つの血管──のいずれかが完全に詰まってしまう「心筋梗塞」と、詰まって血流が悪くなる「狭心症」には、主に二つの治療法が存在する。
一つが「カテーテル治療」、そしてもう一つが「冠動脈バイパス手術」だ。
カテーテル治療とは、太ももの付け根や腕の太い動脈から「カテーテル」という細いワイヤーのような医療器具を挿入し、詰まっている患部でバルーンと「ステント」という、金属やプラスチックでできた網目状の筒のような医療器具を膨らませて患部を押し上げ、血流を回復する治療方法だ。患部を押し上げた後にステントをそこに留置して、心筋梗塞や狭心症を治療する。患者に対する負担が非常に少ないのが特徴である。

一方、今回の患者のように詰まっている箇所が複数ある場合はカテーテル治療が行えなかったり、カテーテル治療が成功してもステントを留置した箇所が再狭窄────再び狭くなってしまい再発する、というリスクがあったりする。

そんな時に行うもう一つの手段こそが冠動脈バイパス術だ。

冠動脈バイパス術は、狭くなった冠動脈の先に別の血管を縫い付けて迂回路バイパスを作り、血流を改善する外科手術である。
心筋梗塞を再発させやすいカテーテル治療に比べ、血流を完全に改善できるという長所を持っているこの手術……それにはごく細い血管を髪の毛より細い糸で繋ぎ合わせる技術が求められる。手術時間が長くなると合併症を引き起こすリスクが高まるため、スピードも要求される────人工心肺を用いて心停止下で行う今回は、心臓を動かしたままで行うオフポンプ式よりも安全で安定している。……ベテランの専門医が居ない今回の手術では妥当な選択と言えるだろう。

「────開胸器」
「はい」

その一言で、場の空気が厳粛なものへと変化した。
クレマリーは静かに、けれど迷いなく胸骨へ刃を滑らせる。正中にそって真一文字に切開された胸骨は、まるで静寂の湖面を割るようにすぱりと開かれてゆく。
手渡された開胸器を彼女がそこへ当てがえば、胸郭はゆっくりと左右に開き、胸の内側が露わになる。薄暗い肉の帳が晴れ、そこに宿る心臓はまだ震えるように動いていた。
続いて心臓を包む心膜を切開する。ルミエールが温めた生理食塩水を注ぎ込むと、ワインレッドの胸腔に淡い波が揺らめいた。無影灯の光を受けた水面は宝石のように煌めき、視界の底に赤い命がゆらゆらと息づいている。

「まずは、グラフトのシミュレーションだ」

グラフト────それは、血流を繋ぐ新たな道。血液の迂回路。血液を送り出す「入口」は胸にある「内胸動脈」と、胃にある「胃大網動脈」。そして出口となるのは、冠動脈の中でも重要な二本、「左前下行枝」と「右冠動脈後下行枝」だ。

クレマリーとルミエールの視線が、深紅の術野に交錯する。
左内胸動脈を切り取り、左前下行枝へ。
右胃大網動脈を用い、右冠動脈後下行枝へ。
繋がった。ルミエールが小さく息を呑むのと同時に、向かいのクレマリーが握る白銀が閃いた。どうやら、彼女も手術の全貌を読めたらしかった。

彼女の右手が、再び動き出す。握られたそれはメスではなく、リトラクターに変わっていた。胸壁をそのフックで持ち上げる。途端に視界が開けて、血管は彼女に対し、早く治してと急かしていた。

「次、超音波メス」
「はい」

看護師から受け取ったメスが、微弱に震えながら発熱する。クレマリーは血管の周囲に纏わりついた脂肪や静脈を一つ一つ切り分け、肉の迷宮を慎重に進んでいく。やがて、緋色の組織の奥深くに潜んでいた細い血脈────左内胸動脈がその姿を現した。傷ついた獣が助けを希うように脈打っている。……これを、左前下行枝に使用するのだ。

「よしルミエールは胃大網動脈を採取しておいてくれ」
「ぼ……僕がですか!?消化器外科は専門では……
「生憎私の腕は二本しかないからな。お前がやらなくて誰がやる?……救うんだろう、彼を」
……分かりました」

ルミエールは緊張した面持ちで、震える手をいなしながらメスを構えた。
冠動脈にバイパスするための血管はどこにすべきか────それは病院によって異なる難問だ。クレマリーが剥離した内胸動脈が最も安全性の高い血管である事は共通のようだが、静脈のグラフトを使うと弁があるために再発率が高いだとか、動脈のグラフトは採取に時間がかかるだとか……ともあれ、「完全な正解」は未だに出ていないようだった。

今回は胃の下側を走っている動脈である「右胃大網動脈」を使用する事になっている。

くすんだ青のシーツから覗く小麦色の立体面にそっとメスを当てがう。鮮やかな黄みの赤を帯びた細い線が、即座に浮かび上がる。脂肪層には届かない、真皮の手前で止める事────理屈は分かっている。けれど、握るメスが揺れた。

……電メス、お願いします」
「はい」

じゅ、と低音を響かせながら脂肪層が焼き切られる。薄く立ち上がる煙の向こうに覗く筋膜が、指先を迎え入れた。腹直筋ふくちょくきんを慎重に分け、最下層の腹膜を露出。セッシで把持しながら慎重に線を引くと、ようやく腹腔────そしてその奥の胃が、密やかに姿を見せた。

「え……えっと次は……
「分岐している血管を切離する。大網だいもう側は電メスで簡単に切離出来る筈だ……胃側は糸で結紮けっさつ、切離して止血しておけ。出血だけは絶対に防ぐ事、だ」
「あ……は、はい!」

クレマリーが手元から視線を逸らす事なく、冷静に助言を贈った。その言葉には迷いも焦りもない。まるで手術室の空気を鎮めるような落ち着きがあった。
ルミエールはその言葉を胸に深く刻み、手元に再び意識を向ける。目の前に広がるのは、複雑に枝を分ける動脈の樹海。この森を切り開き、命の道を拓く。思わず右手に、力が入る。

まずは「外側」────胃に面していない大網側から。此方は分岐が少なく、操作も用意だ。ルミエールは電気メスを手に取り、止血しながら慎重に切離していく。
次に「内側」────胃と接する側へ。この側は枝が多く、直ぐ傍に胃の壁がある。僅かなミスが命取りになる領域だ。糸でひとつずつ、確実に結紮してから切除するしかない。
手が、かたかたと震える。
けれど、逃げ出す事など許されない。
ルミエールは黙って糸を握り締めた。ひとつ、結ぶ。またひとつ、また、ひとつ。
銀色の糸が、手の内で淡く光る。針の先端が震える度に微かに揺れ、血の匂いを吸い込んだ空気の中で細く煌めいた。

緋色を流す血管の端が、ひとつずつ封じられてゆく。まるで狂気を抑え、包み込むように、彼の指が命の流れを制御していく。
結紮処置を施したこの血脈は、いずれ冠動脈へと繋がれる。右冠動脈後下行枝────その迂回路バイパスの出口は最も胃に近い冠動脈であるため、グラフトも比較的短くて済む筈だ。それでも、グラフトが長すぎて困る事は無いので長めに取っておくのが定積であるのだが。未来の脈動に備えて、少しでも余白を残しておく事。それが、命に携わる者の矜持なのだから。

「メッツェン……!」
「はい」

看護師からメッツェンバームを受け取ると、その鈍く光る銀色で糸を跨ぐ。ぴんと張られた糸は二分されて、メッツェンが金属音を鋭く叫んだ。
右胃大網動脈のうち、片方が胃に繋がったままで、もう片方がぶらりと胃から切離されている────この取り外した部分を、詰まった先の冠動脈にバイパスする手筈だ。
……これで、バイパスに必要なグラフトは全て揃った。ルミエールはひとつ息を吐くと、クレマリーに声を掛ける。その声は既に、掠れていた。

「クレマリーさん、終わりました」
「ああ……分かりやすいところに伸ばしておいてくれ」

その声に、ようやく自分の仕事を認められた気がして、心にじんわりと温もりが満ちていくのを感じた。
命を繋ぐ旅路は、いよいよ革新へ。
これから、心臓とこれらのグラフトを繋ぐのだから。

クレマリーは既に人工心肺を繋げる準備を始めていた。……どうやらルミエールの進捗を見ながら採取完了のタイミングで次の指示を出せるように進めていたらしい。今回の手術はスピードが命。一分一秒も無駄にしてはならない。彼女の手際の良さにただ、感心するほかなかった。

「ルミエール、今のうちにヘパリンを投与してACTの確認を」
「は、はいッ!」

ACT……活性化全血凝固時間とは、血液が凝固するのにかかる時間の事である。手術中に血液が固まるなどはご法度。そんな事が起きてしまえば、血栓が発生し、組織内に血液がこびりつき、大事故になってしまう。
そのために「ヘパリン」という血液をさらさらにする薬剤を投与して、凝固リスクが最小限である事を確認してから手術を行うのが決まりである。

ACTの値が四百秒以上になった事を確認すると、ルミエールはそれをクレマリーに伝達する。

「ACT四百秒以上、確認しました……!」
「よし……

人工心肺の回路が、無機質な電子音をひとつ啼いた。
ルミエールが管を握り、送血管を上行じょうこう大動脈へ、脱血管を右心耳うしんじから下大静脈へと導く。
そこから命の川が流れ出す。緋色がチューブを埋め、患者の命を代弁していく。
クレマリーはそれを眺めながら、心臓を保護するための薬液を慎重に注入していった。

順行性に、大動脈の先から。
逆行性に、心房の奥へ。

心臓が、静かに呼吸を止めた。まるで眠りにつくように、その鼓動が消える。バイタルサインはゼロを唱え、同時に彼女の声が静寂を切り裂いた。

「大動脈遮断……完了」

血流が断たれた瞬間、心臓は完全な沈黙に包まれる。けれど、その静けさは決して「終わり」ではない。これは、彼を救うための「始まり」の前の沈黙だ。

「───ここからだ、始めるぞ」

準備を終えた彼女はいよいよ、標的動脈である冠動脈との吻合を開始する。
標的は二つ。左前下行枝と、右冠動脈後下行枝。
クレマリーの手が、静かに動く。まずは左前下行枝────心臓の前面を走る、主動脈からだ。
その心外膜を剥がし、血流の上流にあたる部分に、血管の識別と保持のための色付きの細いテープを通す。その後、慎重にメスを当てて小さく切開。器具を持ち替えて拡張し、約5mmの穴を作成する。ここにグラフトとなる左内胸動脈を繋ぐのだ。

「8-0」

そこからは、流れるように。看護師から縫合糸を受け取ったクレマリーはグラフトする血管を、U字を描く形で左前下行枝と吻合する。内胸動脈の外から内へ、冠動脈の内から外へ……。くるくるとロンドを踊るように舞う糸は無影灯の光を反射して煌めいていた。緻密に動く細い指の中を駆け巡る糸を操って、彼女は指揮棒を振るように持ち上げる。その糸が無影灯の下で煌めいた時、命の回路は確かに繋がっていた。

……問題、なさそうですね」
「だな……続いて右冠動脈吻合を行う。……お前がな」
「えッ……!?僕がですか!?む……無理────」
「経験がゼロでは無いだろう。何事も経験だルミエール……私がついている、やってみろ」
……は、い……

本当に、出来るのだろうか。
いや、怯むな。「やる」んだ────。

彼女の言葉に、ルミエールは覚悟を決めた。この場に居るのは医師。自分は、医師。自分は命を預かる存在であり、命を繋ぐ存在であると強く意識する。

邪念を追い払ったルミエールはクレマリーと位置を代わり、足から頭にかけて体勢が低くなるよう患者の姿勢を変えて右冠動脈後下行枝に向かい合う。
右冠動脈後下行枝は心臓の下側だ。故に、心臓を持ち上げて下の部分を見せなくてはならない。……心臓を持ち上げ、ひっくり返す。まるで、眠る獣を抱えるように、そっと。視界の奥に、目的の血管が見えた。この後は先程クレマリーがしていた操作と同じだ。彼は深呼吸をひとつ落として、小さな声で告げた。

……7-0、お願いします」
「はい」

血管テープを通し、前面にメスで小切開を入れ、拡張し……
看護師から受け取った7-0縫合糸を用いて、片方を胃から取り外した右胃大網動脈を吻合する。動脈グラフトの外から内へ、冠動脈の内から外へ────。
まだ経験が浅く、手が小さくおののいている。その度に糸がふるふると揺れて、針先が行き場を迷って。大丈夫、大丈夫……そう何度も言い聞かせながら、ゆっくりとルミエールは標的の冠動脈とグラフトを縫い合わせた。紡いで、結んで、引っ張って。髪の毛よりも細い蜘蛛の巣のような糸が、自身の掌で鋭く輝いている。ぎゅ、と外科結びをする。先程己が取り外した右胃大網動脈の片端が、冠動脈に繋がれていた。

手足の血管を用いたバイパスは、片方が繋がったままではなく「完全に血管をカットして」繋げるので、大動脈に穴を開けてここから更に、もう片端を大動脈と吻合する必要がある。しかし今回は胃の大きな動脈から伸びている胃大網動脈の「片方を胃から外して繋げる」手術のため、大動脈との吻合はする必要がない。胃に回る筈だった血液が繋いだバイパスを通って冠動脈に流れる────そのような処置なのだから。

……これで、右冠動脈後下行枝の施術は完了、の筈だ。ルミエールは緊張しながらクレマリーに声を掛ける。酷く、声が震えていた。

……でき、ました……
「よし……遮断を解除するぞ」
「────ッ」

彼女は管を外し、遮断を解いた。
途端に冠動脈に動脈流が流れ出し、心臓に紅色が満ち、心拍が再開され────。



ぴっ……!!



「え────っ、?」



不意に、血飛沫が舞った。
小さく、肉が裂ける音がした。
それは、心臓から血液が吹き出した音だった。
視界が、手術着が、紅に染まる。
一体、なに、が───!?

「出血……!!ゆ、輸血とガーゼ持ってきますッ!!」
「血圧下がってますッ!先生ッ────!」
「出血止まりません!!」

看護師達の慌てた鋭い声が、脳をガンガンと揺らす。バイタルサインが赤く叫んでいる。
声が飛び交う。電子音が、悲鳴のように空間を支配する。ルミエールは頭の血が一気に引いて、視界と思考がホワイトアウトするような衝撃を覚えた。
駄目だ、駄目だ駄目だ。
どうしよう、どうしよう、どうしようッ!
視線が彷徨う。息の仕方が分からなくなる。
早く縫わなきゃ、一刻も早く縫わなきゃ……!!
でも何処を!?一体何処を縫えばいい!?
吻合が甘かった!?誤って血管を傷つけてしまっていた!?それとも……
考えろ、考えろ考えろ考えろッ!

……だけど、焦れば焦るほど、集中力と思考能力が奪われてゆく。
鼓動が速度を落とし、血圧が急降下するレオと対照的に、ルミエールの呼吸数と心拍は著しく上昇して。思考が狭まる。視野が狭まる。このままじゃ、このままじゃ────ッ!!

────そんなルミエールの横で、クレマリーは静かに……しかしはっきりとした声で叫んだ。思えば、彼女はこの時から〝光〟だった。ルミエールは縋るように彼女の顔を見上げる。そこには彼女の、凛とした覚悟が滲んでいた。

「人工血管をもう一セット………早く!!」
「は……はい!!」
「ルミエール、上行大動脈解離じょうこうだいどうみゃくかいりだ、聞いた事くらいはあるだろう。……時間はないぞ、驚いている場合じゃない!」

上行大動脈解離……!?

……それは、「外膜」「中膜」「内膜」の三構造になっている大動脈の内膜が縦に裂けてしまう疾患だ。今回はその亀裂が外膜まで達し、血管そのものが裂けてしまっている。
非常に危険な状態で緊急手術が必要になる、死亡率の高い疾患。秒刻みの決断が生死を分ける、絶望的な疾患。それがまさか、今起こるなんて……ッ!!

「先生、人工血管です!」
「ああ……あと、」
「ベントカテーテルやフェルトなども用意できてます」
……これは驚いた」
「オペ看をして長いので」

見れば、看護師は徐々に落ち着きを取り戻していた。この中でルミエールだけが、まだ緊急の事態に焦りと混乱を隠しきれていない。……恐怖と困惑に駆られながら、何も出来ない自分に嫌気が刺して、混乱の中で「役に立てていない」事だけが分かって────震える手を睨みつけるように見つめながら、自らの影に沈んでいく感覚に溺れる。

そんな彼をよそに、クレマリーは冷静に手を動かしていた。
先程繋いでいた人工血管を抜去し、新たに繋ぎ直す。送血管を右手側の鎖骨の下にある動脈「右腋窩動脈みぎえきかどうみゃく」に挿入し、脱血管が上下の大静脈に挿入されている事を確認……体外循環を再開させた。上行大動脈を遮断し、入れ方を変えて再び心筋保護液を注入。
二度目の、沈黙。心臓は再びその鼓動を止め、眠りについた。

彼女は息を吐く暇もなく、大動脈の切開に取り掛かった。
じょきん、とハサミが啼いた。亀裂が入った部分、大動脈の基部を切り取り、大動脈の血液の逆流を防ぐ「大動脈弁」が健常かを確認する。それには問題がなさそうなので血管の端の方を綺麗にカットし、生体接着剤で内膜と外膜を接着。
その全てを、クレマリーは淡々とこなしていく。

「ルミエール、此処を押さえておいてくれ」
………!」

一歩、後退る。頭の中は真っ白で、心臓が飛び出てきそうな喉元は声を出す事を許さなくて。もう、視界が霞んで何も見えない。何も、出来ない。考える事さえも────。
けれど、クレマリーは言葉を荒げなかった。彼の沈黙を察し、直ぐに看護師へ指示を飛ばす。

……4-0」

人工血管と大動脈を吻合。銀色が、再び彼女の掌で舞い踊る。
それと同時進行で、大動脈の弓部、そこから覗いている三つの血管にバルーンのついた送血用のカテーテルを挿入。人工心肺装置から脳の血流を保護するための循環を開始する。
その手腕は、まるで人ならざる精密機械。まるで医術の神に憑かれたような速度と正確さ。看護師達は、誰もが黙ってその姿を見守っていた。違う。誰もが、そこに横槍を入れられなかった。

「次、3-0」
「は、はいっ!」

大動脈の外側にフェルトストリップを置いて補強しながら縫った後は、さらに太い糸でもう一度縫い合わせて。人工血管の中を心筋保護液で満たして遮断鉗子をかけ、血管内に圧をかけて出血しないかを確認。
────完璧な処置だった。これで人工血管の心臓側の吻合は完了だ。あとは大動脈側を縫うだけ……なの、だが。
処置と確認が終わったクレマリーは、再びルミエールを見遣る。……彼はまだ、視線を彷徨わせていた。沈んだままの新人医師……そんなルミエールに、語りかける。彼の本心に、医師としての彼に、強く訴えかける。

「ルミエール、しっかりしろ。お前は医者だろう……医師が取り乱してどうする」
……っ、で、も……
「患者は救われるのを待っていると、この前も言った筈だ。私達が行動しなければ助からない。……混乱している場合じゃないぞ」
「でも……ッ!僕が、失敗したから、こんな事に……ッ」
「────違う

真っ向からの否定に、ルミエールは彼女の顔を見上げた。ルビーの瞳が真実を映している。彼女の叡智が、己を赦している。

「今回上行大動脈解離が起こったのは動脈硬化が原因だ。心エコーを見た時にリスクがあるとは思っていた……お前の失敗じゃない」
………!」
「最初からこうなる事も視野に入れていた。だからオフポンプではなく人工心肺を最初から使う手術にしたんだ────直ぐに置換術に移れるようにな。それからお前は『何故手足の静脈でバイパスしないのか』と聞いたな?それは、その二つのグラフトでバイパスするには脆くなった大動脈に穴を開ける必要があったからだ。穴を開けた刺激で大動脈が解離するリスクを避けたかった……それが胃大網動脈を使用した理由だ。結局裂けてしまったようだが、な」

────唖然とするしかなかった。
彼女は、全てを見越していた。彼女は、最初からこの結末を「視野に入れて」いた。

それでも、彼女は執刀した。
誰かがやらなければ、誰も救えないから。
ルミエールの胸に、何かが火花を散らす。
その彼に、彼女が最後の後押しをした。

真っ白な、穢れを知らぬ光の医師は、力強い声音で「ルミエール」と呼びかける。
信頼と、期待と────そして彼女が希う救済への祈りを秘めた声音で、名前を呼びかける。

「ここからはお前の番だ。もう一度言う……救うんだろう、患者を。お前がやらなくて誰がやる」
……無理、ですッ、怖い、です……僕には、そんな、」
「大丈夫。出来る。出来るまで私がついている……やれ」
……っ!!」

出来ない、と言っても、怖い、と言っても……クレマリーはそれを許してくれなかった。ルミエールは泣きそうになるのを必死に堪えながら……震える手で、縫合糸をゆっくりと受け取った。
指先は、まだ冷たくて揺れている。けれど彼の中には、勇気が確かに芽生えていた。
長時間の手術は患者に負担をかける。自分の都合で時間を引き延ばすなど言語道断────つまり、怖くても不安でも苦しくても、やるしかないのだ。命に触れて関わる仕事、それが「医師」というものなのだから。

脳の血流を維持するためのカテーテルが入った大動脈と先程心臓と吻合した人工血管を、ルミエールはゆっくりと縫い合わせ始める。がたがたと、それは惨めに揺れていた。けれど、ひとつのミスもなく、正確に。彼の〝光〟に導かれながら、糸を運ぶ。
吻合完了の直前にカテーテルを抜いて、フェルトストリップで補強しながらぐるりと縫合し、さらに太い糸で入念に……
0・1ミリメートルのほつれも許されない。絶対に、絶対に成功させなければならない────!

糸を通し、ゆっくりと縫う。針が進むたび、血の匂いが鼻腔に広がる。けれど、それは最早、恐怖ではない。
それは、恐れるものではない。何故ならば、それは患者の中に宿る命の匂いなのだから。

糸をゆっくりと一周させる。焦ってはならないが、遅れてもならない。時計の針と鼓動が、彼の背中を押していた。
唇を噛み締めながら、最後の一針を縫い上げる。縫合はなんとか終了した。……心臓の鼓動が煩くて、喉まで痛くて、言葉が出ない。びっしょりと嫌な汗がシャツの中を濡らして気持ちが悪い。隣で見ていたクレマリーは処置が終わった事を確認すると、大動脈と人工血管の空気を抜く。
奇跡を起こす彼女の指が鉗子に触れ、そのまま大動脈の遮断を解除し────。

────出血は起こらず、心臓の鼓動が再開した。
はじめは酷く、ゆっくりと。
しかしそれは徐々に、一定のリズムを思い出して。
……どくん。どくん、どくん。

バイタルが緑の光を取り戻す。電子音が正常を歌っている。
それは、世界がもう一度始まった合図であった。
クレマリーが静かに、そして柔らかに微笑みかけた。
不格好な笑みだった。けれど、彼女なりの最大の優しさなのだと、ルミエールは知る。

……出血なし。心拍安定。……なんだ、出来るじゃないか」
……っ問題なし……?」
「新人にしては出来が良いな。将来有望なドクターだ……誇れ、ルミエール」
…………!」

強張った全身から力が抜けて、かくんとその場に崩れ落ち……地面に膝を付いてしまう。まだ手術は終わってないだろ、こんな事をしている場合じゃ───!……けれどそんな思いと裏腹に、体は言う事を聞いてくれなかった。

一度の手術で、危篤と成功の両方を経験した。
殺人と救済の両方を経験した。
手術とは本当に危険な綱渡りだ────再度、それを思い知らされた。

クレマリーはそんなルミエールを見遣ると、まだ心臓がばくんばくんと煩い彼に代わって徐々に人工心肺の血液量を減らしていき……体外循環を終了させた。血液をさらさらにする「ヘパリン」を「プロタミン」で中和し、胸部にドレーンを留置して閉胸操作を行う。心膜を縫い合わせ、胸骨にステンレスワイヤーをかけて閉じ、胸部を縫合し────。
胸骨が、脂肪層が、真皮が身を寄せ合う。唇を重ねるように柔らかに、手を繋ぐようにあたたかに結ばれて、それはひとつの平面を形作る。

「血圧上102、下61……
「脈拍、安定しています」

閉じた術野、無影灯の下に静けさが戻る。
その沈黙は、今度こそ救済の終止符であった。

風がそよいでいた。
人工照明の天井の下、密やかに揺れる風が、戦いの終わりを告げていた。

レオ・アルベールは一命を取り留める。
クレマリーとルミエール、二人の手が織りなした祈りの果てに、第二の命が確かに紡がれたのだった。

手術は────無事、終了した。